「三十倍、と」
呟いて、少年は握り拳を構える。
「さっさと来い。いや、僕から行こうか?」
空を飛ぶ死霊と呼ばれた相手に、少年は面倒臭そうに声を掛ける。
死霊はそんな少年を嘲笑った。
「ハハ、馬鹿かお前。私達のような存在は、お前達のような人間の干渉を受けない」
死霊はそんなことも知らない愚かな少年を見下ろす。
概念種と呼ばれる人外の特徴の一つとして、物理的干渉が不可能であるというものがある。同じ人外や霊的存在であればまた別であるが、少なくともただの人間種ではいくら異能持ちであろうとも殴ることはおろか触れることすら出来ない。
幽霊や悪霊に干渉できるのは、寺の和尚や霊能力者と相場は決まっているのだから。
「ああ」
だからこそ、少年は地を蹴り跳び上がる。
「知ってるよ、そんなことは」
そうして、当たるわけがないと余裕ぶった表情をしていた死霊の顔面を思い切り殴り飛ばした。
「な、ァあ!?」
何が起こったのか理解が追い付いていない死霊は、それでも殴られながら上空に飛んで少年の攻撃範囲から離れた。
自分の殴られた頬をさすりながら、死霊は困惑と疑問で目を白黒させる。
「な、んだと?なんだ、お前、何者だ!?」
「お前を殴れる人間」
あっけらかんとした様子で、空に浮く死霊を見上げ再度少年は拳を握る。
「そんな馬鹿なことがあるか!ただの人間がそんな…、…いやお前!ただの人間では、ないのか」
「まあな。この身は半分、魔を討つ身体だ。何もしなくてもお前ら程度には干渉できる仕様になってんだよ。ま、今は僕限定だが」
相変わらず少年の言っていることは由音には理解できなかったが、死霊の方はそうでもなかったらしい。顔を引きつらせて、
「…退魔の人間か!何故こんなところに!」
「どこにいたって別にいいだろ」
「ちぃっ!」
死霊の問いには取り合わず、どこか急いでいるような雰囲気を醸し出している少年が拳を引いて腰を落とす。跳躍して死霊を叩き落とすつもりだと由音が悟ったのと同時に、死霊が右手を少年へ向けて突き出した。
また来る。あの不可視の衝撃が。
「危ないっ!」
思わず由音は走り出し、今まさに跳躍寸前だった少年を真横に押し退け衝撃が直撃する。地面に叩きつけられさらに体が弾んで道路の壁を粉砕して転がる。
「おい!大丈夫か!?」
逃げ出した死霊を追撃しようとした少年は、しかし思い直して自分を庇った由音へ駆け寄って上半身を抱き起す。
「あんなことしなくたって避けるなり防御するなりできたってのに…しっかりしろ!意識はあるか?」
「あ、ああ…。悪い、余計なこと、した」
どうやら少年は庇う必要など微塵もなかったらしい。自分が死霊との戦いを邪魔してしまったと知って、由音は落ち込んだ小さい声音で少年に詫びる。
「いや、庇ってくれたのはサンキュー。よく無事だったなお前…って、無事じゃないか」
だが少年はまるで気にした風もなく由音の身体のあちこちが折れて出血しているのを確認して申し訳なさそうな表情になった。
「こっちこそ悪いな、とんだ大怪我だ」
「平気…だと思う。これくらいだったら」
言葉の意味がわからず首を傾げる少年を尻目に、由音は自分の身体を見下ろす。トラックに轢かれたような強烈な衝撃はまたしても由音の全身の骨を折り内臓を痛めつけてくれたが、それも“再生”によって少しずつ治っていった。
「へえ、すげえ能力だな。治癒、修復…いや再生か?」
「ああ、たぶんそうだ」
「ほお~」
よほど珍しいのか、少年は傷を完治させて立ち上がった由音の全身をぐるっと一周回って眺めていた。それからゆっくりと腕を組んで、
「しかし逃がしちまったな、死霊。ありゃまた来るぞ」
「…お前なら余裕で勝てるんじゃないのか?」
さっきの感じだと、なんだか圧勝できそうな雰囲気はあったが。由音は心中でこの少年があの死霊を退治してくれることを願っていたが、当の少年はうーんと腕を組んだまま唸っていた。
「僕ならなあ、でも次来る時はたぶん『俺』になってるだろうし…。っつか、もう…限界近いな」
深夜に出歩いたせいか眠たげに頭をふらふらさせる少年に、由音は聞きたいことが山ほどあったのを思い出し話し掛ける。
「あ、あのさ。お前ってもしかしておれと同じ…?それになんでおれを探してたんだ?こんな深夜に。あとお前は」
「あー。いやちょっと待て、バトンタッチするから」
「え?」
「いやまあ、えっと。あとは俺の方に聞いてくれ。僕はもうマジで限界だ…」
やたら疲れ切った表情で、少年は一度すっと両目を閉じる。すぐさま見開かれたが、その時の少年はついさっきまでの少年とは少し違うように思えた。むしろ、こっちの方の少年が夕方に会った彼と雰囲気が合致しているような気がする。
「…あの野郎ぉ…」
がりがりと不機嫌になった少年が恨めしそうに口の中で何事か言っていたが、すぐに由音へと向き直る。
「よお、夕方会ったよな。あん時にもしかしたらって思ってたんだけど、やっぱりそうだ」
「やっぱり、って?」
「お前、異能の所有者だろ?」
由音を示した指を今度は自分の顔に向けて、
「俺と一緒だ。俺も異能力者だから」
「異能、力者…」
自分以外にヘンテコな力を持った人と会ったことがないから、異能力者という言葉にも聞き覚えがない。この力を持つ者はそう呼ばれるのだろうか。
「どうも厄介なのに狙われてるみたいで。追っ払うの手伝うぜ。人間の異能力者に会えるのなんて中々ないからな」
そう言って、少年は歳相応の爽やかな笑みを見せた。
自分以外にも、普通じゃない力を持って生活している人間が確かにいたことを知って、由音は密かに安堵した。安堵すると共に、思ってしまった。
自分と同じく、人と異なる能力を宿して生活している少年にまで気味悪がられてしまったら、一体どうしよう、と。
“再生”はともかくとしても、この悪霊の力はおそらく少年にとってもイレギュラーな能力だろう。せっかく巡り合えた同じ異能の能力者にまで同情と憐憫、あるいは侮蔑を受けてしまったら。
そう思うと、由音はどうしても自身に宿る悪霊の存在を打ち明ける気にはなれなかった。