“私には彼が理解出来なかった。”
『三番街区無差別猟奇殺害事件』に於いて、第一の加害者はそう言葉を残した。
その言葉から、私達は何を読み取ることが出来るのだろうか。
事の発端はソーシャル・ネットワークに於ける些細な行き違いであった。
一人の男が送信した発言がシステムの不具合により、
伝えるべきでない相手に送られ口論が生じた。
一見してみれば、それはありがちな手違いであり、単なるトラブルだ。
しかし、ある匿名の垂れ込みを切っ掛けに自体は悪化する。
彼に知らされた物は、彼の友人が自身の事業の失敗を彼に擦り付けようとした、
共謀に関するやり取りの記録。その事実を知った彼は友人を突き詰め、
友人はそれに対して彼が過去に行った不正の証拠を突き付けた。
“確かに俺はお前を騙したが、お前だって同罪だ。”
男は友人の言葉に狼狽した。友人は誰からその事実を知らされたのか、
何が目的で自分を貶めようとしているのか、自分はこれからどうなるのか。
そもそも、この男さえ居なければ、何事も知られずに済むのではないだろうか。
その時の彼には、冷静に考えを巡らせる余裕などなかったのだろう。
彼は条件反射にナイフを取り、勢いに任せて友人を刺した。
その事件と同じくして、複数の場所・端末で匿名の人物による情報漏洩、
成り済ましが行われる。暴かれていく嘘の数々、意思の疎通はすれ違い、
誰一人として信用出来る者は居ない。街の住人達は次第に疑心と憎悪に囚われ、
それぞれが疑いを持ち孤立する。
“自分を売ろうとしているのは誰か、騙そうとしているのは誰か、
もし彼が裏切ろうとしているなら、先手を打つべきか。”
彼等の内に芽生えた不安・怒り・恐れは積極的自衛という名を借りて、
彼等の殺意を助長する。残された理性を頼りに踏み止まる住人達の元に、
匿名者による一つの発言が送られる。
“勝者は全てを奪い去る。”
その一文に、彼等の内なる悪魔は囁いた。
如何なる手を打とうとも、勝者は全てを肯定される。
お前は敗者になるつもりか、裏切り者を吊るし上げろ、と。
そうして生じた争いは、動く者が居なくなるまで続けられる、
凄惨な様相を呈する物であった。
事件を通して、生き残った住人は語る。私達は、悪魔に憑かれていたのだ、と。
総死傷者数は一千人に上り、都市機能は完全に崩壊した。
先の事件から、私達は何を見るのか――。
・・・
そこでフレッドは区切りを付けて、手にした冊子から目を上げた。
彼が腰掛けるのは、彼とラリーの二人がよく訪れる喫茶店、
『赤い馬』のカウンター席の一つ。マスターの名はスタイン・ベック。
店の名は彼と同じ名前のある作家の作品から取ったものである。
木目調に統一された店内では客の姿は疎らであり、
正午を少し過ぎた窓際には昼の日差しが浅く射し込む。
「お勉強ですか?」
テーブルに頬杖を突きぼんやりと外の景色を眺める彼は、
その言葉に店内を振り返る。
そこには声の主と思われるウェイトレス姿の少女が一人。
彼女はこの店唯一の店員、シャーロット・マディソン。
馴染みの客は彼女を愛称である、ロッテと呼ぶ。
背丈はやや低く、腰まである黒髪は頭の後ろで一つに纏めている。
服装から見て取れる身体つきは魅惑的とは言い難いが、
比較的女性らしい丸みのあるラインである。
彼はそんな彼女を暫し見やり、“五十点”と呟いてカウンターに視線を戻す。
続いて片手にした冊子に栞を挟み、それをテーブルに置いて彼女に聞き返した。
「唯の暇潰しだって。……俺が固い本を読んでちゃおかしい?」
満面の笑みを浮かべ、ロッテは彼に答える。
「はい。だってエルマンさん、いつもは女の人を口説いてたり、
煙草吹かしたり、居眠りしてるばかりじゃないですか」
その答えに彼は目頭を抑えて眉根を寄せた。
「……あー、うん。確かにその通りだろうけど、
もうちょっと言い方があるでしょ?
例えば、理知的な言葉遊びに興じてるとか、感傷に浸ってるとかさ」
「ナンパして振られて自棄になっちゃうことを、そう言うんですか?」
懸命に弁明を試みるフレッドに、少女は小首を傾げてそう聞き返す。
彼女の切り返しにフレッドは片手で顔を覆い、
それから睨みを効かせてカウンターへと目を向けた。
「マスター、あまりに暇だからってロッテに変な入れ知恵仕込むのやめてくれ」
「んー……お前さん、そういうの好みだろ」
カウンターの奥でグラスを並べるマスターはその言葉に振り返り、
気だるげな声を上げ彼に答える。服装は白のワイシャツに黒のベストを着込み、
真紅のネクタイを締めた姿である。口許には僅かな皺を刻み、
灰色に近い髪は短く刈り上げる。
その見た目は壮年を少し過ぎた程の印象を形作っていた。
「罵られて善がるような趣味なんかねえよ……」
彼の答えにフレッドは深く溜息を吐き、頬杖を突いて二人から顔を背ける。
そんな男の態度マスターは肩を竦め、
ガラス製のコーヒーポットからカップに珈琲を注ぎ彼に差し出した。
「それにしては、まだ懲りずに玉砕してるそうじゃないか」
「……誰から聞いたんだよ」
フレッドは顔を顰めてコーヒーカップを手に取り、
マスターはグラスを拭きつつ目を瞑る。
「聞くも何も、相方がお決まりのように嘆いているよ。
あいつはまた仕事を放り出して師匠のケツを追っかけてる、と」
そう言ってマスターは片目を開けて彼を見やり、言葉を加えた。
「そうやって彼女にあしらわれるのを、楽しんでるんじゃないかね?」
彼の言葉にフレッドは押し黙り、目を逸らしてカップに口を付ける。
言葉に詰まるとはこのことか、マスターはグラスを拭く手を止め彼に言った。
「何時まで恋愛の真似事をするのかは知らないが、
抑えが効く内に答えを出すのも礼儀だと私は思うね」
窓の外をぼんやりと眺め、フレッドは彼の言葉を呟く。
「……恋愛の真似事か」
そうして彼は首を振り、口元を緩めてマスターに答えた。
「そんな大層なもんじゃねーよ」
彼の答えにマスターは片眉を上げ、拭き上げたグラスを棚に戻す。
暫くしてテーブル席の老人が席を立ち、
カウンターに向けて軽く手を振り出入り口へ足を運んだ。
マスターは彼に手を振り返し、扉を開けて店を出る老人を見送る。
扉に付けられた真鍮の呼び鈴が透き通る音を響かせ、
その余韻は幾らかの談笑に呑まれて消える。
ロッテはテーブルに残されたコーヒーカップをカウンターに下げ、
空いた椅子に腰を掛けると口に手を当て欠伸を掻いた。
それから暇潰しに辺りを眺め、フレッドの隣の空席に目を留めて彼女は尋ねる。
「あれ、そういえばヒューストンさんは一緒じゃないんですか?」
彼は珈琲を飲みつつ彼女の方に顔を向け、カップを置いて一つ頷いた。
「あぁ、あいつなら今頃上司に揉まれてるよ。……一ヶ月経って進展がないんだ、
そう簡単には返しちゃくれないだろうなぁ」
フレッドは苦い笑みを浮かべて目を逸らし、他人事のようにそう語る。
ロッテは彼の口振りに小首を傾げ、当然のように聞き返した。
「エルマンさんは一緒に行かなくて良かったんですか?」
「ん? 良い訳ないでしょ。逃げて来たの」
そう言って口の端を釣り上げるフレッドに対し、
ロッテは数度瞬きをしてマスターに目を向ける。
無言の尋ねにマスターは目を瞑って首を振り、宙を見上げて一言呟いた。
「……災難な男だな」