ミシュガルド戦記
16話 傭兵王
16話 傭兵王
月の高い夜だった。
月明かりが帝都マンシュタインの汚れきった街並みを暴き立てる。
マンシュタイン市街を縦断するデーニッツ河は、月影を水面に映し出すこともできない。糞尿や腐乱死体が浮かび、人体に有害な工業排水まで流され、真っ黒なヘドロの流れとなっているからだ。
自然環境が破壊されつくした甲皇国において、農村部は過疎化が進み、都市部にばかり人口が集まっている。この国内最大人口100万の大都市は、ひしめき合うように高層住宅が建ち並び、汚染された自然から逃れるように身を寄せ合いながら人々が暮らしている。
それでも貴族が住んでいる「上町」はそれなりに清潔さが保たれているが…平民や下層民がうごめく「下町」では、上下水道も整備されておらず、糞尿は窓から路地へ投げ捨てられ、悪臭に満ちている。
ホロヴィズの屋敷から脱出したゲオルクは、街並みが一望できる郊外の小高い丘に寝転がり、そんな故郷の姿を眺めていた。
これが見納めになるかもしれない。文字通りクソったれた故郷だが、青春時代を過ごした街でもある。思い入れがまったくないと言えば嘘になる。
あそこの路地でゴキブリの揚げ物を売っていた親父には、よく盗み食いをするなと怒鳴られて蹴飛ばされたものだ。
あっちの崩れかけた廃墟には、童貞を捨てた娼婦の家があった。あの娼婦は、衛生状態が悪い貧民街で体を売り続けたせいで、梅毒に侵され、体中に赤い発疹ができて血を吐いて死んでいった。
その近くには、初めて行った戦争で戦果を挙げ、得た報酬で酒盛りをした安酒場がある。酒場の傭兵仲間どもはまだ生きているだろうか。
甲皇国においては、軍人は甲・乙・丙家の貴族達が士官となり…平民やゲオルクのような下層民は殆どが下士官や兵どまりだ。
特に下層民は傭兵になることを選び、権力に媚びないことを誇りにしていた。
「俺たちゃ傭兵♪ 己の命をチップとして♪ 命知らずの勇者達さ♪ 宮仕えなんてクソ食らえだ♪ 権力には屈しないぜ♪」
肩を組み合い、酒盛りをしたあの傭兵どもは、1~2年ですぐに顔ぶれが変わっていった。どう言いつくろっても戦場は地獄だ。
たった19年余りだが…いや、そういえばもう20歳になったのだったか。
ゲオルクは自分の誕生日をはっきりと知らない。ゲオルクを拾った育ての親の傭兵ガラハドいわく、ゲオルクを拾ったのが冬だったので冬生まれということになっている。
傭兵の道を選んだのは、ガラハドがそうだったというのもあるが、下層民だったからだ。
甲・乙・丙家が治める領地以外で生まれ育った甲皇国民は、すべて下層民とされている。かつて甲皇国が成立する以前、幾つもの小国が群雄割拠していた。甲家に滅ぼされた小国は数多く、それら小国に属していたというだけで差別される下層民達に愛国心など無い。甲家に対する不満から、かつて滅んだ小国の王家の係累なんだと自称する者も多い。そうでも思わなければやっていられない、実に惨めな生活だから。
ゲオルクは、ぎゅっと愛剣の柄を握り締めた。
ホロヴィズの屋敷の倉庫を漁り、ゲオルクは己の愛剣、アルドバランで手に入れた宝玉と指輪も取り戻していた。
すらり、と愛剣を鞘から抜いて確かめる。
柄には特に飾り気は無いが、数々の戦いを潜り抜けてきたというのに、刀身はまだ傷一つつかずに鈍い鋼の輝きを放っていた。
───これは王の剣なのだ。
育ての親であり、剣の師でもある傭兵ガラハドはそう言った。
ガラハドが気まぐれにその剣を譲ってくれた時、甲家に滅ぼされた諸王国王家の忘れ形見だと称していた。
虐げられ、差別されてきた傭兵達の、慰みの法螺話だと思っていたが…。
改めてその剣を見ると、確かにどことなく不思議な力を持っているような気がする。
ひょっとすると、本当に王の剣なのかもしれない。
「ゲオルク」
と、大剣持ちの傭兵ダンディ・ハーシェルが近づき声をかけてきた。
「どうしても行くというのか」
ああ、と短くゲオルクは答えてから、剣を鞘に収めてすっくと立ち上がる。
「愛のために」
「あ、愛だと?」
意外な単語に、ダンディは思わず聞き返してしまう。
「愛する女を奪いに行く。傭兵なら、その腕で、欲しいものは勝ち取るまでだ」
「…だが、相手は甲皇国皇帝。簡単な話じゃない」
ふっとゲオルクは鼻で笑う。
「傭兵は権力には屈しない」
「……」
腕組みをして、ダンディは難しい顔をした。彼もまた、妻子を故郷に置いてきており、愛のために戦う戦士だった。少し話しただけだが、ゲオルクの人となりを見て、単なるちんぴらではない一本気の通った男だと認めていた。
(───だが、それなら尚更、死なせる訳には…)
「ゲオルクよ。お前は既に、単なる一介の傭兵という存在ではないのだぞ…」
ダンディが語ったところによると、SHWではストライア兄弟の出資による「傭兵国家」の建設の話が持ち上がっているという。
アルドバランの浮上により、ハイランドの大地には地獄まで通じているかのような大穴が空き、そこから恐るべき魔物達が湧き出ているという。その駆除をSHWは莫大なコストをかけてせねばならないのを嫌がっている。そのため、周辺住民への被害は広まる一方。
「お前がアルドバランなんぞを浮上させてしまったばかりにな」
「……俺の責任だというのか」
「すべてとは言わぬが、一端の責任はある。そして、“傭兵国家ハイランド”を建設し、魔物の駆除と治安維持を一挙に成し遂げようという訳だ。その傭兵達の王として、お前が推挙されている」
「俺が……王、だと!?」
「そうだ。まぁ、ストライア兄弟による傀儡国家だがな。SHW周辺にはそうした小国家が数多く成立している。知っての通り、SHWは甲皇国やアルフヘイムからの亡命者が多く集まってできた国だ。しかし、余りSHWだけが大きくなってしまっては目をつけられてしまうし、稀に亡命者を返還せよと要求が来ることもある。そうした要求をかわすため、独立した主権国家を別に作ろうという訳さ」
「なるほどな」
「世界中の傭兵が、お前を待ち望んでいる。あのハイランドの迷宮をたった一振りの剣だけをもって攻略し、伝説の天空城アルドバランを復活させたお前を」
「……」
「お前こそが、“傭兵王”を名乗るに相応しい男なのだ!」
唾を飛ばし熱っぽく語るダンディに、ゲオルクは背を向けた。
「王ならば、后が必要だ」
「こいつめ…!」
上手いこと言ったつもりか! 罵声を浴びせつつも、ダンディはゲオルクの背を追った。
向かうは皇居グデーリアン城。
浚われた王妃エレオノーラを救出するのだ。
月の高い夜だった。
月明かりが帝都マンシュタインの汚れきった街並みを暴き立てる。
マンシュタイン市街を縦断するデーニッツ河は、月影を水面に映し出すこともできない。糞尿や腐乱死体が浮かび、人体に有害な工業排水まで流され、真っ黒なヘドロの流れとなっているからだ。
自然環境が破壊されつくした甲皇国において、農村部は過疎化が進み、都市部にばかり人口が集まっている。この国内最大人口100万の大都市は、ひしめき合うように高層住宅が建ち並び、汚染された自然から逃れるように身を寄せ合いながら人々が暮らしている。
それでも貴族が住んでいる「上町」はそれなりに清潔さが保たれているが…平民や下層民がうごめく「下町」では、上下水道も整備されておらず、糞尿は窓から路地へ投げ捨てられ、悪臭に満ちている。
ホロヴィズの屋敷から脱出したゲオルクは、街並みが一望できる郊外の小高い丘に寝転がり、そんな故郷の姿を眺めていた。
これが見納めになるかもしれない。文字通りクソったれた故郷だが、青春時代を過ごした街でもある。思い入れがまったくないと言えば嘘になる。
あそこの路地でゴキブリの揚げ物を売っていた親父には、よく盗み食いをするなと怒鳴られて蹴飛ばされたものだ。
あっちの崩れかけた廃墟には、童貞を捨てた娼婦の家があった。あの娼婦は、衛生状態が悪い貧民街で体を売り続けたせいで、梅毒に侵され、体中に赤い発疹ができて血を吐いて死んでいった。
その近くには、初めて行った戦争で戦果を挙げ、得た報酬で酒盛りをした安酒場がある。酒場の傭兵仲間どもはまだ生きているだろうか。
甲皇国においては、軍人は甲・乙・丙家の貴族達が士官となり…平民やゲオルクのような下層民は殆どが下士官や兵どまりだ。
特に下層民は傭兵になることを選び、権力に媚びないことを誇りにしていた。
「俺たちゃ傭兵♪ 己の命をチップとして♪ 命知らずの勇者達さ♪ 宮仕えなんてクソ食らえだ♪ 権力には屈しないぜ♪」
肩を組み合い、酒盛りをしたあの傭兵どもは、1~2年ですぐに顔ぶれが変わっていった。どう言いつくろっても戦場は地獄だ。
たった19年余りだが…いや、そういえばもう20歳になったのだったか。
ゲオルクは自分の誕生日をはっきりと知らない。ゲオルクを拾った育ての親の傭兵ガラハドいわく、ゲオルクを拾ったのが冬だったので冬生まれということになっている。
傭兵の道を選んだのは、ガラハドがそうだったというのもあるが、下層民だったからだ。
甲・乙・丙家が治める領地以外で生まれ育った甲皇国民は、すべて下層民とされている。かつて甲皇国が成立する以前、幾つもの小国が群雄割拠していた。甲家に滅ぼされた小国は数多く、それら小国に属していたというだけで差別される下層民達に愛国心など無い。甲家に対する不満から、かつて滅んだ小国の王家の係累なんだと自称する者も多い。そうでも思わなければやっていられない、実に惨めな生活だから。
ゲオルクは、ぎゅっと愛剣の柄を握り締めた。
ホロヴィズの屋敷の倉庫を漁り、ゲオルクは己の愛剣、アルドバランで手に入れた宝玉と指輪も取り戻していた。
すらり、と愛剣を鞘から抜いて確かめる。
柄には特に飾り気は無いが、数々の戦いを潜り抜けてきたというのに、刀身はまだ傷一つつかずに鈍い鋼の輝きを放っていた。
───これは王の剣なのだ。
育ての親であり、剣の師でもある傭兵ガラハドはそう言った。
ガラハドが気まぐれにその剣を譲ってくれた時、甲家に滅ぼされた諸王国王家の忘れ形見だと称していた。
虐げられ、差別されてきた傭兵達の、慰みの法螺話だと思っていたが…。
改めてその剣を見ると、確かにどことなく不思議な力を持っているような気がする。
ひょっとすると、本当に王の剣なのかもしれない。
「ゲオルク」
と、大剣持ちの傭兵ダンディ・ハーシェルが近づき声をかけてきた。
「どうしても行くというのか」
ああ、と短くゲオルクは答えてから、剣を鞘に収めてすっくと立ち上がる。
「愛のために」
「あ、愛だと?」
意外な単語に、ダンディは思わず聞き返してしまう。
「愛する女を奪いに行く。傭兵なら、その腕で、欲しいものは勝ち取るまでだ」
「…だが、相手は甲皇国皇帝。簡単な話じゃない」
ふっとゲオルクは鼻で笑う。
「傭兵は権力には屈しない」
「……」
腕組みをして、ダンディは難しい顔をした。彼もまた、妻子を故郷に置いてきており、愛のために戦う戦士だった。少し話しただけだが、ゲオルクの人となりを見て、単なるちんぴらではない一本気の通った男だと認めていた。
(───だが、それなら尚更、死なせる訳には…)
「ゲオルクよ。お前は既に、単なる一介の傭兵という存在ではないのだぞ…」
ダンディが語ったところによると、SHWではストライア兄弟の出資による「傭兵国家」の建設の話が持ち上がっているという。
アルドバランの浮上により、ハイランドの大地には地獄まで通じているかのような大穴が空き、そこから恐るべき魔物達が湧き出ているという。その駆除をSHWは莫大なコストをかけてせねばならないのを嫌がっている。そのため、周辺住民への被害は広まる一方。
「お前がアルドバランなんぞを浮上させてしまったばかりにな」
「……俺の責任だというのか」
「すべてとは言わぬが、一端の責任はある。そして、“傭兵国家ハイランド”を建設し、魔物の駆除と治安維持を一挙に成し遂げようという訳だ。その傭兵達の王として、お前が推挙されている」
「俺が……王、だと!?」
「そうだ。まぁ、ストライア兄弟による傀儡国家だがな。SHW周辺にはそうした小国家が数多く成立している。知っての通り、SHWは甲皇国やアルフヘイムからの亡命者が多く集まってできた国だ。しかし、余りSHWだけが大きくなってしまっては目をつけられてしまうし、稀に亡命者を返還せよと要求が来ることもある。そうした要求をかわすため、独立した主権国家を別に作ろうという訳さ」
「なるほどな」
「世界中の傭兵が、お前を待ち望んでいる。あのハイランドの迷宮をたった一振りの剣だけをもって攻略し、伝説の天空城アルドバランを復活させたお前を」
「……」
「お前こそが、“傭兵王”を名乗るに相応しい男なのだ!」
唾を飛ばし熱っぽく語るダンディに、ゲオルクは背を向けた。
「王ならば、后が必要だ」
「こいつめ…!」
上手いこと言ったつもりか! 罵声を浴びせつつも、ダンディはゲオルクの背を追った。
向かうは皇居グデーリアン城。
浚われた王妃エレオノーラを救出するのだ。
帝都マンシュタイン中心部にそびえ立つ皇居グデーリアン城。その周辺を、貴族達が暮らす上町が取り囲むように華麗な屋敷が建ち並ぶ。薄汚れてはいるが夜でも活気のある下町とはまるで違う。ごみ一つなく清潔に保たれているが、しんと静まり返り、月明かりだけが仄かに街中を青白く照らしている。戦争による燃料需要により、国内では灯火管制が敷かれて久しい。このような月の高い夜でなければ、一歩も外を出歩くこともできない真っ暗闇だっただろう。
(まるで死人の町だな)
ゲオルクとダンディは、周囲を警戒しながらも、その上町を足早に駆けていた。
人影どころか生きて動くものもいない。それは死人の町か、もしくは管理された精密機械の工場のような印象を与える。
実際、この上町は、甲皇軍が開発した近代兵器──無人の自動機械兵──だけが、ガションガションと無機質な足音を響かせて巡回しており、不審な人物がいれば問答無用で攻撃される。
だが、なぜか一向に、その自動機械兵が襲ってこない。
ゲオルクは気づいていなかったが、それは彼が懐に忍ばせているアスタローペの宝玉のおかげだった。
アルドバランの出入りにしか使えないとシャムが言っていた宝玉だが、実のところはミシュガルドびとの貴族の証であった。
宝玉を持つ限り、ミシュガルド流用の技術を応用して造られた自動機械兵からの攻撃は受けないのだ。
巡回する自動機械兵とばったり遭遇しても、それらはまるでゲオルクのことなど見えていないかのように、無機質な足音を響かせて通り過ぎていく。
ともかく、これはチャンスであった。
このまま一気に皇居に向かおうと、はやる気持ちを抑え切れず、ゲオルクは足早に駆け出し───
「止まりなさい!」
だがしかし、障害はまだあった。
いんいんと大きく響き渡る警告の声。
凛々しいが、トーンの高い女性の声のように聞こえたが、聞き間違いだろうか。
ゲオルクはぎょっとしてその声がした方と向き合った。
にゅるりと蠢く大蛇の尾、大きな牙をむき出しにした肉食獣の虎の顔。体も毛むくじゃら…。それは“鵺(ぬえ)”という伝説上の妖怪であった。巨体のゲオルクでも一呑みにしてしまいかねないほど、でかい。ハイランドの迷宮で数々の魔物と戦ったゲオルクも、初めて見る異形の姿。
「こいつは厄介そうだな」
ゲオルク、ダンディはそれぞれ剣を抜き、怯むことなく鵺に対峙する。
鵺は大蛇の尾を走らせ、二人を威嚇する。
(───あんな、おじいちゃんが結婚相手だなんて、あんまりだわ……)
(───エレオノーラ様……)
(───ハシタ! 私、どうしたらいいの……逃げられるものなら逃げたい……)
その鵺の正体は、亜人差別をする丙家を監視するアルフヘイムからの密偵部隊、その一人、鵺の亜人ハシタであった。
心を盗み見ることができる“覚(さとり)”の亜人である丙家監視部隊長トクサは、ホロヴィズの屋敷から脱出して皇居に向かおうとするゲオルクの動きを察知していた。
(───戦争を早期終結させるには、この国の皇帝の首をすげ替えるしかないでしょう)
トクサは、そう乙家の重鎮ジーン伯爵に囁く。
その様子をハシタも目にしている。
(───そう、これはやむを得ないことなのだわ)
ハシタはそう思い、獣の牙を剥き、ゲオルクとダンディを威嚇した。近づくものなら近づいてみろ。その頭、噛み千切ってやるぞと。
だが躊躇せず、ゲオルク、ダンディは別々に走った。狙いを定まらせないようにと、別方向から切りかかろうというのだ。
ハシタの対応も素早い。ゲオルクに対しては虎の顔で威嚇し、背後から迫り来るダンディに対しては大蛇の尾が別個の生物のように蠢いて牽制する。
(───でも、娘の、女としての幸せは……)
(───大事の前の小事。政略結婚、大いに結構! 貴族としては当たり前の話だ。甲皇国の為、平和の為に! 貴族の責務(ノブリス・オブリージ)を果たさねばなりません!)
ためらうジーン伯爵に、トクサはそれが物事の道理だというように、強い口調で語りかける。
「おのれ!」
ゲオルクが手傷を負うのも構わず、長剣を振るった。ハシタの体に長剣が刺さろうとする。
「させナイよ」
金属音が響き、ゲオルクの長剣は何かで弾かれた。
ハシタの影がにゅっと伸びて、そこから影法師の亜人ロウが現れる。
短めの刀子──忍者が使う特殊な刃物クナイを手にしたロウは、ハシタを守るように身構えている。
これで2対2。凄腕の傭兵であるゲオルクとダンディだが、相手もまた只者ではない。
しかも、鵺と影法師という、ゲオルクもダンディも初めて目にする特殊な戦い方をする相手。
(───女の、幸せ……)
同じ女であるハシタは、トクサの言う道理は分かるが、それでも胸が痛むのを感じていた。
「ハシタ!」
咎めるように、ロウが叫ぶ。戦いに集中しろ! そう、ロウの真っ暗な洞のような目が語りかけていた。
(───分かっているんでしょうねぇ、ハシタ!)
トクサの声が、ハシタの頭の中に響いた。幻聴だろうか、頭をぶるぶると振る。
「危なイ!」
再び、ロウが叫んだ。
「おおお!」
ダンディが両手で持つ大剣を一閃した。決して小柄ではないダンディの身の丈よりも大きなバスタードソード。破壊力は凄まじく、ハシタもそれを食らう訳にはいかないと、後ずさった。
ロウの叱責がなければ、ハシタは危ういところだった。
「ハシタ、何をやってイる…! 相手は“プロ”だ。集中しないと、こちらが殺らレる!」
ロウはその任務の性質上、人と話す機会がとても少ない。言語能力が少し衰えており、やや訛りがある喋り方をする。そんな彼が珍しく饒舌に警告してくるほど、危ういところだったということだ。ロウもまた長命の亜人だが、実のところまだ20才になったばかりである。それでも戦いの経験は豊富であり、ハシタとの付き合いも長い。彼女の戦い方に迷いがあるのを見抜いていた。そして影法師という暗殺や密偵に向いている亜人であるロウは、正面から堂々たる戦士と戦うには分が悪いと思っている。やはりハシタにしっかりしてもらわないといけないのだ。
(───ハシタ、しくじったら…分かっているんでしょうねぇ…おしおきですよ!)
ハシタの目蓋に、トクサの顔が浮かんだ。
ひょうげた声で言うトクサだったが、目が笑っていなかった。普段とは違う、親しみの欠片も無い作り笑顔は、はっきりと任務はこなせとハシタに言っていた。
ハシタは咆哮する。不気味で、恐ろしい、獣の叫び。
その夜、外を決して出歩かない上町の人々は、すっかり目覚めており、家々の中で震えながらその様子を目撃していた。
ただの亜人でも化け物と恐れる甲皇国の人々は、化け物中の化け物である鵺の姿は、それこそ地獄から来た大悪魔のように恐ろしい。
(───ば、化け物…!)
(───恐ろしい、何だあの不気味な姿は…!)
(───醜く、奇怪な…! 早く消えてなくなれ!)
上町に住む甲皇国の貴族達の恐れと差別の眼差しは、その密やかなる囁きと共に、痛いほどハシタに届いていた。
「甲皇国の人々の考えを変えるためには、亜人差別をしない皇帝の誕生が必要……だから、あなたにここを通させるわけには、いかない!」
ハシタの迷いは晴れた。唸り声を上げながら、彼女は凶暴な虎の爪を繰り出した。
「…ぬう!」
凄まじい一撃に、ゲオルクは怯む。すんでのところでかわすが、麻布の上着が切り裂かれた。
ゲオルクの鍛え抜かれた筋肉の鎧のような上半身は、生々しい傷跡が無数に走っていた。
よく見ると、ところどころ新しい傷跡が回復しきれず、ぽたり、ぽたりと流血している。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ゲオルクは体力が消耗するのを隠し切れない。アルドバランでの戦い、ホロヴィズの屋敷で受けた拷問……既に、気力だけで立っているようなものだ。
(この人は……そんな体で、まだエレオノーラお嬢様を救おうと……)
再び、ハシタに迷いの影が差す。
両者は対峙しつつも、互いに攻め手に欠けており……と、そこに。
ハシタの足元に何かが転がってきて、こつん、と当たった。
ゲオルクが懐に忍ばせていたものが、上着が切り裂かれて落としたらしい。目玉がぎょろっと不気味に蠢く黒い指輪だった。
「これは…?」
不用意だった。ハシタはそれを爪にひっかけて拾った。
はたして、指輪は黒い輪の部分を生物のようにハシタの爪に絡みつかせる。きゃあ!っと少女のように驚いてハシタがそれを外そうとするが、へばりついて外れない。
指輪の目玉が瞳孔を広げ、その金色の瞳が光った気がした。
と同時に、地面から無数のピンク色の触手がほとばしった!
「い、いやぁーーーっ!!」
触手がハシタの巨体に絡みつき、ねばねばとした気持ち悪い粘液がぬるぬるとまとわりつく。
もはや戦いどころではなかった。ハシタは鵺の姿のままではいられなくなり、元の少女の姿に戻る。
ピンク色の触手はまるで男性性器を先端につけた巨大な蛸の足のようで、ウネウネと蠢き、ハシタを拘束して離さない。
ゴゴゴゴゴゴ…。
地鳴りが響く。
触手の根本の方から、地面を割り、巨大なイソギンチャクのような化け物が現れる。
それも何百、何千体とだ。
上町の界隈は、謎の奇怪な触手化け物によって埋め尽くされていた!
その魔物は、“歩くオナホール”と呼ばれるローパーという淫魔の一種であった。
ミシュガルドに多く生息していた魔物なのだが、当然その場にいる誰もが初めて目にする。
「な、なにこれ……しゅごいぃぃ……」
ハシタは、触手のなすがままとなり、今やローパー本体に捕食されていたが…その表情は、恍惚としていた。
そう、気持ちいいのだ。ローパーの触手から分泌される粘液には、催淫効果があり、女性であれば誰もがその虜になってしまう。オナホールと言いつつそれは形だけのことであって、どちらかと言えば女性向けバイブローターマシーンのようなものなのだ。
ゆえに捕食……と言っても、実のところ無害である。いや、貞操には大いに脅威だが。
ひとしきりハシタを陵辱したローパーは、ぺっと裸になって伸びているハシタを吐き出すのだった。衣服だけ溶かされていた。
「何だこれは…」
呆然とするゲオルクやダンディだが、ローパーはまったく彼ら男臭い連中には興味を示さず、彼らが近づいてもさっと避けていく。女性の匂いにだけ引き寄せられる習性があるようだ。
今や帝都は、ローパーの大量発生により、混乱と嬌声の阿鼻叫喚の騒ぎとなっている。
帝都にどれだけ女性がいるか分からないが、100万の人口をすべて大混乱に陥らせるだけの数のローパーは出てきているようだ。
すべてはゲオルクが持っていたあの不気味な指輪…ミシュガルドでの名前は“魔触王の指輪”のせいなのだが…。
街角のあちこちで、貞淑な妻も、男を知らない処女も、まるで下手な娼婦のように喘ぎ声をあげまくっている。
ロウは裸のハシタに目のやりどころに困りながらも、おろおろしていた。主戦力のハシタが伸びてしまっては、ロウ一人ではゲオルクとダンディには抗えない。
そして皇居の警備も、この騒ぎでは機能しない。
ゲオルクとダンディの二人は、これはチャンスだなと頷き合う。
易々と、二人は皇居に侵入していくのだった。
皇居グデーリアン城にもローパーは大量発生していた。
普段は澄ました顔をした貴族の令嬢、女官達も穴という穴を犯され身悶えしている。愛しの女性達を救おうと、男達が武器を手にローパーに立ち向かうが、ぶよぶよした表面は容易には貫くことができない。思いのほか弾力と耐久性が高い魔物なのだ。
「ワッハハハッ、とんでもない事になっているな」
「……知ったことか」
大爆笑するダンディ、仏頂面のゲオルク。
二人は皇居の回廊を堂々と走り抜けていた。
衛兵が彼らを見咎めるが、ローパーによる混乱でそれどころではなかった。
余談だが、この事件は黒歴史となり、表向き語られることはなかった。当時、帝都にいた甲皇国人女性のほぼ全てがローパーなどという下賎な魔物によって非処女にされてしまったのだ。なるべく隠しておきたい国家的恥辱に他ならない。(庶民の間では誰もが忘れられず、長年語り継がれるが)この事件の後に生誕した子供達は、「やーい、お前のとーちゃんローパーだろ~」というのがお決まりのイジメ文句になったというから笑えない。(ローパーに人間への生殖能力は無いと言われているが、人間のような形をしたローパーの亜種もいるというので、定かではない)
ただ悪いことばかりではなく、この時発生したローパーはひとしきり帝都の女性達を犯し尽くした後、郊外の地中へと逃れ野生化していった。荒れ果てた甲皇国の大地だろうが、構わずローパーは繁殖していく。(どうやって繁殖しているのかはまだ解明されていない)
そして慢性的に食料不足の甲皇国で、野生化したローパーを狩って食べるという手段ができて、食料自給率が僅かに好転したのだ。ローパーの蒲焼は弾力がある蛸のような食感が好評で、しかも精力増強に良いということで、甲皇国名物料理となった。
更に余談となるが、ローパーは甲皇国の風俗産業を飛躍的に発展させた。ローパーの粘液には催淫効果があるので媚薬として使えるし、普通の男女のまぐわいしか無かったところに、ローパーの粘液や触手が取り入れられたことによる高度で知的な性的遊戯がどんどん開発されていったのだ。他国に比べ、甲皇国人に様々な性的倒錯者が多いのはこれが理由である。性の都として帝都マンシュタインは世界中の変態どもに崇められることとなる。ローパー印のラブローションやオナホールの開発・輸出などなど。その経済効果は計り知れず、外貨獲得にも寄与した。
もう少し余談となるが、ローパーを大量発生させた魔蝕王の指輪だが、このような大量召還はこの時一度きりのことであった。道端に転がっていた指輪を拾った甲皇国の研究者が調べたところによれば、指輪が召還できるローパーの数は「どれだけ召還していなかったか」の期間によるという。つまりこの時に大量召還できたのは、長年アルドバランで眠って使用されていなかったからだという。普段は1日1ローパー程度の召還しか難しいようだ。つまり例えるなら、男性のオナニーのようなものというか、ずっとオナ禁していて久々に射精したら大量に出ちゃったというアレである。
それでも指輪は甲皇国の戦略兵器として利用され続け、戦時中ということもありアルフヘイムから捕らえた捕虜のエルフを拷問したり篭絡したり堕落させたりするのに使用された。
……などなど、様々な影響があった訳だが、そもそもは指輪を甲皇国にもたらしたゲオルクが諸悪の原因…と、言えるのかも…いや、そうに違いない。
「やっぱりよ、お前が持っていた指輪のせいじゃね?」
「…知らん! 俺は何もやっていない!」
などと、犯人は意味不明の弁明をしていた。
皇居グデーリアン城内は、大量発生したローパーの分泌する淫靡な粘液が空気に溶け込み、薄いピンク色の霧がたちこめ、息をするだけでむせ返りそうになる。その霧のために、ローパーに犯される女達のおぞましい痴態がぼやけて見えなかったが、それは彼女達にとってはせめてもの幸いだったかもしれない。
エレオノーラが心配だ。皇居までこんな状態では無事では済まないかもしれない。ゲオルクは半ば覚悟をしながら、后や女官が暮らしているという後宮を目指した。
「エレオノーラ!」
「ア…アアアァッ……アーーーッ」
返ってきたのは耳をつんざくような喘ぎ声。
遅かったか…!
ゲオルクは絶望しつつ、薄ピンク色の霧を掻き分け、長剣でローパーを退治しようとする。
だが様子がおかしい。魔物の気配はするが、どうも他のローパーとは形状が異なるようで…。
「キシャアア!」
霧を掻き分け、現れたのは裸の女のような人影だった。
だがそれは、人間の皮を被った魔物という印象をゲオルクに与えた。異様に長い舌を伸ばし、口腔内も人のそれとはどこか違った形状をしている。たゆんたゆんで豊満な胸や尻をしており、ゲオルク好みではある。だが不思議と劣情は感じないというか、むしろその豊満な体は男を誘い出すためだけの疑似餌のような──そんなおぞましさだけが先立つ。外見だけなら人間の女に見えなくもないが、中身はまったく違う何かだろう。禍々しい舌つきは、捕食者が獲物を前にしているような、何か動物的というか魔物的というか──ともかく、ゲオルクはこれは敵だと本能的に感じた。
「退け!」
長剣を振るうが、そいつは思ったより俊敏な動きで、あっさりとかわされてしまう。
「………」
ゲオルクの相手をするのは得策ではないと判断したのか、戦いは不得手だったのか、そいつは怯えたように走って逃げていった。
「何だったんだあいつは」
それは当然ゲオルクも初めて見る魔物だったが、ローパーの亜種でローペリアというもので…。
「無事か、エレオノーラ!?」
「あ、はい」
ゲオルクが部屋の中に駆け寄ると、思ったより元気そうなエレオノーラが呆気に取られながらも返事をした。衣服も溶かされてはいないようだ。
その代わり、部屋の床で伸びていたのが…。
「私より、皇帝陛下が大変なことに……」
「…!?」
エレオノーラの傍らに、でっぷりと太った醜い裸体を晒しながら、全身を粘液まみれにしつつ、恍惚の表情を浮かべているその老人こそが…。甲皇国の頂点に立つ男、皇帝クノッヘンその人であった。
ローパーの亜種ローペリアは、女ではなく男を狙って犯そうとしてくるローパーなのであった。
皇帝クノッヘンは、ローペリアの口腔によってフェラチオを繰り返され精液を搾り取られた後、触手舌で尻穴を犯されつくされていたのであった。60も過ぎた老人に、ローペリアの“搾取的な”淫撃は余りにきつかったのだろう。皇帝の全身は粘液だらけだが、同時に汗やら涙やら小便やら、あらゆる体液が漏れ出てぐっしょりと床に滴っていた。
「むぅ……」
にっくき皇帝だったが、こうも無残な姿を晒しているとなると少し哀れに感じてしまう。そうか、あの喘ぎ声は皇帝のものだったのか…。そういえば、どこか野太かったな。
「もう、おっかしいのよー」
元気そうに、朗らかにエレオノーラは笑った。夫である皇帝が憎いのは彼女も同じだった。痴態を晒す夫を前に、呆気に取られながらもいい気味だと嘲る。皇帝の痴態は、泣き叫ぶだけで気弱だった彼女に少しの変化を与えていた。
「男なんて、実はたいしたことないのね」
夫は60も過ぎた老人ということもあり、何回も続けてすることはできないし、1回だけするのでも異様に全身汗だらけとなって苦悶の表情を浮かべているのだ。勃起するのも一苦労という。“わしを満足させてみよ”なんて偉そうに言っていたが、逆に妻を満足させることはできないのだ。
「それにあの人…どうも他の男の人に比べると小さいらしいのよ! 女官の皆さんに聞いたから、これは確かだわ!」
鼻息荒く憤るように言うエレオノーラに、ゲオルクは興味をそそられ、裸体で気絶する皇帝を検分した。
「うむ。猿のように子供を多く作っているというからどの程度の一物かと思えば……これでは10歳の子供程度だな」
「やっぱり!? それにこの人、成人女性より小さな男の子の方が好きっていうんだから、救いがたい変態よね!」
「ああ、たぶんそれは、こいつが短小だから、他の男と比べられるのが嫌なんだろうな。自分と同じぐらいのモノしか持たない小さな男の子しか愛せないんだろう」
と、冷静に分析しながら、ゲオルクは嘆息した。
俺はこんな哀れな男を相手に、何をむきになっていたんだろう。
一時は殺してやろうとも思っていたが、すっかりそんな気も失せてしまっていた。
ローパーの出す淫靡な空気にあてられたという訳では無いが…。
ゲオルクは思いの丈をエレオノーラに告白し、彼女もそれを受け入れた。無様な夫が気絶しているその横で、エレオノーラはゲオルクに抱かれることを、夫への復讐と考えたのだった。
処女ではなくなっていたが、それでもエレオノーラは清楚な美しさを持つ娘だった。肩に栗毛を遊ばせながら、上等な薄絹の肌着をまとったその姿は、ほっそりと頼りなくて、痩せぎすな少女さえ連想させる。ただ、なるべきところは女として十二分に実っていた。菱形に群生する恥毛の様子や、すっと縦に走ったへその線や、ツンと尖ったピンク色の乳頭からなだらかな稜線を描く豊かな乳房、その根元から白鳥の首のような腕につながる優美な腋の造形まで。余すところなく、ゲオルクは隅々まで観察しながら、それらが全て己の物になったことに信じがたい思いを抱いていた。
俺の女だ。俺の女なんだ。甘い体臭を吸いながら、こんな思いはゲオルクも初めてのことだった。
初めての女という訳ではない。帝都の娼婦をしょっちゅう買っては有り余る精力を解放していた。地獄のような戦場から生き延びた後、生存本能からだろうか、女を抱かずにはいられなかった。
一人の女に捕まるなんて。家庭を守り、妻だけを愛する一穴主義なんて、とんだ間抜け野郎さ。そううそぶく傭兵連中は多い。ゲオルクとて感化され、そう思っていた。
結婚は女のためのものだ。やるだけなら買うか奪うかすればいい話だ。だがそれは、つまるところ“愛”なんて感情が芽生えたことがない身勝手な男の理屈だったのだ。
「結婚しよう、エレオノーラ」
何度もまぐわった後に、感極まったゲオルクはそう告白する。
かつてジーン伯爵の屋敷で、庭から窓ごしに彼女に告白した時とは違う。己の腕の中に、今、彼女は満足げに横たわっている。
よもや断られることはない。そう思っていたが。
「お断りします」
そう、にっこりとエレオノーラは微笑みの爆弾を投げかけた。
ローパーの大量発生による帝都擾乱も、徐々に秩序が取り戻されつつあった。ローパーは男達が攻撃してくるのを物ともしていなかったが男臭いのは嫌がっており、女達を犯かすのに飽きてくると悠々と帝都郊外へと逃れていったのだ。
秩序が取り戻されてくるとなると、皇居に侵入したゲオルクとダンディも危うい。二人は早々に脱出を図らねばならなかった。
「何をぐずぐずしている。急げ、ゲオルク!」
「ああ…」
「触手の化け物どもの数が減ってきている。手が余った衛兵どもが集まってくると厄介だぞ! 俺は、お前を生きたまま、ハイランドに連れて帰らねばならんのだからな!」
「分かって…いる…」
叱責するダンディに対し、ゲオルクは力なく項垂れながら答える。動作もこれまでとは別人のように鈍い。
エレオノーラに拒絶されたことが、こたえていた。
「結婚に真実の愛なんて無いわ。全てが計算され、要求され、強制されているだけ。虚飾に満ちた形だけがあって、あなたが言う“愛”というものもたちまち堕落していくのだわ」
女は冷たく突きはなすように言った。瑞々しい唇が動いているのに、喉から押し出される声も、老婆のように低く、どすがきいたものとなっている。
「そ、そんなことは無い」
男も抗弁するが、意志を固めた女のエメラルドグリーンの瞳は少しも揺らがない。
「私を愛しているのね?」
「もちろんだ。何百回何千回だって言ってやる。愛しているんだ、エレオノーラ」
「ならゲオルク、私を信じて。結婚なんて強いられた義務に縛られることなく、私はあなたを愛する」
愛の結実としての結婚ではない。ただ愛したいから、男を愛する。与えたいから、男に与える。エレオノーラはそのような無償の愛、何も見返りを求めない愛を思っていた。愛と結婚は別なのだと。親から政略結婚を強いられた彼女ならではの考えであった。そう、女を政治の道具としてしか考えない女性蔑視の社会への、これは反逆なのだと。
「大丈夫。愛の証は、もう私は手に入れた」
腹を撫で、エレオノーラは微笑む。
「私はあなたの子を産むでしょう」
「むぅ…」
「あんなに出しておいて、妊娠していない訳ないでしょう」
と言って、エレオノーラは頬を薔薇色に染める。
ゲオルクは瀕死に近い重傷を負っているというのに、いやだからこそか、子孫を残そうとする本能が働いていた。
エレオノーラは、そっと白魚のように華麗な指先をゲオルクの鷲のような大きな鼻へあてがう。そうして、まるで子供をあやすように諭してくるのだった。
「だから安心して。今じゃない。今じゃないのよ、あなたの元へ行くのは。この子をこの国で産み、育て、それからじゃないと……私は、乙家の伯爵ジーンの娘エレオノーラ。甲皇国の皇后として、その義務を果たさなければならないのよ」
「だが!」
ならば、ハイランドの王妃となってくれ。ゲオルクはSHWのストライア兄弟から出資を受け、新国家を建国するという話があることまで明かし、必死に説得した。
───お前を他の男に渡したくない。
つまるところ、ゲオルクがしきりに結婚を口にするのはそれが理由に他ならない。
愛したいから、愛するのだと言われれば、この女の心を失いはすまいかと心配になる。与えたいから、与えるのだと言われれば、この女は他の男に身を委ねてしまわないかと気が気でない。なんとなれば、意志を持った女達は、心から愛しているのだから、なにも恥じることはないと、迷わずにセックスを肯定してしまうのだ。
恋愛至上主義というのは、だから浮気者の男にとっては都合が良いが、独占欲が強い男にとっては都合が悪い。
だが、道具であることを否定し、自立した女はもう迷わなかった。
「そんな夢物語には乗れないわ」
そして女は、現実的だった。
ハイランドなどという成立してもいない零細国家ではなく、世界の三大国の一角である甲皇国皇后である立場で子を産みたいと考えた。
「もう、行ってちょうだい。ゲオルク。ここにいてはまずいわ。ええ、邪魔よ。私の、女の戦場に、あなたは必要ないの」
皇居グデーリアン城を脱出したゲオルクとダンディは、そのまま帝都マンシュタインの郊外へ向かう。そこで待っていたのは、あのSHWの奴隷商人ボルトリックであった。
「おーう、待っていたぜ~! さぁ、こいつに乗りな!」
ボルトリックが親指を背後に向けて示したそこには、SHW製の飛行船があった。飛行船技術で甲皇国に後塵を喫しているものの、そこは商業国家SHWらしく、技術をぱく…研究して、独自に開発していた。
「ボルトリック!?」
意外な人物の登場に驚くゲオルクに、ボルトリックはにやりと笑う。
「ゲオルクよ、傭兵国家の話は聞いているぜぇ? 俺も協力してやるよ。その代わり、俺をお前の国の御用商人にしてくれや」
功罪併せ呑むことができるボルトリックは、お人よしのゲオルクにはできない悪徳にしてぼったくりの商業手腕を発揮し、大いにハイランド建国の役に立ったのだが、それはまた別の話で…。
ともかく、ボルトリックが手配した飛行船に乗り込み、慌しく甲皇国を出発した。向かうは東方大陸の辺境ハイランド。
「……」
ゲオルクの失意は深い。
しかし、あれはエレオノーラの選択だ。あれ以上、もう俺に口を挟むことはできなかった…。
「み、見ろよ……ゲオルク」
ボルトリックが驚いたような声を出し、飛行船の窓の外を指し示した。
「おお……」
ゲオルクの運命を変えたものがそこにあった。
天空城アルドバランが、飛行船の近くを悠々と浮遊していたのだ。
いつの間に現れたのか。
しかし、ゲオルクの懐にあるアスタローペの宝玉は反応しない。
「いや…これは蜃気楼のようなものだな」
「そう言われてみれば、輪郭がぼやけているな」
ミシュガルド大陸にアルドバランは行ってしまったのだ。
しかし、何かの力が作用したのか、姿形だけが幻影となり、彼らの前に姿を現していた。
「思えばあれとの邂逅が、俺の運命を変えたのだな……」
感慨深く、ゲオルクは呟いた。
(───私の、女の戦場に、あなたは必要ない)
エレオノーラの言葉が脳裏に蘇る。
「ならば俺も、男の戦場に赴くとしよう」
そしていつか、お前を取り戻す。
───斯くして、ゲオルクはハイランドの傭兵王として即位した。
ミシュガルドやアルドバランへの手がかりとなるであろうゲオルクは、世界の重要人物として認識されていたが、王となったことで容易に手出しできない存在となる。
アスタローペの宝玉を取り付けた王の錫杖、愛用の王剣を手にしたゲオルクの肖像画が各国の王達に届けられ、ハイランドに傭兵王ありと名を知られることとなる。
その後、数年の時をかけ、ゲオルクはハイランドにはびこる魔物を一掃し、治安を回復させ、ストライア兄弟からの出資金を受けたままなので彼らの傀儡と思われ、SHWの衛星国家にしか過ぎない存在ではあったが、主権を持った独立国としての地位を確立する。
ハイランド建国から10年。徐々に世界的にハイランドの地位が向上していく中、エレオノーラは潮時と考えたのか、我が子ユリウスを置き去りにして、突如として甲皇国から出奔し、ゲオルクの元へ走った。
ゲオルクは涙してエレオノーラを受け入れ、王妃とした。
その後、二人の間にはもう一人の息子アーベルが産まれる。
エレオノーラが、置き去りにしてきたユリウスについて語ったところによれば、彼は産まれてすぐに母から引き離され、皇帝やホロヴィズの元で管理されて英才教育を受けてしまったという。あらゆる手段を講じて我が子を取り返そうとするエレオノーラだが、すべての努力は徒労に終わった。
丙家監視部隊という存在を知り、彼らの力も借りたものの、我が子を相次いで暗殺されてきた皇帝は、決してユリウスを手放さなかった。
10歳のユリウスが久しぶりにエレオノーラに会いに来た時には全てが手遅れだった。彼はすっかり皇帝やホロヴィズに洗脳されきっていたのだ。即ち、亜人を差別し、人間至上主義とし、アルフヘイムとの戦争を終わらせるには彼らを絶滅させるべきだと力説する甲皇国次期皇帝に相応しい皇子となっていた。
乙家の平和への願いは踏みにじられ、エレオノーラの政略結婚は失敗に終わった。失意のまま、彼女が国を去ることを決意したのはその時であった。
それから更に20年の時が流れた。
「───傭兵王! 傭兵王!」
「ハイランド万歳! アルフヘイム万歳!」
アルフヘイムの都セントヴェリアの民衆の歓呼がこだまする。
アルフヘイム北方戦線での戦いで、衛星国家フローリアが陥落したものの、その民達の多くはゲオルクによって逃れることができた。また、亜人食いをして悪鬼のごとく恐れられた甲皇国の丙武軍団も退けられた。今や、ゲオルクは紛れもなく、アルフヘイムの希望の光だった。
亜人の国アルフヘイムは瀕死の危機にある。甲皇国の魔手は今やアルフヘイム最後の砦・セントヴェリアにまで伸びようとしている。ここが陥落すれば、もはや亜人達に永遠に明日は訪れない。
「俺達を、あなたの元で戦わせてください!」
フローリアの戦いで多くのハイランド兵を失い、失意にあったゲオルクの元へ、アルフヘイムの民は立ち上がり、多くの者達が志願兵として名乗り出てきたのだ。
「ありがたい。これでまた戦える……」
過去と現在。全ての決着をつけるために。
傭兵王ゲオルクは、最後の決戦に赴こうとしていた。
つづく
※余談
設定ちょっと変えてしまいました。
特にエレオノーラのキャラシートにあった初夜権がどうのというくだり。
書いている内にこっちの方が面白いかなーと思いまして。
しかし丸っきりエレオノーラが確信的に托卵する悪女になってしまったw
例えるなら大企業社長の男と結婚しつつ、零細自営業者の愛人の子供を産むみたいなw
あと、丙家監視部隊のロウ君が関西弁という設定は単純に忘れていました。
申し訳ありません。
なお、書きなおしはしない模様。