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FAKEMAN-avenge-
■一『暗闇の中で』

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■一『暗闇の中で』

 島津春久は、両親と妹を幼い時に亡くしていた。
 彼はその事について何も覚えていない。医者の話によれば『殺害現場を目の前で見てしまった事によるショック』だという事だが、しかしそれでも、彼には確信めいた怒りがあった。
 誰かが俺の家族を殺しやがった。
 その怒りは心の中で炎になり、彼を変えた。かつては大人しい少年だったらしいが、それ以来一八〇度性格が変わり、荒々しい気性の少年になった。
 お前の親が殺されたのは、裏で酷い事をしていたからだ、と心無い事を言う同級生がいた。
 当時小学生。人の心がどれだけ弱いかを知らないから言える、幼さ故の残酷な一言。
 かつての彼なら、それを聞いて泣きじゃくるだけ。
 しかし、彼はその小さな身に余る怒りを抱えていた。その同級生を一撃で殴り倒し、馬乗りになって、何度も何度も何度も殴った。まるで、料理の下拵えみたいに。
 同級生は、血と、涙と、鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、何度も謝っていた。でも、春久は謝られる度に殴った。それは結局、教師が止めに入るまで続く事になる。
 それ以来、彼はクラスで浮いた存在になった。同じ教室に獣が居るみたいに扱われた。

 そんな毎日が続いて、彼は高校生になった。相変わらず一匹狼のまま一年が過ぎ、二年生になった時、彼の復讐は、幕を開けた。

  ■

「ごめんっ、ハルくん! 今日のお買い物、ハルくんだけで行ってくれないかな?」
 目の前の少女は、手を合わせ、頭を下げる。その拍子にツーサイドアップの黒髪が揺れた。
 顔を上げると、丸い瞳でハルを見上げた。その表情は、申し訳なさそうに見える。次に口を開けば、謝罪の言葉が飛んで来るのはわかりきった事。
 彼女の名は桃井あずさ。両親を亡くした春久が世話になっている桃井家の一人娘であり、彼の幼馴染だ。
 放課後の教室で向かい合う二人は、互いに制服である学ランとセーラー服を着ていた。黒い学ランと、白地に紺の襟に赤いスカーフというノーマルなセーラー服。
「別にいいけど、なんだ。用事でも出来たか」
 春久は、学ランを着崩した少年だ。Yシャツのボタンは第二ボタンまで開き、胸元が覗いている。スラックスの中にシャツの裾を入れてもいない。
「うん。料理研究会で、お菓子の作り方を教えてくれって頼まれちゃって」
 あずさは帰宅部だが、彼女の実家——つまりは春久が世話になっている家は『スイートルージュ』というパティスリーであり、その一人娘である彼女は幼い頃から父親に仕込まれていて、お菓子作りの腕前がプロ級。その為、料理研究会からたまに教えを乞われるのだ。
「わかった。俺一人で行く」
「ありがとっ! ハルくんはやっぱ優しいなー。みんな、もっとハルくんと仲良くすればいいのに」
 感情をすべて表に出す彼女は、唇を尖らせて教室を見渡した。春久はクラスで浮いた存在。それは、小学校の頃から変わっていない。学校でほとんど唯一の金髪で、さらにピアス。今時その程度なら珍しくもないが、彼の雰囲気が、近寄るなという言外のオーラが、人を寄せ付けなかった。
 小学校の頃からずっと、こうなった彼に近づいてきたのは、あずさだけなのだ。
「別に。仲良くする気なんざさらさらねえよ。……早く行ってやれよ。待ってんだろ」
「もう。そういうのダメだよ。せっかく周りに誰かいるなら、その内に仲良くしなきゃ」
「いいから、行けって。余計なお世話だ」
 まだ何か言いたそうにしていたが、この会話はすでに何度も行われてきた。春久が考えを改めるという事態を半ば諦めているあずさは、「……じゃ、行って来るね」と不満そうに教室から出て行く。
 それを見送った春久は、一つ小さな溜め息を吐いて、自分の鞄を持ち、教室から出た。
 自分が不貞腐れているだけだという事は、わかっていた。両親も、妹も失って、ただ一人残された。何故自分が残されたのか、と考えた事もある。すべてを忘れて生きよう。そう思った事もある。
 けれど、彼はできなかった。この怒りは、ずっと持ち続けていよう。いつか目の前に俺の家族を殺した人間が現れた時、ためらわず殴れる様に。
 それだけが、春久の生きる目的だから。

  ■

 学校を出た春久は、自宅近くの商店街をケータイ片手にうろついていた。
 液晶画面には買い物リスト。店で使う物ではなく、夕飯の材料だ。それによれば、夕飯はカレーらしい。
 スーパーに入り、カレー粉を筆頭に、夕飯の材料をカゴに放り込んで行く。桃井家のカレーはシーフードが基本だ。なので、イカなども買って、春久は店を出る。
 周囲は、幼稚園の帰りなのか子供連れの親子が多い。
 それを横目に見ながら、彼は帰路を歩いた。
 そんな時だった。見ていた親子連れのさらに先。建物と建物の間にある、暗い隙間。そこで、何か動いた様な気がしたのだ。
 誘われているのでは、とさえ思った。当然、そんな事はないのだが、それでも春久は、そこへ足を踏み入れようと思った。
 真っ直ぐ伸びる暗闇。先に見える小さな光。晴久は、後にこの光景を何度も思い出す事になる。まるで、自分の人生を表すようなその道に、晴久は足を踏み入れた。
 その先にあった光景に、春久は不思議と恐怖を抱かなかった。懐かしさすら感じたほどだった。
 同じ年ほどの少年が、サラリーマンの首を持ち上げ、壁に押し付けていた。
「……オメー、何してんだよ?」
 春久は、間抜けにもそう言った。
 少年は眠そうな目で、春久を見る。襟足の妙に長い髪型で、春久とは違う学校の制服らしい、紺のブレザー。見覚えはなかった。
「んー。キミ、ヤンキー? ……っぽいよね。よくあんでしょ? ほら、この人俺にぶつかってさ、急いでたらしいんだけど、謝りもしないで行こうとすっから。ちょっとだけマナーってモンを指導してたんだ」
 本当にそれだけなら、春久はやめとけと一言告げるだけ。しかし彼の腕が、黒い手甲の様な物で覆われているのが気になった。
「お前、その腕……」
「ああ、これ? すげーっしょ。俺の力だよ。なんか怪しい人がくれたんだ」
 ほら。
 それだけ言うとその少年は、突然そのサラリーマンを壁から離す。軽々と持ち上げ、真上に放り投げた。
 まるで花火みたいに、高く真上へ飛んで行くサラリーマン。重い頭から落ちて行き、このままではコンクリートに頭をぶつけて、脳みそが飛び散る。そんな未来が、春久には予想出来た。
「てめえッ!? 何やってんだ!!」
 それよりもどれだけの怪力なんだと疑問だったが、春久はそのサラリーマンを受け止めた。
「ぐえっ——」
 春久の口から、吐息が漏れる。サラリーマンは無事だ。春久も、思ったより軽傷で済んだ。少し手と尻を打ったくらいだ。
 そのサラリーマンを傍らに置きながら、「危ねえな! こいつ死ぬとこだったぞ!?」と、春久は怒鳴った。
「……ムカつくなぁ。なんでビビってないのかな。こうすればいいかな?」
 そう言うと、少年の体が徐々に変わって行った。腕の黒い部分がどんどん広がって行き、彼の体はまるで、騎士の様になった。細身の、しかし分厚い、鋼の体。
「この姿はシュバリエって言うんだ。俺が人間を超えた証……。かっこいいだろ?」
「……コスプレかよ」
 春久は、小さく呟いた。
 その言葉に、少年——シュバリエは、笑った。
「はははははっ。それでいいさ、別に」
 シュバリエは、腰の剣を抜いた。ぎらりと光るその鋼は、間違いなく本物だった。自分の体があっけなく両断されるだろう未来が、春久には見えた。
 しかしそれでも、先に飛び出したのは春久だった。逃げる気なんて更々無かった。拳ではダメだ。逆にこっちの骨が折られる。だから、春久はハイキックを繰り出した。いくら装甲が厚かろうと、関節ならダメージを与えられるはずだと、首を狙った。
 そして春久のハイキックは、狙い通りシュバリエの頭を捉えた。だが、首が動いた手応えがない。
「……その攻撃は、昔襲った格闘家がやってきたっけな。無駄だよ。俺の、この姿になった時の骨格は普通じゃないんだ」
 まるで丸太を蹴った時のような、手応えの無さ。春久は、それでも蹴り続けた。だが、ダメージを喰らっているという手応えは無い。
「……なんで逃げないの? 普通、この姿の俺を見たら、誰だって逃げるんだけどな。——だからわざわざ変身前の姿で襲ってるんだ」
「悪趣味な事してんな! 人の命なんだと思ってんだ!?」
「別に。俺はもう人を越えたって言っただろ。生物は、自分の種以外にはとことん残酷になるのが正しい姿だって、俺に力をくれた人は言ってたよ」
 春久の蹴り足が、止まった。
 正確には、出せなかったのだ。春久の胸に、シュバリエの剣が、刺さったのだ。
 まるで小龍包を箸で割った時みたいに、彼の体から血が漏れてきた。
「がっ——」
 胸からだけでなく、口からも血が漏れた。
 その剣が引き抜かれると、支えを無くした春久は、地面に倒れた。
「じゃ、僕もう行くからさ」
 それだけ言うと、彼は変身を解いた。元の、一見すれば普通の男子高校生へ。
 踵を返し、光の先へと歩いて行く彼に向かって、春久は「ま、待ちやがれ……」と、掠れた目で睨んだ。
 それでも、彼は止まらない。もう春久に対して興味もないと言わんばかりに、歩いて行く。
 ちきしょう、無視しやがって。
 俺を殺したくせに、無視しやがって。
 春久は、もう半ば意識が無い中、立ち上がった。
「殺してやる……。殺して、やる……」
 一歩、二歩、歩いて行く。
 だが結局、春久は倒れた。目の前がほとんど見えないし、最後の悪あがきなのか、呼吸も荒くなってきた。
 死ぬ事よりも、このまま、あの男の記憶の中で笑い者にされる方が怖かった。
 せめて、あいつに一撃喰らわせてやりたい。牙を見せつけてやりたい。
 死ぬ間際だというのに、春久は拳を握っていた。

「……気に入ったぞ。少年」

 目の前に、誰かが立った。声から女性であるという事はわかったが、目も霞んでいるし逆光の所為もあり、その姿はシルエットだけしかわからなかった。
「その怒り。死にかけていてもなお、敵に向かって行くその根性。……キミは、人間をやめる覚悟、ある?」
 人間をやめる覚悟。
 死にかけた頭で、それをまともに考える余裕があるわけもない。彼女から差し出された手を見ながら、春久は走馬灯みたいに、今までの人生を思い出していた。家族が死ぬ前の事は、それでも思い出せないが、世話になっている桃井家での思い出と、復讐したいという強い想い。
 何も言わず、春久は彼女の差し出した手に、自分の手を置いた。
「その願い、叶えてやる」
 彼女の姿が、変わる。
 純白の姿、そして、背中には無数の機械の腕。それはまるで、天使の翼みたいに見えた。
 春久が人間として刻んだ最後の記憶は、彼にとって美しい物だった。

  ■

 幸塚恭平。シュバリエの変身者、その人である。
 彼が変身の力を得てからというモノ、その力を確かめるために、様々な人間を襲っている。まずはムカついていた同級生を襲った。自信がなかったから、後ろからやった。けど、まるで子供を扱うみたいに簡単だった。
 そして、次は見るからに関わっちゃいけないと思うような、街を闊歩する暴力団員。これも、同じくらい簡単だった。相手は銃を抜いた。さすがにビビッた。
 けど、堅い鎧の前には、その弾丸は通らなかった。
 次は格闘家——プロレスラーだった。有名なレスラーがいるらしいジムを尋ねて、帰り道に襲った。一番歯ごたえがあるのは彼だったが、しかしその歯ごたえというのは、ゼリーとプリンの違いみたいなモノ。
 あとは、味があるかどうか。一番気に入った味は、同級生をやった時。
 弱いヤツを潰した方が面白いという事に気付いた彼は、街で適当な人間に因縁をつけて、襲う。
 それ以来、彼は人間を襲う事が日課となった。もう彼は、人間ではない。新たな種族。だから、人間を襲う事に罪悪感などなかった。
 むしろ、『俺はこのままなんでもできる』そういう希望すらあった。もう受験だ就職だという事に悩む必要はない。
 このまま、この力で稼いで行けばいい。怖いものなんてなにもない。
 そう、思っていた。
「待てよ」
 帰り道の河原。ここを過ぎれば、すぐ家という所。目の前に、さっき殺したはずの男が立った。
 少し立たせる程度に伸びた金髪と、左耳のピアス。相手を射抜く、火矢の様な目つき。
「……キミ、さっき、殺さなかったっけぇ?」
「死んだよ。だから、化けて出たのさ」
 恭平は、思わず吹き出した。
「キミ、冗談上手いねえ……。ま、いいや」
 徐々に体が変わって行く。この感覚は、とても好きだった。大声で叫ぶような、真っ白なキャンバスに黒い絵の具をぶちまけたような、最後まで立てたドミノをすべて倒したような。とにかく、何かを台無しにするような感覚があった。
 恭平の体が、騎士——シュバリエのそれへと変わった。
「また、殺すから」
 そんな恭平の言葉などまるで聞いていないみたいに、春久は手をクロスさせ、バツ字を作る。
「殺すのは、俺だ」
 そして、そのバツを、解き放った。
 彼の体も、変わって行った。
「えっ!?」
 皮膚が黒くなっていく。そしてその皮膚から、赤い外殻が突き出して来る。その外殻が、徐々に形を変えて行く。
 その姿は、鬼。全身を血に染めた鬼だった。
「……き、キミも変身できたんだ。早く言ってくれればよかったのに」
「できなかったさ。さっきまでは。……だから、加減の仕方がわからんぞ」
 鬼が構えた。とっさに、シュバリエも剣を抜こうとした。それより先に彼の胸を、鬼の拳が貫いていた。
「えっ……?」
 そんな、いつの間に。距離を詰める動作すら見えなかった。
 信じられなさそうに、自分の体に突き刺さる鬼の拳を見つめる恭平。鬼がその拳を引き抜くと、彼の体は、支えを失って倒れた。
「し、死にたくない……し、にたく……」
 俯せのまま、彼はずっと死にたくないと言っていた。しかしいつしか、その言葉は止まった。何も言わなくなって、彼の体が砂みたいに崩れて行った。
 人の道を外れた者にふさわしい最後だ。
 変身を解いた春久は、その砂を見下ろしながら、舌打ちをした。
「『ディアボロ』は、秘密保持の為、死んだ後はこうして死体が消えるの」
 春久の後ろに、先ほど彼に手を差し伸べた少女が現れる。
 それなりの長さをもった金髪を、後頭部で緑の髪留めを使いまとめている。水色のフレームを持つメガネの奥には、釣り上がったブラウンの瞳。白衣と、その下には淡い水色の花柄ワンピース。
「……こういうの、ディアボロっていうのか」
「そうよ」彼女は、春久の隣に立った。「こういうの、というよりは、あなたもディアボロになったわけだけど」
「……まだ、貴方の名前、聞いてなかったわね。私は御使蘭(みつかいらん)。あなたは?」
「……島津春久」
「そう。ハルヒサ、ね。さっそくだけど、ハルヒサ。私はなにも、善意であなたに力を与えたわけじゃない」
「そういうのは、先に話しておくべきだろ」
「仮に話していたとして、きっとあなたは、結論を変えなかったと思うし、そもそも話していたとしても、話すうちに死んでたと思うわよ」
 確かに、手を置いた時点で、春久はほとんど死んでいた。きっと、蘭の話を聞いている余裕などなかった。
「……悪い事以外なら、手を貸す。俺の復讐に手を貸してくれた分は働く」
「悪い事じゃないわよ。むしろ、その逆。——私の目的は、ディアボロを生み出した、御使天を殺す事。私の人生を狂わせた、私の父を、殺す事」
 父親を、殺す。
 かつて誰かに家族を殺された春久に取って、その願いは、素直に聞ける物ではなかった。

     

 ディアボロ。
 かつて学会を騒がせた異端の天才、御使天(みつかいたかし)が作りあげた、人間を越えた存在。彼と、そして唯一彼の技術を受け継いだ娘、御使蘭のみが、ディアボロを作る事ができる。
 ただし、ディアボロになった時どういった能力を得るかは本人の資質次第であり、それは御使天にも決められない。
 先ほど戦ったディアボロ、『シュバリエ』は堅い装甲と切れ味の鋭い刃。察しの通り、あまり高い能力は持っていない。低級のディアボロである。
「……そして、多分、あなたの能力は、『精神エネルギーの具現化』だと思う」
 春久の隣を歩く蘭から、そんな説明を受けて、春久は「すまん、よくわからん」とだけ言った。
「まあ、わかる必要はないわ。これからは、私があなたのサポートをするから」
「サポート?」
「ええ。当然でしょ。あなたはディアボロについて、何も知らないわけだから。あなたの生みの親である私がサポートするのは、当然の事」
「……親、ねえ」
 春久は、その言葉に先ほど彼女が言った、『父親を殺してほしい』という言葉を思い出した。もう彼はシュバリエを殺している。本来なら、人間を殺しているのだ。何か罪悪感があってもいいのだが、しかし、春久の中にはまったくそう言った感情がなかった。おそらく、シュバリエが他人を傷つけるのにまったく罪悪感を抱かなかった様に、ディアボロに変身すると、そう言った『敵を殲滅するのに邪魔な感情』は抑制されるのだろう。
 先ほどの事だというのに、まるで夢の中みたいに現実感がなかった。
「さっきの、親を殺せっていうのは、本気で言ってるのか?」
「ええ。……あいつは殺した方が世の中の為よ。ディアボロなんて物がさらに広まったら、大変な事になる。ハルヒサだってそう思うでしょ?」
「はっ」思わず、春久は苦笑した。突然空気を読まない冗談を言われたみたいに。
 そんな彼の様子を見て、蘭は不服そうに目を細め、「何よ」と春久に食ってかかる。
「そんなお題目、信じると思ってんのかよ。世界平和の為に本気で動く人間なんて、俺は見た事がない。人間が動くのは、大体自分の為か、自分の身の回りの為だ。お前の個人的な恨みだろ」
「……そうね。確かに、私は御使天に個人的な恨みを持ってる。ヤツの所為で、私は人間として生きる事ができなかったから」
 忌々しそうに、前を見つめて歯を食いしばる蘭。その恨みは、怒りは、春久には手に取る様にわかった。体から声になって、暴力になって、飛び出しそうな怒り。それを持って歩くには、人生は長過ぎる。
「……一つだけ、言っておくぞ。俺は誰かに家族を殺されてる。だから、お前の父親を殺してほしいって復讐は、確実に手伝えるとは限らない」
 蘭は、小さく笑った。その笑みはどこか悪魔を思わせるほど冷たかった。
「それでも、絶対に手伝わないと言わない辺り、あなたも復讐の味をわかってるらしいわね」
 春久は、何も言えなかった。復讐の味。それを喰らった時、飢えた野犬から解放される様な胸がすく気持ちになれる。先ほど、シュバリエを殺した時の様な。春久の背中が泡立つ。復讐は、格別な味。

  ■

「お前、家どこだ?」
 春久はその一言を言いそびれたまま、自宅であるパティスリー『スイートルージュ』の前まで、蘭と連れ添ってしまった。その一言が口から出て来たのは、もう家に入るしかないという段になってからだった。
「私の家? ここになる予定よ」
 そう言って蘭が指差したのは、どう見ても『スイートルージュ』である。商店街の一角にある、赤煉瓦作りの洒落た店。平日は主に奥様方で賑わう店内だが、休日には意外と男性客もやってくる。
「……まさか、ここで世話になるつもりか? いつまで」
「そんなの、御使天を殺すまで」
「いつになるかわからないんだろ?」
「それでも、世話になれるわ」
 行くわよ。と、まるで女王の様に堂々とした足取りで、店内に入って行く。客がいない店内には、カウンターでぼんやりとしていた店主、桃井雄二と、その妻である桃井法子が隣に立っているだけだった。
「おう、おかえりハル」
「おかえりなさい、ハルくん」
 雄二、そして法子がにこりと笑って春久を出迎えた。
「ただいまっす」
 と、頭を下げる春久。なんとなく、この家では距離を感じてしまう。もう十年は世話になっているのに、春久が家族を忘れられないからだ。
 雄二は、妙にガタイのいい男だ。ヘビー級のボクサーやっていた方がよかったのでは、とさえ思うほど。そんな彼が赤いエプロンをしていて、コック帽を被っているというのは、コスプレをしているのではとさえ思ってしまう。
 対して法子は、目が細く、いつでも笑っている様に見える華奢な女性だった。彼女はウェイトレスとして働いているので、調理服ではなく白のTシャツに黒いチノパンという装い。
「……その子は?」
 春久はどう説明すべきか迷った。答えなんて言えるわけもないし、彼はとっさに嘘を吐けるほど器用な性格はしていない。
 そこへ蘭が一歩踏み出した。二人の前に立つと、背中から機械の腕——マニピュレーターを生やす。その先端には、カメラが装着されていた。
 カメラがシャッターを降ろす。辺り一面にフラッシュの光が満ちて、消える。
 そして、蘭が品よく笑い、「どうも、先日連絡をした、御使蘭です」と言ったので、春久は驚いた。そんな事実は存在していない。何を言ってるんだ、この女は。正気か? と。
 そんな春久の心配はよそに、雄二はパッと笑顔を花開かせて、「ああ!」と思い出したみたいに声を出す。
「親戚の、蘭ちゃんかー。大きくなったねー!」
「ああー……。十年以上会ってないから、忘れちゃってたわ。ほんと、綺麗になったわねー」
 まるで前から知っていたみたいに会話が進んで行くので、春久は口を挟めなかった。何が起こったんだろう、と考えるのが精一杯で。
「これからしばらく、お世話になります。……これは、父から生活費にと」
 そう言って、蘭は白衣のポケットから取り出した分厚い茶封筒をカウンターの上に置いた。
「あんなに断ったんだけどなぁ。……でもまあ、正直助かるし、ありがたく受け取らせてもらうよ」
 苦笑しながら、その茶封筒をエプロンのポケットにしまう雄二。
「あ、ハルくん? お買い物、行ってきてくれた?」
 法子から突然の言葉が飛んできたので、春久は「あ、はい」と単純な返事しかできなかった。
「ありがと。それじゃあ、冷蔵庫にしまっておいてくれる? あとで作るから」
「わかりました」
 そう言って、春久と蘭は二人、店の奥へと入り、店用の調理場ではなく、家族用のキッチンにある冷蔵庫へ先ほど買った食材を入れた。
 そして、すぐ横のリビングダイニングに誰もいない事を確認した春久は、キッチンから出て、リビングダイニングのテーブルに腰を降ろした。
「……お前、さっきおじさんとおばさんに何したんだ?」
 蘭も、春久の前に腰を降ろす。
「大丈夫よ。私が遠縁の親戚で、家庭の事情があってここに預けられる事になったっていう、偽の記憶をね」
「……さっきの茶封筒は」
「御使天の所から持ってきた軍資金の一部」
 春久は、溜め息を吐いた。
「部屋はどうすんだよ。ウチに余った部屋なんて無いぞ」
「あなたの部屋に住まわせてもらうつもりだけど」
「俺の部屋にも空きスペースなんてねえよ」
「ああ、それはこっちで——」
 その先の言葉を、蘭は口にしなかった。春久の後ろを見て、「あら」と微笑むだけ。一体なんだと思い振り返れば、晴久の後ろにはあずさが立っていた。先ほどまでお菓子を作っていた所為か、なんとなく甘い匂いがする気がした。
「あれぇ。この人、誰?」
 子供のように、あずさは首を傾げた。蘭は立ち上がると、マニピュレーターを起動させる事なく、恭しく頭を下げた。
「初めまして。今日からここのお世話になります、御使蘭です」
「えと、ここに住むってこと?」
 頷く蘭。あずさは「へぇー」と、笑顔で頷いていた。
「そっかそっか! よくわかんないけど、歓迎するよー!」
 そう言って蘭の隣に立つと、無遠慮に彼女の手を取り、ぶんぶんと手を上下に振る乱暴な握手を交わす。あずさの、そんな馴れ馴れしいとも言える距離の詰め方に驚いているのか、蘭は目を見開いて固まっていた。
「あ、そうだ、これ食べる? さっきねー学校で作ってきたんだー。チョコチップクッキー」
 丁寧にラッピングされたクッキーを、鞄から取り出し、それを蘭に持たせた。
「ど、どうも」
 少し困っているらしい蘭を見かねて、春久は立ち上がり、「悪い、あずさ。俺と蘭は話があるんで、ちょっと部屋に行くぞ」と、一人先にリビングを出る。
「そ、そういう事で、ごめんなさいね。あずささん」
「もう仲良くなったの? 私とも後でお話しよーね蘭ちゃん!」
 そう言って無邪気に手を振るあずさ。
 春久は階段を上り、二階に真っ直ぐ伸びる廊下の三つあるドアから、最も手前にあるドアを開く。
 そこが春久の部屋。白い壁紙、フローリングの八畳間。所謂普通の男子学生の部屋と言った感じで、本棚にはマンガと小説が入り交じって置いてあり、勉強机にはパソコンが乗っている程度。ベットの他にはクローゼットがあり、そこに様々な荷物をまとめているのだ。
「……すごい子ね」
 蘭は、勉強机に腰を下ろすと、小さな溜め息を吐いた。春久もベットに腰を降ろし、苦笑する。
「あずさはあれが素なんだ。ここに住むなら、あれには慣れろ」
「まあ、ちょっと疲れるかもっていうのはあるかもだけど……。それよりも、羨ましいっていうほうが強いかしら」
「羨ましい?」
 蘭は、先ほどあずさからもらったクッキーの包みを開き、一つ口に放り込んだ。そして、少しだけ幸せそうに微笑む。
「別に。なんでもないわ……それより、もう一度確認させてほしい事があるの」
 春久は、「なんだ」と短い返事。
「あなたは今後、ディアボロとして生きていく覚悟はある? 御使天の作ったディアボロと戦う覚悟。……命を投げ出す覚悟」
 蘭の顔は、とても悲痛な物だった。まるで、体内で何かが暴れているのを我慢している様な。
「死ぬ気はない。だがディアボロ退治、やらせてもらう」
 春久の頭に、少しだけ芽生えたある推測が、彼を後押ししていた。もしかしたら、ディアボロが俺の家族を殺したのではないか、という推測。未だに捕まっていない事を考えれば、それが今の春久にとって、もっとも自然だったから。
「……そう。助かるわ」
 蘭は、深く頭を下げた。それ以上は何も言わなかった。春久も、何も言う気はなかった。そうして、二人は少しの間沈黙に包まれた。
 何を言っていいのかわからなかったから。そんな沈黙をやぶったのは、蘭だった。思い出したみたいに口を開く。
「……そういえばあなたのディアボロ、少し急いだから最終調整がまだなのよ」
「……そうなのか? 俺はどうすればいい。変身、すればいいか」
 首を振る蘭。
「変身するのは私だけ」
 蘭はおもむろにメガネを外した。そして、それを胸元にひっかけると、「変身」そう呟いた。
 彼女の姿が、徐々に変わって行く。全身が処女雪の様に真っ白だった。顔は、真っ白な仮面で覆われている。そして、まるで童話のお姫様が着るようなドレス。その背中には、無数のマニピュレーターで形作られた機械の翼。
 まるで、天使を冒涜するようなデザイン。インモラルな姿。天使の翼が機械に犯されているようにさえ見えた。
「これが私のディアボロ、『ブランシェ』能力は多数のマニピュレーターによる精密行動……って所かしら」
 機械音を立てながら、マニピュレーターがうごめいていた。その先端にはドリルやニッパーなどの見覚えがある工具から、何に使うかどう使うかの推測すら立てられない様な機械まで、様々な物が取り付けられていた。
「体、開くわよ。ベットに寝て、目を閉じていなさい」
 春久はその指示に従い、ベットに寝転がって、目を閉じた。近づいて来る蘭——ブランシェの足音。そして、マニピュレーターの機械音。体に冷たい感触が触れた。不思議と、それに不快感はなかった。もう春久の体は、人の身ではない。その冷たい感触に身を任せたからこそのディアボロ。
 その冷たい感触が、自分の奥へと侵入して来るのがわかった。そこで何をしているのかは想像もできないが、春久は蘭を信用して、身を任せた。
「あなたのディアボロはどうもパワー重視みたいだから、少し剛性を高めておくわ。他に何か要望があれば、できうる限りの事はする」
「特にはない。それで頼む」
 蘭が頷いた、ような気がした。
 春久の望む姿。それは、自らの怒りを力に変えても壊れない、強固な体。ディアボロは、まさにその理想像だった。

     


 ■

「終わったわよ」
 いつの間にか意識を失っていた春久は、蘭の声で目を覚ました。覗き込む蘭の姿は、すでにブランシェではなく、人間の姿だった。
 上半身を起こし、自分の姿も確認する。きちんと島津春久の姿をしている。
「調整は終わった。これで、その力は完全にあなたの物。——直したのは、さっきも言った通り剛性を高めた事と、全体の機動性を高めて、格闘戦に特化させた事。……武器が欲しいなら作るけど、銃とか」
「いらねえ」
 春久は、右拳を握った。
「銃じゃ、やった気がしねえ」
「まあ、欲しかったら言って。まだ武装スロットは空けてあるから」
「了解。……そういやお前、部屋はどうするんだ?」
「ああ、まだ作ってなかったわね。今から作るわ」
 そう言うと、蘭は椅子から立ち上がり、壁に向かう。背中から生えた一本のマニピュレーターが、ドアサイズの四角を描いた。すると、ただの四角が一瞬光ると、ドアが現れた。蘭がそれを開くと、そこには春久の部屋と同じサイズの部屋が現れていた。そこにはわけのわからない機械がたくさん並んでいて、生活感を演出する物と言えば、部屋の隅に小さな寝袋があるだけ。
「す、すげえな……」
 さすがの春久も、その光景には驚いていた。だが、蘭はそんな彼を見て、『驚いたのはこっちだ』と言いたげに鼻で笑った。
「私は数ヶ月前に御使天の所から逃げ出すまで、ヤツの研究施設から出た事はなかった。……初めて外に出て思った事は二つ。人ってこんなにたくさんいたんだって事と、科学技術の発展が遅すぎる事。多分、一〇〇年以上かかっても御使天の技術には追いつけないわね。……それくらいヤツの技術はすごい」
 最後に、「当然、私もヤツの技術くらい持ってるけどね」と言って、春久を指差した。
「いい、ハルヒサ。確かにディアボロは御使天の技術。でも、私はあいつじゃない。だから、あなたは私のオリジナル。『対ディアボロ用のディアボロ』なのよ」
「へえ」
「……まだあなたの能力がわかってないのは、少し不安要素だけど。それは戦いの中で見つけるしかないわね」
「ああ、お前の、機械の腕みたいなやつって事か」
 頷く蘭。
「対ディアボロにふさわしい、強力なのが備わってる事を祈るわ」
 その時、下から法子の声で「ごはんよー!」と聞こえてきた。二人は、そこで話を打ち切り、下へと降りる事にした。

 その日の夕食は、蘭の歓迎会となった。
 桃井家特製のシーフードカレーでおもてなし。蘭は初めて味わうその一般家庭の雰囲気にとてつもない違和感を覚えたらしく、終止笑顔が引きつっていた。
 春久も違和感があるのは同じ事だが、そこまで酷くはなく、自分が材料を買って来たシーフードカレーを腹一杯食べた。
 食事が終わると、桃井家の両親は店へ戻った。明日の仕込みがあるらしい。なので、春久と蘭、そしてあずさの三人が取り残された。そうしていると、あずさは蘭の前に「はいっ!」と桃のタルトを置いた。
「……え、えと。あずささん、これは?」
 カレーの後に突然出されたタルトに困惑を隠せない蘭は、そのタルトを指差し、あずさを見る。
「我が『スイートルージュ』の看板メニュー! ピーチタルトだよ!」
 日に五〇は売れるという、まさに『スイートルージュ』を代表するメニューである。
「桃井家に来たなら、これ食べないとねー。歓迎の証だよっ」
「それならさっき、クッキーを貰いましたけど……?」
「あれはウェルカムの証だよ! それに、ハッピーは甘い物からだし、ささっ、食べて食べて!」
 その言葉に、春久は桃井家に引き取られた時の事を思い出していた。あの時は、家族を殺された春久を気遣ってなのか桃井家が総出で洋菓子をたくさん食卓に並べていた。
「それじゃあ、いただきます……」
 タルトの横に添えられていたフォークでタルトを切り、一口頬張った。サクサクとした感触が桃の柔らかさを引き立てる。口一杯に広がり、鼻から抜けて行く桃の香り。
「……美味しい」
 蘭は、自然にそう呟いていた。
「でしょ! もっと食べて笑顔になろう! ハルくんも食べて食べて!」
「ああ」
 昔は甘い物があまり得意じゃなかった春久だが、この家に来てから鍛えられたらしく、好きとまでは言えないまでも食べる事が出来るようになった。
 彼も、フォークで口にタルトを放り込み、「相変わらず、美味いな」と呟く。
「ダメだよハルくん! そんな仏頂面でお菓子食べちゃ。笑って食べなきゃ。蘭さんみたいに!」
「……え?」
 その言葉に、何故か張本人の蘭が驚いていた。彼女は、確かに微笑んでいた。幸せが体から漏れ出したみたいに、自然な表情で。蘭は自分の唇を隠すみたいにして頬に触れた。
「よっぽど、このタルトが美味しいんですね」
「ほんと? あたしが作ったんだよこれ! お父さんのはもっと美味しいよ。今度食べてみて!」
「はい、機会があれば、ぜひ」
 どうやら、正反対の二人は一つのお菓子をきっかけに仲良くなることができたらしい。というより、あずさがお菓子を使って、蘭の心を開いた。
 春久はあずさと付き合いが長く、今更言うつもりはないが、彼女の事を尊敬していた。相手が誰であっても、時間をかけずに仲良くなる。それは、自分の心に素直で、底抜けに明るいからなのだろうと、春久は思っている。そんな事、普通はできない。
 彼女は、自らの口癖である『ハッピーは甘い物から』という言葉に忠実だから、常に幸せを振りまいていられるのだ。
 笑って甘い物を食べられたら、彼女の様になれるのだろうか。
 春久は、少しだけそんな風に考えていた。
 もう何年、純粋に笑っていないだろうか。

  ■

 春久の毎日は、基本的に同じ事の繰り返しである。
 起きたら法子が作った朝食を食べ、学校へ行く。帰ってきたら出来る限りの手伝いをして寝る。それだけ。
 今日はそれに新たな項目が追加された。
 出かける間際、玄関先で蘭から「いい、こっちもディアボロは探すけど、見かけたら私に連絡。それから戦闘を始める事」と指示された。連絡は頭の中にある通信機で、念じるだけで出来るのだ。
「お前は学校行かねーのか?」
 ふと疑問に思ったので訊いてみたら、蘭は「私、高校どころか小学校にも行った事ないわよ」と言われ、それでなんとなく納得した。
 彼女にしてみれば、今更学校に行く必要もないだろう。
 そんなわけで、春久はいつも通りにあずさと登校していた。
「蘭さんって、綺麗だよね!」
 朝だというのに元気な声で、あずさは突然そんな事を言い出した。周りには同じく通学している生徒達がいる。
「そうか?」
 春久はあくびを噛み殺しながら答える。あまり蘭を綺麗だという目で見ていなかったので、あずさのその言葉が新鮮だった。彼にしてみれば、変身したブランシェの方が綺麗だと思ったくらいだ。
「そうだよ! あの金髪、地毛って言ってたかなー。溶けたバターみたいで綺麗だよね。あたしも金髪にしようかなぁー」
「やめとけよ。おじさんとおばさんが卒倒すんぞ」
 あずさは髪を染めた事が一度もない。特に理由は無いが、強いて言えば、『染める理由がなかったから』だ。そんな彼女が突然髪を染めれば、両親が何かあったのではと勘ぐるのも無理はない。
「そうだね。家に金髪が二人居るのは被っちゃうもんねー」
「……俺が言ってるのは、そういう事じゃねえんだけどな」
 そんな話をしていたら、あっという間に学校へ着いた。二人は同じクラスなので、靴を履き替えて教室に入る所までは一緒なのだが、その後は基本的に別行動である。と言っても、春久は机で音楽を聞きながらぼんやりしているだけであり、あずさはもっと行動的だ。クラスの友人達に話しかけては、可愛がられている。人と仲良くする才能があるのなら、彼女はきっとそれが抜群に高いのだろう。

 そんな朝の時間が終わり、授業が始まる。春久はノートを取ったらそれで勝手に終わったと思うタイプで、板書を適当にやったら後はまたイヤホンを填めて寝る。
 それを四回も繰り返せば、昼休みだ。
 普段なら法子が作ってくれた弁当を食べるのだが、店の忙しさによっては作れないので、たまに学食や購買で昼食を買う事がある。そういう時は、春久があずさの分も買いに行くのだ。
 今日のあずさは「やきそばパン大盛り!」という、わけの分からないリクエストをしてきた。包まれた状態で売られている焼きそばパンが大盛りに出来るわけもないので、買えるだけ買って行こうと、春久は購買へやってきた。
 学食の隅にある、テイクアウト用のカウンターが学食と呼ばれている。そこにはすでにたくさんの生徒が押し掛けていた。どこの学校も、購買はかなり激戦区なのだ。その中でもやきそばパンは人気メニューだし、いくら春久がそれなりにこの昼休みの戦いに慣れていても、やきそばパン大盛りは無理だろう。
「……めんど」
 小さく呟いて、その戦いに参戦しようとした。最後尾から人混みを掻き分けて行く。いつもならものすごい人並みで、前に進むのは並大抵の苦労ではないのだが、しかし、今日は最前列まで楽勝で辿り着けた。
 まだ周囲が混乱している中、春久は冷静に「やきそばパン六つ」と言って、金を払って列を脱出した。
「……やきそばパンがこんな楽勝に買えた」
 やきそばパンを抱えながら、教室へ戻る春久。帰り道には購買へ向かう生徒達から「あんなに焼きそばパン買えてる」という尊敬の眼差しに似た視線が降り注いだ。
 学食のある離れから、渡り廊下で校舎へ戻る最中、校舎裏から大きな声が聞こえてきた。
「だからぁ、俺買いそびれちゃったから、そのパンくれって言ってんの!」
 春久はその一言で、「ああ、カツアゲか」と察した。そういう理不尽なことが大嫌いな春久は、やきそばパンを持ったまま、校舎裏へ赴く。そこでは、太った茶髪の男子生徒が、気弱そうな男子生徒を壁に追いつめていた。彼が腕の中に持っているのは、メロンパンにメンチカツサンド。どちらも人気メニューだ。
「で、でも僕のお昼がなくなっちゃうし……」
 怖くて断りきれないのだろう。彼の言葉に、明確な拒否の色はあるのに、口調がどうしても気弱になってしまっている。
「困ってる人を見過ごすのかよ。それってよくねーんじゃねえの? 困ってる人は助けなきゃなぁ」
「その通りだな」
 太った茶髪の言葉に、春久は頷いて、校舎の陰から出て来た。
「そいつ、困ってるだろ。よせよ昼飯くらいで。みっともない」
「あぁ?」
 春久の言葉に、茶髪の男は振り返った。そして春久を睨み、「なんだよ。関係ねーだろ」
「関係はねーけど、俺のでよければやるよ」
 ほれ、と春久は持っていた焼きそばパンを一つ差し出した。だが、茶髪はそのパンを叩き落とし、「引っ込んでろよ」と笑った。
 そして、大降りのパンチを春久の顔面に放つ。
(は……?)
 そのパンチの遅さは、あまりにも春久の度肝を抜いた。ふざけて放ったのでは、と思うほどで、まったく前に進んでいる様にさえ見えなかった。
 これ、止めようと思えばどのタイミングでも止められるな。それどころか、早口言葉を何回言えるか挑戦してみてもいいくらいだ。
 そうは思ったが、春久はわざとそのパンチを顔面で受けた。
 ニヤリと、茶髪の男が笑った。俺の拳を喰らって無事で済むやつはいない、と。そう思っているみたいに。
 だが春久は、直立不動のままだった。
「……気ぃ済んだか? ほれ、わかったらそのやきそばパン拾って帰れ」
 その一撃だけで、茶髪の男は、春久がただ者ではない事を察したらしい。
「ば、化け物っ!」
 と情けない悲鳴を上げて、逃げ出して行った。
「化け物って……」
 春久は呟くと、落ちたやきそばパンを拾って、砂を叩く。
「あ、あの」
 先ほど、茶髪に追いつめられていた大人しそうな男子生徒が、春久に詰め寄る。
「ありがとうございました! ホントに、感謝してもしきれません」
「あー、いい。いい。とっとと忘れろ。ほれ、早く行け。昼休み終わっちまうぜ」
「はい!」
 男子生徒は、そう言って、校舎裏から去って行く。春久も、待ちわびているだろうあずさの元へ帰る事にした。
 やきそばパンを大量に持って現れた春久に、あずさは「うわー! すごいね!」と大喜びしていた。
 これも、ディアボロになった恩恵なんだろうか。人混みも簡単に抜け出せるし、一般人の拳程度ならスローカメラの映像みたいに見える。
 ディアボロの力、人間を超越した力。
 化け物と呼ばれるに値する力。

  ■

「くそがっ!!」
 先ほどの、太った茶髪の男子生徒——名前は坂本吹馬(さかもとふくま)は、放課後になっても春久から受けた屈辱を忘れられなかった。
 帰り道に電信柱を蹴っ飛ばし、悔しさから歯を食いしばっている。
「あの野郎……! 俺を舐めやがって……」
 春久のスマした顔を思い出し、もう一度吹馬は電信柱を蹴った。その電信柱が春久の弱点だと言わんばかりに。
 だが、本当の春久を蹴っ飛ばす事はできない。いや、蹴っ飛ばす事はできるだろうが、それで彼を倒す事はできないだろう。
 彼の頭には、もう春久への逆恨みしかなかった。 
「キミ、いいねえー……。気に入ったよ」
 突然、目の前に変な風体の男が現れた。
 金髪のオールバックに、水色フレームのメガネ。アロハシャツの裾を灰色のスラックスに、白衣を羽織っている。
 その体は一九〇センチはありそうな巨体だが、しかし体重は適正体重を軽く下回っていそうな程か細い。
 男は、細い目をさらに細めて、微笑んだ。
「……キミの事情は大体察してるよ。ムカつく人間を懲らしめたい、って所かな」
「なんだよ、テメエ!」
 吹馬は、目の前に突然現れた男を睨みつけた。だが、男はそんなのそよ風程度にしか思っていないらしく、「睨まない、睨まない」と馬を落ち着けるみたいに両手を軽く二、三度前に押しやった。
「僕の名前は御使天(みつかいたかし)。どうだい? キミ。人間、やめてみない?」
 男の話は、そして風体もだが、異常なほど怪しさがあった。しかし、彼の声は、立ち振る舞いは、信用に値するのではないかと思ってしまうほどだった。
 紳士的に手を差し出す彼に、吹馬は思わず、その手を取ってしまった。
 人間をやめるという言葉の重さも、知らないまま。

     


  ■

 適当に授業を済ませ、放課後になった。春久は友人がいないので、もうさっさと帰るだけなのだが、あずさは昨日のお菓子作りを教えた礼として、カラオケに連れてってもらうという事で、料理研究会のメンバー達と帰っていった。
 なので、昨日に続いて春久も一人で帰る事にした。普段はあずさと二人で帰る事が多く、二日続けて一人で帰るというのは珍しい事だった。
 どっかに寄って帰ろうかな。そう思うのだが、特に趣味のない春久にはそれが思いつかず、結局真っ直ぐ帰る事にした。帰って店の手伝いでもしよう。
 そう思って、帰路を歩いていた。
「よぉ、ちょっと来いよ」
 そこに突然声をかけられた。工事中のビル、その敷地内から顔を覗かせているのは、茶髪の太った少年、昼休みにパンをカツアゲしていた、坂本吹馬である。
「……お前、昼休みの。なんだよ、まだ懲りてなかったのかよ」
 春久は溜め息を吐いて、通り過ぎようとした。しかし、踏み出そうとした足の前に、何かを打ち込まれた。アスファルトから何かが弾ける様な音がして、煙が上がる。
「いいから、来いっつってんだよ」
 吹馬の顔が強ばり、春久を睨みつけた。
 いま、なにをした?
 何かした様子はない。しかし、実際に何かされた。まさかと思ったが、春久は確かめる為にも、吹馬の言う通りにするしかなかった。
 吹馬に連れられ、二人は工事中のビルへと足を踏み入れた。そこで向かい合うと、吹馬はニヤリと笑う。今からすごい物を取り出すぞ、と言わんばかりだ。
「オメー、名前なんていうんだよ」
「……島津春久」
「俺は坂本吹馬。だが、今日からはその名前だけじゃねえ」
 吹馬は、立てた右手の親指を首に突き立て、それを鍵みたいに回した。すると、彼の体がゴムみたいに膨らんで、体が一回り大きくなっていく。元々太っていた体がさらに丸くなり、まるで球体に手足が生えたような姿になった。
「俺の新しい名は、バロン。人間を超越した存在だ!」
 そう言うと、吹馬——バロンは、しゃがみ込んで体を縮める。どうやら彼の体は相当柔らかいらしく、その体がバネの様に皺を生んで、春久へ跳んだ。
「あぶねっ!!」
 横へ跳んでそれを躱す。柔らかく、しなやかで、かつ重たい体らしく、地面がひび割れた。
「ちっ——。蘭、蘭!」
 春久は耳を中指で押し、通信回路を開く。
『なに、どうしたの』
 通信の向こう、家に居るはずの蘭の声が春久の頭に響く。
「敵だ! 新しいディアボロが出た!」
『なんですって……!? そんな、早すぎる! 視界こっちに回して!』
 春久は言われた通り、自分の視界を蘭へと送るイメージを作った。それは上手くいったらしく、『私はこんなディアボロ知らない——。新しく作られたディアボロみたいね』と言われる。
 つまり、何も情報は得られないという事。
 当たってみないと、なにもわからない。
「変ッ——」
 春久は、両腕を顔面の前でクロスさせて、それを解き放った。
「——身ッ!!」
 彼の体が、人間としての姿が、失われて行く。
 皮膚は黒くなり、体内から赤い骨が浮き出てきて、それは強固な外殻となる。怒り狂う、鬼の姿。
 それを見たバロンは、「へぇ」と笑った。
「お前も、変身出来たんだな。……ちょうどいいぜ。どっちの性能がいいか、根性試しと行こうか!」
 バロンは四肢と頭を体の中にしまうと、完全な球体になった。そのまま春久へと突っ込んで来る。
 向かって来る相手には、拳を結んでそれを放つだけ。
 まるで土砂崩れのような激しさで転がって来るバロンへ、ありったけの力の拳を放った。
 回転するバロンの力と、春久の拳がぶつかり合う。ぎゃりぎゃりと、ドリルが岩を削るような音が辺り一面に広がる。
「ぐぁ——ッ!?」
 春久の拳が、力負けして弾き返された。
「このまま轢き潰してやるぜェェッ!!」
「やろぉ!」
 拳ではなく、今度は体でバロンを止める。だが、パワーがバロンに負けているらしく、弾き跳ばされてしまった。そのまま突風に乗せられた紙みたいに壁へと叩き付けられ、春久の肺から酸素が漏れる。
「ぶ——ッ!」
 ずるりと、壁にもたれかかって座る春久。
 そんな敗北のジェスチャーにも等しい彼の姿を見て、バロンは笑った。
「ふ、ふはっ! やっぱり俺の方が強いんだ! 人類を超越して、俺はこの野郎も越えた! はははははははははッ!!」
 球体のまま、彼はビルの外へと転がっていく。
「て、めえ。どこ行く気だぁ!!」
 しかし、そんな春久の叫びなどまったく聞いていないらしい。もうお前は越えたから、話を聞く価値もない。そう暗に言っているように。
「野郎……。まだ、俺は、終わってねえ……!」
『その通り。ハルヒサ。あなたの力は、その程度で終われるほどヤワじゃない。剛性を上げておいて、正解だった』
 蘭の言葉を無視して、春久は自分の言いたい事だけを伝えるべく、一方的に言葉告げる。
「まだやるぞ……。あいつ、どこ向かったかわかるか」
『もちろん。街中のカメラにハッキングしてる。今は——ッ!? ダメ、こっち向かってる! 商店街の方!』
 商店街には、『スイートルージュ』がある。春久の帰るべき場所で、大事な場所。春久の怒りが、頂点に達した。
 自分を侮った事。
 帰るべき場所を怖そうとしている事。
 春久の心が、炎になった。

  ■

 ディアボロになった人間の多くは、自分の力に感動し、それを振るいたがる。バロンはその代表的な例と言ってもよかった。
「は、は、は、は、は、はッ!!」
 当ても無く街を転がりながら、バロンは笑っていた。周りからは自分を恐れる悲鳴。その声は、新たな自分を祝福するファンファーレの様に聞こえていた。
 島津春久は倒した。変身した事は驚いたが、それでも自分の方が上だった。
 いや、あいつはディアボロだったからこそ俺の拳を受けられた。つまり、対等のディアボロになった以上、負けるはずがない。
 ディアボロになった目的を果たした事で、バロンには次の目的が芽生えていた。
 この力って、どこまでできるんだろう。
 そうなったらやる事は一つ。
 破壊だ。
 人間としての自分を閉じ込めていた社会を、ディアボロとなった自分がどこまで破壊出来るか。それを試したくなったのだ。
 手始めに学校をやる。彼にとって、最も自分に身近な社会とは学校だからだ。
「まずは学校だあ! 全部轢き潰してやるぜェェェェッ!!」
 これが、能力を持った者が陥る思考回路である。自分が持った力を特別な物だと考え、それで跳ね回る。
 彼の前に、子供が飛び出してきた。安全も確認せず、角から飛び出してきたのだ。しかし、彼は今、自分を人間だと思っていない。その子供を轢き殺す事に、アリを踏みつぶす程度の気持ちしか湧いていない。
 子供は、小学校低学年ほどの少年は、自分に迫って来る黒く巨大な球体をなんなのか判断できず、しかし間違いない脅威を持っているとはわかっていた。だからこそ、動けなかった。
「死ね、ガキ」
 それだけ呟いて、バロンは初めての人殺しを完遂しようとした。その事になんら罪悪感は無く、むしろ、ゲームで敵を一匹倒した様な気持ちが一番近かった。

 だが、そんなバロンの前に、再び春久が立ちはだかった。

「おおっ!!」
 そのかけ声で、春久は肩からバロンへとぶつかり、自分の腕を坂に見立てて、バロンを上空へ打ち上げた。
「なんだとッ!?」
 まさか春久が追いついて来るとは思っていなかったバロンは、虚を突かれたまま空中へ。しかし、そのまま手足と頭を生やして、地面に着地した。

「おい! とっとと逃げろ! 死にたいのか!?」
 春久は、子供を怒鳴った。いきなり異形の怪物からそう言われた子供は、まるで逃げるみたいに元来た角へと入って行った。それと同じく、周りの大人達も逃げていく。周囲には誰もいない。それを確認して、春久は拳を握る。
「よぉ。第二ラウンドと行こうぜ。まだテンカウント鳴っちゃいねえ」
 春久は、拳をアップ気味に構える。ボクシングのファイティングスタイルだ。もちろん、春久はボクシングなどやった事がない。見よう見まねだが、それでもディアボロとなった彼には素人以上の力が発揮できる。
 そこへ、バロンは両腕を前に突き出すような、相撲取りを思わせる構えを取った。
「もうお前じゃ、俺に勝てない事は知ってるはずだよなぁ」
『いいえ。あなたなら、私のディアボロなら、あの程度勝てるはずよ』
 バロンと蘭の言葉は、どちらにせよ春久は聞いていなかった。彼はもうバロンを倒す事しか考えていない。彼の怒りが、心の基盤が、人生を支えてきた復讐心が、バロンに向いているのだ。
 春久はバロンへ突撃。
 彼にとって前に出る事以外の選択枝などない。
「真っ向から向かってきても、お前のパワーじゃ無駄なんだよぉ!」
 渾身の右ストレートが、バロンの腹へと突き刺さる。だが、彼の言う通り、それはただ飲み込まれて衝撃を吸収しただけ。並外れた柔軟性が、春久の右ストレートを殺していた。
 体格に勝るバロンの、真上から振り下ろすような張り手に、春久の頭が揺さぶられる。
 一瞬視界が揺れた。
 その程度で怯む彼ではなかった。視界が揺れたまま、再び右ストレートを一発突き出し、それが無駄に終わると、また次の一発を突き出す。
「無駄だってんだよ! いい加減わかれよ。原始人かテメーは!!」
 さすがに何発も効かないパンチを出されて、ナメられていると思ったのか、バロンは春久を怒鳴って、飛びかかった。
 押し返そうとするが、彼の重さは春久のパワーを上回っていて、それは出来ない。
 まるでさば折りのような体勢を取られたかと思いきや、春久の体がどんどんバロンの体内へ飲み込まれて行った。
 このまま窒息させるつもりらしい。
 バロンの顔が、喜びで歪に歪んだ。
 飲み込まれる瞬間、その顔を一瞬だけ、春久は見た。
 勝利を確信してやがる。そう思ったら、春久の心は、炎は、まるで体の外に出て行こうとするみたいに、熱くなった。
「俺をナメてんじゃねえッ!!」
 怒鳴った。
 瞬間、春久の体から黄緑に光る熱線が吹き出した。
「なっ、なんだ!?」
 バロンは腹から湧き上がって来るその熱さに危機感を抱き、春久を解放した。
 外に出た春久。バロンの体から出た彼の全身を、黄緑のオーラが包んでいた。まるで炎の様に揺らめくそれは、バロンにぶつける怒りの様に見えた。
 春久は、自分の拳を見つめる。自分の怒りが力に変わり、拳を包んでいる様を。
『これが……春久の能力……』
 蘭の呟き。この時点で、彼女は春久の能力をおおよそ察していた。彼の能力は、『精神的なエネルギーを実際のエネルギーに変える』という物だろう、と。
 なるほど、怒りを原動力に、復讐心を振りかざす彼にはぴったりな能力だ。そして、蘭は思う。
 この能力は、強力だ。

「はっ!」
 強がるみたいに、バロンは笑った。彼の、まだ残っている冷静な部分が告げている。『あの光はヤバい』と。しかし、ディアボロになったばかりで、自分の能力を過信している彼は、それを無視した。
「お前になんて負けねえんだよ、俺はぁ!!」
 四肢、そして頭をしまい、バロンは再び球体となって春久へと突っ込んで行った。
「殺してやる!! 島津春久ァァァァァァァッ!!」
 黄緑に光る拳を、春久は振り上げた。そして、球体となったバロンと、二度目の競り合い。
 拳か、体か。
 その勝負は、春久の拳に軍配が上がった。
「うぉッ!?」
 今度はバロンが吹き飛ばされる番だった。
 ホームランで飛んだボールみたいに、バロンの体が地面に叩き付けられる。明らかに、先ほどよりもパワーが上がっていた。
 あの光の所為だ。それはわかっていたのに、自分の力を確信しすぎたバロン。もう彼に戦意はなかった。全力の全力だった。それなのに、ああまで楽勝に弾き返されては、もう戦えない。
「ま、待った! こ、降参だ。降参するよ!」
 バロンは、手を前に突き出して情けない声を出す。
「さっき舐めた口利いた事は謝るよ! いや、謝ります! だから——」
「お前、ディアボロになったんだろ」
 春久はバロンの前に立った。それを見上げるバロン。
「あ、あぁ。だが、この力はもう使いませんからっ」
「……違う。もう使わない、じゃないだろ。そもそも使った事が間違いだ。お前は、人間をやめたんだろ?」
 バロンは、御使天に出会って言われた事を思い出していた。
『人間、やめてみない?』
 そんな軽い言葉で、道を踏み外した。
 忘れればよかった。突っぱねていればよかった。
 今更になって、人間をやめるという言葉の重さをしった。
「人間をやめたら、死ぬしかないんだ」
 春久は、右の拳にエネルギーを込める。
「待っ——」
 命乞い。
 元よりくれてやる命などない。自分が捨てた命のクセに。
 春久はそんな事を考えながら、バロンの顔面を打ち抜いた。どれだけの柔軟性を持っていようと、その一撃を殺し切る事はできなかったらしく、バロンの顔面には大きな穴が開いて、彼は砂になった。
 死んだ、のだ。
 春久はただジッとそれを眺めている。これが俺の死に様だ。あいつは俺だ。そう心に刻み付ける様に。
「あ、あの……」
 春久の後ろに、先ほど助けた子供が立った。
「……なんだ、お前。まだ逃げてなかったのか」
「み、見てたんです。かっこよくて……ヒーローみたいで! 助けてくれて、すげえって思って……」
 少年は興奮みたいに鼻息を荒くし、両の拳を握り、目を輝かせていた。
 だが、逆に春久はクールだった。そんな少年の頭に手を置こうとし、やめる。人殺しの手で、子供に触りたくなかったから。
「……俺はヒーローじゃない。偽善者だよ。復讐の為に動いているからな」
 それだけ言うと、春久は跳んだ。高い建物の上へ。
 そのまま建物伝いに、家の方へと向かう。
『……偽善者、ね。いいんじゃない?』
 突然、蘭が呟く様に通信回路を開いた。
『まだあなたの名前、決めてなかったわね。……フェイクマン、でどう? 偽善者の偽って事で』
「どうでもいいよ」
 建物を跳びながら、春久はそう言って回線を切った。
 素っ気ない態度を取ったが、実際は少しだけ気に入っていた。自分にはぴったりな名前だ。決して本物の正義ではない。自己満足の為に戦っているのだから、『フェイク』はぴったりだと。
 春久——フェイクマンは、家の近くにあるビルの屋上に到達し、地上を眺めながら鼻を鳴らす。
 まるで、狼の様に。

       

表紙

七瀬楓 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha