ゆめのなかのゆめ
礼拝堂のおはなし
雨。礼拝堂の窓を打つ、雨。
一人の年老いたシスターが十字架に向かい、イエス像を見上げる。
憂いを帯びた瞳を伏せて、両手を組み心静かに祈る。
いつもは鮮やかな光をシスターの足元に映し出すステンドグラスも、
淡く暗い色を描き出すだけ。薄暗く、何もかもが色褪せて見える礼拝堂で、
唯一鮮やかな色を見せるのは、赤いランドセル。
ミチコちゃんが何も言わずシスターの背中を見つめているのを、私も静かに見つめている。
ミチコちゃんのゆっくりとした、まばたき。
ミチコちゃんはイエスを見上げる。見つめるというよりは、睨みあげる。
ミチコちゃんはきっと、神様なんて信じていない。私はそう感じる。
祈り続ける女とその背中を見つめる少女。かすかな雨音。赤いランドセル。
ずいぶんと時間が経った後、シスターはゆっくりと振り返る。
シスターは最初、何も言わない。ただ、ぼんやりとミチコちゃんを見つめるだけだ。
先ほどイエスを映したシスターの瞳が、今度はミチコちゃんを映している。
シスターがゆっくりとミチコちゃんに近づく。
ミチコちゃんと同じ目線までかがんで、眼鏡の奥の目を細める。
やさしい目のその奥。同情するかのような眼差しに、私は嫌悪感を覚える。
「いやな雨」
ミチコちゃんは逃げるように顔をそむけて、ぽつりとつぶやく。
「雨の日は嫌いなの、ひとりぼっちになるから」
「顔をよく見せてちょうだい」
シスターはしゃがれた声で言った。
ミチコちゃんはシスターの方に顔をむけた。目を合わせないように努力している。
そのとぎまぎとした様子がおかしくて、私は一瞬笑いそうになった。
が、その後ミチコちゃんから発せられた言葉は意外なものだった。
「お兄ちゃんもお父さんも雨が好きなの、だから雨の日は、どこかへ行っちゃうの」
「いいえ」
シスターはやんわりとミチコちゃんの言葉を否定する。
「あなたが、どこかへ行ってしまったのよ」
雨の音が少し強まる。
ざあああという音が、耳障りになってくる。
「うそだよ。お兄ちゃんとお父さんがどこかへ行っちゃったの。私をおいて」
ミチコちゃんは俯いている。
「いいえ、ちがうわ、私にはわかるの」
シスターは優しく言い放つ。私は奇妙な思いにかられる。
この場に居たくないという思い、逃げ出したいという思い。
ざああああああ
「そうなの?」
しばらくの間のあと、ミチコちゃんは俯いたまま問う。
「そうよ」
「どうしてわかるの?」
「あなたを見ればわかるわ」
シスターはゆっくりと細い腕をのばして、ミチコちゃんを抱きしめる。
「かわいそうな子」
私は怒りに近い感情を覚える。だがそれは、ミチコちゃんへの同情に対するものというよりは、実体を持ち、ミチコちゃんを抱きしめられることに対する嫉妬に近かった。
そのことに気づくと私は、ひどく恥ずかしい気分になった。
「大丈夫よ、もう大丈夫、何かに傷つくことも、誰かに傷つけられることも、もうないわ。
あなたがあなたを許せなくても、神様はあなたを許してくれているんだから」
諭すようなシスターの言葉。ミチコちゃんは顔をあげる。
「私、神様なんて信じないよ」
シスターはハッとした顔をしてミチコちゃんを見つめる。
「信じないよ」
シスターにハグされたまま、ミチコちゃんは言い放つ。
ミチコちゃんの瞳は、強い光を放っている。
しばらくの間、シスターは何か考え込むように床の一点を見つめていたが、
顔をあげて、宙の一点を見つめた。私のいる方向を見つめた。
見つめる、というよりは睨んでいる。
その後シスターはミチコちゃんからやさしく腕をほどくと
「もう、おかえりなさい」
と言って、こちらへ背をむけた。
「どこへ?」
ミチコちゃんは聞いた。
シスターは振り返って、やわらかく微笑んだ。
すべてを見透かしているような、不気味な微笑み。不気味な。
「じゃ、じゃあね、おばあちゃん。ハグをありがとう」
ミチコちゃんはこの場から早く逃げ出したいようだった。私も同じだ。
私たちは逃げるように、礼拝堂を後にする。
外はまだ、雨。礼拝堂を出たところで、ミチコちゃんは立ち止まる。うつむく。
何か、考え事をしているようにも見える。しばらくの間、雨の音だけが響く。
ミチコちゃんは言う。
「雨がふっててもかまいやしないよ」
誰に言ったのかはわからない。その顔が妙に翳っていたので、私は心配になった。
ミチコちゃんは目を細めて、前をまっすぐ見つめる。そのまま口を開く。
「あのね、雨って青色じゃないんだね。クレヨンで、絵を描くとき、
いつも青で描いてたけど、ほんとうは違うんだね」
「ほんとうは違うんだね」
一瞬で世界の色が変わった。私はぎょっとした。
空間の性質自体ががらりと変わってしまった様だったからだ。
雨があがったらどこか違う場所だった、というのではない。
こんなことは、今までにはなかった。はじめてだ。
ミチコちゃんの暗い顔に、私は恐れさえ覚えた。
白い空間が広がる。私にとって見覚えのある、あの。