Neetel Inside ニートノベル
表紙

ミシュガルド冒険譚
穢れに捧げ、癒し歌:6

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――――


 もう心配はないだろう、と安堵がさざめいていく。
 ロビンはローロたちのもとに戻った。
 「もう津波は来ないようです。交易所の魔法壁も解除されました」
 ローロとアルペジオは胸をなでおろした。
 「そうですか…よかった…」
 「……それじゃあもうアレク書店に帰れるんですか…?」
 アルペジオはおずおずとロビンに尋ねた。
 ローロから借りた上着で極力顔を隠している。
 賢明な判断だ、とロビンは辺りを見回した。
 なにせここにはロンドや子供たちがいるのだ。アルペジオを探す者がいるかどうかも気にかかるが、彼らと接触させるのもまずい。両者が恐慌に陥ること間違いなしだ。
 「そうですね。もう交易所に戻り始めている人もいるようですし、私たちも戻った方がいいでしょう」
 ロビンが森までの道を振り返った時だ。
 「ロビン殿!シンチー殿!」
 安堵と快活さを混ぜたような声が彼を呼び止めた。
 びくりとアルペジオが肩を震わせた。ローロが緊張した面持ちでその声の持ち主を見る。
 しかし、その不安を払しょくさせるかのようにシンチーがローロとアルペジオに向かって大丈夫、と頷いて見せた。
 大丈夫、信頼できる人たちだ。シンチーはこちらに駆けよってくる二人組に目をやった。
 「ゼトセ!…それにゲオルクさん!」
 ロビンの言葉の通り、こちらに向かってきているのは年若い女性と老練な戦士。
 ゼトセは薙刀を手にし、ゲオルクは剣を持っている。
 どうやらロンドたちを助けたのはこの2人だったようだ、とシンチーは考えた。
 「2人とも無事だったのだな!心配したのである!」
 あぁ、とゼトセに頷いて見せながらロビンはゲオルクの方を見た。
 彼は顔をしかめてロビンに尋ねる。
 「ロビン・クルーよ。貴公はあのような化け物を見聞きしたことがあるか?」
 「いいえ。全く」
 即答である。
 期待していなかったようにゲオルクは頷いた。
 「…やはりか。私もあんな巨大な生物は知らない。…何かよくないことが起きそうだ」
 戦いにあけくれ、研ぎ澄まされた勘がそう警鐘を鳴らしている。
 ロビンも同意見だとばかりに頷いた。
 「…私はゼトセと共にまずはここにいる者たちを交易所まで護衛しようと思う。貴公らはどうする?」
 「ご一緒しましょう。俺も彼女らを送り届けたいと思っていたところです」
 護衛は多いに越したことはない。戦績は置いておくとして、ロビンもシンチーも森に住む虫たちと戦うのは慣れっこだ。
 ゲオルクはただし、と付け加えた。
 「本当にこのまま交易所に戻っていいものだろうか…」
 数多の戦場を駆けたゲオルクが会得した経験則。すなわち、「嫌な予感程よく当たる」。
 ゲオルクの顔が憂慮に歪んだ。
 「そうは言ってもこの人たちをこのままここに留めていても危ないのである。」
 一方でゼトセの言うことも一理ある。
 もう津波の危機はない。巨大な化け物が海に見えるといえどもまずは交易所に戻りたいものも多いだろう。
 交易所に住んでいるのは冒険者だけではない。ローロのように交易所で店を営む者や、フリオのような開拓者の家族もいる。
 交易所の外を知らないような彼らに安全が確保できるまでここで待機しろと言うのは酷だろう。そもそもゲオルク達にはそんな権限はない。
 よく見れば化け物の周囲には艦隊も展開している。絶対とは言えないが、軍隊が出動しているというのはどこか安心もある。
 ミシュガルドの秘境からおうちに帰れない訳ではない。ならば帰りたい者を安全に送り届けるのが彼らの責務だ。
 些かの懸念を抱えながらもゲオルクは結論を出した。
 「交易所まで帰りたい者は集まるのだ!我々が森を抜ける手助けをしよう!」
 高台にゲオルクの雄々しい声が響いた。
 彼の声を頼りに人々が集まり始める。ざわざわと不安が未だ燻っているようだ。
 その中で。
 「あっ」
 「おっ、お前は!」
 ロビンの声と女性の声が重なった。
 ゼトセがその声に振り返ると、褐色の肌をしたエルフとロビンが指をさしあっている。
 ダークエルフと思しきその女性は相当驚いていたようで、目を見開いて唖然としている。一方のロビンはそれほど衝撃を受けた顔つきではない。
 「ロビン殿、そちらの方は知り合いであるか?」
 尋ねてみる。すると2人そろって首を振った。
 「いや、別に」
 「こんな奴知り合いなもんか!」
 では一体何なんだろうか。
 小首をかしげるゼトセをゲオルクが呼んだ。
 「ゼトセよ、貴公が先陣をきれ。私とロビンが殿しんがりを務める。シンチー、貴公はここで残った者たちの護衛を頼む」
 一度に全員を交易所まで護衛しきれないためだ。
 一瞬シンチーの目に憂いが生じた。
 が、ロビンが安心させるように頷き、シンチーも不承不承と言った体でゲオルクの命を承諾した。
 最後にロビンの目の前に立つダークエルフを一睨みする。
 「…なんだよ、今回は何もしてないぞ!」
 以前ケーゴの宝剣を奪い、シンチーとロビンにしてやられた彼女は不機嫌そうにシンチーに文句を言った。
 今回ではなく前回の経験から警戒しているんだけどなぁ、とロビンは苦笑する。
 いずれにせよ目の前のダークエルフに後れを取るつもりはない。
 そう結論付けた時だ。先頭を歩くべく森へと向かっていったゼトセを眺めて彼女がロビンに尋ねた。
 「…おい、あの女はお前の知り合いか何かか?」
 「…ゼトセの事か?」
 「そう、あの高そうな薙刀持ってる奴」
 そう言うダークエルフの表情は何かを思い出せないかのように怪訝に歪んでいる。
 ぞろぞろと人々が歩き出した。
 不安げに周囲をおろおろと見回している。
 集団の前方ではゼトセが薙刀を構えて虫の襲来を警戒している。
 ロビンはゲオルクと共に移動を開始しながら彼女に応えた。
 「まぁ知り合いだけど、どうかしたのかい?」
 ゲオルクが非難するような目つきでこちらを見てくる。雑談などして気を抜くな、というところだろう。
 これ以上続けると本当に雷が落ちそうなのでロビンは早めに会話を打ち切ろうとする。
 「…君とゼトセとは特に面識はないようだったけど」
 「いや、そうなんだけどさぁ」
 ダークエルフは思案気に頭に手を当てた。
 「あいつの名前…聞いたことあるんだよ」
 うーんうーんと悩ましげに記憶を探る。
 「どこかで会ったのかなぁ…。んー…ゼトセゼトセ……あっ!思い出した!思い出した!やっぱり会ってたわけじゃなかった」
 ダークエルフはすっきりした面持ちでロビンを見た。
 「ゼトセってアタシらの古い言葉で嘘とか偽りって意味なんだ。昔ばーちゃんが使ってた」
 「偽り…?」
 ロビンは眉をひそめた。彼らの会話を意味にしていたゲオルクも思案気にゼトセの背を見つめる。
 ダークエルフの言葉でゼトセとは「偽り」。
 ゼトセ本人の名前と何か関係があるのだろうか。

     


――――


 「アンネリエ!大丈夫だったか!?」
 安全が確保されたと聞いてケーゴはすぐさまアンネリエのもとにとんでいった。
 既に北門から逃げ出そうとする人混みは解消されていた。間もなく高台に逃れた者たちも帰ってくるだろうということだ。
 アンネリエとベルウッド、そしてピクシーは城門から少し離れた広場でケーゴの帰りを待っていた。
 ケーゴが顔を見せるとアンネリエは一瞬安堵の表情を見せたが、すぐに無表情に戻る。
 それに気づいたケーゴが彼女に声をかけようとする前にベルウッドが彼の頭を思い切り叩いた。
 「あだっ!何すんだよ!」
 「それはこっちのセリフよバカケーゴ!!」
 どうやら本気で怒っているようだ。今までの小喧嘩とは訳が違うほどに眼光が鋭い。
 助けを求めるようにアンネリエの方を見ても目をそらしてしまう。
 何故ベルウッドがここまで怒っているのか、アンネリエはどうしてしまったのか、ケーゴには見当がつかない。
 むしろ交易所を守ってきたのだから労いの言葉をかけてほしいくらいだ。
 ベルウッドはいつもの高い声をさらに高くして怒鳴る。
 「あんたねぇ、変にカッコつけるのはいいけど何でアンネリエを放って行っちゃうのよ!あんたがカッコつけて見せる相手はこの子でしょうが!」
 ケーゴは赤面して逆上した。
 「なっ、お前こそ何言ってんだよ!俺はアンネリエを守ろうと思って交易所の防御に協力してきたんだぞ!?それにアンネリエのことはお前に任せたって言っただろ!?」
 「守りたい女の子を他人に任せる馬鹿がいるかーっ!!あんたは交易所とアンネリエのどっちが大切なのよ!」
 「交易所を守らないとどっちにしろアンネリエは守れないだろ!」
 「あたしはどっちが大切なのか、って聞いてるのよバカケーゴ!」
 次第に視線が集まってくる。2人の言い合いもさらに激しくなっていく。
 「大切かとかそういう問題じゃないだろ!?交易所が津波に襲われたら死ぬっていうから!」
 「その死ぬかもしれないって時にあんたがどっかに行っちゃってどうやってアンネリエを守るつもりなのよ!?」
 「だから!交易所を守りに行ったんだろ!?そうじゃなかったらアンネリエだってお前だって死んでたんだぞ!?」
 「だから何でそこで交易所を優先するのかって聞いてるのよ!!」
 ここまで来ると平行線だ。しかも円を描くように同じ話題を繰り返すだけで解決は望めない。
 激しい口論のさなかで、どうしてだかアンネリエはケーゴとベルウッドと過ごしてきた日々を思い出してしまう。
 一緒にサラマンドル族のお店で焼肉を食べたり、調査報告所に簡単そうなクエストを探しに行ったり。
 口喧嘩ばかりだった訳じゃなかった。
 ベルウッドがにんまりと笑い、ケーゴが不満気に彼女を睨む。そんな彼の周囲をピクシーが少しずれた物言いをしながら飛び回り、そんな彼らを眺めているとケーゴはふわりと自分に笑いかけてくれた。
 こんな時に思い出すことではないはずなのに、どうしても脳内のケーゴとベルウッドはすぐに口論を終えて子供の様に頬を膨らますばかりで。
 それは今目の前で起こっている本気の言い争いとは全く違う、むしろアンネリエが羨ましく思っていたほどのもので。
 これまでにないほどの惨めな気持ちでアンネリエが2人の口論から耳を塞いでいた時だ。
 「おいおい、どうしたんだ2人とも」
 ロビンが慌てた口ぶりでケーゴとベルウッドの間に割って入った。
 やけに人が多いと思ったら、どうやら高台から人々が戻ってきたらしい。
 ロビンが間に入ってもケーゴとベルウッドの言い合いは続く。
 「おっさん!聞いてくれよ!こいつ俺の言うこと何にもわかってくれないんだ!」
 「はぁ!?それ本気で言ってるの!?何にもわかってないのはあんたの方じゃない!もういいわ、行きましょ、アンネリエ」
 「おいちょっと待てよ!」
 ケーゴの言葉を無視してベルウッドはアンネリエを引っ張って行ってしまう。
 アンネリエが彼の方を見ることはなかった。
 「…っ」
 追いかけようとして伸ばした手を弱弱しく引っ込めた。
 ケーゴをマスターとして登録しているピクシーだけが彼のもとに留まった。
 「…あー、ケーゴ君。申し訳ないけど俺はまだ高台に残ってる人たちの方に行かないといけないから、ごめんね。話ならまた聞くからさ」
 そそくさとロビンは北門へと行ってしまった。
 見れば先日酒場であったゲオルクと言う男とゼトセという女性が一緒だ。
 女性と言ってもゼトセは自分より少し年上というくらい。そこまで変わらないはずだ。
 彼女はああして立派に働いて、必要とされている。
 一方自分はこれだ。
 「…何でだよ」
 力なく座り込んだケーゴの肩にピクシーがとまった。
 「マスターケーゴ。私が人間の感情を計算するに、アンネリエ様は寂しかったのではないかと」
 「…寂しかった?」
 わからない。
 どうしてだ。
 守ったはずなのに。
 寂しいってなんだよ。
 アンネリエは何を考えているんだ。
 ケーゴが胸の内を吐露するにはピクシーは小さすぎた。

     


――――


 交易所の術者たちの魔力を根こそぎ消耗させた大津波の被害はしかし、彼らのおかげで最小限に抑えられたかのように見えた。
 一時は全てが津波に押し流されてしまうのではとも思われたが、既に北へ逃げていた人々も交易所へと戻ってきている。
 実際、魔法壁のおかげで城壁より内側に被害は殆ど及んでいない。
 だが、城壁の外では港に停留していた船が破壊され、辺り一面流木や土砂が散乱している。
 打ち上げられた魚がぐったりと横たわり、桟橋も流れて行ってしまったようだ。
 確実に、津波は爪痕を残している。
 変わり果てた港を眺め、兵士はため息をついた。すると近くにいた別の兵士が呆れたように声をかける。
 「おいモブナルド、ため息ついてる場合じゃねーぞ!今から俺たちはここを片付けないといけないんだからな」
 「だからため息をついたんだろ?」
 モブナルドと呼ばれた兵士はそう同僚に愚痴り、改めて港を見回した。
 彼は交易所の警備隊の1人である。
 普段は門番として通行証を預かったり、夜の交易所の見回りを行ったりしている。
 そんな彼がこの非常事態に復興作業に駆り出されるのはしごく当然であるはずなのだが。
 「今日は婚約者と一日中いちゃいちゃしてるつもりだったんだぞ?それがいきなり警鐘がんがん鳴らされて挙句無事だと分かった瞬間仕事の招集がかかるだなんて信じられるか!?」
 彼の不満は止まらない。
 その愚痴を半ば聞き流しつつ別の兵士は作業を開始した。
 どれだけ喚こうが仕事は仕事なのだ。それに交易所の安全のためには自分たちが必要だし、そうあるべきだ。
 どうにもこいつは適性がないな、と内心評価を下しつつ流木を拾い上げた時だ。
 何かが水中に見えた。
 初めはそれが魚影であると思った。
 しかし、それにしては視界の隅を掠めた影は大きかった気がする。
 兵士は水面を覗き込んだ。
 津波のせいでそこの泥が巻き上がり濁っている。その中に。
 「…っ!?」
 何かが、いる。
 それも一匹ではない。
 何匹もの影が水中で蠢いている。
 濁った海水の中でも、気づいてしまえばその黒い影は異様な存在感を放つ。
 「おい、モブナルド」
 その気味悪さに同僚の名前を呼ぶ。
 返事がない。
 あの野郎、もしかしてトンズラしやがったか、と彼の中で苛立ちが嫌な予感を一瞬だけ上回る。
 「おいモブナルド!」
 もう一度、今度は少々の怒気を込めてその名を呼んで振り返る。
 
 初めは何が起きているのか理解できなかった。
 
 同僚の上半身に何か黒いものがまとわりついていた。
 その黒いものはしきりに体を動かしているようだ。モブナルドの身体はびくびくと痙攣し、やがて全身が弛緩したかのごとく崩れ倒れた。
 なおもその黒いものは動き続ける。モブナルドに馬乗りになりつつも前傾姿勢は変えない。それが生き物であるならば絶え間なく動かしている部位は頭にあたるのだろうか。
 本能が嫌悪するような音が動きと共に生じる。
 のろのろとその音が何かを理解し始めるが、兵士はその場が夢の中であるかのように奇妙に落ち着いていた。
 否、落ち着いていたのではない。思考と反射が麻痺していた。
 やがてその黒いものは動きを止め、ゆらりと立ち上がってこちらを見た。
 「…っ」
 魚人だ。
 魚の頭を持ちつつも体は人のそれ。下半身が魚の場合は特に人魚と称されるが、いずれにせよアルフヘイムの海辺で暮らす種族にその姿は酷似していた。
 だが、ここまで全身がどす黒い魚人など見たことがない。
 背丈は成人した人間の腰くらいの高さだろう。腐敗しているがごとく今にも削げ落ちそうな肉体。
 伸ばした腕から黒いものがしたたり落ちる。それが水なのか肉体の一部なのかはわからない。
 開いた口からはうめき声のようなものが聞こえてくる。喉から出た音ではない。まるで深い穴の底から聞こえてくるようだ。
 眼窩はくぼみ、そこに生の気配は感じられない。埋葬された死者が地中から掘り起こされたのではないかと思わせる。
 兵士はその口元に赤色がだらりと滴っているのを認めた。
 倒れたモブナルドを見ると、凄惨に顔や首が抉れていた。赤と黒が混ざり合い、不気味な柄となっている。
 2つを結び付けられないほど愚かではない。
 しかし、それを理解したばかりに彼の脚は根を張ったがごとく動かなくなった。
 べちゃり、とその魚人の骸のようなものが歩を進める。
 背後で似た音がした。
 無理やり首を動かすと、同じような魚人がいる。それも何体も。
 見れば海から地上へと這い上がろうとしているものもいる。
 先ほど見た黒い影はこの魚人だったのだ。
 「何なんだよ…」
 喘ぐように、兵士は問いかけた。
 答えはない。
 魚人たちはのろりのろりと距離を詰めてくる。
 兵士の中で何かが壊れた。ようやく脚が動いた。
 「何なんだよお前たちはぁああああああああああああああっ!」
 絶叫と共に槍を横薙ぎに払った。
 彼らが何者かという疑念よりも、仲間が死んだ怒りよりも、恐怖が彼を突き動かす。
 「ああああああああああああああああああああっ!!」
 魚人は簡単に崩れた。ぐしゃりと周りに黒い肉塊が飛び散る。
 殺せ、殺せ、殺せ。本能が生きろと叫ぶがままに兵士は槍を振り回した。
 だが、胴体を真っ二つに切り裂かれた魚人は、頭を潰された魚人は、腹を突き刺された魚人は、彼に向って歩を進めてくる。
 それが彼の恐怖を加速させる。
 悲鳴とも怒号ともとれるその声を聴き、異常を察知した他の衛兵たちが駆け寄ってくる。
 しかし、彼らもまた仲間が尋常ならざる声をあげながら黒い魚人のようなものを叩き潰しているその光景に愕然とせざるを得なかった。
 兵士の鎧は魚人の肉塊で黒く染まっている。辺りも墨をこぼしたがごとく真っ黒だ。
 彼の鬼気迫る表情はもはや人間らしさすら欠いている。鎧と同様に彼の身体の一部が黒く染まっているのがそれに拍車をかけるのだろう。
 怖い。突如として現れたあの魚人たちも、それと闘う仲間も、そしてあの黒色も。
 恐れおののく兵士たちが、それでも己を叱咤して参戦しようとしたその時だ。
 「あああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 それまで戦っていた兵士が叫びながら槍を落とした。
 自分の見ているものが信じられないと言うように黒く染まった手を見る。
 そのまま叫び続けた彼はしかし、突如として無表情になり自分の手に噛みついた。
 黒く染まっていない部分を食いちぎろうと必死に歯を立てる。
 その間に魚人たちが兵士に群がり、彼の脚にぐじょりと絡みつく。
 均衡を崩した彼は己の肉を食みながら倒れた。そうして魚人に覆い尽くされ彼の姿は見えなくなった。
 その急転直下に参戦しようと武器を手にした兵士たちは再び固まる。
 嫌な音が辺りに響く。
 やがて魚人たちが咀嚼をやめて立ち上がった。
 そう。立ち上がった。胴体を切られた者も、頭を潰された者もいつの間にか元の形を取り戻している。
 そして、あとには鎧を着た人型の真っ黒な何かが残された。
 吐き気を堪え、兵士たちは魚人たちと対峙した。
 その時だ。
 彼らは見た。鎧を着た真っ黒な人間がゆらりと起き上がる様を。
 一人は顔面が削げ落ちているのか全く個人の顔が判別できない。もう一人、先ほど魚人の大群に襲われた方は辛うじて顔が顔であると認識できる。
 二人とも魚人のように全身黒く、肉塊を滴らせている。身にまとう鎧も黒い。
 魚人と共にその2人は衛兵たちの方に向かって歩いてくる。
 それだけではない。気づけば彼らは大量の魚人によって包囲されていた。
 足がすくんで動けない彼らの悲鳴が辺りにこだまし、それが断末魔の叫びに変わった。

       

表紙

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Neetsha