今回は、直接、新都社とは関係がないが、酒鬼薔薇聖斗の「絶歌」を取り上げたい。まず、「絶歌」についてであるが、ぼくは実は読んでない。読んでなくても内容の想像はつくので、あえて、ここで批判しておきたい。ぼくがここで批判するのは、酒鬼薔薇聖斗に対してではなく、出版社の姿勢についてである。太田出版は年間の売り上げが10億円くらいの小さな出版社である。で、「絶歌」は出版すれば殆ど、宣伝することなく売れることがわかるボロイ商売だったはずだ。更生したとは言え、酒鬼薔薇聖斗は少年時代に猟奇殺人を犯した人間である。そのような人物に出版の話を煽れば、それは遺族の意向を無視して出版に誘導されてしまうだろうな。
酒鬼薔薇聖斗は性的サディズムばかりが問題されるが、実はその点はあまり問題ではない。この性的サディズムは、男ならかなりの割合、このような傾向があるとぼくは思っており、「性的サディズム=サイコパス」とか言うのは「性欲がある男=レイプ魔」とか言ってんのと同じだと思っている。
酒鬼薔薇聖斗が問題だったのは、性的サディズムの方ではなく、「自分が何者かでなければならない。」という気持ちが異常に強く、その手段があまりにも短絡的だった点だと思う。
で、今回の絶歌出版でわかったことは、『「自分が何者かでなければならない。」という気持ちが異常に強く、その手段があまりにも短絡的だった点』は全く更生されていないらしいということである。
我々の社会の掟として、「何者かになる」ためには、例えば「才能」が要求される。これは神の意思として、世の中はそのようつくられているのだと思う。そして、今回の太田出版の行為はそのような掟を、破る行為であり、自分の人生と他人の人生を理不尽に破壊してしまえば、極めて簡単に「何者かになれる」可能性を提供してしまったという点で許されざる行為である。
確かに「絶歌」の内容そのものは犯罪を誘発するような記述はないのだろう。ただし、この出版行為自体が第2の酒鬼薔薇聖斗を生み出す目になりかねないのは確かだと思うぞ。