壁の中の賭博者
07.凍理先輩
なんだろう、面白おかしくて仕方が無い。
自分がやっていることが狂っているとわかっていながら、やめられない。
ただおかしくておかしくて顔が歪んでしまう。
くすくす笑いながら、僕は夜の学校の門を飛び越えた。
一度やってみたかった。
そうともいつだって願いは簡単に叶うのだ、望みさえすれば。
雨はもう、あがっていた。
(……樹畑!)
「ああ、分かってるよアキト」
僕は夜空に向かって答える。
くそったれな灰色の闇へ。
「分かってるんだ」
生徒用の下駄箱を素通りして、二階の来客用の入り口へと階段を上っていく。ここから入るのは初めてだ。両開きのガラスドアを開けて中に入る。
そこにはもう彼女が待っていた。
「……樹畑くん。来てくれたんだ」
微笑むミカヤはいつものミカヤ。
僕は軽く手を挙げて、その先にいる少女たちへと足を踏み出す。
一人はどこかで見たことがある。
そうだ、さっき僕を暴行して去っていった連中に混じっていた膝蹴りの姫だ。いまでも脇腹が痛む。
改造制服にツインテールのその少女は三白眼で僕を睨んでいた。
上履きには『双葉』と書いてある。
どうでもいい。
僕はそのツインテール少女の隣にいる、彼女の前に立った。
「どうも、凍理先輩」
「……君か」
黒髪白貌の生徒会長は、僕を見て少し悲しそうな顔をした。
「そうか、君がミカヤの……パートナーなのか」
「ええ、そういうことになります。驚きました?」
「かなり。……私はべつに君が関係者だと知って、声をかけたわけではないんだ」
僕の胸に、ズキリと何かが刺さる音がした。
「残念だ。君とは仲良くなれると思ってた……」
「そんなわけありません、お姉さま。こんなゴミ虫とお姉さまが懇意になるなど……」
「双葉」と凍理先輩がたしなめた。
「そういうことは、言ってはおけない」
「……ごめんなさい、お姉さま」
キッ、と双葉に睨まれる。まるで僕が悪いみたいだな、と思って微笑ましくなる。いいぞ、もっと僕から憎しみを買え。いくらでも売ってやる。
これから殺す相手の懐具合なんて心配していられるか。
「知り合いなんだ?」とミカヤが不満そうに言った。
「まさか三人グルであたしをカモってことは、ないよね?」
「ないよ」と僕は言った。
「僕は先輩を殺す」
「……なぜだい?」と凍理先輩は言った。
僕は答えなかった。逆に聞いた。
「先輩はなぜです。天使戦は相手が死ぬ。それはわかっていますよね」
「挑戦を受けたら逆らえないからな……まァ、アキトくんに勝負をしかけたのは私の方からだったけれど」
「なぜです?」
僕は言った。
「アキトを殺した以上、先輩は天国行きの切符を手に入れたはずです。そして候補者は切符を持っていてはいけない。切符がある相手にミカヤは挑戦できないはずなんです。教えてください、先輩。――なぜ切符を破棄したんですか?」
凍理先輩は、腕を組んで微笑んでいる。
「憐れだったから」
「憐れ……譲ったというわけですか、誰かに」
「違うさ」先輩は首を振った。
「私はね、錬。誰かが苦しんでいたり、苛まれたりしているのを見ると、可哀想で可哀想で仕方ないんだ。そして同時に思うんだ」
我が身を抱き締め、
「ああ――私が『彼』や『彼女』でなくてよかった、と」
「…………」
「私は誰かに憐れみを感じていないと安心できない。セーフティだという気分を味わえない。ああ、その気持ちのためなら、喜んで人を殺そう。誰かを崖から突き落とそう。自分の優位を確かめながら暮らしていきたい……これは人間なら、当たり前の感情だとは思わないか?」
「…………」
「錬、君になら分かるだろう?」
「分かりません」僕は言った。
「僕は、誰かを可哀想だと思ったことはないから」
僕の足元から、天使の顔が這い寄って来た。
それはふらつきながら壁へとせり上がり、高みから僕たちを見下ろした。
『それでは、よろしいですか? ゲームを始めましょう』
出現する卓と椅子と牌。僕たちはそれぞれ腰かける。天使が囁いた。
『よいゲームを』
僕たちは夜の校舎の片隅で卓を囲んだ。
窓の外から見える星空が恐ろしくなるほど明るい。
それはまるで異常な何かが、僕らの腐った運命にひたすら目を凝らしているように見えた……
「天に輝くもの全て悪」
ぽつり、と呟いた凍理先輩を僕は無視した。
僕の気持ちを代弁してくれる先輩。
それはつまり、僕の思考を読みかねないということだ。
僕はすでに人生を賭けた。
ミカヤもそうだし、あの双葉とかいう取り巻きも、凍理先輩もそうだ。
もう後には引けない。
どちらかがどちらかを破滅させるまでゲームは続く。
僕は絶対に先輩に心を許してはいけないのだ。
一瞬たりとも。
卓の座り順は反時計周りに、僕、双葉、凍理先輩、ミカヤになった。
僕たちは手牌を取った。それはいつもより多い。七枚あった。
『今回の<ゼロ>はタッグマッチ……そういうわけでアガリに必要なセットも二つになっています。なあに、ルールは以前と同じ。ただし牌が数牌九種各八枚の七十二枚・字牌八種各三枚の二十四牌、合わせて九十六枚に大増量! ……そして四点先取です。錬とミカヤ、凍理と双葉がそれぞれの陣営になり、どちらかの陣営が先に四回アガれば勝利となります。引きアガリでも出アガリでも結構。ですが出アガリの場合はそれで三点。ワクワクしますね』
僕はじっと手牌を見ていた。金の数字が彫られた黒牌。
13799苦闘
『そしてこれはタッグマッチなので、それをより強く際立たせるために特殊なルールを採用しています』
「それはなんだい」
凍理先輩が昨夜の夕飯でも尋ねるように気楽に言った。
天使が答える。
『それは、「他人の牌を奪える」、ということです』
「……ほう」
『たとえば13と錬が持っていたとします』
僕は手牌を見ながらドキリとした。コイツ、わざとか? しかし天使は澄ました顔をしている。
『そこにミカヤが2を捨てたとします。その時、錬は13と晒して2を取ることが出来ます』
「じゃあ、双葉が打った場合は?」
『奪えません。それは同じ陣営だからということではなく、数字の並びのセットを奪うのは自分の左手に座っているプレイヤーからしか出来ないからです』
「じゃあ、ミカヤは凍理先輩からなら数牌を奪えるのか」
『そうなります。そしてちょっと複雑なのですが、同じ数の重なり、たとえば99という牌を錬が持っていたとしたら、もう一枚9を誰かが打てばそれも奪えます。その場合は誰からでも奪えます。双葉からでも、凍理からでも』
僕は確信した。
コイツはわざとやっている。
コイツは僕の手牌が見えている。
ルールを把握しよう、冷静になろうと深呼吸すればするほど僕の中の怒りは燃え上がった。
殺してやるぞ、屑天使。神経磨り減る天使戦で余計な茶々を入れやがって。
僕は13799苦闘の手牌の縁をぎゅっと押さえつけた。
殺意が汗のように滲み出てくる。
「え……と」と僕は言った。
「それは、いつでもいいのかな。タイミングとかに条件は?」
『ありません。ゲームが始まり、打牌が行われたらこの捨て牌強奪……〈スチル〉は行えます。とにかくスチルとか、取るとか、盗むとか、発声して牌を倒せばオーケーです。細かいことは気にしません』
そうかよ。
僕はミカヤを見た。彼女も僕を見ている。
お互いに牌を融通し合えるということは、かなりのメリットだ。
無論、凍理先輩と双葉もやってくるから、そういう意味ではアドバンテージなどないのだけれど……
ちなみに、と天使の顔が卓の上をするりと横切った。
『仲間同士で手牌の情報を交換し合うのは厳禁です。相手が欲しい牌は自分で読みきってください。イカサマ行為が発覚した場合、私は私がこのゲームをどう采配するか分かりません』
「というと?」
『あなた方を見放すかもしれません』
よく言う。最初から見放しているようなものなのに。人間を愛しているなら天国の領地を増やせばいいんだ。
僕は舌打ちした。
『昔、堂々と仲間の手牌を覗き込んだ人間がいましてね。その時は笑ってゲームを進行させましたが、あまりにも酷くコクのない勝負になるので、以後禁止したのです』
「あっそ」
凍理先輩が何か考え込んでいる。
「……ちょっと質問がある、ミザリル」
『なんでしょう』
「たとえば双葉が〈ゾーン〉に入っている時、私が4を切ったとする」
双葉、と呼ばれたツインテールの少女は頬に白い手を当てポッと頬を赤く染めた。「いやん」とか言っている。凍理先輩が好きで好きで仕方ないらしい。
「その牌が双葉のアガリ牌だったとする」
『アガれますよ。ああ、仲間からの放銃……振込みは引きアガリと同じく一点です。敵陣営からの出アガリのみ三点』
「なんだ、後出し情報が多くて嫌になるな……まァいい、それで双葉がそれをアガらなかったとする」
『ええ?』天使は驚いていた。
『なんでそんなことを?』
「いいから……とにかく、それで私が切り終わり、ミカヤ君の番になる。そこでミカヤ君が4を切ったとする。双葉はそれでアガれるのか?」
『アガれません。それは自分が切った牌ではロンできない〈アンタッチャブル〉と同じ扱いになります。次の自分の切り番になるまで、その4では当たれません。ミカヤと錬が立て続けにその牌を切ったとしてもね』
「わかった……ありがとう、天使」
『我々は人間の味方ですから』
「嘘つきめ」僕は毒づいた。
「さっさと始めよう。四点先取……敵陣営からの直撃でも決まらない限りは、長期戦になる。眠くなる前には帰りたい」
「私は君となら、永遠にゲームをしていても構わないぞ?」
うっすら微笑む凍理先輩に僕は苦笑を返した。
「魅力的な提案ですが、お断りします。それと、あまり話しかけないでください」
「……傷つくなあ。嫌われたものだ」
「いえ、先輩を嫌いなのではなく。……殺し難くなりますから」
先輩はすっと背筋を伸ばした。
「君は甘いな」
「……さあ、どうですかね」
僕は天使が転がしてきたサイコロを手に取った。ジャンケンは廃止になったのだという。そのサイコロを振って、出た目が八なら振った僕から反時計周りに八数えた誰かから、ゲームを始めるようだ。僕はサイコロを振った。七。
対面の凍理先輩から、真夜中の天使戦は始まった。
僕の手牌は13799苦闘。これで七牌。最初に引いたのは悪牌だった。
アガリの形が二セット一ヘッドになった以上、すべて字牌の悪戦苦闘はアガリ系から排除されているらしい。
純粋に数牌を使った勝負……になると見せかけて、字牌で待つ、というのも当然アリ。
スチルもあるから手の進みも早くなるだろう。
残念ながらミカヤの第一打は苦牌……僕はそれを奪えなかった。
2か8を早めに打ってくれるといいのだが。しかし情報流通は禁止行為。それとない態度やモーションでもあの天使は僕を罰するだろう。そういう奴だ。気に喰わないとなれば全て滅する。何が天使だ。
だからミカヤには自力で2や8を打ってもらわないと困る。
僕からでは数字の並びではミカヤをスチルさせられない。
そういう座り順になっている。
左手にいる仲間――『トップ』というらしい。右手にいるプレイヤーは『アンダー』――から数字の並びでスチルできるのは僕と凍理先輩だけだ。
つまりこの勝負、僕と凍理先輩が主役に近い。
ミカヤと双葉のアガリは無くはないし、充分にありうるのだけど、奇襲の色が濃くなる。
どう考えてもスチルできる僕と凍理先輩が速い。
先輩の動向を注意しなければ。
凍理先輩――
今日知り合ったばかりの生徒会長。
けれど僕はずっと前から彼女のことを知っていた。
誰からも好かれる完璧な生徒会長。
まるで御伽噺の中から出てきたみたいな人だ。
そして人間はフィクションじみた人間を好む。
本当はそんな人間はいないのに、完璧な存在などありはしないのに。
実際にどうだ? 凍理先輩は狂っている。
アキトを殺し、無闇に天使戦を繰り返し、いたずらに犠牲者を増やしている、全方向から考えて言い逃れ出来ない人格破産者だ。
けれども誰もが彼女を支持した。
羨望と憧憬の眼差しで見た。
無論、僕もその一人だ。今でも憧れているかもしれない。
飾りに善悪は関係ない。
美しければそれでいい。
人は理解できない善人より理解できる悪人を好む。
もしギャラリーがこの場にいたら、敗北を望まれるのは僕だろう。
だが僕は負けない。負ければ死ぬのは僕だから。
もう僕は誰かの代行者じゃない。
天国行きの候補者だ。
……死んでたまるか。
「――4」
「スチル」
双葉の打牌に凍理先輩が反応した。
素早い動きで35の数牌を倒し、4を横に倒した状態で卓の縁にそれらを揃えて置く。
35牌が4の釘に刺されたような形だな、と僕は思った。
そしてぼんやり考える。
まず一手、リードされた。
くそっ。
『おやおや、これは慌ててしまいますねぇ、錬。気をつけてくださいね、放銃したら三点ですよぉ』
「楽しいか? 屑野郎」
天使はニヤニヤ笑っている。
「ふふっ……口が悪い男は嫌いじゃない」
「お姉さま、趣味が悪いですよ」
そうかな、とたしなめられながら凍理先輩は奪った牌の代わりにいらない牌を捨ててきた。
3。
奪ったら同じ数の牌を捨てなければアガリ形がおかしくなる。これは当然の処置。
それを見ながら、ミカヤが牌山に手を伸ばした。
「……アキトを殺したあなたが天国行きなんて許さない」
「君たちだって大勢殺してきただろ? 子供たちのためだとかなんとか言ってさ」凍理先輩が肩をすくめた。
「そう怒らないで欲しいな。私だって、好きで因果なサガを背負って生まれてきたわけじゃない」
「知ったことじゃない。復讐はする、後悔もさせる。それがあたしの決意」
「言葉は優しいね、口の端に上らせるだけで大抵のことは満足できる」
「…………」
触れれば石でも燃えそうな殺意充満の視線をたっぷりと凍理先輩に注いでから、ミカヤは牌を引き、一枚捨てた。
「――2!」
これは手を進めた結果からの一打か、それとも僕の手牌を察知したのか。いずれにせよ、ファインプレーだ。僕とミカヤの視線が絡み合う。ミカヤが微笑む。僕は頷いた。
「スチル!」
「……ほう」
凍理先輩が面白そうな声を上げ、ぐぬぬ、と双葉が歯軋りした。こっちはこっちで僕を殺してきそうな形相をしている。
構うものか。
僕は13牌を倒して、ミカヤの2を奪った。闘牌を捨てる。
僕の手牌は799悪(プラス、123・ミカヤからのスチル)。
「これで条件は同じ、ですね凍理先輩。僕もあなたもあと一セット一ヘッドだ」
「つまり、君はゾーンにはまだ入っていないのかな?」
「…………」
しまった。悟られたか? そう、確率的には高くないが、早い順目で一つスチルし、それでゾーン。そういうこともありうる。僕はあまりにも凍理先輩に見透かされるような言動を取ってしまったのかもしれない。もし……もし、僕の手が遅いということがバレれば、凍理先輩はこう呟くかもしれない。
まだアガりたくないなあ、と。
それなら手牌の通報にはならない。僕はアンダー(右手)に座っているツインテールの少女を見た。
この少女は嬉々として凍理先輩の意を汲み、凍理先輩のアガリ牌になりそうな牌は切らないだろう。
そうして僕らに順が帰ってくる。
ミカヤが放銃するかもしれない、僕が振るかもすれない。
そうすれば、敵陣営からの直撃三点……四点先取における三点の重みは、尋常じゃない。
僕は呼吸が乱れるのを感じた。心臓が脈拍を強め、痛みを発するようになる。破裂するんじゃないか? そんな気がした。
「すまない、怯えさせてしまったね」
凍理先輩が気の毒そうに言った。
「……可哀想に」
そのセリフに、
ゾッとする。
「……早く切ってくれ、君」
僕は双葉に言った。双葉はふん、と鼻を鳴らした。
「あんたに指図される覚えはないわ。私は私の考えたいように考えて、打ちたいように打つのよ」
『長考は感心しませんねぇ。明るく楽しくスムーズなゲーム進行を』
「何よ、壁天使」
べっと双葉がミザリルに舌を出し、牌を切った。これは1。鳴かせたかったのか、それともアガらせたくなかったのか。わからない、微妙なところ。
凍理先輩が二枚目の闘牌を切った。これは引いた牌をそのまま捨てたので、彼女の手牌は変化していない。助かったのか、それとも――
「最初からクライマックスだね」ミカヤが不敵に笑って、自分の牌を引く。
「嫌いじゃないよ、こういう展開」
「おや、天使戦は恐いんじゃなかったのかな?」と凍理先輩。
ミカヤは不機嫌そうに答えた。
「……やるとなったら一生懸命。あたしは一途なの」
「微妙に答えになってない気がする」と僕。
「うるさい」僕を睨むミカヤ。
そして、やや長考してから、牌を打つ。
「……8!」
来た。僕は夢中で残った手牌の一部を倒した。
「スチル!」
「……ふふっ、慌てちゃって」
「ええ、もちろん。これでゾーンですから」
僕は79牌を倒し、悪を捨てた。
残った牌は9。
どう考えてもゾーン。凍理先輩が9を打ってくれば……三点。
勝負を決せられる点数――
「覚悟してください、凍理先輩」
僕は言った。
「僕はあなたを殺します」
「……そうなるかもしれないね。双葉、番だよ」
「あっ、はい! お姉さま……」
双葉が牌を引き、チラチラと僕の方を見る。
双葉からアガっても三点。これはチャンスだ……僕は腹の底で微笑んだ。
べつに凍理先輩からの直撃でメンタルから崩そうなんて考えない。どうでもいい、そんなことは。双葉からの三点で充分だ。
どうか、打ってくれ。
だが、もし、双葉も打たず、凍理先輩も打たなければ……ミカヤと僕の番が来る。
そこでアガれなければ、僕たちは手牌の情報を大幅に敵に与えてしまう。チャンスが一気にピンチへ変わる、かもしれない。自分が切った牌ではアガれないルール・アンタッチャブル。それがある以上、アガれなければアガれないほど、相手へと情報が落ちてしまう。それはゴメンだ。
打ってくれ、双葉――僕は脇腹の痛みを感じながら思った。
打って、そして見せてくれ、僕に。
大切な大切なお姉さまの足手まといになってしまった絶望の表情を。僕はそれがどんな気持ちか知っている。
よく知っている。
四点先取――
凍理先輩は切り崩せないかもしれないが、パートナーなら足元から狙っていけるかもしれない。
僕は心臓の鼓動の強さに苛まれながら、自分に残されたたった一枚の牌を触った。
裸単騎、9待ち。
「ううーん……どうしよう」
「そういう時は直感を信じるんだ、双葉」
凍理先輩が言った。
「たとえ何か悪手を打っても、私は君を責めたりはしない」
「そう……は言っても。コイツ、あのアキトとかいう雑魚よりは少しはやるみたいですよ」
アキトに負けたことがある僕からすれば、随分と過大な評価に聞こえるが、そう思ってもらえているならありがたく利用させてもらおう。ミカヤを見ると笑いをこらえていた。
「ああ、もう、わかんない……いいや、これで!」
えいっ、と双葉が牌を打った。タァン、と小気味いい音が卓から鳴って、一瞬静寂が落ちる。そして、双葉が打ったのは――8。
凍理先輩が優しく微笑んだ。
「いいんだよ、それで」
「え?」
「スチル」
「――――!!」
僕とミカヤに戦慄が走った。クスクス笑いながら凍理先輩が二牌倒す。
79。
穴8を双葉からスチルしたのだ。
捨てたのは7。
僕のアガリ牌ではない、それどころか……凍理先輩は79をスチルで消費し、僕の待ち牌の9を絶対に捨てられない形にした。
してやられた感じだ。
凍理先輩が残った牌をパタリと伏せる。
「これで私も単騎ゾーン。……撃ち合いになるね、錬」
「ええ。ですが、この局は勝たせてもらいます……ここまで来て負けるのは無い」
「そこで負けるのが君の人生、じゃないのかな?」
「…………」
「……樹畑くん」
「いいから、牌を引いてくれ、ミカヤ。僕は君が打ってくれればそれでアガる」
「……うん」
ミカヤが牌を引き、打つ。ダメだ。悪牌の無駄引き。僕は髪をかきむしった。
「……くそっ!」
「ごめん……」
「いいさ……僕がここで引けば問題……ない!」
牌山に手を伸ばし、引っこ抜くように牌を持ってくる。自分の運命ごと掴み取れればいいと思った。が、
「……」
引いたのは戦牌。字牌だ。
普通に切ろうとして、迷った。
……考えよう。
いま、僕は単騎待ちだ。そして二度スチルしたせいで、もうそれは変えることはできない。スチルを途中で解除して持っている牌を捨てるとか、奪った牌をミカヤの捨て牌に戻すとか、そういうことは出来ないそうだ。だから、このまま単騎で待つしかないのだが……
僕の手牌にあるのは、9と戦牌。
どちらも凍理先輩に刺さる可能性はある。
が、字牌である戦は刺さりにくいだろう。
もし字牌を持っていたのならもっと早くに捨てられているはず。
では9はどうか。
数牌だ。
最後に先輩が捨てたのは7。
スチルする前の手格好は779(?)、という形。
ここに双葉が打った8を奪い、7切りの(?)待ち。
それが何かということだが……9である可能性はなくはない。なくはないが……そこで僕は気づいた。
口元を押さえ、凍理先輩を見やる。
凍理先輩が7799の形だった可能性はゼロだ。
間違いない。
なぜなら、8を奪えば待ちが無意味に減るからだ。
7799なら、すでにゾーンじゃないか。
今回のペアゼロ、数牌は一種につき八枚もある。待ちが多ければ多いほど、アガりやすいのはどんな形になってもそうなのだ。7799で8を叩いてどうする。7を切ろうと9を切ろうと、待ちはそのどちらかに減ってしまう。何もしなければ7と9の二面待ちなのに。そうだ、そう、ありえない。僕は気づいた。
この9、通る。
そして戦牌で待てれば、アガれる可能性は高い。特にまだ一つも僕から奪っていない、自力救済で手を進めようとしている双葉の不要牌として出てくることはありうる。というか、鉄板に近いかもしれない。この9を打って、双葉が奪ってくることはありえるが……それならまだいい。双葉がすでにゾーンということはないだろう。まずない。ありえない。なら、
ここは9打ち、
戦待ち。
リスクはそれほどない、むしろ大幅なアドバンテージを得られる。僕は牌を摘んだ。
打、9。
……双葉も凍理先輩も何も言わない。
通った。
通った……!
拳を握って歓喜を抑える。心臓がまた強く鼓動する。痛い……それは双葉の切り順、凍理先輩の切り順と回っていくうちにどんどん加速していった。眩暈がする。
ミカヤの捨て牌も僕のアガリ牌ではなかった。
くそ……字牌ならこの順目にサクっとアガれるんじゃないかと思っていたのに。ままならない、人生は。ありふれた奇跡さえ起こらない。
そう思っていた時、まるで僕のそれを早とちり、勘違いだと揶揄するかのように――僕は戦牌を引いてきた。
アガリ牌だった。
「引いたっ!」
ばっしと卓に牌を叩きつける。手牌を開けた。
「これで引きアガリ、まずは一点……!」
『おめでとうございます、錬!』
天使が祝福を告げてくる。ミカヤも「しゃっ!」と小さくガッツポーズしていた。双葉は今にも僕の首を絞めてきそう。そして凍理先輩は――
「戦待ち、か」
「ええ」
「惜しかった」
「え?」
凍理先輩は手牌を倒した。それは戦牌だった。
「私も同じ待ちだったんだ」
「同じ待ち……」
ドクン、とまた僕の鼓動が強く打つ。卓に肘をついて、その牌を覗き込む。
戦待ち? ということは……凍理先輩は779(?)から8を双葉から奪った時に、(?)が戦だったということだ。あれから凍理先輩は手牌を入れ替えていない。つまり、僕の待ち牌選択の時。
あの時から、凍理先輩は戦待ちで構えていた。
僕は危うく、放銃するところだった。
「…………」
「どうした、錬? 顔が青いぞ」
「元からです」
軽口を返したが、僕の冷や汗は止まらなかった。
自分が意識せずに地雷原を歩いていたという恐怖。
それはそっと扉の下から流れ込んでくる冷気のように僕を炙った。
危なかった、本当に危なかった。
そして手牌の進行を遅らせてでも、字牌を手中に抱えた凍理先輩。
凍理先輩は最初に335から4を奪っている。あの時に字牌を整理できたはずだ。
335779戦、これがあの時の凍理先輩の手牌だ。
3を捨てずに戦牌を捨てていれば、3779。
2や4をまた引いてもゾーンに入れる磐石の構えを破棄してまで、僕やミカヤからの字牌漏出を狙ったのだ。
誰もが認める生徒会長……? ふざけるな、とんでもない不良少女だ、この人は。考え方が人の油断を突こうとする形で固定されている。
少しでも弱気を見せれば、喰われる。
喰われる……
「まるで私がアガったような雰囲気になってしまったな」と凍理先輩は肩をすくめた。
「そうですね、少し異常です」僕はミカヤから叩いた牌を崩して卓の中央に押し戻した。
「アガったのは僕だ。次に僕が双葉か、凍理先輩からアガれば、それで三点。……決着だ」
「呼び捨てにしてんじゃねぇよ、二年」
双葉が、いや双葉先輩が僕に牙を剥いた。
「……そんな可愛い髪形したまま三年生になんてならないでくださいよ、先輩」
「これは私のソウル・ヘア・スタイルよ」
「意味が分かりません」
僕はため息をついて、手を伸ばしてミカヤの手牌も崩した。凍理先輩の目が僕の手元に走る。……ミカヤの手の進行具合も情報として見たかっただろうから、先手を打って裏向きにして崩した。
天使戦は神経を使う。
「ミザリル、次のゲームを始めてくれ」
『いいですとも』
牌が虚空に巻き上げられ、山が築かれる。
『最後にアガった人から最初の手番です。……錬?』
「ああ」
僕は七枚の手牌を取った。牌を起こす。
だが、僕の目には数字など映っていなかった。
ただただ前局の凍理先輩、彼女がアガり損ねた戦牌が脳裏に焼きついていた。
アガったのは僕だ、けど――精神戦で優位に立っているのは、果たして今、どちらだろう。