「津中由里子さん、だね？」
猫に近いか兎に近いか、小動物が問いかける。日本語を話す謎の生物には慣れっこだった。
薄いピンク色をした、四足歩行の動物。声からしてオスだろう。
今回の相棒もまた、中々に愛くるしい姿をしていた。
「うん」
同世代のアイドルソングをイヤホンで聞いていたのに、その声は鈴音……ボーカルの子の声を押しのけてはっきりと聞こえてきた。
一時停止を親指で叩き、小動物との会話を優先させる。
私は直飲みのパック牛乳から口を離し、彼の顔を見た。
真剣な表情をしていた。少し緊張の色が見える。
アニメみたいに大袈裟に変わらない動物の表情なんて詳しくわかるのは、昔取ったなんとやら……だろう。
「単刀直入に言おう。世界を救って欲しい」
「いいよ」
私手作りの卵焼きをぱくりと口に放る。
いる？ と獣に差し出すと、彼は一瞬の躊躇いの後にそれに齧りついた。
「……慣れてるんだね」
「そりゃまあ五回目にもなればね」
そう言って天を見上げた。
優しい水色がそこにあった。世界は、未だ平穏に包まれているように見える。
屋上には私と獣しかいなかった。動物に話しかける痛い子に見られないのは幸いだ。
まあ、友達いないからいいけどね。別に。
「君の活躍……と言うか伝説は知っている。今ボクが頼りにできるのは、キミしかいない」
「そんな大袈裟な」
唐揚げは冷凍だ。私は箸で掴み、獣の眼前に再び差し出した。
噛み付く。前に引っ込めて、自分で食べる。そしてしたり顔。
うー、と唸る獣に、冗談冗談と二個目を軽く放り投げた。
見事に口でキャッチした獣。唐揚げを噛みながら、首をぶんぶんと横に振る。
「大袈裟なものか。キミは重要度SS+の戦場……世界規模の危機を四度経験し、勝利に貢献した。そのいずれも仲間を失うことなく、だ。
いや……実際の働きを見ると、キミが勝利を収めた。キミが世界を救った。そう言っても過言ではない。伝説的英雄だ。
……と言うか正直……化物と言った方が正確だ」
「おう言ってくれるなケダモノが。その喧嘩買うぞコラ」
シュッシュッとシャドーで威嚇する私。
「ひっ」
ちょっと素で恐れられたのがまたショックだ。マジでバケモン扱いかわたしゃ。
「ご、ごめん。仮にも女の子相手に失礼だったね」
「今のリアクションの方が傷ついたけどね」
「申し訳ない……しかしキミは《戦線の魔人》、それだけの力を秘めていると言う事だ」
知らぬ間にバーサーカーじみたあだ名までついている。
こいつらの世界じゃ本当にバケモンみたいな存在らしい。
一応世界を救った英雄に対してそれは酷くない……？
「まあいいけどね、別に」
諦めることには慣れている。
重要なのは大切なものを守れるかどうか。それだけだ。
「契約する前に、伝えておくことが三つある」
「よっしゃ契約しよう」
「一。今回の戦いは、これまでキミが経験したどの戦場よりも熾烈で苛烈だ」
私の答えをスルーして獣は話を続ける。
いいから聞け、と瞳が言っていた。
「OK。次は？」
「二。仲間はいない。キミ一人の戦いだ」
「そうなの？」
「うん。ボクが一度に契約できるのは一人。そしてボクの契約者以外はこの戦いについてくる事は不可能だろう」
「まあいいけどねー。別に……」
と言うか、むしろ助かるくらいだ。
身体を張って誰かを守らないで済むし、誰の目も気にしないで済む。
激しい戦いになるなら、尚更だった。
「三…………キミは多分、死ぬ」
「へー」
「聞こえた？」
「しっかりと。勿体ぶって『キミは多分、死ぬ』って言ったのがよーく聞こえたよ」
怪訝に尋ねる獣に、私は耳をトントンと叩いてアピールする。
「もしも私が断ったらどうなるの？」
「…………世界は、恐らく……いや、確実に滅亡する」
「予想通りの答えをありがとう。契約しよう」
決まりきっている事実を聞いて、決まりきった答えを返す。
何もおかしいことなんてない。
「しくよろ」
そう言って、私は生身の右拳を突き出した。
獣はしばし、私の拳骨を見ながら黙りこくっていた。
その瞳には憐憫の情が映っているようにも、見えた。
「……そっか。まあ、やめたくなったらいつでも投げ出せるからね。ボクの名前はクリム。どうかよろしく、ご主人様」
柔らかい肉球が、私の手にちょんと乗っかる。
魔力が、そこから流れて私は淡い光に包まれ始めた。
「色は何がいい？ 一人しかいないんだ、どれでも好きなのを選ぶといい」
「じゃあ蒼で。青じゃなくて蒼ね」
「違いがイマイチわからないんだけど……」
「空の蒼だよ」
今日の空の水色よりも深く、夜の紺よりも浅く。
あの日見た、蒼色の鳶合羽(マント)が身を包む。
スパッツのようにフィットしたボトムスに、長袖のフリースシャツ、指抜き手袋に紺のマフラー。
少女趣味のヒラヒラ感が不足している。魔法少女と言うよりは……
「忍者と言うか、暗殺者と言うか、魔女と言うか……」
「お気に召さなかったかな」
「まあ、いいけどね別に。高校生にもなってリリカルプリティ系魔法少女はキツいし」
動きやすい服装でもあるし、普段着としては若干違和感が残るがコスプレと言うには地味だ。
関係ない人に見られて恥ずかしくないと言うのは、割と大きなアドバンテージでもある。
一歩を踏み込み、回転。頭の高さの空を足刀で刈る。
「ふむ」
パンツが見えないって素晴らしいね。
「それと、これを渡しておこう」
と言って精製されるは、『にぎり』だった。
おむすびの事ではなく、手に握るグリップである。刃が行方不明のナイフ、と言えばわかりやすいだろうか。
左手で握ると、ダイヤル部分が飛び出している。これを右手で回せ、と言うことだろう。
早速回してみる。も。
カチカチ。カチカチカチ。
「何も起こらないよ？」
「非戦闘時だからね。大丈夫、それは来たるべき時にキミの力になる」
「ふうん」
爆発。
「…………」
「…………！？」
遠い空の向こうが、朱に染まって。
数秒後に、光に遅れて音が異常を伝える。空気を震わせる波が悲鳴となって、魔法少女に助けを呼んでいた。
「……来たるべき時がなんだって？」
「馬鹿な！？ 早い！ 早すぎる！ 侵攻してくるまではまだ時間があるはず……！！」
「あの辺だと、もう隣の県だね。狙いは何だ……？」
黒煙が立ち上る彼方へと思いを馳せる私。
特にどうということもない山村だ。重要な施設など――
「奴らが狙うのは――万が一にも、億が一にも、自分達の侵攻を止める可能性がある存在……」
『あたし、この戦いが終わって進級したら引っ越すんだ。となりのトトロみたいな、すごい田舎の村なんだけど――』
「…………魔法少女か、かつて魔法少女だった者」
親友『だった』女の子の顔が、フラッシュバックする。
「風……香…………！？」
ショートカットの黒髪にやや高い身長。ボーイッシュな印象を受ける、かつての戦友の、寂しそうな笑顔。
また会おうね。連絡するからね。そう言った彼女に対し、私は微笑んだだけで何も答えなかった。
彼女の家のバンが遠ざかり、見えなくなると私は携帯を解約した。知り合いに掛けあって面倒を誤魔化してもらい、引っ越しして痕跡を消した。
そうして彼女とは、あれっきり連絡を取っていない。
風香の事が嫌いだったわけじゃない。むしろ、友達だと思っていた。今でも、できるものなら友達でありたいと思っている。
だが。
私の汚れた手で、彼女の手を握りしめる事は。どうしても、出来なかった。
彼女の行き先は覚えていない。風香があそこにいるかどうかなど、わからないのだ。
ただ、酷く嫌な予感がした。胃を針金で引っ掻き回されるような感覚。
戦う理由は十分だ。今すぐ、一秒でも速く、私は行かなくてはならない。
走れ、翔べ、馳せろ！
身体がそう言っている。
「――おおおおおおおおおおおおおおッ！！！」
心の叫びは、そのまま口から溢れ出てきた。
走りだす。止まらない。地面を踏みしめ柵を蹴る。
私は飛ぶ。
私は空の飛び方を知っている。
「由里子！ ダイヤルを回すんだ！！」
見るとダイヤルには、ホウキのアイコンが新しく浮かび上がっていた。
――ガチン。
合わせると同時に、グリップの形状が変化しみるみる伸びて姿を変える。
質量保存の法則を、魔法の力でぶち壊す。
デジタルなエフェクトと共に現れたもう一つのグリップ。二つは私に握られながら、全く同じフェイズを伴って箒の形を取った。
B.F.U〈ブルーム・フライト・ユニット〉。ホウキ型の、飛行用ブースターである。
両腰に現れた固定具にバチンと完全にはめ込むと同時に、蒼炎が吹き出して爆発的な推進力を生み出した。
三年前に世界を救った双翼『シャインハート・ウィッチ』が一人、『スワローテイル』。
私は久方ぶりに、人の身でありながら空を駆けた。
「風香……！」
かつて共に空を守った友達を、救うために。
