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表紙

FAKEMAN-avenge-
■二『光の中では』

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  ■二『光の中では』

 春久がディアボロ——フェイクマンになって、早一ヶ月が経とうとしていた。その間、バロン以来ディアボロは現れなかったが、一つだけ変わった事があった。

 学校帰り。今日もあずさは料理研究会に顔を出していた。そんなに頻繁に行くのであれば、もう入部してしまえばいいのに、と春久は思っていたが、とにかく彼は一人で帰路を歩いていた。
 なんとなくいつもとは違う道を歩いてみようと思い立ち、繁華街の方を帰路にしていた。そんな時だ。遠くの方が騒がしいのに気付いて、春久は野次馬根性で何が起こっているのか確かめに行く為、小走りで向かった。
 どうやら、大通りに面している銀行に強盗が入っているらしかった。たくさんの報道陣が押し掛け、春久と同じく野次馬がごった返している。
 震えた春久のケータイには、あずさの父親から『近くで銀行強盗が起こってるみたいだから、気をつけて帰ってきなさい』とメールが来ていた。
「どけぇっ! 撃ち殺すぞッ!!」
 ヒステリー、あるいは野生動物としか思えないような声が上がる。銀行から強盗が出て来たらしい。行員と思わしき、制服を着た女性の頭に拳銃を突きつけながら、逃走車に乗り込んで、その場から去って行った。
 春久は舌打ちをして、近くの路地に飛び込んだ。
「変——っ」
 呟き、顔の前で両腕をクロスさせる。
「——身ッ!」
 そのクロスさせた腕を解き放ち、春久の体が変わって行く。皮膚は黒くなり、その皮膚から、赤い外殻が飛び出し、フェイクマンになった。
 春久改めフェイクマンは、近くのビルの屋上へジャンプして、スクールバックをそこに放り投げると、隣のビルの屋上へ飛び移り、銀行強盗犯の車を追った。
 ディアボロの身体能力なら、車に追いつく事くらい猫がネズミを取る以上に楽勝だ。
 ビルの屋上から飛び降り、車の上に着地する。シンクにお湯を流したような大きな音が周囲に響き、フェイクマンは車の屋根を剥いで、中にいる強盗の首を掴んだ。
「な——んッ」
 なんだお前は、そう言おうとしていたのだろうが、フェイクマンはそんな言葉を聞くほど余裕のある性格をしていない。言葉を最後まで聞く前に、その強盗を持ち上げ、腹に一発拳を突き刺し、強盗を気絶させると、元来た道を戻り、バックを回収してから、路地で再び変身を解いた。
「——ふぅ」
 まったく疲れてはいないのだが、春久はまるで一仕事終わって晩酌をした後みたいな溜め息を吐いて、何事もなかったように路地から出る。
 先ほどの出来事は一瞬過ぎて、現場に直面した強盗と行員しか見えていなかったらしく、突然大破した車を見て大騒ぎになっていた。
 その光景になんの感慨も抱かず、春久は再び帰路を歩く。
 そうしていたら、頭の中にアラーム音が響く。少し耳障りなほどうるさいそれは、蘭からのコール。
『……どうした、蘭』
 心の中でそう呟くと、ディアボロ専用の回線で、蘭との思考通話(テレパス)が開いた。
『ハルヒサ、あなたまた変身して悪人退治やったみたいね』
 呆れたようなニュアンスが含まれた蘭の声に、春久はぶっきらぼうな返しをする。
『あぁ』
『……別に責めてるわけじゃないけど、あなた、自分がどういう存在かわかってる?』
『ディアボロ、だろ』
『あなたは自分が誰かと訊かれて、「人間だ」って答えるわけ? あなたの行いは人間としては正しいのかもしれないけど、あなたは人間じゃないし、対ディアボロ用のディアボロなのよ? 他のディアボロに存在が感知されるような真似は慎みなさい』
 その、どう聞いても責めているような言葉に、春久は反論しようとは思わなかった。確かに春久は、犯罪を解決しているような暇がある立場にはない。それは彼自身わかっていた。
『わかってるさ。——でもなんか、この力を使いたくてしょうがねえんだ。最近ディアボロも来ねえし、腕が疼くっつーか……』
『ディアボロになった人間が、最初に陥る精神状態ね』
 冷静に、蘭はそう言った。春久の言葉を聞いて、納得したと言い出しそうな口調ですらあった。
『ディアボロは生まれた時、かならず誰かを殺したくなる。ハルヒサはもう二人ディアボロを殺してるけど、おもちゃをもらった子供が、そのおもちゃで遊びたくなるような物ね。必ずその力を試したくなってしまう』
 正直言って、危険な状態よ。
 蘭はそう付け足して、黙った。自分の力に溺れて行く事がどういう事態を作るか、きっと今までいくつも見て来たのだろう。
『……わかった、気をつける。それにしても、よく俺が変身したりするのがわかるな』
『あなたは私の切り札よ。変身したら、こっちにもわかるようになってる』
 それを最後に、蘭との思考回線は途切れた。
 ディアボロになったことで自分が浮かれている。そう思った春久は、自分の額を殴った。通行人から訝しげな目で見られたが、気にしない。というより、気にする余裕がなかった。
 自分は人間だ、と叫び出したい気分を抑えるのに必死だったから。
 まるで人間の仲間に入れてもらおうとして悪事を解決しているようで、嫌だったから。

  ■

「……銀行強盗の逃走車、謎の大破か」
 まるで気の抜けた映画のキャッチコピーみたいな言葉を呟くのは、あずさの父親である桃井雄二だった。
 家族揃っての朝食を取っている最中、法子が作った朝食を前にしながら、昨日春久が解決した銀行強盗事件が載っている新聞を読んでいた。その煽り文句が、雄二の呟いた言葉である。
「昨日の銀行強盗、車が変な壊れ方して解決したんだよね?」
 あずさは興味津々らしく、雄二の新聞を覗き込む様にしてテーブルに身を乗り出していた。
「あぁ。なんでも、屋根が人の手で割かれた様な破れ方をしていたらしい。重機並のパワーを持つ人間って、ゴリラなんじゃないかな?」
 ははは、と、新聞記事がちょっと小粋な冗談を飛ばしたのではないかと思うくらい爽やかに笑う雄二。
 その隣に座る法子は、「もう、あなたったら。そんなのいるわけないじゃない。新聞が少し大げさに書いただけよ」と現実的な言葉を口にする。
 その当事者である春久と、春久がやったことを知っている蘭は、その会話に参加せず黙り込んでいた。
「ねえねえハルくん、ハルくんはどう思う?」
 あずさが春久に視線を向ける。春久はハムエッグをトーストに乗せながら、
「さあな。法子おばさんの言う通り、大げさに書いてるだけだろ」
 そう言って、ハムエッグトーストを齧る春久。
「夢が無いなぁ……。正義の味方とかがいるんだよ、きっと! 最近、赤い影に悪事の邪魔された、みたいな噂多いしさ」
 まるで、テレビに好きなキャラクターが出て来た子供みたいにはしゃぐあずさ。そんな彼女を、法子が「静かにしなさい」と嗜める。
 春久は一人だけ、正義の味方という呼称を鼻で笑う。蘭はまったく無関心のようで、テレビを見ながら朝食を黙々と食べていた。
 御使天の所に居る時はろくな物を食べていなかった彼女にとって、桃井家の食卓は新鮮の極み。一ヶ月以上桃井家の味を食べているが、それでも未だに夢中だった。ディアボロでなかったら太っていただろうほどによく食べた。

  ■

 今日は休日だった。
 春久とあずさは、休日に何も予定が無い時は、店を手伝う事にしていた。最近では蘭も一緒だ。
 あずさと蘭は見た目がいいのを活かし、ホールで注文を取っている。そして春久は、菓子作りで重労働とされている生地を練ったりクリームを混ぜたりの作業を手伝っていた。
「……なんか、最近春久たくましくなったな?」
 キッチンの中、春久が練った生地を型抜きしてプレートの上に置いて行く雄二は、春久の体を見ながらそう呟いた。
「……体はあんまり変わった感じしないけどなぁ」
「気のせいっすよ」
 言いながら、春久は生地をこねて行く。人の手でやるというより、機械でやっているようなスピードで粉から塊になる。
「生地を練って、クリーム混ぜて、疲れた様子もない。やぁー、やっぱり若いってステキだね。俺なんかもう、ちょっと辛いもん」
「まだ若いっすよ、雄二おじさん」
「若いって言ってるのに、おじさんって呼ばれるのはなんだかなぁ……」
 苦笑して、雄二は他の作業に移る。ディアボロになった春久なら、一日中この作業をやっていても肉体は疲れないだろう。もっとも、心は疲れてしまうだろうが。
「蘭ちゃんが来てから、かな」
 突然、雄二が呟く様に言ったので、春久は「え、何がっすか」と聞き返した。
「いや、春久がたくましくなったの。前みたいに、疲れを見せなくなったっていうか」
「……そうすかね」ディアボロになったから、とは言えず、しかしなんと言っていいかもわからず、曖昧に頷くしかできなかった。
「もしかして、蘭ちゃんが好きとかか?」
「……おじさん、中学生じゃないんすから」
「あれ、違ったか?」
 腕を組んで、雄二は「なんか仲良さげに見えたから、当たってると思ったんだけどなぁ」と唇を尖らせる。
「俺と蘭は、……あー、なんつうか、ちょい気が合っただけっすよ」
「そうかぁ。仲いいのはいい事だ。だが、あずさの事もほっときすぎない様にな」
「……うっす」
 それだけ言うと、二人は無言の作業に戻った。しばらくの間はそれが続いたのだが、雄二が冷蔵庫を覗くと、「あ」の一言で沈黙が破られた。
「どうしたんすか?」
「いや、レモン汁を切らした。……そうだ、春久。あずさと買いに行ってくれないか?」
「俺一人で行きますよ、別に」
「いいから、いいから。最近あずさと二人きりってないだろ? 休憩代わりに、ちょっと寄り道してもいいからさ」
 まるで友人が女子と一緒に帰っているのを目撃した時みたいな、いやらしい笑みを浮かべる雄二。そんな彼に辟易とし、溜め息を吐いて、春久は「わかりましたよ」と言ってエプロンを脱ぎ捨てると、ホールへ出た。
 そして、接客をしているあずさに「買い出し付き合ってくれ」と声をかける。明るい声で、「わかったー」と返事して、二人は店を出る。
 あずさは、店の制服であるエプロンドレスを着ていた。法子が、「どうせなら見てくれる人が楽しめる物を」と作った、ひらひらで可愛らしい服だ。当然、蘭もこれを着ている。制服がこれになってから、売り上げが倍増したという曰く付きだ。
 蘭もいるし、更なる倍増が見込めるかもしれない、と春久はこっそり思っていた。
「何買いに行くの?」
 あずさは、春久の顔を覗き込むように隣を歩きながらそう言った。もう毎日の様に繰り返しているその様に、春久は何の感慨も抱かないまま、「レモン汁」とだけ答えた。
「やっぱり消費早いなー。たくさん買ってった方がいいかな?」
「かもな」
 春久がそんなに話す方ではないので、いつも会話はあずさ発信が多い。今回もその例に漏れず、あずさが会話の主導権を握っていた。
「……そ、そういえばさー」
 だが、何故か今日のあずさは、珍しく歯切れが悪かった。いつも明朗快活に言いたい事はハッキリと言う彼女にしては珍しい事だ。春久は思わず、あずさの顔を見つめて「なんだよ」
「いや、二人きりって、久しぶりだなーって、思って」
「そうか?」
「そうだよっ。最近、料理研究会に呼ばれる事も増えて、ハルくんと一緒に帰ってないし……」
「もしかしたら、既成事実を作って、お前を料理研究会に引き込もうとしてるのかもな」
「それに最近、ハルくんは蘭さんと一緒にいるし……」
「桃井家に馴染めるよう気を使ってるのさ」
 はぐらかすような春久の態度が気に入らなかったのか、あずさは唇を尖らせて「ハルくんって、そういうんじゃないじゃん」と不機嫌さを露にした声色で言った。
「誰とも仲良くしようとしない人じゃん」
「仲良くしてるわけじゃないさ」
 決して、春久は蘭と友達になろうとか、恋人になろうとか、親しい関係になろうなんて考えてはいなかった。彼にとって、蘭は復讐の力をくれた存在であり、ある意味では母と言ってもよかった。それに、『復讐心』という、春久の根幹を、彼女も持ち合わせているから、今の蘭との関係があるのだ。
「……蘭さんと仲良くするのは嬉しい、けど。でも、なんか、違うよ」
「何がだよ」
「蘭さんがハルくんの友達になってくれるのは嬉しい。でも、ハルくんは、普通の人と友達になれない人だよ。……わかるよ」
 春久を一番見て来たあずさの言葉だから、春久は素直に聞いていた。これがあずさ以外から言われた言葉なら、きっと殴り飛ばしていただろう。
 けど、あずさの言葉だから。自分以上に自分を見て来た人間の言葉だから、春久は頷いた。
「でも、それでも、ハルくんは普通にならないとダメだよ。普通が一番だもん」
 そこまで言って、あずさは「あぁ……」と溜め息混じりに、額を軽く拳で叩いた。
「こんな事言うつもりじゃなかったのに……。ただ、久しぶりにハルくんと二人きりで、嬉しいよって言いたかっただけなのに」
「気にすんなよ。俺は、お前から何言われたって怒りゃしねえって」
 それは春久にとって、あずさがどうあっても怒れない存在だからという意味だった。大事だから、そして、いつでも彼女の言葉が正しいから、という意味だった。
 だが、それをどう受け取ったのか、あずさの顔が真っ赤になった。
「それって、私が、どうでもいいってこと?」
 あずさの瞳を濡らす涙。春久は思わず驚いた。彼女が泣く場面なんて、久しぶりに見たから。最後に見たのは、春久達がまだ小学生の時、春久の家族の葬儀の最中だったから。その瞬間を思い出してしまい、春久はとっさに「違う」と言えなかった。
 だから、あずさが走り出すのを止められなかった。
「おいっ!」
 その背中に手を伸ばす。だが、あずさはその手も、声も、まったく気にせず走って行った。ディアボロの脚力なら追いつける。春久は走り出そうとした瞬間、頭の中にけたたましいコール音が鳴り響いた。
 蘭か、肝心な時に、と悪態を吐きながら、春久は鳴り響くコールを止めた。
『なんだ! 今こっちは忙しい——』
『見てたからそれは承知なんですけどねぇ、ちょっとあたくしの話を聞いてくれます?』
 その声は蘭じゃなかった。見知らぬ男の物だ。妙にハスキーだが、誇張した女言葉。
『誰だ、てめえ』
『あたくしは、あなたと同じディアボロの『アルメ』って言うの。……最近あなた、はしゃぎ回ってるみたいじゃなぁーい? ちょっとオシオキしに来たのよ』
『後にしろッ!!』
 春久の激昂した叫びに、アルメは少しだけ黙った。だが、それは怯えから来るものではなかったらしく、『うふふ』と気味の悪い笑い声が帰ってきた。
『あなた、相当あの子が大事みたいねぇ……。なら、こうしましょ? あたくしは今から、あたくしの能力であの子を殺すわ』
 春久の頭から、一切の思考が消し飛んだ。怒りという名の爆発。そして、その爆発は足の筋力に宿り、春久は弾丸の様に走り出した。
『てめえッ!! あずさに手を出したら殺すぞッ!!』
『やめてよねぇ……。耳が痛いじゃなぁい? それに、話は最後まで聞きなさいよ。あたくしは弱いわよ、……まぁ、人間なら殺せるけど、ディアボロとしては下の下でしょうねえ』
『なら、すぐに殺してやる!!』
『できるかしらねぇ……』
 自分を弱いと言っておきながら、その口調は、春久をまったく脅威とは思っていない物だった。元々、感情を抑える性格をしていない春久である。アルメの口車に、面白いほど乗せられていた。
『けどあなた、知らないのかしら? 強いヤツにだって弱い部分はあるし、弱いヤツにだって強い部分はある。弱いヤツは、いかにして弱みに自分の強みをぶつけるかを考える物よ。殺す殺すって、動物じゃないんだから、そんなんじゃあたくしには勝てないわよ』
 それじゃ、また後で。
 それだけ言うと、アルメからの通信は切れた。だが、すでに春久は彼の声なんて聞いていなかった。アルメを殺す事だけ考えている彼は、すでに殺人兵器と言ってもいい。
 人の心は、今この瞬間、忘れ去られていた。

     

 春久は走った。
 もうあずさは見失ってしまったけれど、それでも走った。見失うだけなら、いい。けれど、本当に失うわけにはいかない。
 あずさは春久にとって最後の砦。自分が人間でいる為の、最後の砦。
 復讐に身を焦がし、心を悪魔に売ったとしても、春久が人間である為にあずさの存在は必要だった。人間としての春久を、唯一知っている存在だから。
「どこだっ!! あずさぁ!!」
 あらんかぎりの声で、春久は叫んだ。しん、と静寂が耳に返ってきて、春久は違和感を抱いた。
 夕方の——主婦が買い物をしていたり、帰宅途中のサラリーマンがいたりする商店街で、何故こんなにも静かなんだ、と。
 周囲を見れば、みんなが春久を見ていた。
 別にそれ自体は大した事じゃない。何せ、往来で叫んだのだ。見られる事は当然。
 けれど、それは一瞬で終わるはず。
 なのに今、春久の周囲の人間は、立ち止まって、ジッと春久を見ていた。
「あぁ?」
 春久の出で立ちで、ジッと見られる事はそう無い。金髪でピアス。人殺しも辞さないような目つき。普通の人間なら一瞬見て、すぐ目を逸らす。
 負けじと、春久も彼らを見つめ返す。そんな彼らの表情には、感情が無かった。生きていれば誰にでもあるその輝きがない。
 まるで、ホラー映画のワンシーン。ゾンビに囲まれた様な不気味さ。
 そう思っていたら、彼らは春久が美味そうな肉にでも見えたのか、突然襲いかかってきた。
 両手を前に出し、春久に掴みかかろうとしているのだろう。
「アルメの能力か——!?」
 春久は、変身のモーションを取る。両手をクロスにし、解き放ち、叫ぶ。
「変ッ、身!!」
 春久の姿が、変わる。
 春久という人間から、フェイクマンという化け物へ。
 膝を曲げて、ジャンプする。
 人ごみを飛び越え、フェイクマンを狙っていた集団から離脱する。視線が追いかけてくるが、気にしない。とにかく、まずは商店街から抜け出す事が先決だった。
 人を殴るわけにはいかない。
 だが、おそらくはアルメに操られている以上、さらに追いつめられる状況もあり得る。そうなれば、無力化しなくてはならないのだ。
 ——もっとも楽なのは、殺してしまうこと。
 そう思って、フェイクマンは頭を振った。
 俺は人間だ。
 まるで、そうなりたいと願う様に。魔法の呪文を唱えるみたいに。何度も何度も、心の中で願った。
『悲痛だわぁー……。そんなに人間に戻りたいのかしら?』
 どうやら、今まで喋っていなかっただけで、アルメとの回線は途切れていなかったらしい。
 アルメの言葉に、フェイクマンは『うるせぇ!!』と怒鳴った。
『てめぇ、どこにいやがんだ!! ぶっ殺してやるから出て来い!』
『そんな事言われて、出て行くわけないでしょう? それで出て行くのは、力に溺れたバカだけだわ。あたくしはね、さっきも言った通り弱いの。自分ができる事以上の事はしないわ』
『ご立派な論説だが、だとして、お前はどうやって俺を倒す気なんだよ』
『さっきの人達は見たかしらぁ? あれはね、あたくしの能力よ。普通の人間を操る事ができるっていう優れもの。弱いんなら、数を集めればいいって事ね。——それに、最近あなたの事は観察させてもらってたけど、ディアボロの力で人助けしてるみたいじゃなぁーい? そんな正義の味方が、一般人を攻撃できるわけないしぃ』
 くすくすと笑っていた。
 神経を逆撫でする、甲高い声。フェイクマンの苛立は加速していき、それと比例するみたいに走るスピードも高まる。
 商店街を抜けた所で、あずさの姿が見えた。
 エプロンドレスに身を包み、とぼとぼと歩いているその姿は見紛うはずもない。
「あず——」
 声をかけようとしたが、目の前に五人ほどの人間が立ちはだかる。主婦、サラリーマン、子供、老若男女揃っている。彼らは光の無い目でフェイクマンを見つめていた。
 また、ハードル走の要領でその人々を飛び越えようとしたが、頭上を掠めたあたりで足を掴まれ、離れる事に失敗し、再び囲まれてしまった。先ほどの事で学習させてしまったらしい。
 そして、先ほど飛び越えた連中もやってきて、フェイクマンを囲む。もう跳んでも脱出はできそうにない。
「退けよ……。退け、よッ!! 邪魔するんじゃねえ!!」
 フェイクマンの叫びは、誰にも届かない。
 周りの、操られている一般人達は、腕を伸ばし、フェイクマンに詰め寄る。
 どうするか、悩んだ。
 無意識に拳を握っていて、フェイクマンはやっとわかった。
 最近『正義の味方ごっこ』に凝っていて、自分を見失っていたと気付いた。
 決意が固まったのか、あるいは葛藤を脱ぎ捨てたのか、フェイクマンは何も躊躇わず、目の前の男を殴り飛ばした。
 力加減はきちんとできていたのか、ぴくぴくと痙攣している。死んでいるわけではなく、気絶しているだけらしい。
『へぇー? あなた、一般人を傷つけてもいいわけ?』
『俺ぁ、別に正義の味方じゃねえって事を思い出したんだよ』
 確かに人助けだってした。
 けど、それはただ力を使いたかっただけで、決して人が喜ぶ顔が見たかったからとか、役立ちたかったからとかではない。
「退かねえんなら、マジで殺してやるぞ!!」
 だが、その叫びも、彼らは無視する。それはフェイクマンがした、最後の警告だったのだが、彼らはアルメに操られているからか、その言葉を聞いていない。
「ちっ——。怪我しても知らねえぞ!!」
 フェイクマンは、全身にエネルギーを溜める。
 彼の能力は、自分の心が発した感情のエネルギーを具現化する物。
 イメージはスプリンクラー。できるだけ広範囲、かつ低威力である事。全身から、エネルギーが吹き出すイメージを作り、イメージは現実になる。
 フェイクマンの体から吹き出した心のエネルギーが、周囲の人間を吹っ飛ばした。
『やぁーっぱり、一般人じゃディアボロには勝てないのねぇー』
 わかりきっていたという様に、笑い声の混じった声がフェイクマンの脳裏に響く。
『あの子なら、そこから先の公園にいるわよぉ』
 何故かあずさの場所まで教えるアルメに、少し不信感を抱いたけれど、それでも行くしかない。
 フェイクマンは走り、近くの公園へと辿り着く。
 そこは、かつてあずさと遊び回った場所。まだ春久が弱かった時、あずさに振り回された場所。
 その中心に、あずさが立っていた。
 フェイクマンの姿で彼女に駆け寄ってもいいのかと少し迷ったが、結局、フェイクマンのまま彼女へ近づいた。
「あず——」
 さ、と。彼女の名前を呼ぼうとした。
 しかし、その瞬間、彼女は手に持っていた果物ナイフで、フェイクマンの首筋を切ろうとした。
 当然、女子の力で、対ディアボロ用の物ならともかく、普通のナイフではディアボロに傷をつける事なんて出来ない。
「あずさ!?」
 思わず、フェイクマンはあずさの名を呼ぶ。彼女に刃を向けられるというのは、想定内だったとは言っても、相当のショックがあったらしく、フェイクマンの鼓動が跳ねる。
 あずさの瞳から輝きが失せていた。
 やはりと言うべきか、アルメに操られているらしい。
「あずさ! 目ぇ覚ませ!」
 叫ぶが、彼女は虚ろな目のまま、フェイクマンへとナイフを突き出すだけ。それが返事代わりだと言わんばかりに。
 それを、フェイクマンは正面から受け続ける。
 決して効かないが、心はそうもいかなかった。
 あずさがフェイクマンに——春久に——刃を向ける事は、どうあってもありえないと信じていたから。操られているとわかっていても、裏切られた様に感じてしまう。
「いじらしいわぁー……」
 突如聞こえたその声に、フェイクマンはあずさの向こうを見つめた。
 そこに立っていたのは、体に蜂の巣の様なハニカム型の穴が無数に空き、蜂の様な頭を持ったディアボロだった。
 やつがアルメだろう、と当たりをつけたフェイクマンが叫ぶ。
「てめぇ! あずさを元に戻せ!」
 だが、アルメはくすくすと笑い、「やぁよ」と言って、口元に手を添える。
「その子は人質よ? あたくしがあなたの様な強者にぶつける、強みってところかしら」
 人を小馬鹿にした様な態度に、フェイクマンの心が荒ぶって行く。
「俺はな……てめえみたいな、人質を取るタイプが一番嫌いなんだよ……! 卑怯ヤロー!!」
 まるで負け惜しみの様だ、とフェイクマンは思った。それでも、言わずにはいれない。拳が届かないなら、言葉で心に傷をつけるしかなかったから。
「うふふ……。卑怯なんていうのはね、戦略にハメられたバカが言う、負け犬専用の言葉なのよ……」
 本気でそう思っているらしいアルメの言葉からは、プライドが傷つけられた怒りはまったく無く、フェイクマンをあざ笑っている様な色さえ見え隠れする。
「今、その子の生き死には、あたくしの思う通りよ」
 そう言って、アルメは指を鳴らした。
 あずさはフェイクマンへの攻撃を止め、持っていたナイフを自分の首筋へとあてがう。
「やめっ——、やめろ!!」
 叫ぶが、あずさにその声は届かない。ナイフを首に添えたまま、淀んだ目でフェイクマンを見つめている。
「うふ……うふ、ふふふふッ!! あーっはっはっはっはっは!! まったく傑作だわ! 復讐の為にはなんでも犠牲にする復讐鬼じゃなかったのかしらぁ!?」
 ここであずさを見捨てれば、アルメを倒す事なんて楽勝だろう。
 しかし、そのあずさを見捨てるという事が、フェイクマンにとって難しい。それは、人間である自分を完全に捨てるという事。口では『もう人間じゃない』と言っていても、人間という存在にしがみついているという事。
 俺は、口だけの男かよ……! と、フェイクマンは奥歯を食いしばった。岩でさえ噛み砕けそうな顎の力。
「結局! あんたはその程度って事なのよ! 人間をやめきれないヤツなんかに、ディアボロの力が使いこなせるもんですか!」
 歓喜の証か、アルメは大声で笑っていた。そして、それが落ち着くと、アルメは冷たく、低い声で、言った。
「自害なさい」
 意味がわからず、フェイクマンは「……なんだと?」と聞き返していた。
「その、あずさっていう子に平穏無事な生活をさせたいのなら、自害しなさい。「自分は復讐なんて大それた事はできない、人間を捨てられない、臆病な存在だ」と、悔しさを抱いて死になさい」
 その言葉を受けて、フェイクマンは自分でも意外なほど、自殺という道を選んでいた。
 手甲からエネルギーを固定化した刃を出現させ、自分の首に突き立てる。
「く——っ! あはははっ! あなた、よっぽどその子の事が大事なのねぇ! 迷いなく、自殺を選ぶなんて!」
 フェイクマンの怒りが膨れ上がる。それに比例するみたいに、刃が禍々しさを増して行く。フェイクマンの体から、赤黒いエネルギーが漏れ出す。怒りが、悔しさが、彼の力を増しているのだ。
 それを見て、アルメは人知れず背中に冷たい汗を流していた。
 まるで世界すべてを飲み込んであまりある濁流。人間と言うにはあまりにも強大で、化け物と言うにはあまりにも純粋すぎる力の奔流。
 フェイクマンには、口が裂けても言わないが、『ここで殺せてよかった』と、そう思った。
 ディアボロになって世界平和など考えもしなかったけれど、フェイクマンはまず間違いなく、世界を殺せるほどの力を持っていると、そう思った。
 力があっても、心が弱いなら、いくらでも付け込める。
「さぁ、死になさい! 自分の心を、人間を捨てきれない覚悟の甘さを、役立たずの宝物を持った事を、生きてきた時間の無意味さを、自分のすべてを後悔しながら、その刃で自分の命を断ち切りなさいッ!!」
 アルメは焦っていた。
 自分に絶対的有利でありながら、フェイクマンが見せた力に恐怖したからだ。
 もう見るのも嫌で、早くこの世から消え去ってほしかったから。
「く、そがぁ……!!」
 死を受け入れる覚悟はできた。
 勢いをつける為に、刃を引く。
 勝利を確信したアルメは、安堵の笑みを浮かべる。
 だが、それは彼自身がもっとも警戒していた、『弱み』でしかない。

「勝ち誇った人間が、最も弱いのよ」

 後ろから声が聞こえてきた時は、遅かった。
 無数の機械が、アルメの体を貫いていた。
 自らの腹から飛び出す工具類に驚きながら、アルメは後ろを肩越しに見る。
 立っていたのは、蘭が変身した姿——ブランシェだった。
 彼女の背から生えた無数の機械の翼が、アルメの体を貫いていたのだ。
「も、もう一体、居たなんて——」
 アルメの体から、力が——生きていく為の気力が——抜けて行く。
 膝を突き、体を地面に預け、彼の体は、白い砂になって崩壊した。
 それと同時にあずさも解放されたのか、あずさの体もまた、アルメと同じように倒れた。
「お、お前、なんでここに……」
 フェイクマンは、変身を解き、春久に戻った。
 ブランシェも蘭へと戻り、前髪を掻きあげる。
「前も言ったでしょ。あなたは私の切り札だから、変身したらわかる様になってるし、状況は逐一こっちに送られて来るって」
 呆れたような、あるいは、軽蔑した様な視線を春久へと向ける蘭。
「……そういうことかよ。だったら、もっと早く来てくれよ」
「悪いんだけど、ブランシェはあくまでディアボロのメンテナンス用だから、戦闘能力はあまり高くないの。一撃で仕留めなきゃならないから、やつが油断するタイミングまで手出しできなかったし、ね」
 春久は舌打ちして、あずさを抱き上げる。規則正しく寝息を立てているので、生きている事は間違いないらしく、安心した様に溜め息を吐く。
 蘭はそんな彼に近づくと、春久の頬を平手打ちした。
 ぱちん、といい破裂音が周囲に鳴り響く。ディアボロ化した春久にとって、痛みはまるでなかったけれど、先ほどあずさにナイフを向けられていた様に、彼の心はそうもいかない。
「ハルヒサ、あなた。自分の存在をわかってるの?」
 以前にも言われた言葉。
 だが、今度は何も言う事ができなかった。わかっていなかったのだ。春久は、自分がどういう存在かを。だからこういう事になった。
「あなたは復讐鬼なんじゃなかったの!? 人間を捨てて、ディアボロを殺すんでしょ……。それがこのありさまなんて、情けないと思わない!?」
 そう言って、蘭は踵を返し、公園から出て行った。
 何も言えないし、追いかける気にもならなかった。
「ん……、あれぇ……?」
 蘭の大声で意識が目覚めたのか、あずさは目をこすり、きょろきょろと辺りを見回す。
「なんで、ハルくんに抱きかかえられてるの……? っていうか、ハルくん——」
 あずさは、春久の顔を純粋な目で見つめて、言った。
「——なんで、泣いてるの?」
 両親が死んで以来流していなかった涙を流している事になんて気付かなかった春久は、その言葉で初めて、自分が涙を流していると気付いた。
 その理由は、涙の源泉は、わからないまま。

     


 目覚めたあずさには、「突然倒れた。具合が悪くなったんだろう。無理はするな」と伝え、家に帰した。
 そして、頼まれた買い物を済ませて、春久は家に戻り、無心のまま仕事をこなした。何も考えたくない時は毎日続けているルーチンワークがあると助かる物で、その時は自分が落ち込んでいた事を忘れる事ができた。
 だが、仕事が終わると嫌でも思い出してしまう。
 そうなると、春久はいつも以上に憮然とした態度になってしまい、桃井家の食卓は空気があまりよくない事になった。
 蘭もそんな態度だったのだから、当然だろう。
 二人が口を開いたのは、あずさが「二人とも、何かあったの?」と訊いた時くらいで、その原因を話す訳にもいかず、二人して誤摩化した。

 そして翌日、学校でも、春久は上の空だった。しかし誰も彼には話しかけないので、それが気付かれる事はなかった。
 気付いているのは、あずさだけ。だが、その彼女も蘭との喧嘩が原因なのだろうと思っているので、春久の気落ちがどこから来るのか本当にわかっている人間は、いなかった。
 春久自身、わかっていないのだ。自分が何故落ち込んでいるのかなんて。
 ただ、蘭から言われた『あなた、自分の存在をわかってるの?』という言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
 春久はもう人間ではない。『ディアボロ』だ。そして、『復讐鬼』だ。それはわかっているのに、蘭の言葉に何も言い返す事はできなかった。
 覚悟が足りないのだ、と。春久はそう思っているけれど、納得ができない。納得しなくては先に進めない。
 まだ、何か足りない。

 延々そんな事を考えて、結局春久は答えを出せないまま、下校時刻になった。
 さすが付き合いの長い幼馴染というべきか、あずさは悩んでいるらしい春久に何も話しかけないまま、教室からいなくなっていた。
 まっすぐ帰る気にもならず、春久はなんとなく遠回りをして、アテも無く歩いた。
 このままどこへでも行ってしまいたいような気分だったが、帰らなくてはならない。
 ぶらぶらと歩く事が現実逃避だと気付いた春久は、自嘲気味に笑って、家の方へとつま先を向けた。
 その急な方向転換がよくなかったのか、後ろから歩いてきた通行人とぶつかってしまった。
「わぶっ!」
 そんな大げさな悲鳴を上げて、春久とぶつかった通行人の少女は、尻餅をついた。
「すまん。大丈夫か」
 手を差し伸べる春久。
 少女は、その手を取り、「悪いね」と歯を見せて笑う。
 どうやら春久と同じ高校らしく、まだ真新しいセーラー服を着ているので、後輩であると察する事ができた。彼女は、セーラー服を払いながら、「いやぁ、ごめんねー」と笑った。口元からは八重歯が覗いていた。その所為か、少年の様な腕白さとあどけなさを感じる。
 猫みたいに丸い瞳は燦々と輝いていて、活気に満ちあふれていて、その瞳に見つめられた春久は、少し気後れしてしまう。
 髪は、赤に近い茶髪のショートカット。クセっ毛なのか、あっちこっちに好き勝手跳ねている。
「あれ? ……なーんか、見た事ある人だなぁ」
 そう言って、少女は小柄な体でステップを踏みながら、春久の周りをぐるぐると回った。
 一周すると、「あ!」と口を丸く開いて、春久を指差した。
「もしかして、島津先輩!?」
 その無遠慮に大きな声で、少し気分を害し、春久はぶっきらぼうに「そうだが」と言った。先輩、という事は、やはり春久の後輩らしい。
「なんで俺の事を知ってる」
「そりゃ、有名っすもん。ウチの高校唯一の金髪でしょー。しかも、喧嘩も強いとかで?」
 春久が金髪にしているのは、誰も近づいて来ないからだ。
 家族を殺されてから目つきも悪くなって、頭も金髪なら、今にも人殺しをしそうな人相の悪い男ができあがる。そうなると、普通の人間は距離を置くものなのだが、中にはそれを『自分たちへの敵対行為』と取るヤンキー達も居る。
 春久の通う高校は、決してヤンキー校というわけではないのだが、それでも一定数はそういう存在がいて、春久を目の敵にしていたりする。
 特に、上級生のヤンキー達は春久の事を快く思っていない。今まで自分たちが築きあげた『学校で最も危険な人間』という評価をかっさらって行ったからだ。
「いやあ、先輩の噂はいろいろ聞いてますよ? こないだも、なんか二年のヤンキーにカツアゲされてた一年を助けたとかで」
 そんな事したっけ、と眉に皺を集める。それを見て、少女が「うわ、こわっ」と引きつった笑みを浮かべる。
 そしてやっと思い出した。おそらくは、バロンになった男子生徒、坂本吹馬との事だろう、と。
「そういえば先輩、知ってます? あのカツアゲしてたヤンキー、行方不明とかで」
「……それは知らなかったな」
 春久は、初めて『ディアボロとして死んだ人間が行方不明として処理される』という事を知って、少し驚いた。
 しかし、改めて考えてみれば当然の事だ。何せ、死体は砂になって消える。そうしたら、後は風に舞ってどこかへ行くだけだ。
「それで、お前の名前は」
 話をそらす様に、春久は目の前の少女を睨む。
「あー、申し遅れました。あたしは『静美緒(しずかみお)』っていいます!」
「そうか。静」
「やだなー、美緒でいいっすよ!」
 屈託なく笑う美緒を見て、春久は食卓に嫌いなメニューが出て来た子供のように、顔を険しくした。
 彼はこういう馴れ馴れしいタイプが、最も苦手なのだ。
「……はぁ。あのな、俺についての噂を流すのは勝手だが、それを俺に言うな。知った事じゃない」
 そう言って、春久は自宅へ向かって歩き出した。
 会話はそこで終わりで、美緒とも二度と会わないはずだったのに、何故か美緒は後ろをひょこひょことついてきた。
 最初は行く方向が一緒なのだろう、と思っていたが、数分ほど歩いて、故意についてきているのではと思い直し、肩越しに振り返り、美緒を睨む。
「……なんだお前は」
「え、何ってー。せっかく島津先輩と話すきっかけもできたし、もう少しお話したいなーって」
「迷惑だ」
 また前を向いて歩く。だが、そこまで言われても美緒は春久から離れて行く気配がなかった。
「でもー、島津先輩って、後輩の間じゃーちょっとした人気者なんですよ?」
「あぁ?」
 思わず、春久は立ち止まって、また美緒の方を向いた。彼女はそれをどう受け取ったのか、にこにこ笑いながら話を続ける。
「悪そうで、クールっぽいところがいい! みたいな子、多いんすよ。そこにこないだのカツアゲ事件でしょ? なんかもう、ヒーローみたいな?」
「……俺をヒーローって呼ぶな」
 少し、ムキになってしまった。声色が重たい。
 それを反省して、春久はまた前を向いて歩きだした。
 ヒーローとは、正義の為に戦う者の事で、決して自分の為に戦う人間の事ではない。それはどちらかと言えば悪の戦う理由であり、春久にとってのヒーロー像とはかけ離れていた。
 復讐の為に戦っているし、それ以外で戦うつもりなんてない。
 それ以外の気持ちを持ち込む事は、復讐という聖戦を汚す事。
 彼にとってそれは、聖書の言葉みたいに心へ深く刻み込まれていた。
「……島津先輩のキレるポイントがいまいちわかんないなぁー」
 後ろでぶつぶつ言いながら、他の話題を探しているのか、春久には話しかけてこなくなった。だがそれでもついてくる。
 一瞬、『変身して撒こうか』と考えたが、すぐにその考えは放り投げた。一般人の前で変身するのはできるだけ避けたい。正体がバレて、桃井家を心配させる事だけは、できるだけしたくないのだ。
「いつまで着いて来るつもりだ?」
「んー……。飽きるまで、もしくは、先輩が折れてくれるまで? どうですか、そこらでお茶でも?」
「ふざけろ。なんで俺がお前と茶ぁ飲まなきゃならねんだ」
「冷たいなぁー。なんでそう邪見にするんですかー。あたしって結構、レベル高いほうだと思いますけど?」
 春久は一瞬、レベルってなんだよと思ったが、すぐに見た目の事を言っているのかと気付いて、「知るか」と返事をする。
「……俺に興味を持つな。話かけるな」
 近寄るな、とも心の中で付け加えるが、美緒はよほどマイペースな性格なのか、歌うように「いーやでーっす」と春久の後ろから離れない。
「あのな、俺は今、イライラしてるんだ。頼むから一人にしてくれないか」
「それならカラオケでも行きます? ストレス解消なら、歌うのが一番ですよ!」
「はぁー……ッ」
 春久は強めの溜め息を吐いた。
 なんて譲らない女だ、と心の中で一人愚痴る。マイペースすぎて、春久では相手にならない。説得して引き離すのは無理だ。
「ちっ」
 舌打ちをすると、春久は決意を固める。情けないので、できるだけやりたくはなかったが、ここまで話の通じない相手だは仕方ない。
 立ち止まって、美緒が止まった事を確認する。
「あれ、どうしたんですか先輩?」
 そんな春久の行動に疑問を持った美緒は、首を傾げて春久の背中を見つめた。
 次の瞬間、春久は、思い切り地面を蹴って走った。
「あっ!」
 春久の思惑に気付いた時には、もう襲い。春久はすでに曲がり角を曲がって、美緒の視界から消えていた。
 彼が最後にと取っておいた切り札は、逃げるという事。負けを認めたみたいで、できるだけしたくはなかったが、あそこまでの女だと、負けを認めるしかない。
 春久はアルメにしてやられた時の様な敗北感を胸の中で感じながら、ビルの路地に足を踏み入れた。
 その瞬間、首に何か引っかかるような圧迫感。そして首つりでもしたのかと思うような息苦しさ。
 終いには、突然の浮遊感に教われ、春久の体は宙へ浮いた。
「な——っ、んだ!」
 一瞬でそのビルの屋上へ釣り上げられて、その地面へと叩き付けられた。
「ごっほ……! ごほ!」
 咳き込む春久。そんな彼の頭上から、「ちっ……男かよ……」という声。
 見れば、そこにはいかにも真面目なサラリーマンといわんばかりの、スーツを着た男が立っていた。フレームの無いメガネをかけて、新社会人というフレッシュさを全身で表現しているが、その表情は苛立っていた。
「な、んだ、これ——」
 春久の首元には、白い糸が何重にも巻き付いて、荒縄の様になっていた。
「うっぜ。死ね」
 首元の糸は、男の手に握られた先端と繋がっていたらしく、男がそれを引くと、春久の体は貯水タンクへ向かって飛ぶ。
 こんな物、こんな力、ディアボロでなくては使えない。
 春久は空中で、ポーズを取る。そうすると、スイッチが入ったみたいに精神が集中して、スムーズに変身できるのだ。
 両手をクロスさせ、それを、解き放つ。
「変——身ッ!!」
 空中でフェイクマンへの変身を終えて、貯水タンクに体を叩き付けられる前に足を当て、膝を屈伸させることで衝撃を吸収。無事に着地する。
「ちっ……んだよ。男で、しかもディアボロかよ。わり、俺の専門は人間の女なんだよね。捕まえて悪かったよ」
 肩を竦めるスーツの男。
「……女を狙って殺してるのか?」
 フェイクマンの言葉に、男は頷く。
「あぁ。そっちだって、人殺しとか、悪い事してんだろ? よくわかんねえ白衣のおっさんに、この力貰ってさ」
「……そうか」
 フェイクマンは頷いて、首の糸を思い切り引っ張った。先端は男が握っているので、男がフェイクマンへ向かって飛んで来る事になる。
「死ぬのは、テメーだッ!!」
 拳にエネルギーを込める。先ほどの話で、怒りは充分に溜まっていた。どんなディアボロであっても、喰らえばただでは済まない一撃。
 喰らえば、の話だが。
「萎えるんだよな、お前みたいなの」
 男は、空中でさらに糸を引っ張った。急激に首を引っ張られた事で体勢を崩し、前のめりになるフェイクマン。
 その後ろに男は着地して、フェイクマンの背中を蹴っ飛ばした。
「ぐ——っ、ヤロォ!!」
 振り返り、ジャブを繰り出すフェイクマン。だが、男は二度ほどバックステップして距離を取り、「やめとけよ」と気だるげに言った。
「俺はディアボロとやるのとか、めんどくさくて嫌いなんだよね。お前がいい子ぶりたいディアボロだってのはわかったし、正直お前みたいなうぜーの嫌いだけど、それでも戦うのよりは面倒がなくていいから、見逃してやるって言ってんの」
 あくびをして、男は頭を掻く。
「……いい子ぶりたい?」
 何故か、フェイクマンはそこが気になった。だから口にしてみた。
 男は気だるげな様子を崩さないまま、呟く。
「ディアボロになったやつって、基本的に俺みたいにしてんだろ。犯罪とか。俺はさっきのお前みたいに、巣に引っかかった女を殺してるし。……あ、もしかして、お前もなんかやってる?」
 フェイクマンは何も答えなかった。
「……まあ、お前みたいなのも正直居たよ。二、三人は相手にしたかな。でもま、正義の味方ごっこなんだよね、正直さ。ディアボロって力を得ても活用できないっつーか。理解に苦しむぜ、マジで。これさえあれば、金に困ることもねえし、法律に縛られる必要もないんだぜ」
 自分の力の象徴はこの糸だ、と言わんばかりに、男は握っていた糸を見つめた。
「で、どうすんの。逃げるんなら、見逃すけど」
 春久は、鼻で笑う。
「逃げるわけには、いかない」
 美緒との会話は逃げた。あれはしょうがないが、ディアボロ相手となれば、逃げるわけにはいかない。
「俺はな、命を弄ぶヤツが嫌いなんだよ」
 男は、口を窄めて溜め息を吐く。まるで吐息を遠くへ飛ばす様に。
「オーケー、わかった。相手になるよ」
 そう言うと、男は自らの鼻を摘み、数回左右へ揺さぶる。そうすると男の体が、徐々に変化していく。
 腕が増えた。その数は八本。
 体は大きくなり、全身に薄い体毛。
 その姿はまんま蜘蛛だった。頭の形も、蜘蛛の様に頬から大きな牙が生えていた。
「名乗んなよ。俺はアレニエ」
「……フェイクマン」
 男——アレニエと、フェイクマンは互いに睨み合った。
 先手を打ったのは、アレニエの方だった。糸を思い切り引っ張り、フェイクマンを引き寄せる。さながら巨大魚の一本釣り。
 だが、釣り上げられたフェイクマンも、空中で自分の首から伸びる糸を引き、アレニエを引っ張り上げた。
 パワー勝負ではフェイクマンに分がある。二人は互いに空中へ舞い上がった。
 そのままフェイクマンは、先ほどの様にアレニエを引っ張った。今度は、引っ張られても体勢を崩さない様に糸をたゆませるように空いた方の手で持ち、引く力が体に伝わらない様にする。
 再び右拳にエネルギーを溜め、放つ。
 だが今度は、アレニエが違う糸を出し、地面に粘着させ、自身の体を引っ張り、フェイクマンの拳を躱す。
「残念でした」
 八本ある内の手を一本振り、フェイクマンを煽った。
「まだだぁ!!」
 フェイクマンは背中からエネルギーを噴出させ、いち早く地面に降りたアレニエに向かって、拳を振り下ろした。
 まるで隕石のような一撃。
 だが、そんな適当に追いかけただけのような一撃が当たるわけもなく、屋上を陥没させただけに終わる。
「当たらないんだな、それも」
 フェイクマンは、さらに拳を突き出す。
 だが、それは八本の腕に阻まれ、両拳を掴まれてしまった。他の残った腕がフェイクマンの腹を突き刺し、フェイクマンを吹っ飛ばした。
「ぐっ——!!」
 そのダメージをなんとか堪えて、さらに追撃をしかけようとする。
 だが、彼は「待った!」と手を一本突き出し、フェイクマンに静止を求めた。死ぬか生きるかの真剣勝負の最中、そんな事をされた経験がなく、思わずフェイクマンは立ち止まってしまった。
「誰かが巣に引っかかった!」
 嬉しそうに、アレニエは腕を一本掲げて、ビルの下から人間を引き上げたはずだった。
 フェイクマンは、引き上げられた物を見て、『黒い』だった。黒い影が屋上に飛んできて、それが綺麗に着地を決めた。
 黒いエナメルの様なテラテラと光るチューブトップスーツと、タイトなスカートとブーツに網タイツを穿き、頭には口元以外を隠すヘルメット。すべて黒光りした色をしているが、首に巻いた長いマフラーだけは、赤い色をしていた。
 その女は、自分の足に巻かれた糸を視線で辿り、自分を引っ掛けたのはアレニエである事を察する。
「……あんたが」
 そう言って、黒い女はどこから取り出したのか、手品みたいにいつの間にかクナイを握っていた。
「ちょい待ち、ストップ! あんた、ディアボロだろ?」
 アレニエが、先ほどフェイクマンにしたように、手を前に押し出してその黒い女を止める。
「そう。名前はエスピオン」
 低い声を出し、じりじりとアレニエへ距離を詰める黒い女——エスピオン。
「そこの、フェイクマンとかいうやつにも言ったけどさ、俺はディアボロとやんのイヤなんだよ。普通の女だけ殺してーの。正直めんどくせーしさ。……そういうわけで、見逃すから、どっか行ってくんない?」
 エスピオンは、ちらりとフェイクマンを一瞥。
 何を見たのか、すぐにフェイクマンから視線を外し、またアレニエへと歩を進める。
「ちっ……。今日はついてねえなぁ」
 アレニエはフェイクマンとエスピオンに絡み付いた糸を引っ張った。その二人が、空中で激突するはずだったが、エスピオンは持っていたクナイで、自らの足首に巻かれた糸を断ち切った。
「——はぁ!? お、俺の糸を切りやがった!」
 よほど信じられない事だったのか、アレニエは叫んだ。
 エスピオンは空中に舞い上げられるも、フェイクマンの肩に乗り、アレニエへと跳ぶ。
「はぁ——ッ!」
 そのまま、跳び蹴りをアレニエへ浴びせる。だが、それは掴まれてしまい、地面に叩き付けられる。
「か——ぁ、ッ」
 息が口から漏れる。
 だが、すぐにエスピオンは立ち上がり、アレニエからの追撃を躱した。
 距離を取ると、今度はクナイではなく、巨大な手裏剣を取り出した。
 そして、アレニエへ向かって走り出す。
 驚くべきはそのスピードだ。一瞬姿が消えたかと思いきや、次の瞬間にはエスピオンが三人に増えている。
 分身が可能なほどのスピード。アレニエだけでなく、フェイクマンも驚いていた。
「やろ——ッ!!」
 だが、それを迎撃できるだけの腕はある。アレニエはその三体全員を捕まえようと、八本ある腕を伸ばした。
 だが、三人全員、その腕がすり抜けた。
 全員分身。
 なら本物はどこへ行った? アレニエは本能的に上を見た。
 だが、そこには居ない。
「……残念でした」
 背後からの一撃。腹から伸びる刃。
 それだけで、あぁ、後ろに立っていたんだな、とアレニエは察したが、それはもう遅く、彼の体は砂になってこぼれ落ちた。
 その砂を間に挟み、フェイクマンとエスピオンが向かい合う。
 フェイクマンが考える事は、あのスピードをどうやって捕らえるかという事。
 パワーはそれなりに自信があるけれど、それだって当たらなくては意味がない。
「……ムカついたからやっちゃったけど」
 フェイクマンが戦略を練っていると、突然、エスピオンが呟いた。
「このディアボロ、悪い人だったんだよね? なんか、女を殺すとか気色悪い事言ってたし」
「あ、あぁ……?」曖昧に頷くフェイクマン。
「よかったぁー。いい人殺しちゃったんじゃ悪いもんね。……悪い人と戦ってたってことは、いい人?」
 フェイクマンを指差すエスピオン。
「まあ、犯罪をするつもりはないが……」
 この独特のマイペース加減、どこか覚えがある。
 そう思ったら芋づる式に、一人の人物がフェイクマンの脳裏をよぎった。
「んじゃー、あたしはこれで! 先輩探さなきゃならないしー」
 その言葉で、フェイクマンは正体がわかった。
 まさかとは思ったけれど、確定的で、すぐにその名を叫ぶ。
「お前、まさか、美緒か!?」
 屋上から飛び降りようとしていたのか、隣のビルに飛び移ろうとしていたのか定かではないが、体重移動の姿勢を取っていた彼女は固まって、ゆっくりとフェイクマンへと振り返る。
「……え、まさか、島津……先輩……?」
 ヘルメットの所為で口元しか見えないが、エスピオンの表情は、強ばっているらしかった。

     

 エスピオンが変身を解いたその姿は、確かに静美緒だった。
 あの、今時の女子高生と言われればその姿を思い出さずにはいられない、静美緒だった。
 春久は蘭と自分以外で、人間を殺さないディアボロなんて見たのは初めてだったので、動揺した。そして、どれだけディアボロという力が広まっているのか、と恐ろしくもなった。
「いやぁ、先輩もディアボロだったんですねぇ。なんか、もっと親近感抱いちゃいましたよっ」
 近くの喫茶店に入った春久と美緒は、向かい合って座っていた。できるだけ目立たない席を指定し、春久はコーヒー、美緒はチョコレートパフェを頼んだ。
「……お前がまさか、ディアボロとはな。想像もしなかったよ」
 春久はコーヒーで唇を濡らす。
「そんなのあたしもですよ。……いつからディアボロだったんですか? もしかして、喧嘩が強かったのって、ディアボロになったから?」
 あまり興味は無いらしく、美緒はチョコレートパフェを、柄の長いスプーンでほじくりながら、いい混ざり具合になったところで、口に運んだ。
「俺は、一ヶ月くらい前だ」
「……もしかして、行方不明になったヤンキーって、ディアボロだったりします?」
 春久は頷いた。
「あぁ。俺が殺した」
 一瞬、春久は美緒に引かれると思った。だが、先ほど美緒もディアボロを一体倒しているからなのか、彼女は「どーせ悪い事してたんでしょー? ならいいんじゃないすか?」と、変わらない笑顔を春久に向けた。
「……お前、ディアボロになって、何をしてきたんだ? 俺は今まで、三体——アレニエを含めりゃ四体か。ディアボロになった連中は、基本的に好き勝手やってたぜ。人を襲ってたやつもいたしな」
「……それってかっこいいですか?」
 目を丸くして、首を傾げる美緒。まるで、ビールが美味いか尋ねる子供の様。
「さあな。そういう考え方はしたことねえ」
「あたしは考えるんですよ。……たとえば、ディアボロになったから、とりあえず人殺してみよう。……かっこいいですか?」
「さ、さあ」
 あまりにも独特な価値観を披露されて、春久はなんと言っていいのか言葉が見つからなかった。短い言葉を紡ぐのが精一杯。
「あたしはねー、そういうのヤなんですよね。だって、それって自分が弱いって言ってる証拠ですよ? せっかく強い力を持ったのに、弱い人相手にしてどうするんですか。いい人殺してどうするんですか? この力を持った意味がないじゃないすか」
「……なるほどね」
「んまぁー、そういうわけで、別段ディアボロになったからって特に何かしてたわけじゃないっすねー。ディアボロと戦ったのも、今日が初めてでしたし?」
「それにしちゃ、手慣れてた様に見えたがな」
「んやー、相手との相性がよかったんすよ。クナイで糸が切れたし?」
 絶対に、何があっても口にしないが、春久は美緒が敵に回らなくて本当によかったと思った。
 スピードと武装。すべてが脅威だし、何より、美緒を見る目が変わっていた。『かっこよさ』にこだわる彼女のことを、面白いと思ったのだ。
「……でもそれなら、お前はなんで、ディアボロになったんだ? こんな力、目的がなきゃ、身につけたってしょうがねえだろ」
「んー……。それもかっこよかったから、っすかね? だって、普通の人は持ってないんでしょ? 悪い事しなくたって、便利に使えますしねー」
「お前な……。そんな軽い理由で、人間やめてんじゃねえぞ」
 春久は選べなかったからこそ、選べる人間にはキチンと選んでほしいと思ったし、できればディアボロになる人間なんて現れてほしくなかった。
「まあ、重たい理由じゃない事は認めるっすけど、人間やめた事って、そんなに重要ですか?」
「……そりゃ、重要だろ。俺らは人間として生きてきたし、周りはみんな人間で」
「んー……。いまいちわかんないっすけど、あたし的に、あたしはあたしだし、周りの友達も代わってないし、そりゃ人間じゃないけど、でも静美緒ではあるんですよ。ディアボロとか、人間とかじゃなくて、あたしは静美緒なんですよ。先輩だってそうでしょ? 先輩はディアボロじゃなくて、島津春久でしょ?」
 それを聞いて、春久は、「あぁ」と自然に口を開いていた。
 今まで喉の奥でつっかえていた物が、スッと腑に落ちたような感覚。
 蘭の、『あなたは自分の存在をわかっていない』という言葉。あれは、そういう意味だったのか、と。『自分の復讐の道具であることを忘れるな』ではなく、『あなたは島津春久なんだという事を忘れるな』という意味だったのか、と。
「……お前、いいヤツだな」
「えへへ。でしょっ。——ねえ、先輩」
「なんだ?」
 美緒は、制服のポケットからスマホを取り出し、それを春久に見せつける。
「アドレス、交換しましょ?」
 すっきりした事で気分がよかった春久は、意外にもそれを了承した。
「わかった。だが、俺はケータイの操作方法を知らんから、やってくれ」
 テーブルの上に自らのケータイを置く春久。そのケータイと、春久の顔を交互に見る美緒の顔は、何故か春久がディアボロだったと知った時より驚いているようにさえ見えた。
「……なんだ」
「え、いや、二つ、驚いた事が」
「……何を驚く事がある」
「まず、島津先輩がアドレス交換を普通にしてくれた事が一つ」
 俺の事をなんだと思ってる、と言いかけたが、確かに春久のケータイには桃井家の人物しかメモリーに入っていないので、やめた(蘭は思考会話ができるし、そもそもケータイを持っていない)。
「もう一つはなんだ」
「先輩のケータイ、古ッ……」
 春久のケータイはもう何世代も前の、ちょうどお財布ケータイなんかが流行り出した時の物で、頑丈さが売りの無骨なデザインが気に入ったので、それにしたのだ。
「中学の時から代わってないからな」
「うっひゃー……。未だにガラケー使ってる人とかいるんすねー。ウチの親だってスマホなのに。写メ取って、友達に送ってもいいすか?」
「ふざけんな」
 美緒は、春久のケータイを手に取り、操作して、自らのスマホと向かい合わせて赤外線通信をする。
 そうして、春久のケータイに、初めて家族以外のメモリーが登録される事になるのだった。

  ■

 美緒とはそれで別れ、春久は家に帰った。気分転換はばっちりだし、自分が探していた答えはもう見つかった。
 裏口から家に入ると、リビングにはあずさがいた。どうやら帰ってきてすぐ、部屋に戻らずリビングでゆっくりしていたらしく、ソファに体を預けていた。
「よう、あずさ」
「ん、あ、ハルくん」
 気まずそうに目を逸らすあずさ。昨日は倒れた事でそれどころではなくなったが、落ち着いた事で思い出したらしい。
「あー、隣、座るぞ」
 春久は返事を待たず、あずさの隣に腰を降ろした。
「……誤解を招いたみてーだが、俺は、お前の事をどうでもいいなんて思っちゃいねえ」
 あずさは黙ったままだ。
「むしろ、俺はお前に感謝してる。なんだかんだ、俺がここまでやってくれたのは、おじさんやおばさん、そんでお前がいたからだ」
 だからこそ、春久はあずさの言葉なら素直に聞く。
 あずさがいるからこそ、春久は強がっていられるのだ。それを自覚できる程度には、春久はあずさの事を大事に思っていた。
「あ、あはは……。なんか、照れるね」
 顔を赤くして、今度は照れから、春久を見ようとはしないあずさ。
「あの怒らないっていうのは、そういう意味だ。お前が、俺が怒るような事は言わないっていう信頼っつーか。……まあ、そういう感じだと思ってくれ」
「う、うん、……わかった。ハルくんが、そう思ってくれてたの、嬉しいよ」
 微笑むあずさを見て、春久は頷く。
「んじゃ、俺は部屋に戻るわ」
「あ、うん。わかった。……ごめんね、取り乱して」
「気にすんなよ。長い間一緒に暮らしてりゃ、こういう事もあるさ」
 立ち上がって、春久はリビングから出る。
 その廊下で、今度は蘭と出くわした。
「……あら」
 そういえば、蘭とも半ば喧嘩中だったな、と春久は思い返す。喧嘩というより、春久が怒られただけだったのだが。
「よう、蘭。お前こないだ、俺に『自分がどういう存在なのかわかってる?』って訊いたな」
「ええ。あなたは、ディアボロなんでしょ?」
「いや。ありゃ、間違いだ。……俺は俺だ。島津春久。それでいいんだ」
「……そうね」
 いたずらした子供を許す様な優しい笑みを浮かべ、蘭は春久の肩に手を置いた。
「あなたは『フェイクマン』だけど、『島津春久』でもある。人間であろうとする事は、忘れないで」
 自分がディアボロだとまず出て来た言葉。
 それは、落ちて行く事を意味する。それじゃあダメなのだ。たとえ人間でなくなったとしても、人間であろうとする意思がなければ、すぐにケダモノとなる。
 深淵へ落ちて行くとしても、その淵へ捕まる事をしなくてはならない。
 抵抗しなければ、人間としての自分が終わる。
「ああ。わかった」
 そうして、二人はすれ違い、蘭はリビングへ。春久は自分の部屋へと戻った。
 これで、彼を悩ませる当面の問題は片付いた。
 特にする事もないので、春久は部屋に戻ると、すぐベットに体を投げ出した。
 天井を眺めていると、すぐにうつらうつら意識がふらつき始める。
 だが、それは大きな音で、無理矢理均衡を保たれた。
「なっ、なんだ!?」
 思わず驚くが、音の出所はすぐにわかった。着ている制服のポケットに入れっぱなしだったケータイが、着信音を鳴らしているのだ。春久のケータイに着信が入る事など滅多にないので驚いてしまい、慌ててケータイを開く。
 そこには、『みおちゃん』という文字。
「あ、あの野郎……」
 春久がケータイの操作に不慣れなのを利用して、自分の登録名を好き勝手な物にしていたらしい。舌打ちをして、電話を取る。
「おいテメー。登録してる名前、なんだこれ」
『あ、どーも先輩。気に入りました?』
「気に入るわけねーだろ。お前、名前の漢字はどう書くんだ」
『うるさいか静かの『静』で、美緒は美しいに緒の『緒』ですよ』
 後で直しておこうと決意して、春久は「……それで、なんか用か」と話しを促す。
『あ、そうそう! 先輩って、明日暇ですか?』
 明日は土曜日である。つまり休日で、なんとスイートルージュも定休日だったりする。
「……まあ、暇だが」
『それなら遊びに行きましょうよ、遊び!』
 春久は、迷った。
 確かに美緒はいいヤツだし、悩んでいる春久に(そう意図はしていないとはいえ)的確なアドバイスをくれた恩があるし、それなりに面白いタイプだ。
 だが、苦手なタイプでもある。
 そうは思うが、島津春久は意外に律儀な男。
「わかった」
 了承したが、何故か美緒からとっさに返事が返って来なかった。
「……なんだ? どうした」
『い、いや。まさかオッケーされるとは……。先輩って、遊びに行くってキャラじゃないっすもん』
 少し不服ではあるが、美緒の言いたい事もわかるので、反論はしなかった。
「たまにはそういう気分になる時もある」
『そすかー。んじゃ、明日の、えーと……一二時に、駅前で!』
「わかった」
 電話を切ると、静寂で耳鳴りがする。美緒が騒がしいタイプなので、その静寂がいつもより染みる。
 春久は、とりあえず美緒に登録されたアドレス帳の名前を正しいものにしようと、ケータイを操作する。だが——
「——操作方法、わかんねえ……」
 春久にできるのは、メールの送受信と電話だけ。こうした操作は、すべてあずさに任せているのだ。
 ベットから降り、部屋を出て、リビングへ出る春久。
 そこでは、蘭とあずさが何やら話をしていたらしく、クッキーと紅茶でお茶会を開いていた。
「あれ、ハルくん、どしたの?」クッキーを摘みながら、きょとんと首を傾げて春久を見るあずさ。先ほどの事はもう気にしていないらしかった。
「いや、ケータイの操作方法がわかんねえんだ。悪いんだけど、このアドレス帳の名前、変更してくれねえか」
「うん、いいよ」
 あずさにケータイを手渡す。
「その、登録名が『みおちゃん』ってなってるヤツを、静美緒に変えてくれ。漢字は——」
「ん、あれ、ちょっと待って?」
 あずさが、少し渋い顔をする。
「なんだ」
「み、美緒、ちゃん?」
「そうだが」
「お、女の子?」
「ああ」
 いまいち要領を得ないので、「登録名変更、しちまってくれよ」と急かした。あずさはすぐに変更はしてくれたが、まだ何か言いたそうにしている。
「あ、それとな。俺、明日出かけるから」
「まさか、この美緒ちゃんって子と!?」
「ああ。……ま、晩飯までには帰る」
 あずさからケータイを返してもらって、春久は再び部屋に戻った。

       

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