ショウワ歴666年。魔王軍の侵攻を許してからゆうに20年は経過していた。
すでに人々は諦めはじめ、このまま人類は衰退の一途を辿るものかと思われていた。しかし。
魔王と対をなす存在として語られていた”勇者”としての力に目覚める者が現れたのだ!
あるものはその者を神の”生まれ変わり”と。あるものは”救世主”と呼んだ。
しかし、中央大陸一の大国アンゴルモア王は口のなかだけでこう呼んだ。”愚者”と。
「アンゴルモア王!」
まだ傷の少ない、しかし軽く強度もない薄い防具を付けただけの兵士の男が、豪奢な椅子に体を預け、思案している王の目前で片膝を立て跪いた。そして、兵士は王を見上げる。
鈍色の鎧は歴戦の勇を物語る傷が多く掘り込まれ、しかしよく磨きこまれている。右肩に王国のシンボルである、流星をあしらった印を刻み込んでいる。
髪は兵士同様黒く、その相貌は鎧の勇とは裏腹に諦めの色が薄く滲んでいた。
「アンゴルモア王……次期にこの城は落ちるでしょう」
「やはり持ちこたえられなかったか」
王は落胆の声をあげ、立ち上がった。
瞳の色は先ほどよりも闇を宿していた。
「これより私は、禊に入る。それで戦況がどう変わるか、変わらないのか分からない。しかし、もう一晩持ちこたえてくれ」
「王……姫を……」
「何も言うな。いるかすらも分からぬ神に縋るしか道はないのだ」
王は兵士の横を通り過ぎ、城の奥へと歩を進める。
油も貴重となり、ほとんど明かりもない暗い廊下を進む最中、王の胸中は自責の雨で濡れていた。
「姫――」
王は懐刀を抜き取り、まぶたを閉じ横たわる少女の首元へあてがった。
小さな部屋には、体を清めるための水がめと厚手の布。数冊の本。そして寝台だけ。
寝台の中では、規則正しく呼吸を繰り返す少女が寝ていた。
王とは違い、肌も髪も透き通るように白く、まるでドールのようであった。
事実、ドールだった。
その容貌から、彼女は巫女として祈りを来る日も来る日も捧げるため、いつか身を神に捧げるためだけのドールであったのだ。
「すまない……」
「泣かないで、お父様――」
「お前……っ!」
姫はまぶたを閉じ、口を固く結び、静寂が訪れた。だが、幾ばくもなく静寂は破られる。
「お父様。私は今から人としての身体を捨て去り、真の魂となり神に祈祷する巫女となるのでしょう。
その前に、最後に一つ。お願いがあります。――私を、私を……」
「なんだ、言ってくれ。この不甲斐ない王に、父に出来ることがあるならば!」
まぶたの奥から溢れる滴が頬をつたり落ちるほど、わずかな時間の後、姫は続けた。
「私を……抱いてください。人として生きる喜びを味わえぬのなら、せめて母の愛したあなたの寵愛を受けたい。
女としての幸せを――いただきたく存じます」
王は絶句した。まだ年端もいかぬ我が娘の最後の願いに。その内容に。
ためらい、後ずさりする。懐刀を取り落し、姫のそばに落ちたそれを姫は拾い上げる。
「お父様……っ!」
ためらいはなく、しかし恥はあるのであろう。頬は赤く色付き、息が上がっている。
懐刀は姫の上質な召し物を引き裂き、熟れる前の果実をあらわにした。
頬や腕と同じく、今まで隠れていた肌も白く、そして呼吸数が上がるごとに赤くはんなりと色づく。
王はとっさのことに体が動かなかった。しかし、瞳だけはその肢体を焼き付けていた。
「お父様。どうかこれ以上、私に恥をかかせないでください」
姫のその言葉に我に返る。しかし、自制は利かない。
精神とは裏腹に王の無骨な腕は、大小の傷を負った手は伸びていく。
「ん……」
甘い吐息を吐き、姫はその手を受け止めた。
王の手は、薄くもあり、しかし柔らかさも併せ持つ双丘の一つを包み込むように這わせた。
時には優しく、時には力強く包み込む。
そのたびに少女とは思えぬ女の嬌声が小さな部屋にこだまする。
――王にはすでに自制心はなく、あるのは男としての性だけであった。
普段の娘の見せる姿と、我が手練手管で魅せる姿が重ならぬ。
王は姫を守るべき娘ではなく、一人の女として見始めてしまったのだ――。
そっと、息吐く唇を重ねる。
姫は懐刀を手離し、王の頬へと手を伸ばす。頬を撫で、勇の痕を撫でる。
「怖くはないのか」
「人を守った証でしょう」
姫は微笑む、その顔もまた少女ではなく一人の女性そのものであった。
「この傷は私が知っている中で、一番愛おしい傷だわ」
王は姫が撫でる傷をどこで負ったか思い出せず、怪訝な顔をした。
姫は妖艶な笑みを浮かべ、その傷痕を舐め進めていく。傷は口の端から耳のそばまで長く続いていた。
端から端までつたい終った彼女の舌は、そのまま耳の外側から内へ向かい這わされ、中心まで来たところで舌を話した。
しかしそのまま口づけをして、そばで話し始める。
「この傷は私の母を守れなかった。私を守り切った。そして母に私をこれからも何ると誓った傷よ」
たしかに言ったと王は思い起こす。しかし10年も前。まだ3つにもなっておらぬ歳でのことを覚えていることに驚嘆した。
「母のことは恨んでいません。むしろ、私がいたせいで死ぬことになったのでしょう」
姫は涙を浮かべる。
先ほどまでの女性はすでにいなかった。
そこにいるのはただ、自責の念で泣く、母の代わりになろうと泣く少女だけであった。
王は先ほどまでの愚行を酷く恥じ、腰に吊った剣を抜き去った。
「姫よ、愚かな王を許すでない。そして蛮行を責めてくれ」
「やめて……っ!!」
少女の悲鳴は届かず、男は自らの手で首に剣を突き立て、倒れた。
泣き叫ぶ少女の声だけがこだまする。
そして少女の目には一本の懐刀が映り込む。
「神よ、この者に何者にも打ち勝つ力と、優しき心、そして不死をお与えください」
姫は微笑み胸に懐刀を突き立て、引き抜く。数度もしたところで力を失い倒れこんだ。
血は王に降り注ぎ、涙は床に流れ落ちた。
――ショウワ歴667年。魔王没す。
神はいたようだ。