月の高い夜だった。
そこは、ボルニア要塞の一角。ゲオルク率いる一軍のために用意された、現在は無人となっている区域だった。いくら戦時中とはいえ、あちらこちらに夥しい血痕が残っており、死体はさすがに片付けられていたが、とても客人をもてなそうとして案内される状態ではなかった。が、およそ二千人近い軍を収容できるような区域は少なく、空いていたのはそこぐらいだった。そこはかつて、クラウス率いる義勇軍が駐留していた区域だという。血痕があちこちに見られるのは、黄金騎士団と争った形跡だった。
そのクラウス義勇軍はもういない。
いるのは、腰の引けたアルフヘイム正規軍だけ。
それらとも啖呵を切って決別してきた今、ゲオルク率いるハイランド王国勢と僅かな義勇兵合わせて二千弱の軍勢は、たったそれだけで甲皇軍と対峙しなければならない。
空を見上げれば月が見える開放的なテラスにて。
月光に照らされる、二人の大柄な男たちの姿があった。徳利と杯が卓に置かれており、二人は月見酒を楽しんでいた。
「───まったくお前ときたら、後先考えないのは昔と変わらんな。ついていく俺たちの苦労も少しは考えろよ!」
そう言いつつも、男らしい豊かな口髭はほころんでいる。
ゲオルクと酒を酌み交わしているのは、傭兵ダンディ・ハーシェル。ゲオルクの三十年来の親友である。がっちりした筋肉質の体躯に、ゲオルクよりも少し背が低いがそれでも人間としては十分に大柄な部類。また自分の背丈以上の大剣を振るって戦うことでも知られる熟練戦士である。
「考えていない訳ではない」
ゲオルクはため息交じりにそう言い、ちびちびと酒を飲みつつ、愛剣の手入れをしていた。鋭い輝きを見せる刀身には、ゲオルクのしかめ面が映っている。この剣は、彼の育ての親である甲皇国の傭兵ガラハドから譲り受けた剣である。かつて甲皇国に滅ぼされた諸王国由来の剣であるとガラハドは言っていたが、異常なほど頑丈な剣であり、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと感じさせた。ならば少なくとも百年以上も昔に作られた剣だろうが、未だに傷一つついていないのだ。
「考えがあるだと?」
ぐいぐいと早いペースで酒を飲むダンディ。
「ひっく……。では聞かせてもらおうか。どういう考えがあって、アルフヘイム正規軍抜きで、甲皇軍七万と渡り合うというのだ」
そう言いながら、ふとダンディはゲオルクと初めて出会った三十年前を思い出していた。
そうだ。あの時、ゲオルクは…。
たった一人で、自分の愛する女を取り戻そうと、甲皇国帝都マンシュタインにある皇居グデーリアンに乗り込み、無謀な戦いを仕掛けたのだった。あの時も、月の高い夜で、こいつはその剣の手入れをしていたな…。
「ダンディ。逆に問うが──」
あの時のように、ゲオルクは落ち着いていた。
別に蛮勇という訳でも、激情に昂っているわけでもない。
「腰の引けたアルフヘイム正規軍三万弱が加わったとして、士気旺盛な甲皇軍七万に勝てると思うか?」
「……ふむ。まぁ、勝てんわな」
「そうだろう。だが、それが士気旺盛なアルフヘイム正規軍三万弱であればどうだ? 例え数が倍の相手だろうが、勝つ見込みも出てくるというもの」
杯を卓へ叩きつけるように置き、ダンディは口を尖らせる。
「ふん! だがそんなものは無い! 我々の目の前にいるのは、腰の引けたアルフヘイム正規軍だけだ。……ならば、もう諦めて国に帰るか? 我々は傭兵だ。勝ち目のないいくさに乗り出しても得られるものはない」
「それも正しい選択だ。傭兵、いや傭兵王としては…」
「うむ。お前がアルフヘイムに肩入れする事情というのは分かるが…」
ゲオルクの息子二人が、甲皇国側にたっている事情というのは、ダンディも理解している。
「だが、お前はハイランド王だ。単なる一介の傭兵という存在ではないのだぞ…」
「その言葉、三十年前にも聞いたな」
にやりと、ゲオルクは笑った。彼もまた、ダンディ同様、あのマンシュタインでの夜のことを思い出していたのだった。
「案ずるな。王という立場を忘れたわけではない。勝算はある」
「だからその勝算というのをだな…」
ダンディの言葉を遮るように、ゲオルクは月を見上げ、遠い目をする。
「──あの時の夜も、そなたに会ったな」
「うん?」
ゲオルクの言葉が自分をさしているのではないと、ダンディは気配で察した。
背後を振り返ると、いつからそこにいたのか、メイド服を着た可憐な少女の姿があった。どう見ても十七、十八ぐらいの年頃の、薄紫色の髪に、青白い顔をした少女。月夜に照らされた姿は、やや現実味が薄く、何かの妖精のようにも見えるが…。
三十年前に会っただと? 何を言ってるんだとダンディは怪訝そうにゲオルクを見る。酔っぱらっているわけでもなさそうだ。
「お察しでございましたか」
少女はか細い声で答える。
「アルフヘイムの民の中には、かなりの長命の者もいると聞く。三十年前と変わらない姿の者もいるだろう」
「はい。お久しぶりです。傭兵王。もっともあの時は、あなたがそのような地位につくとは思ってもいませんでしたけどね…」
「──ああ!」
ダンディがはっとした顔で頷く。
「まさか、あの時の……ぬぅ、何ということだ」
三十年来の奇妙な運命の悪戯に、戦慄するダンディであった。
人間形態としては可憐な少女のようにしか見えないが、その正体は
ゲオクルとダンディの両雄は、人間形態の姿だけならば気づきようのないハシタの正体に、その声と雰囲気で察することができていた。
かつて、三十年前のあの夜、両雄は彼女と戦ったことがあった。ゲオルクが愛する乙家の姫エレオノーラを奪還しようと皇居へ乗り込もうとして、それを防ごうとしたのがハシタだった。平和主義の乙家の姫が皇帝に嫁ぐことで、アルフヘイムとの和平が成るのではないかと、甲皇国に潜入した丙家監視部隊は考えていたのだった。
「あの時のあなたがたは敵でしたが、アルフヘイムのために戦おうとしている今のあなたがたは味方です」
そう言い、ハシタは頭を下げる。
「傭兵王、どうかアルフヘイムをお救いください」
「私は傭兵だ。そなたらに助太刀をするだけにすぎない」
「助太刀……ですか」
「そうだ。傭兵というのはな、主力になってはいかんのだ。あくまで臨時雇いの兵力として、助攻に回らねば。大義をもって戦う主攻は、正規軍であるべきだ。でなければ、この戦争の大義が何であったのかが見失われるだろう」
「……この戦争における大義とは」
「アルフヘイムを救うことではないのか? そのために最も尽力してきた人物といえば」
「英雄クラウス……と、いうわけですね」
「そうだ。私よりもよほど長く彼は戦ってきた。彼の力なくして、この戦争での勝利は無い」
「……本当に、そうお思いですか?」
「ああ。あくまで私は傭兵だ。この戦争を終わらせるには、このアルフヘイムに住む者の手によってでなくてはならん。この戦争における最大の英雄、それはクラウスどのをおいて他はおらんだろう」
ゲオルクは手に持った長剣を顔の前に掲げた。
「……そして、我が剣において誓おう。アルフヘイムの者達が望むなら、我が剣において、甲皇国の闇を打ち払うと」
値踏みするように、まじまじとハシタはゲオルクの目を見つめた。
気弱そうに見えるが芯は強い女の目だなと、ゲオルクは感じる。
確かに、ハシタは値踏みしていたのだった。ゲオルクが信用に足る人物か、このアルフヘイムの命運を託すに足る人物かどうか。
今や傭兵王ゲオルクの名は、アルフヘイム大陸中に鳴り響いている。だがやはり他国の王であり、しかも甲皇国出身という経歴でもある。真に信用ができるのかどうか、ハシタはそれを見定めようとしていたのだった。
「私
ハシタの目が、何か遠くのものを見るように潤んでいた。
「私たちは、エルフ族と並び、アルフヘイムにおける最も古い種族なのです。妖の里イズモから、そして世界各地から。私たち妖だけではなく、混迷するこの世界を導くであろう人物を。これはという人物が現れれば、その都度、表には出ないまでも、影から助力してきました。クラウス様についてもそうでした。ですが、世界の悪意は、彼を抹殺しようとしている。もう手遅れかもしれませんが…それでも、彼の魂はきっとアルフヘイムの助けとなる。傭兵王、あなたはクラウス様の魂を、きっと良き方向へと導いてくれる。そのように、私たちは感じ取っています」
「そなたの背後にいる者たちとは…?」
「古い種族です。表には出てくることはありませんが、自分たちの種族、ひいてはアルフヘイムの安寧を願っている。私の同胞たちのことです」
「そうか」
「私たちは……あなたの言葉を信じます。傭兵王陛下!」
「うむ」
「この子たちも、大丈夫と言ってますし……」
「ふむ?」
怪訝そうに聞き返すゲオルクは、目を見張った。ハシタの周囲に何らかの気配があった。目には見えないが、精霊だろうか、確かに生きている小さきものの気配。
「
「なんと? 真か」
「はい。詳しく話せば長くなりますが……」
ハシタが言うところによれば、彼女らのような古き種族、妖怪型というべきか、アルフヘイムにおいても少し特殊な亜人たちは、独自のネットワークを持っているという。念話や、人の目には見えない小妖怪というものを使役することによって、遠くの様子を見たり、仲間とも緊密に連絡を取り合うことができるのだった。
「アルフヘイム各地で、クラウス様の身を案じ、アルフヘイムを救おうと呼応する者達の声が聞こえてきます。妖の里の者達が、彼らにアルフヘイムの危機を訴えかけ、参集を呼びかけております。南方で、北方で、東方で。戦士たちが続々とこのボルニアを目指しております。あのアリューザの戦いを超える軍勢が、アルフヘイムのすべての力が、甲皇軍の闇を打ち払おうとしてくれています! 私たちは、あなたを信じます。傭兵王陛下!」
ハシタは再び頭を垂れる。
「うむ。大儀である」
ゲオルクは力強く頷いた。
テラスから見える空がそろそろ白みがかっていた。
またこの時、アルフヘイムにおける最も長い一日が始まろうとしていた。
つづく