今から百と数年前、大陸南部のとある集落に、それまで見たことも無い、異様な体躯を持つ獣が現れた。
一昼夜の内に集落を壊滅せしめた獣は、討伐の為に差し向けられた衛兵をも退け、南国セトに大きな傷跡を残した。
体に風を、牙に炎を纏い、目にも止まらぬ速さで空を翔るその姿を目の当たりにしたセトの民は、この獣をこの世ならざるもの、超常と呼んで恐れた。
その後、超常は半年に渡って大陸中を駆け回って暴れ狂い、ついには大陸を割拠する四大国が、この脅威に対して手を組むことを決断し、討伐軍を組織するまでに至った。
矢を吹き返し、槍衾を焼き払う獣との戦は熾烈を極めたが、数に勝る討伐軍の三日に及ぶ攻勢の末、ようやく人類は、超常の心臓にその刃を突き通した。
獣は今際の刻みに、力を持たぬ身でありながら自らを打ち倒した人間を称え、自らの持つ力とその扱い方、自らの同胞が遍くこの世界に居ることを人語で伝え、間もなく事切れたという。
「何だか神話のような話ですね……」
足下の呪符を張り替えながら、半信半疑といった顔でイルゼが呟く。
新しい呪符に念を吹き込むと同時に、溢れた魔力の余波が、少女の金髪を軽く持ち上げ靡かせた。
「生き証人こそもう居ないが、公式の文書にも残ってる、立派な歴史の一部だよ」
草むらに寝転ぶ若者は、イルゼが作業を終えたのを見て、欠伸を溢しながら起き上がった。
頭に付いた雑草を払うと、若者の黒髪に混じった白髪が、日の光を受けてきらついた。
若白髪と呼ぶにはいくらか量の多いそれについて、本人は苦労人故と嘯いているが、今までにその説明で頷いたものは一人も居なかったという。
「意外と不勉強だな。その獣が魔術師のルーツなんだぞ」
「私はあなたについて質問していたはずですが」
不勉強の一言が気に障ったのか、イルゼは自分より頭一つ大きい若者に詰め寄ると、彼の襟を乱暴に捲った。
覗き見えた首筋には、先程貼り付けた呪符のものと似た文様が刻まれている。
「だから長くなるって言ったろ。あんたが詳しく話せって言うから……」
「それなら必要なことだけ、無駄の無いように話して下さい」
飄々と言い放つ若者を一睨みして、イルゼが地図を広げる。
「……ここから北西に五千歩ほど進めば街道に出ますから、そこから道伝いにウルムへ向かいましょう」
「随分遠回りさせられたな……」
「結界の更新も兼ねて進んでいますから」
ウルムは、大陸の極北に位置する大国である。
かつては水や鉱石といった資源をめぐって東国ネイと激しく対立していたが、魔道の発達で資源問題の多くが解消されて以降は、概ね友好な関係が続いている。
両国をつなぐ街道沿いには大小いくつかの村落があり、その周囲に貼られた結界符を新しいものに取り替えていくのが、国定魔術師であるイルゼの本来の任務である。
「魔術師も忙しくなったな……」
「あなたのおかげで余計です。それで、結局その印は何なんですか?」
「必要なことだけ無駄の無いように説明すると、従者の呪印だ」
「ニールさん……」
「冗談だよ」
ニールと呼ばれた若者は、イルゼの右手から聞こえる風切り音に両手を上げて答えた。
「超常の発見を切欠に、人は魔力を扱う術を百年以上に渡って研究し続けてきた。要するに、人を超常に近付ける方法を探ってきたわけだ。一般にその成果として知られているのが魔術師だが、実は魔道の黎明期、魔術師とは逆の発想で超常への道を拓こうとした連中が居た」
「逆の発想?」
「魔力を扱う術を得て超常に近づくのではなく、超常に近づくことによって魔力を扱う術を得る。つまり、自ら超常の使い魔になることで、その力を自分のものにするって寸法だな」
「超常の使い魔……しかし、そんなこと本当に……?」
「そこは、実践して見せた方が早いだろ」
ニールは外套の襟を捲って、首筋の印をイルゼに見せた。
「使い魔となった人間は従者と呼ばれ、主となる超常に従い、主から与えられた魔力を扱う」
「……!」
印が微かに光を放つと、イルゼが右手に集めていた風は途端に制御を失い四散した。
「この呪印はその証だ。契約書の判子ってとこだな」
「……嘘ではないようですね」
魔道によって制御された空気の流れが干渉を受けている以上、少なくとも詐術の類ではありえない。
「それでは、昨日のあの男も?」
「不本意ながら、種類としては似たようなもんだよ」
「他に同じような人間は?」
「居るかも知れないが、そう多くはないはずだ。元々超常との主従契約なんて、一部の物好きが考え始めたことで、今じゃ罰則こそ無いが殆ど禁術扱いだ。昨日にしても、こんな人の手の入った土地で従者同士鉢合わせるなんて、向こうも考えてなかったろうな」
「そうですか……」
「で、差し当たり俺の処分は?」
「……個人的には信用したいですが、今の話を聞いて、放免で済ませる魔術師は居ないでしょうね」
「ま、そうなるよな……」
イルゼの融通が利かないことを置くとしても、人間の生活圏に超常の類が存在しているというのは、まともな公人であればとても看過できるような話ではない。
頭の硬い彼女から個人的な信用が得られただけでも、珍しく誠実ぶった甲斐があったとニールは納得することにした。
「身分詐称については、誤解であったとの証言が取れましたので、そちらは不問とした上で、要監察対象としてウルムの支部まで護送する形になります」
「現実的な落としどころだな。幸い目的地も同じだし、向こうに着くまでは大人しくさせて貰うよ」
「そう願います」
略式の聴取を終えて、イルゼが歩き始めると、ニールも従って続いた。
「向こうに着いたら、情状証人くらいは頼めるんだろうな?」
「酌むに足る情状があれば考えますよ」
「確か昨日、俺のおかげで危ないところを助けて貰った魔術士様が居たはずなんだけどな」
「そうですね、その調子でお願いします」
「まだ何かやらせる気か……」
偽魔術師改め、自称超常の従者。
気分の良い肩書きではないが、これも旅が終わるまでと己に言い聞かせたニールは、ひとまず昨日よりも自由になった手足のことを喜ぶことにした。