Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:5

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――――


 必死に走って交易所の南門にたどり着いた。
 すでに多数の魔法使いが地上で、空中で、魔法を使って防御壁を築いていた。
 その種類は実にさまざまで、樹木が絡み合って壁と化しているかと思えば、円形の魔法陣が展開されてもいる。
 金色の壁が創り出されたかと思えばその周囲は激しい風でもって津波の襲来に備えているようだ。
 いくつもの魔法がまるでパッチワークのように一つの壁となり交易所を守っていた。
 その中で。
 「あ…」
 ケーゴは見覚えのある二人組を見つけた。
 アマリとイナオだ。
 「禁!!」
 イナオが指で星を空中に描く。
 するとそれが霊力の壁となって顕現し、交易所を守る要の1つとなった。
 エルフが大多数を占める中で人間の、それも少年のイナオは懸命に交易所の守護に関わっていたのだ。
 「…っ」
 それが無性に羨ましかった。
 焦燥を胸に短剣を構えた時だ。
 「来たぞおおおおおお!!」
 緊張が絡みついた怒号が響いた。
 その場の空気が重く、硬直した。
 轟音が近づいてくる。
 負けじとばかりに心臓もうるさい。
 地響きがする。
 身体が重い。
 顔をあげても波は見えない。交易所の城壁があるからだ。
 それでもはっきりと死の圧力を感じた。


 「…っ!」
 フロストは固い表情で精神を集中させた。
 音が次第に近づいてくる。
 もう、近くまできているのだ、と直感した。
 空を飛びながら防御壁を作り出すことはできればそれが一番安全だ。
 しかし、同時に二つの魔法を繰ることができる者は少ない。
 故にフロストたちは地上から津波に対応しなければならなかった。
 城壁に阻まれて外の実際はわからない。
 それが恐怖を加速させる。
 それでも、とフロストは顔を上げた。
 今、津波と交易所の間には駆けつけてくれた者たちによって織りなされた魔法の守りが存在している。
 これが破られなければ交易所は安泰だ。
 逆に言えばこの魔法が最後の砦だ。
 その重圧に負けてはならない。
 疑いを持った瞬間、魔法は脆くなる。
 今魔法を使っている者たちは多かれ少なかれ、死の恐怖と戦いながら自分にできることを精いっぱい行っている。
 フロストもアルフヘイム領を覆った結界の存在には気づいていた。
 あれであちらは安全が保障された。
 悔しいことにあの結界は皆が協力して完成させた防御壁など無意味だと言わんばかりの守護の力を持っている。
 問題は術者の性格に難があることなのだが。
 いずれにせよその術者は今この場にいない。だからこそ。
 「一人一人の力を合わせて大きな力にしないといけない!みんな、全力でいくわよ!!」
 フロストの決意にも似た叫びに言葉に雄たけびがあがる。
 その雄たけびをかき消すばかりの轟音が響いた。
 これまでにないほどの衝撃が魔法壁を通じて術者たちに襲い掛かる。
 ただの自然災害と思われたそれは、しかし意思があるかのように交易所に牙をむく。
 押しとどめようにも、波の勢いが強すぎる。一瞬でも気を抜けば壁は破壊されてしまうだろうと誰もが予感した。
 そんなことになれば縫い合わせの様相を呈する防御壁に穴が開いてしまう。そこから押し流れてくる海水に気を取られればおそらく防御壁は崩壊する。
 「負けるかぁーっ!!」
 フロストの魔力が防御壁の全てを包んだ。
 瞬間、押し寄せる波が凍り付き動きを止めた。
 「フロストさん!」
 彼女の隣で土壁を作り上げていた術者が身を案じるように叫んだが、フロストは気を散らさないで、と一喝した。
 「私の魔法で津波を氷に変えているけどこれもいつまでもつかわからない…!絶対に気を抜かないで!」
 一人一人が小さな防御魔法で作り上げた交易所の守りを包み込みようにフロストは氷の魔法を行使した。その魔法により襲い掛かる波は氷像と化す。
 分厚い氷の壁で津波の勢いを削ごうというのだ。
 しかし、その大きすぎる規模故に魔力はすぐに底をつくだろうと彼女はわかっていた。
 さらに、波が動きを止めるのは一瞬のことで、凍り付いた波の後からも激流が押し寄せるのだ。それはいともたやすく氷を破壊して、そしてフロストの魔法により凍りつく。その繰り返しだ。
 「…っ!」
 恐ろしいほどの勢いに魔力の消耗が激しい。
 ゆっくりとだが、彼女の魔法の効力が弱まっていることに誰もが気付いていた。
 フロストは顔を歪めた。力が尽きかけているからではない。
 自分が無力だからだ。
 彼女はアルフヘイムの中でも指折りの魔法使いであると評価される。
 それでこのざまなのだ。
 どれだけ魔法が使えようとも、万能ではないことがよくわかる。
 アルフヘイム領に結界魔法をかけたエンジェルエルフのような、そして、今も甲皇国の侵略と戦っているニフィルのような、あの桁外れの魔力が心底羨ましかった。
 脂汗がにじむ。
 いつまでそう激流を押しとどめていただろうか。
 時間にすればさほど経っていないのかもしれない。
 それだけ津波の勢いが、力が強いのだ。
 辺りには潮の匂いが満ちていた。
 僅かながら防御壁全体に残されている魔法の効力でもって波は凍結している。が、もはや薄い氷の壁にしかならず、津波の勢いを殺すことはできない。
 よくもった方だ、と悔し紛れにフロストは自身を評価した。それに、自分の魔法のおかげで術者たちの消耗はある程度軽いものになった。
 これ以上は限界だ。魔力が完全に底を尽きてしまったら命に関わる。
 フロストは魔法を解除した。
 気持ちばかり残っていた凍結魔法の効力が消え、再び激流は本来の勢いを取り戻した。
 「…っ、後は…」
 フロストがよろめいた。
 その光景に先ほどの土壁の術者が色を失う。
 「フロストさん…っ!」
 一瞬、そちらに気を取られたせいで、土壁は面白いほど簡単に崩れた。
 勢いのままに噴き出す海水が交易所の城壁に激しくぶつかる。
 失態をやらかした術者が再び土の壁を作り上げようとするが、焦っているのかうまく魔法が使えない。
 周囲の者は自分の展開する魔法壁の維持に精いっぱいで他の部分の修復などに気は回せない。
 このままでは、魔法壁と城壁の間に海水がたまり続け、いつかはその水圧で城壁が倒壊するか、海水が城壁を超えて交易所に流れてくるだろう。
 そうすれば全てが文字通り水の泡だ。
 このままでは、とフロストは己を叱咤して再び魔法を使おうとした。
 しかし、その力すら残されていないかのようにくらりと後ろによろめいた。
 絶望的なまでに緩慢に時間が動いたように感じた。
 目の前では海水の勢いが止まらず、しかしそれになす術もなく自分は倒れようとしている。
 その刹那を、その無力を、ゆっくりとフロストは噛みしめた。
 そんな緩慢な絶望の中で。
 ふいに彼女は肩に手をまわされ、そのまま抱き止められた。
 それが誰の腕なのかわからないままのフロストを抱きかかえ、その人物は叫んだ。
 「――操!!」
 強く放たれた言葉。
 その言葉に従うかのように激流が動きを止めた。
 魔法壁の穴は未だ存在している。それでも海水はぴたりと流入を止め、その場に留まり続けているのだ。
 そこでフロストはそれが不可視の壁によるものではなく、水そのものを操っているものであると気付いた。
 水を操る魔法使いに心当たりがあった彼女は眼を見開いた。
 「…あなたは……っ」
 背丈はフロストよりも頭一つは高い。しかし、体は思った以上に華奢で身を覆う毛皮の方が質量を持っていそうだ。
 アルフヘイムでは悪名高いその男の顔は土気色で、しかし不遜さを隠さない。
 「おい、お前」
 フロストを抱えたままウルフバードは近くの術者を睨んだ。
 「何をしている。早くさっきの土の壁で穴をふさげ」

     


――――


 「…!あそこ、壁が崩れて…っ」
 「馬鹿者!今は目の前だけに集中せんか!」
 気をそらしたイナオをアマリが叱責した。
 イナオの術とて完全ではない。
 ともすればたやすく津波に飲まれてしまうだろう。
 2人は先ほどまで交易所を守っていた凍結魔法が消え去ったことに当然気づいていた。
 波本来の勢いにイナオも必死の表情を見せる。
 アマリはそんな彼へ霊力を変換して分け与えているのだ。
 彼女の行使する力は狐火。その甚大な霊力をもってすれば先ほどの氷魔法のように防御壁全体を炎で包むこともできた。
 しかし、彼女の故郷流に言うならば水克火。水は火を消し去るものだ。
 土克水。水の勢いを止めるのは土。しかしながら、崩れ落ちた土の壁を見れば明らかなように大きすぎる力の前に相性は意味をなさない。
 土克水すら覆されるのだ。いつまで続くかわからない津波の襲来に相性の悪い炎で挑むのは幾分か躊躇いがあった。
 それに、嫌な予感がした。
 ここで全力を使ってしまってはいけない、そう直感が告げていた。
 そこでアマリはイナオに霊力を付与することで交易所の防御を手伝っているたのだが、彼があまりにお人好しなことをしでかしけるもので、いずれにせよ炎で海水を蒸発させることになるだろうとふんでいる。
 「今のお主ではそこまで気を配ることはできないじゃろ!」
 「だけど、あれを放っておいたら…っ」
 集中力が途切れ、彼の築いた守りの力が揺らいだ。
 「大丈夫じゃ、他の者が何とかする!」
 そうアマリが言う間にも海水の流入は止められたようだ。
 それを認めたイナオも安心したように息をつく。
 「気を抜いておる場合か。術に集中せい」
 「わかってますよ…」
 そう返しつつイナオは歯を食いしばった。
 アマリの言う通り自分はまだまだ未熟で、できることはまだまだ少ない。
 本当なら、この交易所ごと守れればいいのに、とないものねだり。
 アマリは自分を諌めつつも霊力の供給を止めない。恐らくこの場は1人で切り抜けろということだろう。
 いざともなればアマリ自身が力を開放するのかもしれないが、それを頼るのは甘えだ。
 イナオが気を取り直して術に力を込めた時だ。
 視界の隅で吹き荒れていた風が弱まったように感じた。
 1人の術者が風でもって波を押し返していたのだが、その力が小さくなっているのだ。
 「また…っ」
 津波の勢いは強く、それでいて何度も何度も押し寄せてくるのだ。
 イナオもアマリの力がなければここまで粘れていなかったかもしれない。
 「イナオ!何でも言わせるでない!」
 「ならアマリ様!消耗している人に力を与えるとかできないんですか!?」
 今弱まりつつある風魔法の術者でも、先ほどの凍結魔法の使い手でもいい。
 アマリの膨大な力ならそれが可能だろう。
 しかし、その希望とは裏腹にアマリは首を横に振った。
 「…妾がお前に与えている力は、お前が行使する力は、普通の魔法とは異なるものじゃ。妖の霊力をエルフに分け与えたところで使いこなせぬわ。…イナオ、それは分かっておるじゃろう」
 イナオは唇をかんだ。
 わかっている。わかっているはずなのに、それでも願わずには、頼まずにはいられないのだ。
 その悔しさを知らないアマリではない。
 それでも、ここで全力を出すわけにはいかない。イナオのもとを離れるなどもっての外。
 が、どうにもあの風魔法は限界の様だ。
 頃合いを見計らうアマリの横を何者かが駆けた。
 傍を走り抜けたその影に見覚えのあるアマリとイナオは驚きとともにその名を口にする。
 「お主は…!」
 「ケーゴ!」
 彼らに応えることなくケーゴは走り、弱まりつつある風の障壁に向けて炎を放った。
 微弱ながらも風はケーゴの放つ炎の勢いを大きくする。
 水と炎がぶつかり合う。
 昨日はその力比べに負けたケーゴだが、今度こそは、との思いが瞳の奥で燃えている。
 熱せられた海水が蒸気となり辺りに充満する。
 放たれる炎は短剣自身が持つ魔力によるものだ。ケーゴは疲労することなく力を行使し続けることができる。
 アマリはその炎から生じる力の源を鋭敏に感じ取った。
 純然たる魔力、これは。
 「…精霊のものか……?」
 あの少年の剣に宿る力は精霊の、それも相当上位のものだとアマリは気づいた。
 その出自が気になるが今はそれどころではないと、アマリは頭を振った。
 「少年!」
 叫ぶ。ケーゴがこちらを向いた。
 アマリは続けた。
 「その炎、いつまでもつ?」
 「分からないけど…、多分まだいける…っ!」
 確証はないようだ。だがその言葉に間違いはないだろうとアマリは感じた。
 「アマリ様…!ケーゴは…っ!?」
 目の前でイナオが友の身を案じた。
 視線こそ目の前の術に向けているが、心が揺らいでいることなどお見通しだ。
 アマリはイナオの頭を小突いた。
 「彼ならお前よりもよっぽど頼りになる。今は術に集中しろと言っておるじゃろ」
 「…わかりました」
 そう言って再び術に集中しようとするイナオの顔はどこか固かった。

     

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 北門から森を抜け、登山道を登りきったその高みからは交易所の様子が一望できた。
 押し寄せる波が城壁の前で荒れ狂っている。
 魔法で防波壁を作っているのだろうとロビンは予想した。
 空を飛んで避難する者がいる。その一方で未だ北門の辺りには人混みが蠢いている。
 ぞろぞろと動くその団体は、森の住人からすれば恰好の得物だ。
 森には小さな道が出来上がっているといえども、ミシュガルドの原生生物たちは人間を恐れない。道なりに進んでいたとしても危険に変わりはないのだ。
 恐らくここに避難するまでに虫の群れに襲われて、多くの者が命を落としてしまうのだろう。
 津波の警報が出された時、すぐに北に逃げることを思いつき襲い来る虫たちにも対応することができた自分たちの幸運を喜ぶ他ない。
 ロビンは従者の方を振り返った。
 「ローロさんとアルペジオ…さんは大丈夫そうかい?」
 シンチーはローロさんの方は、と短く報告した。
 「そうか」
 避難してきた高台には交易所から逃げてきた人々が集まっているのだ。アルペジオからしては人目が恐ろしくて仕方ないに違いない。
 とはいえども逃げ道がなかったのだ、仕方ない。
 こればかりはローロに何とかしてもらうしかない、と結論付けてロビンは再び交易所へ、そしてその先に目を戻した。
 「…それにしても、あれは何なんだろうね」
 遠く離れたこの高台からもよくわかる。
 海に、何かがいる。
 灰白色の体をのろのろと動かし、ゆっくりと移動しているようだ。
 緩慢な動きのその生物の周囲が黒い。
 遠目からでも巨大だとわかるあの生物は一体何なのか。
 様々な取材や探索を経験してきたロビンであったが、あんな怪物は見たことも聞いたこともない。
 「…津波の方は」
 シンチーは巨大な怪物よりも当面の危機の方が気にかかるようだ。
 ロビンは交易所の南に展開された防御壁に目をやった。
 「どうやら何とか防いでるみたいだよ。このまま何事もなければまた交易所に戻れるだろうけど…」
 ロビンが言葉を切る。
 シンチーは彼の懸念を正確に読み取り、怪物の方を見た。
 怪物を囲むように黒く染まる海。その黒が一部こちらへ伸びてきているのだ。
 津波に比べればその動きはゆっくりで、しばらく目を離していなければともすれば気づかないかもしれないほどなのだが、それでも確実に交易所の方へ向かっている。
 シンチーは顔を歪めた。
 あれは、よくないものだ。
 たとえ魔法が使えずとも、たとえ霊感に富んでいなくとも、本能がそれを叫んでいる。
 「あの、ロビンさん」
 と、そこで呼び止められた。
 聞き覚えのある声にロビンは振り返る。
 白髪痩身の男性が立っていた。ミシュガルドで青空教室を営むロンドだ。
 「ロンドさん、子供たちは大丈夫ですか?」
 尋ねつつもロビンは子供が2人、ロンドの傍から離れまいとついていることに気づいた。
 しかし、彼の生徒はたった2人ではない。果たして他の生徒たちは。
 ロンドは緩慢に首を縦に振った。
 「えぇ、なんとか…。道中2人の方に助けていただいたので…」
 ただ、子供たちが不安がっているのだという。
 無理もない、とロビンは海を顧みた。
 黒は未だ、こちら側へ伸びてきている。

     


――――

 地響きが、轟音が、そして衝撃が徐々に和らいでいく。
 それに魔法使いたちが目の輝きを取り戻し、魔法の壁は一時的にだが強度を増した。
 なんとか立っていられるまでには回復したフロストの前で魔法は津波をいなし、遂にその危険はもはやないようにまで見えた。
 術者たちも幾分か緊張の解けた顔つきで防御壁を維持している。
 しかし、衝撃が来ないとはいえ城壁の向こうの様子はわからない。フロストは硬い表情で立っていた。その時だ。
 「フロストさん!」
 空から海を観察していた鳥人が彼女に報告を行いに地上に降りてきた。
 地上に降りてきた。それだけでフロストはある種の確信を持つ。
 「どうやら津波の脅威は去ったようです」
 「そう、わかったわ」
 予想通りの言葉にフロストは思わず歓声をあげそうになるが、それをぐっと我慢して事務的に頷く。気を緩めてはならない。
 その報告を聞いてようやく確信ができたのか、周囲の術者たちは次々に魔法を解除していく。
 波紋のように解除が広がり、城壁を守っていた魔法壁は消え去った。
 フロストも深く息をついた。
 守り切れたのだ。この交易所を。
 疲労よりも安堵が全身を巡った。
 「ったく…なんだってこんな時に津波が来るのかね」
 彼女の背後であきれたような口調。
 そうだ、そういえば。
 フロストは弾かれたように彼に向き合った。
 長身の彼を見上げる形だ。うってかわって彼女は冷え冷えとした口調で詰問した。
 「ウルフバード・フォビア…!丙家のあなたが何故ここにいるのッ…!?」
 ウルフバードは小ばかにしたように肩をすくめた。
 「おいおい、俺がここにいては駄目なのか?大交易所の門に丙家お断りの張り紙はなかったはずだが?」
 「…っ、あなたは私たちの仲間を何人も殺した悪魔だッ!」
 ともすれば彼を殺しかねない勢いで詰め寄る。
 しかし、ウルフバードは涼しい顔だ。何事もない様子で彼はフロストに言い返した。
 「その悪魔がこの交易所を救ったんだ。それも何百人もな。文句はあるまい」
 せせら笑う。
 フロストはぐっと押し黙った。
 確かにあの時彼が魔法を使っていなければどうなっていたかわからない。
 まだ避難が完了していなかったことから考えるに、彼が結果的に助けた人数は、戦時中彼が殺した人数に匹敵する。そしてその中には自分も含まれる。
 ウルフバードはフロストを見下ろしながら言った。
 「せっかく助けてやったのに、礼の一つもなしか?」
 「………協力感謝する」
 苦虫を10匹ほど噛み潰した顔でそう呟いた彼女に、ウルフバードは満足げに頷く。
 「そうだ。それでいい」
 こころなしか本当に喜んでいるようだ。が、それが余計にフロストの怒りを募らせる。
 今にも爆発しそうなフロストを見てウルフバードの後ろに控えていたビャクグンは青い顔で彼に意見した。
 「小隊長殿、それ以上彼女を挑発するのは…」
 「挑発なんざしてないさ。これはなぁ、情けと言うものだ」
 フロストの額に青筋が走った。
 それを知ってか知らずかウルフバードは続ける。
 「わかるかビャクグンよ。助けてもらったらありがとう、これは大事だぞ。誇り高きエルフがその程度の礼節を欠いていたらかわいそうじゃねぇか」
 そのエルフの誇りを現在進行形で傷つけているのはどこのどいつだ、とフロストの青筋は増えていく。
 不遜な笑みを浮かべるウルフバードと爆発寸前のフロストの視線が交差する。
 と、ウルフバードはそこですっと表情を戻した。
 「…で、エルフ女。何故こんな津波が起きた?」
 フロストもその口調に怒りを抑えた。そして思案気に目を伏せる。
 空から海の様子を窺っていた鳥人から化け物が現れたことは聞いている。
 そして、ハナバの伝心によって津波と、それ以上に恐ろしいものがこちらに向かってきているとの報告もきている。
 そうだ、津波のせいですっかり忘れていたが、その他にも脅威が迫っているのだった。
 が、それをこの男に言っていいものか。
 「…ビャクグン」
 黙りこんでしまったフロストの態度を秘匿であると捉えたウルフバードはビャクグンに甕の水を操作すると合図をした。
 それに応え、ビャクグンは甕を地面に下ろす。
 「奔。並びに操」
 水の流れを操ることで、その上に立つことを可能にした。さらにその足場を空中に浮かび上がらせて鳥人のように空に舞い上がった。
 さらりと目の前で二種類の魔法を同時に使ってのけたウルフバードに対してフロストは渋い顔だ。
 祖国の仇であるとはいえ、人間でありながらここまで魔法を使いこなすのは純粋に賞賛に値する。
 はずなのだが、それを口にするくらいなら魔法を使えなくなっても構わないとすら思うフロストだ。
 いっそのことあの足場を凍りつかせてやろうかと思うのだが、目の前でビャクグンが目を光らせている。
 丙家監視部隊の存在を知っているフロストは当然ビャクグンとも面識がある。
 元々はアルフヘイムの陣営同士なのだ。そこまで上官を守る兵士の目でこちらを見なくてもいいと思うのだが。
 そんな不満を内に押しとどめているうちに渋い顔をしてウルフバードが戻ってきた。
 「…おいエルフ女。あれは何だ」
 「……私たちも詳しいことは分からない」
 「人外はお前らの担当だろうが」
 「愚弄しても無駄よ。本当に初めて見る化け物なんだから…」
 フロストの言葉にウルフバードは少し目を開いて、少し口角を釣り上げて見せた。
 「…何を笑ってるの」
 また馬鹿にされたと思いフロストは今度こそ己の魔力を周囲に展開させた。
 辺りの温度が急激に下がる。吐息が白い。
 しかしウルフバードはそれでも怖気づくことなく言い切った。
 「いや、お前らの口から化け物なんて言葉を聞くとは思わなかったもんでな」
 「…ッ、私たちが化け物とでも言いたい訳かしら?」
 凍てついた瞳がウルフバードを刺す。
 「知らないようなら教えてやるがな、か弱い人間は魔法も使えなければ空も飛べねぇんだ」
 「…少なくとも私たちは仲間を爆殺なんてしないし、そもそも他国を侵略なんてしないわ。人間は己の内に十分化け物を飼っているじゃない」
 「クハハ、違いないな。…まさか禁断魔法で自国を滅ぼしたお前らに言われるとは思わなかったが」
 「そのきっかけを作ったのはあなた方でしょう?」
 「禁断魔法を使うほどお前たちが追い詰められていたとは到底思えんがな?」
 「…ッ、それは…ッ」
 さすがのフロストも終戦末期に何故禁断魔法が発動されたのか、その詳しい経緯は知らない。
 一度だけニフィルに尋ねたことがあったのだが、彼女は口を閉ざしたままだった。
 しかし、どのような理由があろうともエルフが他の種族たちが多く住む土地を犠牲にして戦闘を行ったことは事実だ。
 その気になればエルフたちが総攻撃を仕掛けて皇国軍を撤退させることもできたかもしれない。それをせずに虐殺すら看過したのはエルフの指導者層が自らの保身と他種族の弱体化を狙ったからだ。
 当時のエルフ族の中で権力を握っていた貴族階級の者たちは戦後、禁断魔法発動の騒ぎの中いつの間にか姿をくらませていた。しかし彼らさえいなければフロストもニフィルも戦場に赴くことができたのである。彼らが保身のために有能な術者たちを傍に控えさせていたのだから。
 結果としてエルフの犠牲者はその地に元から住んでいた住民や、命令を無視した戦士ばかりだった。
 その事実はビャクグンもよく理解している。以前ウルフバードが彼に語った推測は外れてはいなかった。エルフ全ての総意でもって他種族を見捨てた訳ではなかったが。
 いずれにせよ、アルフヘイムは完全に追い詰められていた訳ではなかった。
 ウルフバードはそれを知っている。戦地においても我を失わず、一歩退いて冷静に大局を見極めたからこそ、虐殺に酔わずに敵の戦力を分析したからこそ、その事実にたどり着いている。
 皇国で言われる戦時中の歴史が虚飾にまみれたものであると嗤うことができる。
 フロストは何も言えず黙り込んだ。
 どれだけ言いつくろってもそれこそエルフの矜持を傷つけるだけなのだ。
 閑話休題、とばかりにフロストは殺気を抑えた。
 その時だ。
 (フロストさん、ビャクグン…っ!)
 呼ばれた2人の脳内に震え声が響いた。
 (どうした、ハナバ…っ!)
 危うく顔色を変えかけたビャクグンはしかし、ウルフバードに気取られないように無表情で彼女の身を案じた。
 フロストも表情を変えまいと必死になる。
 ハナバが脅えた声を出すなんて初めてだ。
 (…何か、何か…怖いものが近づいてきてる…!!)
 (怖いもの…?)
 (また津波が来るって言うの!?)
 (違う!違うよ!津波なんかじゃない!ニフィルさんが言った通りだ!津波よりも怖い何かが…っ!)
 弾かれたようにフロストは駆けだした。
 まさか、あの化け物がこちらに向かってきているのか。最悪の事態がフロストの頭に浮かぶ。
 それはつまり、三国の艦隊が全て沈められてしまったということだ。
 あってはならない。そんなことがあってはならない。
 「…なんだあの女。いきなりどこへ行きやがる」
 「小隊長殿、我々も追いかけた方がいいのでは?」
 ビャクグンの進言にウルフバードは目を眇めた。
 「…あの女エルフに興味があるのか?」
 「違います。…ただ、彼女の様子が少し妙なのが気にかかるもので」
 もちろん嘘だ。ビャクグンもハナバの言った「怖いもの」が気にかかる。来るとしたら南側、つまり海の方角からであると考えているのだ。
 何が来るというのだろうか。いずれにせよ確かめなければならない。
 「……ふむ」
 ビャクグンの真剣な眼差しをウルフバードは見つめ返す。
 この男は正直者だ。あまりにも正直すぎて、「気にかかる」などという軽い動機ではないことくらいすぐにわかる。
 エルフの女が走っていた先は海だろうか。もしかしたら津波や化け物と関係ある何かを察知したのかもしれない。
 とはいえそれはウルフバードには関係のない話だ。
 彼らを助けたのだって、自分が危険な目に遭うからというそれだけに過ぎない。
 特にあの女の服は聞いたことがある。確かアルフヘイム魔法監察庁の第三種摘発科。要は魔法の取り締まり屋だ。
 禁断魔法を発動して祖国を不毛の地にして以来、アルフヘイムでは魔法の取り締まりが厳しくなったのである。あくまでアルフヘイム内の話でそもそも魔法使いが希少な皇国出身の自分には全く関係のない話ではあるが、恐らく彼女はこちらを煙たがるだろう。憎むべき甲皇国の人間があろうことか魔法を使ってそれを取り締まれないのだから間違いない。
 と、そこまで考えてウルフバードは結論を出した。
 「あの女を追うぞ」
 なんのことはない。彼はとても良い性格なのである。

       

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