湾口から町の中心部、建造物群に到達するためには線路をいくつか横切らなければならなかったが、そのための歩道橋が数週間閉鎖され、大幅な迂回を余儀なくされていた。離れた地下通路を通るのが最短距離だが、そこはじめじめとしていて臭く、大ナメクジがよく出没して皆が通るのを嫌がった。時折無法者が許可なくナメクジや蟲を射殺して、死体を片付けもせずに腐らせ、新しい蟲の温床にしていた。
銃士隊のロレンスは建造物の周囲を主な仕事場にしていたので、この通行止めの影響は大きく、よく愚痴っていた。あるとき、そちら方面にいくつかの〈霧溜り〉の群れがいると連絡があり、マリアとロレンス、万年睡眠不足の少女プリシラで退治することになったが、そのときも薄汚い地下道を通らなくてはならなかった。なぜか蟲の死骸に混じって夥しい数のダイスが転がっていて、すべて一の目が出ていて不気味だった。
ロレンスが言うには封鎖は、呪術的な生体障壁が原因らしい。馬鹿でかい鹿の首が歩道橋を塞いでいて、解呪にかなり手間取っているそうだ。
「じゃあ担当は退魔師団ですか?」地下道を出て、建造物群の外壁で〈霧溜り〉を吸引しながらマリアが聞いた。「この前リヒターっていう司祭長氏がテレビに出てるのを見ましたが、真面目そうな人ですね」
「ああ、あの姉さんはちっとばかし激発的だな。社会に不満があんだろ。社会ってか風土かね」
「というかブラックモア部隊長に、ぽかったですが」
「うん、部隊長轢かれたんだって?」
「そのようです」
「本人にゃ悪いがウケるな」
「ええ」
「おっとマリア、プリシラを起こせ」少し離れたところで立ち尽くしていた彼女を見て、ロレンスが言う。「あれ寝てる」
肩をゆすると、「へい」と言って起きたようだが、すぐに船を漕ぎ出した。
「プリシラは大変なんだよ。お袋さんが不眠症で、治すためにちょっとばかし違法なテクを使ったわけ。睡魔な」
「危なくないですか」
「昏睡って事例もあっからな。本人以外に取り付いちまうケースも。プリシラの場合もそうだよ」
「治んないんですか」
「治りつつある状態ではあんだな。十年かかってこれな」
「きつそうですね」
「本人はあんまし気にしてねえようだけどさ」
「気にすべきだと思いますけど」
「そうだな」
外壁沿いを大方片付け、吹き抜けに架かる橋を歩いていると、一つ下の階層のオープンカフェに、正当魔女会の一団がいた。大声で話しているのは銃士長と同じく南方人の女性だ。ややきつめの顔つきで、大げさな身振りでどうやら先月買った魔法具かなにかの自慢をしている。肩には白いインコが止まっていた。他の魔女たちは、うんざりしたような顔で黙って聞いている。クローディオやジョセフィンと似たような、胡乱に話すタイプの人だな、とマリアは思った。
知っている人物だったらしく、ロレンスが手すりから見下ろして声をかけた。
「スピネル姉さん、こんなとこで油売ってねえで歩道橋の鹿をどうにかしてくれねえかい? 当初の予定じゃ、三日前には片付いてるはずだろ?」
すると顔をしかめながら相手はこちらを見上げ、
「おお、ロレンスじゃないか。わたしの長大な計画も知らずに一般大衆は気軽なリクエストをしてくれるな。見下ろしながら話すのは無礼だぞ、下りて来いよ」
「いいとも、この機会に一言言ってやろう」
ロレンスに続いて魔女会の席にやって来た。立ったまま彼は解呪の遅れについて抗議しようとするが、
「待て、君の部下にわたしの偉大なる経歴を説明しよう」
と言い出し、その人物、スピネル大姉は、自分は最初の人々が〈船〉に乗ってこの地に来る前、〈旧き領域〉から存在していた血族の直系の子孫だとか、南の地の誰々という偉い人に認められたとか、そういう話をし始めて、非常につまらなかった。
「その偉大な〈赤の支族〉の有り余る力を持ってしても、歩道橋一つ解呪できねえのかい?」ロレンスが言った。
「できるがすると他の問題が発生する、と言えば分かりやすいだろうか? つまりマナ跳ね上がりの法則だな」
と、スピネルはぶつぶつ言っていたが、この人は他者への説明と独り言の区別が曖昧で、誰に何を話しているのかすぐに分からなくなってしまう。話の途中でロレンスは無言で店を出て、マリアとプリシラも続いた。
歩道橋の近くまで来ると、その上に灰色に汚れた大きな鹿の頭があって、なんとも陰鬱な気分になった。その階段を登っていく人がいたので、ロレンスが制止する。
「おいあんた、そこは通れねえよ。鹿を乗り越えるのは無理だぜ、気持ち悪い液体でドロドロしてるし」
相手がこちらを振り返る。ボサボサの白金色の髪をした、分厚いモノクルをかけた少女だった。晴れだというのに黒い傘を手に持っている。
「鹿もドロドロの件も知っています。邪魔なものがあるらしいので個人的に来たのです。そういう解釈」
「なんだって?」
「近くの酒場でここが通れないと愚痴っている人がいて、話を聞く限りどうにかできそうなので」
「個人が下手に手を出さねえほうがいいんじゃねえのか?」
「たぶん大丈夫です、たぶん」
「そうかい、じゃあ頑張りな」
一同が再び地下道へ下りていこうとしていると、歩道橋の辺りから閃光が走り、見に行くと、鹿の頭は跡形もなく消えていた。
マナ跳ね上がりの法則もなにもなく、あの少女がなにをしたのか知らないがすでにその姿はなかった。
面目を潰されたスピネル大姉はこれを知るなり激昂し、町を全速力で走って溝川に落ちて足を骨折した。
その日の夕方、〈夕立屋〉の姿もないのに、猛烈なにわか雨が湾口地区を襲った。