セントヴェリア。
アルフヘイム最大の石造りの都。
天までそびえ立つかというアルフヘイム最大の精霊樹たる「世界樹」に城壁や居室を増設された城は「ヴェリア城」と呼ばれ、アルフヘイム政府の要人たちが統治機構として政務をこなしている。その城を中心にして、石造りの白々とした建物が立ち並び、市街をぐるっと巨大な防壁によって囲まれている壮麗な都。戦乱を避け、アルフヘイム各地から移り住んできた人々はおよそ十万にも及ぼうかというアルフヘイム最大の都市である。
西方へ遠く離れたボルニアやゲーリング要塞では、アルフヘイムの命運を決する最終決戦が行われている最中である。
だがこのセントヴェリアにおいても、よりによってこんな時に、クーデターが…アルフヘイム史上かつてない政変が勃発していたのである。
セントヴェリア市街の役所や警備兵の詰め所など、政府機関の建物があちらこちらで打ち壊され、心無い者はこの隙にと略奪に耽っている。夥しい役人や警備兵らの死体がそのまま捨て置かれ、街中に死と血の匂いが充満していた。
「ラギルゥー族を捕えろ!」
「エルフ貴族の横暴を許すなー!」
民衆の怒号がこだまする。
最前線のボルニアで、甲皇軍とシャロフスキーが通じており、アルフヘイムが降伏…すなわち、アルフヘイムを売り渡す代わりにエルフ貴族のみが保身を図ろうとしていた企みが、傭兵王ゲオルクの働きによって露見していた。
この情報はすぐさま魔導でセントヴェリアにも伝えられていた。
誰が伝えたのかは不明である。
ゲオルクが意図的に情報を流したのかもしれないが、彼は最終決戦の準備に忙しく、あくまで自分は外国人傭兵であるという意識が強い。そんな中でわざわざセントヴェリアで内乱につながるような情報を流すとも思えない。
情報を流したのはボルニアでのシャロフスキーの告白と死を見た、名も無きアルフヘイムびとの誰かであろうと言われている。
だがとある者が噂するには、ラギルゥー族が敢えて甲皇軍の進撃を放置していたために国を追われる羽目になった、北方のピーターシルヴァニアン王国の王子セキーネとその部下である諜報部隊「十六夜」が関与しているという説もあった。
ともかく、情報が伝えられてから、セントヴェリアはすぐさま騒ぎとなってしまった。
裏切られた思いの民衆の怒りはすさまじかったのである。
元々、エルフ貴族の専横ぶりに腹を据えかねていた民衆は多い。戦費のためだと重税も課されてきた結果がこのざまである。彼らはここぞとばかりに政府打倒を叫び、シュプレヒコールを挙げながら市街で政府の指揮下にある警備兵らと衝突していた。
ガン、ガン、ガン。
盾を構える警備兵に、民衆が投石をする。
警備兵らは甲羅にこもった亀のように身を守っているが…。
「どけどけどけー!」
そこへ、巨大な丸太を破城槌のように構えた力自慢のオウガやオーク族の民衆らが突撃する。
ガァァアン!
轟音を立てて警備兵らは盾ごと吹き飛ばされていく。
元々、警備兵は数も少なく、戦いの経験も乏しく、士気はまったくなかった。
セントヴェリアは内陸奥深くにあるから前線からは離れている。主だった戦えるアルフヘイムびとの兵が前線へ行ってしまった現在では、SHWから雇われたような傭兵が主体となっている。
彼らは別にアルフヘイム政府に義理立てするつもりもなく、単に前線から遠く離れた都市での警備任務だから戦闘することも少ないだろうと考え、報酬に目がくらんで政府に雇われただけなのだ。
怒りの民衆の勢いに呑まれ、警備兵らは次々と離散していく。
「あんな連中、逃げるのなら放っておけ! 目指すはヴェリア城にいるラギルゥー族だ!」
と叫ぶのは、何とセントヴェリア市街で警備兵を率いていたエルフの小貴族にして弓兵長であるキルク・ムゥシカであった。
キルクは、同じような年齢のおっさん同士であるとしてゲオルクとも意気を通じており、民衆を鎮圧する部隊を率いることをよしとせず、むしろ彼が育成してきた生え抜きのエリート弓兵らと共に、民衆側に立って政府打倒に力を貸すことを決意したのだった。
民衆の方も、普段から市街で真に市民のためを思って治安維持にあたっていたキルクの実直な働きぶりを知る者は多く、貴族と言えど彼だけは違うと信頼されていた。
「俺は民に引く弓は持っていないからな」
とは、キルクの言葉である。
キルクは、息子のヴァニッシュド・ムゥシカが黒騎士と名乗ってクラウスを危機に陥れているとは知らない。知らないが、息子に道を誤らせたという痛恨の悔やみがある。
(───父上、なぜこの名誉ある戦いに立たないのですか!)
かつて何度もヴァニッシュドから言われた言葉だ。
エルフ貴族として名誉ある外敵との戦いに身を投じるべきという息子の言葉に、だがキルクは首を縦に振ることはなかった。
(───お前は民のことなどどうでもいいと思っているだろう? 自分の名誉のことばかり考えているうちは、弓を手にする資格はない)
それが数百年以上前には“森の子”と呼ばれたエルフ族の伝統的な信念なのだ。
現在では増長して他種族を虐げ搾取しているエルフばかりが目立つが、それは数あるエルフ族の中のノースとサウスエルフ族に見られる傾向だった。キルクやクラウスなどが属するウエストエルフ族は最も性向が大人しく、森の中でひっそりと平和的に暮らすのをよしとしてきた。その伝統から、アルフヘイムで軍や統治機構をもって他種族を統制しようとする動きには殆ど加わったことがなかった。キルクがようやく戦う決心を固めたのは、甲皇軍がアルフヘイム大陸に上陸して侵攻を開始してきた五年前のことだった。あくまで民を守るためだけにキルクは弓を取るのだ。
ヴェリア城へと向かっていたキルクと弓兵隊は足を止める。
目の前に、血まみれになった警備兵たちが倒れていた。
頭がぱっくりとカチ割られてピンク色の脳が飛び出している。
執拗に刺されたと思しき刺し傷が体中についている者もいる。
金玉を破壊されたのか股間から血が噴き出している者もいる。
いきなり飛び掛かられて抵抗する間もなく、一瞬で一方的に殺されたのだろう。彼らの顔には恐怖と驚愕が張り付いている。
いずれも、まだ死んで間もないと思われた。
「この死体は…」
「む、惨い殺し方をしていますね…」
「ヴェリア城門を守っていた警備兵らは全滅のようだな…むぅう…いったい何者の仕業だ」
経験豊富なキルクと言えど、思わず顔を背けて嘔吐したくなるような惨さであった。
「…キルク隊長。浅黒い顔をした兎人を見たという目撃者がいました。その兎人、尋常ではない雰囲気だったようで、目撃者は震えて隠れながら見ていたのではっきりとは分かりませんが…」
「兎人? 浅黒い顔ということは…黒兎の方か。城内に何の用があるというのだ…?」
キルクと弓兵部隊はヴェリア城内へと突入していく。
不吉な予感を胸に抱えながら……。
「───ラギルゥー族は
黒兎人の男である。
浅黒い顔は整っているが、肉食獣のような牙を剥き出しにし、血走った眼をぎらつかせ、凄惨な笑みを浮かべている。
その姿は戦士というよりは、狂人であり復讐者。
「どこだ、どこにいる…!」
大胆にもたった一人でヴェリア城内部をゆっくりと歩いている。
目は周囲を油断なく見据えており、罠や伏兵の存在を警戒していると思われたが、実は目に入る者すべてを殺すつもりであった。
かつて、ゲオルクと共に北方戦線を戦ったディオゴ・J・コルレオーネである。
ディオゴは妹のモニークを殺した連中への復讐心ばかりが先立っていて、直接的に妹を死に至らしめた白兎人族とも手を結ぶことはできず、そのためにアルフヘイムのために戦おうとするゲオルクと協調することができなくなっていた。彼が戦うのは、今も変わらず妹のためだけなのだ。
異常に滑らかで、スケートでもできそうなほどにピカピカに磨かれている。どうやって加工されたのか、北方の田舎で育ったディオゴにはうかがい知ることもできない。
回廊は不気味なほどに静寂に包まれ、人の気配もない。
「……ッ」
ディオゴは警戒に目を細める。
回廊が尽きる先に、長身の男が一人立っていた。
ディオゴは恐れげもせず、だが用心深くその男へ近づいていく。
狂気に駆られながらも、ここが敵の本拠地であることは承知している。罠や伏兵の存在を警戒しつつ…。
だが、その男へ飛び掛かれば刃が届くであろう距離まで近づいても、結局何の罠も伏兵もなかった。
「止まれ」
有無を言わさぬ強い命令口調。
神が虫けらに下すかのような厳かな声である。
ディオゴの前に、抜き身の剣を持った一人の男が尊大な眼差しを向けながら立っていた。
「何者だァ、てめェ……」
ディオゴは威嚇をしながらナイフを構える。
「ヴェリア城内の警備隊長……ヤーヒム・モツェピである」
「いけすかねぇエルフが」
「下賤なウサギが」
ヤーヒムは長耳をぴくつかせ、尊大な眼差しでディオゴを見下ろしながら、抜き身の長剣を構える。長剣の刃が鋭い輝きを放っている…。
「ひゅっ」
ディオゴが、喉を鳴らして跳躍した。
ナイフを振り上げている。
ヤーヒムはふわりと足を踏み出した。
新雪を踏むかのように、その足取りが柔らかい。
ディオゴが、宙からナイフを振り下ろすのと、ヤーヒムが剣を振り上げるのと同時であった。
両者とも首を狙っている。
ぶつん、と、何かが断ち切られる鈍い音がした。
ディオゴの頭部に生える四つの黒兎の耳の一部が切られていた。
ヤーヒムも二つしかない長耳のうち、右耳が削がれていた。
ディオゴはヤーヒムの頭上を疾り抜けた。
ヤーヒムの背後に降り立ち、そのまま駆け抜けていく。
「てめぇの相手をしている暇なんてねぇ」
「逃がさん」
右耳を削がれたというのにヤーヒムは表情一つ変えず、左手をディオゴへ向ける。
「
その力ある言葉が発せられると共に、逃げようとするディオゴの足元が光った。
「!」
ディオゴは咄嗟に跳躍するが、床下から走った雷撃に足をやられる。
ごく低位の雷撃魔法だったが、魔法防御も何もない相手の足に撃てば一週間は杖をついてでないと立てなくなるぐらいの威力はある。相手を殺さずに動けなくさせる魔法というのは、治安維持を担うヤーヒムにとっては得意中の得意だった。
「ぐおおっ!」
悶絶し、ディオゴはもんどりうって転げまわった。
「伊達にヴェリア城内の警備隊長を任されてはおらぬわ。不届きで、下らぬウサギめ。“なます”にしてオークにでも食わせてやるか」
「シャアアア~~~~~~~~ッ!」
ディオゴは牙を剥き出して威嚇した。
力量は…単なる格闘や剣だけの戦いなら素早いディオゴに分があるだろう。互いの首を狙ってナイフと剣を振るって、より大きな手傷を与えたのはディオゴだった。だが、ヤーヒムはエルフらしく魔法戦士だった。魔法を使われると勝負はどうなるか分からない。
(───それに、足をやられるとは……)
状況ははっきりとディオゴにとって不利だった。
「動くな」
その声は、ディオゴとヤーヒムの更に後ろから響く。
弓に矢をつがえたキルクと弓兵隊が駆けつけていた。
「これはこれは」
ヤーヒムの口端が皮肉っぽく吊り上がる。
「城内の警備隊長に対し、市街の警備隊長がなぜ矢を向けるのですかな? キルクどの? アルフヘイムを裏切るおつもりか?」
「黙れ。ボルニアからの知らせを聞いていないはずはないだろう。どちらが真に裏切り者か」
「……」
ヤーヒムの皮肉っぽい笑みが消えた。
代わりに、眉間に皺が寄せられ、怒りの色が浮かび上がる。普段は冷静で上から目線で余裕たっぷりの男がそうした色を見せると、途端に怒りっぽいディオゴなどよりも恐ろしく見える。
「貴様はいいなぁ……キルク。しがらみがない。一人いた息子も出て行ったから守るべき者もいない。地位や財産を別とすれば、簡単に自分の心のままに動くことができる…」
ヤーヒムの怒りに悲しみが混じっていることに、すぐにキルクは気づいた。
「ヤーヒムどの。貴殿にも息子や娘がいたな。ファルどのにメイアどのと。二人とも優秀で良く出来た子供で、魔導士としての才能に秀でているときく。うちの不出来な息子とは大違いではないか。が、父親がそんなことでは悲しむであろう」
「そうだ!……良く出来ているからこそ、失いたくはない。アルフヘイム上層部が腐っているなど、とっくに私も気づいているさ。だが、それでも家や子供のためには、ヤツらの下僕となって戦わねばならん」
「……ファルどのは戦場へ行ったと聞いている。メイアどのの方か?」
「そうだ。人質に取られている。私が戦わねば、娘の命はない」
「そうか……そういうことだったのか」
キルクは弓を引き絞る。
狙うはヤーヒムの心臓。
「安心なされよ、ヤーヒムどの。貴殿が死んでもメイアどのは私が責任を持って救出する」
「そう願いたいな」
ヤーヒムは清々しい顔をして、さばさばと呟く。
矢が放たれた。
絶叫が響いた。
だが、ヤーヒムは戸惑った表情のまま、まだ立っていた。
「……ッ!?」
絶叫はヤーヒムの影から伸びる暗がりからであった。
ヤーヒムにもディオゴにも気づかれず、この場には別の暗殺者が潜んでいたのだ。
矢を胸に受けて苦悶の表情を浮かべ、暗がりから姿を現したのはマスクをかぶったコウモリ族の男だった。手にはナイフを持っている。もしヤーヒムが裏切るようなことがあれば、彼はヤーヒムを始末するつもりだったのだろう。また、裏切らないよう監視するために潜んでいた。
「これがきゃつらのやり方よ」
キルクは暗殺者が確かに絶命していることを確かめてから、ヤーヒムの肩をぽんと叩く。
「……幼い娘を父なし子にするわけにはいかんだろう」
「……キルクどの。か、かたじけない……」
はらはらとヤーヒムは涙を流し、キルクの前に片膝をついて頭を垂れるのだった。
つづく