Neetel Inside 文芸新都
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走暗虫
僕の告白

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 部屋のどこかから携帯の着信音が鳴っている。自室のベッドに横たわる僕はその在処がわからなくて、辺りを手で探ってみる。しかし自分の顔の周りをどれだけ漁ってみても目的のものは見つからない。耳障りな音に耐えきれなくなって半覚醒の頭を叩いて身を起こした。いらだちに任せて布団を引っ剥がす。その拍子にベッドの上に転がっていたガラクタが転がり落ちて派手な音を立てた。最近部屋の掃除をさぼっていたから随分と汚くなってしまっている。
 僕は金曜、体調不良だと嘘をついて学校を休んだ。休日になってからも活動する気が起きずひたすらなにも考えまいとベッドに転がっていた。だからサークル棟にも顔を出していない。おそらくこの電話は祐司さんか誰かからだろう。
 耳を澄ますと着信音は自分の真下から聞こえる。やっと心当たりが着いた僕はベッドの下をのぞき込む。床の上で緑の光を点滅させるそれを見つける。やっぱりそうだ、きっと寝ている間にけ飛ばすか何かして落としてしまったんだろう。僕は苦労して携帯を引っ張り出すと、辛抱強く応答を待っていた着信の主に声をかける。
「はい、もしもし」
「もしもしじゃねーよ」
 相手はやはり祐司さんだった。どうやら気が立っているらしい。
「どうしてサークル棟に顔出さないんだよ」
「はあ」
「知り合い連れてくるんじゃなかったのか?待ちくたびれたぞこっちは」
「すみません、ちょっと色々、立て込んでて」
 僕の曖昧な言い訳に祐司さんは少し黙る。
「お前もしかして自首しようとか考えてないよな」
 彼の声がいきなり低くなって、僕は身を固くする。けれどそれは全くの見当違いだ。
「違いますよ。今の時点じゃ犯罪と言うほどでもないでしょう。だいたい、何で僕が自首しなくちゃいけないんですか」
「それは……そうだけどよ」
 僕が言い返すと祐司さんは気勢を失う。きっと警察とかこの先のことが心配で神経質になっているんだ。
「安心して下さいよ祐司さん、僕ら一蓮托生じゃないですか」
 とはいえ僕の方にも負い目がないわけではないけれど。
「ところで女を連れてくる件はどうなったんだよ、進展あったのか?」 
 問われて、僕は答えに窮する。元々藤崎さんをサークル棟まで連れて行って、そのまま強引にレイプしてしまおうというのが僕の算段だった。間のいいことに数日前になんでも相談していいとまで言われたのだからそれを口実に同行してもらえばよかったのだけれどどうにも気持ちが乗ってこない。今更良心がどうの、リスクがどうのというつもりもないのにおかしなことだ。それどころか彼女のことを思い出す度に僕の気持ちは萎れていって、自分のベッドから立ち上がることすら困難にした。
「おい、岬?」
「あ、はい」
 黙ったままの僕を祐司さんは不審がる。
「大丈夫ですよ、今はちょっと難航してますけど、数日中には必ず手みやげを持ってそちらに行きますから」
 努めて明るい声で言った。
「ああ、それならいいけどよ」
「それじゃあ、切りますね」
 まだ何か言いたそうな祐司さんを遮って電話を切る。僕は暗くなった液晶に移った自分の顔を見た。精神的なものか、少しやつれたようにも見える。ともあれいつまでも部屋に引きこもっているわけにも行かない。覚悟を決めなければ、僕はもう後戻りなんてできないんだから。


****


 休み明け、やっと覚悟を決めた僕は文化祭の準備が終わると藤崎さんを呼び止めた。
「ねぇ、藤崎さん話があるんだ」
「え、私に? なに?」
 藤崎さんは声をかけられたことを意外に思ったようだけれど、すぐに人懐こい子犬みたいな笑顔をつくった。
「その、前話してたじゃない、僕のお願いを聞いてくれるって。実はお願いがあるんだ」
 そう言うと彼女はうれしそうにぱあっと顔を輝かせた。反抗期の子どもに、珍しく親孝行されたような気持ちだろうか。
「うんうん、何でもお願いして。私が力になるから」
 学生らしからぬ寛容さを発揮して僕を促す。まさか酷いお願いをされるなんて想像もしていないような態度だ。僕は先ほどからずっと続いている刺されるような胸の痛みを押さえつける。
「実は僕、大学のサークルに入ってるんだけどさ」
「え、そうなの!?」彼女が大仰に驚く。「なるほどぉ、最近なんだか大人っぽくなったのはそういう訳なんだね」
「そんなことないけど」
「自覚ないの?」
 彼女は勝手に納得してあかべこみたいに首を振っている。言うことにいちいち反応してくれるのは楽しいけれど、この様子ではいっこうに話が進まなそうだ。僕は脱線しそうな彼女の話を引き戻す。
「で、そのサークルが今、人を募集してるんだよね」
「サークルに入って欲しいって事?」
 彼女は理解が早く、僕の意図をすぐに察してくれる。
「さすがにずっと拘束するのは気が引けるよ。藤崎さんにもプライベートの用事がいろいろあるだろうし」
 僕は大村くんのことを思い浮かべながら言った。
「そう? いつでも参加できるってわけじゃないけど、私は暇だから大丈夫だよ」
「ううん、そこまでは求めないよ。君の好意を利用して無茶を言うのは良くないから」
 心にもないことを言う。
「だから、一度だけでいいんだ」
「え、一度だけ?」
「そう、一度だけ。大学のサークル棟に僕と一緒に出向いて欲しい。実はうちのサークル、男ばかりで女の子に飢えてるんだ。それで僕が先輩たちに、高校に可愛い子がいるっていったら是非一目見てみたいってさ、それで――」
 僕は自分の意志を離れていきなり饒舌になる口に戸惑った。うまくいきそうだったのにどうしてこう無駄な情報を与えてしまうんだ。男ばかりのところに連れて行くなんていったら警戒されて当たり前じゃないか、それも一度だけなんて。後悔が押し寄せる。あるいは僕は、彼女に断って欲しかったのかもしれない。そして嫌われて、もう二度と近づかないでと拒絶されれば楽になれるはずなんだ。けれどそんな僕の望みとは裏腹に、彼女は変わらず笑いかける。
「可愛い子って私のこと?」
 目を細めて、照れくさそうに。
「うん」
「近藤くん、私のことそんな風に思ってたんだー。なーんだ、手ひどく振ったくせにさ」
 藤崎さんは冗談ぽく言う。言わせておけばいいのに、僕はむきになって返した。
「中学生の時から僕は藤崎さんのこと可愛いって思ってたよ。いじめられてる頃、僕に話しかけてくれたのは三石くんと藤崎さんだけだったし、女の子の友達は藤崎さんだけだったから余計。恥ずかしい話だけど、あの頃は君のことを天使みたいだって思ってた。バカみたいだろう?」
「……ううん」
 赤裸々な告白に藤崎さんは曖昧な笑みを返す。そりゃ困るだろう、いきなり面と向かってこんなことを言われたら、だれだって引いて当たり前だ。僕はなにを言っているんだ。休日の間、ろくに口も聞かずに部屋に閉じこもっていたからだろうか、頭と口がおかしくなっている。
「だから、僕が君を振ったのは好きになれないとかそういうことじゃなくて……」
 今まで主を散々無視して喋りまくっていた口はそこでいきなり動きを止めてしまう。無責任に主導権を返された僕の頭は続く言葉を見つけだすことができない。吃音みたいにのどの奥で音をつぶす僕に、
「それじゃあ、今週の土曜日でいい? 大学に行くの」
 藤崎さんは助け舟を出した。
「う、うん。それじゃあ土曜日に」


****


 週の頭に約束してしまったものだから、当日まで間があいてしまった。僕は悶々とした気持ちを抱えたまま、半ば癖のようになった朝のニュースチェックをしていた。その習慣は本当に惰性になっていたから有益な情報が得られるだろうという期待もなく、だからはじめ、僕にとって天地を揺るがすような一報をすぐには知覚できなかった。ニュースが移り変わって、キャスターの抑揚のない声が犯人の取り調べでの発言を取り上げた辺りで僕はやっと気がついた。
『……以上が今のところわかっている事件の内容ですが、犯人が捕まったことでこれから新しい事実が判明していくでしょうね。どうでしょう榊さん』
 キャスターが話を振ると、いかがわしい犯罪心理学の専門家とやらが話し始める。僕は彼のコメントより先に事件の内容をもう一度頭の中で反復した。捕まった犯人の住所は僕が住む町の、K大学のすぐ近くだ。被害者女性の勇敢な訴えによって逮捕された男たちには強姦容疑の疑いがある。被疑者の発言には余罪をほのめかすようなものがあり、警察は詳しい調査を進めていく方針だ。
 ああ、と僕は思い至った。例の事件だ。逮捕されたのは複数、中年の男性だそうだ。長い間捜査は難航していて、このまま事件は迷宮入りしてしまうんじゃないかと思っていたけれど、どうやらそうもいかないらしい。
 何事にも終わりは来るものだ。僕はこれからの展開に思いを馳せた。きっと犯人の男性がノートについて口を割るのにそう時間はかからないだろう。そもそも犯罪をするために集まった彼らに連帯感があるとは思えない。自分の罪を軽くするために、仲間を売るなど罪悪感もないだろう。
 とまれ、ノートに関わった人間には近い内、報いが訪れる。僕らに隠語を教授してくれた眼鏡の男性も逮捕されるかもしれない。僕はなぜか寂しい気持ちになった。それと同時に、焦燥が訪れる。全てが終わる前に何かを成し遂げなければ、そういう気持ちだ。
「どうしたの、朝からずっと黙って」
 テレビを凝視したまま固まっている僕を見て母さんが心配する。それに生返事をして、早々に朝食を切り上げた。
 靴を履いて平静を装って家を出ると、僕は自転車で走り出した。目的地は例のゲームセンターだ。犬の散歩をしていた近所のおばさんが全力でペダルをこぐ僕に驚いて顔を向けるけれど、そんなものは気にならない。
 一回も休むことなく、30分ほど自転車を走らせた僕はゲームセンターの入り口に立っていた。息を整える。肩で息をすると景色も上下に動く。目が乾いているためにそれがかすんでいる。僕は一、二分そうして体を落ち着かせていた。ここから先は、周りの人に不審な素振りを見せたくない。
 店内に入ってその奥の、段ボールが積んである場所までやってくる。以前と変わらない様子でノートはあった。よかった、まだここに捜査の手は及んでいないらしい。僕はノートを手に取る。白紙のページを開いて、思案する。ふとした思いつきでこんなところまで来てしまったけれど、自分はノートを使ってなにをしようとしていたんだろう。確かにあと数週間もすれば確実にこのノートはなくなってしまうだろう。だからといって、その前に自分がしておきたいことなどあっただろうか。僕は頭を抱えた。けれどこれは使命なのだ、強姦の現場に居合わせて始まった僕の物語の結末を、ここに示さなければならない。当惑する理性とは裏腹に、訴えかけるものがある。僕は正体の見えない使命感を信用して、頭を働かせた。僕のやるべきこと、人を集めて、成し遂げること。僕は記憶を探った。強姦を目撃した頃は、文化祭の話が持ち上がった頃でもある。
 僕に天啓が降りた。あったじゃないか一つだけ、僕が望んで、一人では成し遂げられなかったことが。それはあまりに素朴でバカバカしくて、しかし僕のような人間には難しく、価値のあることだ。
 早速紙の上にシャーペンを走らせる。ノートが押収されてしまうのは怖いけれど、時期は近すぎない方がいい、人が集まらなくなってしまう。僕は決行の日を一週間後に指定して、参加者を募った。懸命に文字を並べていく。辺りに人影はなかったけれど、例え人がいたとしても今の僕は止まらなかっただろう。
 全てを書き終えて、内容に欠けつがないか目を通した後、ノートを元の位置に戻す。さあ、あとは設計図をつくらなければ。


****


 人は熱中できることがあると時間を忘れることができる。そんなありふれた事実を僕は今まで話には聞いても実感することはなかった。しかしどうだろう、一週間後に決行する企みに向けて設計図を作成していると、平日が終わるのはあっという間だった。学校の授業中もいっぱいに使って作業を進めていたけれど、それでも期間が足りなかったと反省することしきりだ。
 土曜日が来た。作業を進めたいのは山々だけれど藤崎さんとの約束も僕にとっての重要な用事だ。彼女に会うためにいつもより気合いを入れて身支度を整えながら、最近は充実した日々を送っているなと思う。中学の時はもちろん、いじめられていなくて比較穏やかな日々を過ごしていた小学生以前の時分でさえ、満たされた気持ちになることは少なかった気がする。けれどここのところ僕は自分の精神が形を変えて、新しい景色に出会っていることに感銘を覚えている。まるで世界を別の角度から見ているみたいだ。
 しかし、こんな風に幸せを噛みしめてはみても今日の藤崎さんとの用事は楽しいデートなんかじゃない。彼女を陥れて絶望の淵に突き落とす。そういう用事だ。どうしてこれが恋人同士の蜜月でないのだろうと歯がゆい気持ちもある。けれど仕方ない、彼女と平和にデートなどしようものなら大村くんの怒りと軽蔑は避けられないだろう。彼女もそれを重々承知で、ただの友達として僕につき合ってくれている。ならばせめて、僕は清く美しい男女交際の代替行為としてレイプに興じよう。それが僕らしさってものだ。
 取り留めもない思考を断ち切って我に返る。そういえば待ち合わせ場所であるこの公園に来て数十分が経つ、藤崎さんはまだだろうか。中央にたてられた時計を見上げる。約束の時間を十分も過ぎていた。どうしたことだろう、あれだけ親身に僕を構ってくれた割に、薄情じゃないか。携帯を取り出す。着信はない。僕はメールでもしておこうかと考えた。ボタンに手をかけて思い直す。十分程度の遅刻でわざわざ連絡を入れるなんてけつの小さい男だと思われないだろうか。そうしてもやもやしたまま迷っているとさらに数分が過ぎる。ええい、こうなればやけだ、直接電話してしまえ。いまさら嫌われることなんて怖がってどうするのだ僕は。
 コールが数回繰り返されても電話がとられる気配はない。寝坊したという可能性もあるがどうも釈然としない。コールをかけ続けたまま公園を出て辺りをうろつく。近くにきていれば見つけられるかもしれない。
 公園を出て通りを一本過ぎるとどこからか安っぽい電子音が聞こえる。陽気な感じのする曲に僕は聞き覚えがあった。藤崎さんの携帯の着信音だ。住宅街に消え入りそうな音が鳴っている。僕は聞き逃さないように足音を抑えながらその発生源を辿った。
 立ち並ぶ住宅街に挟まれたところ。音は雑草の生えた空き地から聞こえた。何事だろうと家の角に背を付けて、様子を窺う。
 予想していたとおり、藤崎さんはそこにいた。しかし彼女だけではない、三人の男がその周りを取り囲んでいる。なにを話しているのかは聞き取れないが、もめているらしいことはわかる。三人の男たちは全員判を押したように金髪の、不良然とした出で立ちで、たちが悪そうだ。藤崎さんは彼らに迫られて顔をしかめている。言葉を交わすと藤崎さんが立ち去ろうとした。男の一人が手をつかんで引き留める。それに彼女が抵抗すると全員がもみ合うような形になる。
 どうしたものだろうか。僕は考える。状況の理解としてはほぼ間違いなく、藤崎さんがナンパか因縁かに巻き込まれて迷惑しているという図式だろう。まさか彼らが藤崎さんと懇意の仲で、じゃれついているというわけでもあるまい。男の一人が抵抗する彼女を殴った。体の軽い藤崎さんはたやすく吹き飛んで壁に体をぶつける。このまま見過ごすというのも一つの手だ。僕が三人を相手に喧嘩をして勝てるわけがないし、警察を呼ぶのも面倒だ。そもそも僕が彼女を助ける義理があるのだろうか。いや、それはあるだろう。曲がりなりにも今日、二人で出かける用事があったのだし、形式上、彼女は僕の友達と言うことになっている。しかしどうだ、僕が今までしてきたことを思えば暴力を振るう男たちを責める権利などないのではないか。男たちは連携をとって藤崎さんを拘束する。羽交い締めにされた藤崎さんは苦しそうに体をよじる。もしかしてこのまま放っておけば男たちは藤崎さんを強姦するのではないか?突如としてそんな予想が立つ。しかしこれは自分の経験に基づいた都合のいい妄想だろうか。男がもう一度頬を張ると彼女はおとなしくなった。その目は生気を失ったようにぼうっとしている。いつのまにか自分がえらく現場に近づいていることに気づく。このままでは僕の存在がばれてしまう。後ずさりした。彼らに藤崎さんが犯されるなら、彼女はこれからのこと併せて二度も連続で犯されることになる、興奮を越えて滑稽だなこれは。でもそれは僕の望みだ。僕はこれから僕らを出迎えるであろうサークルの面々を思い浮かべる。あの人間としては堕落して、薄汚れてしまった男たちに彼女の白い肌が蹂躙される、なんて甘美な妄想だろう。そうだ、僕は藤崎さんに嫉妬している。彼女が羨ましくてたまらない。その存在が僕の醜くて汚れた形を明らかにしてしまうんだ。
 三人の男たちは熱に浮かされたような表情で少女をいたぶり続ける。そして一人が彼女の衣服に手をかけた。その目は血走り、正気を失っているようにも見える。
 その姿が()自分と重なった。瞬間、僕は地面を蹴り上げていた。向かっていったのは、退路ではなく、男たちの方だった。
 なぜだかわからないけれど耳は聞こえない。聴覚は失われてしまった。なのに自分が何かを叫んでいることだけはわかる。突然の奇声に驚いた男たちがこちらを振り向いて身を固くする。相手の不意をついて、僕は自分の体を男の一人に思い切りぶつけた。僕よりも体の大きいその男はバランスを崩したものの倒れずに僕を受け止める。僕は新歓のとき居酒屋で見た八郎さんのタックルを思い浮かべた。翼さんの足下に入ってかちあげるように体を起こす。不格好ながらもそれを再現すると、男は倒れ込んだ。僕は馬乗りになって拳を加えようとする。途端、側頭部に重い衝撃が来て、僕はあっけなく吹き飛ばされる。僕を蹴り飛ばしたのは仲間の男だった、残りの二人はやっと奇襲の衝撃から立ち直って僕に殴りかかる。痛みはない、けれど体がかってに防御反応をして僕は体を丸める。腕の間から自分の殻の外を見る。藤崎さんが男たちに何かいいながらつかみかかっている。その頬には涙が流れている。ああ、また彼女は泣いているのだ。


****


 どれくらい時が過ぎただろう。全身を殴られた痛みが思い出したように現れた頃、僕は目を開いた。出迎えたのは藤崎さんの泣きはらした顔だった。背景には空がある。
「気がついた?」
 藤崎さんは枯れた声で確認する。僕は無言のままにその姿をあらためた。服に乱れたところはない。一目でわかる怪我もないようだ。
「怪我は?なにかされた?」
 訊ねると彼女は首を横に振った。よかった、それなら身を挺して止めに入った甲斐があるというものだ。
「僕、どのくらい気を失ってたのかな」
 辺りを見回すとあたりは塀に囲まれている。場所は移動していないようだった。男たちの姿はない。
「ほんの数分くらいだよ」
「そっか、さっきの男の人たちはどこに?」
「騒ぎを聞きつけた近所の人が集まってきて、逃げてったよ」
「そう」
 僕はやっと安心して胸をなで下ろす。
「体、痛いよね、救急車呼ぶ?」
 藤崎さんは眉尻を下げて僕の顔をのぞき込む。僕は気恥ずかしくなって立ち上がった。
「大丈夫、大したことないよ。たぶん彼らも加減してくれてたんじゃないかな」
「そんなことないと思うけど。痛いなら病院いかなくちゃ駄目だよ? あとから悪くなることもあるんだから」
「心配性だなあ藤崎さんは、僕の母親じゃないんだから」
「もう……」
 僕の饒舌さを見て少しは安心したようだ。藤崎さんはほっと息を吐く。とにかくいつまでも地べたに転がっているわけにもいかない。僕らはとりあえず、待ち合わせ場所にしていた公園に移動することにした。


 公園の池には柵が施されていて、その横に煤けた水色のベンチがある。僕と藤崎さんは二人で肩を並べて座った。
 落ち着いてしまうと二人とも口を開きにくくなって、黙ってしまう。直前にあった慮外の出来事をどう片づけていいのかわからない。僕は改めて自分の体を眺めた。服の所々が破れたり伸びたりして見れたものではない。口に残る血の味を飲み込む。惨めな気持ちになった。とにかくこんな事態になってしまったからには今日の予定はキャンセルだ。体のこともそうだし、気が変わってしまった。不良からかばった相手を犯そうなんて思えないし、もしかしたら僕には最初から無理だったのかもしれない。
 僕は深くため息をついた。今日まで祐司さんたちに従って積み重ねてきたこと、仁美さんと強引にセックスしたことや妙子さん、三石くんと決別したことも全部が無駄になってしまったような感覚がある。せっかく悪行を積んで自分という人間を確立しようとしていたのに。僕は他人を恐れて屈折する、どうしようもない人間、それでもいいと受け入れたと思っていた。しかし現状はこうだ、付き合えもしない、好きな女の子を庇ってぼろぼろになって悦にいるなんて、僕がもっとも嫌悪していた状況だ。これでいて藤崎さんとのロマンスもありはしないんだから哀れだ。僕は自分という人間がわからない。もう、うんざりだ。
 僕の矮小な悩みなんて知る由もなく、藤崎さんは大げさにため息をつく隣の道化を気遣ってくれる。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
 このやり取りにもいい加減うんざりしてきた。
 ふと思いついて僕は携帯を取り出す。かけた番号の相手は祐司さんだ。断りを入れる。
 電話口相手の祐司さんは当然の如く不機嫌きわまりなかったけれど僕は淡泊に計画の取りやめを告げると早々に電話を切った。
「大学に行くのは延期?」
 藤崎さんが言う。
「延期じゃないよ。中止だ」
「そっか……」
 彼女は不満や疑問は口にしなかった。
「私ね」
 気まずい空気を取り払うように、藤崎さんが話し出す。
「中学の……告白したとき、絶対フラれると思ってたんだよ」
 唐突な話題転換。あのことを向こうから蒸し返されるとは思わなかった。
「懺悔の続きなら聞きたくないよ」
「違うってば、単なる感想。正直ね、フラれるに決まってるんだから、告白しても傷つくのは私だけだって思ってたの。間違いだったけどね」
「それって僕が、ムッツリだって言いたいの? 当時、僕の態度って結構あからさまだったと思うんだけどなあ」
「うそぉ? 近藤くんて私としゃべるとき、めちゃくちゃ仏頂面してたよ」
「そうだったかなあ。まあとにかく、僕が告白を受け入れたのは想定外だったってことね。それで、付き合うことになっちゃったから、毒を食らわば皿までってわけだ。もしかしてだけどさ、君の友達が偽告白だってバラさなきゃ、ずっと僕に付き合ってたでしょ、藤崎さん」
「さーて、それはどうかなー」
 藤崎さんは誤魔化すようにベンチから立ち上った。伸びをして、池に映された夕陽を浴びている。僕は不思議だった。あんなにも遺恨を残していたはずの出来事が、雑談みたいに話せるなんて。
「中学生とはいえ、女子には女子の面倒事があったんだろうね。深く知りたいとは思わないけどさ」
「ないと言えば嘘になるねー。……近藤くんを騙した言い訳にはならないけど」
「いいさ、もう」
 藤崎さんにならって、僕も立ち上がる。汚れて弛んだ襟元を持ち上げた。
「服もこんなだし、今日は帰ろう」
 見せつけると、藤崎さんは苦笑いした。
「そだね」
 別れを告げてからは、まっすぐ家に帰った。だって僕にはまだやらねばならないことがあるのだ。


****


 高校の文化祭前日、僕は、次の日の学校を体調不良で休むことを藤崎さんに告げた。彼女はせっかくがんばって準備したのにと残念がっていたけれど仕方ない、明日は特等席で楽しむことにしているのだ。
 クラスの出し物以外に、僕には他の準備があった。学校中の空き教室から机と椅子を持ち出し、外の倉庫裏に移動させたのだ。これは一苦労だった。文化祭の直前では学校全体が慌ただしかったから、怪しまれなかったのが幸運だ。数日がかりの重労働は貧弱な肉体を痛めつけた。そのために、このところ毎日筋肉痛である。もっとも、汗水垂らす健康的な日課も今日までのことだけれど。
 現在の時刻はすでに文化祭当日の深夜になった。体調不良というのはもちろん真っ赤な嘘で、僕は昼寝をして十分に英気を養った体を起こしてこっそり家を抜け出した。
 ノートに記した待ち合わせ場所は高校近くのコンビニだった。一時間も早くに着いた僕が断トツの一番乗りで、コンビニで買ったアイスを頬張っていた。集合時間の間近になると、協力者の人たちが集まってくる。
「どうも、イルカです」
「あ、フォンです」
 集まった人たちは言葉少なに挨拶を交わす。一応主催者兼、現場監督という役職の僕は全員に頭を下げた。最終的にそろった人数は僕を含めて五人、作業時間を考えると心許ないが、一週間でよくこれだけ集まったとも言える。予定よりも五分ほど早くに全員が集まったので、一秒の時間すら惜しい僕は皆を引き連れて高校まで歩き出した。
 校内へ通じる門は当然全て錠がしまっていて、僕らはしかたなく塀を乗り越えて校庭に侵入した。
 夜の校庭は端が見あたらないほど暗く物も少ないので、まるで暗闇の海の中に放り出されたみたいな感じがする。僕は用意していた懐中電灯を取り出して足下を確認した。しかしやはり市販の懐中電灯だけでは足りない。前に向けると一直線に伸びた黄色の光は途中で闇に飲まれてたち消えてしまっている。
 とはいえ泣き言を言っても始まらない。視界不良による作業の困難はもとより織り込み済みだし、これ以上目立つ光を出そうものなら近所の人たちに通報されかねない。僕は早速用意してきた設計図のコピーを協力者の人たちに渡して口頭で指示を出す。
「というわけで、蘭ふぁんさんは一階の教室から机といすを集めて下さい。進入経路はこうです。うっかり施錠された窓を無理矢理開けたりするとセキュリティが発動すると思うので気をつけて下さい」
「了解です」
「いつかさんは体格がいいので組立をお願いします。僕が離れたところから指示を出すのでその通りにお願いします」
「はいはい、合点」
「しかし悪趣味ですねこの設計図」
 誰かが言う。
「自分でもそう思うよ」
「でも好きですよ僕、こういうの」
 僕と同い年か、おそらく年下の青年が笑う。歯抜けの口が垣間見えた。
「実は僕もなんだ」
 同じように笑い返した。
 かくして、深夜の不法侵入者たちによる建築が始まったのである。集まった人たちは皆協力的で手際がよかったのはうれしい誤算だった。僕が監督で進めることになるから諍いでも起きたらどうしようかと思っていたけれど、ノートの存在が世間に明かされようというときにまだこんな酔狂につき合ってくれるのはよっぽど依頼者に対する善意、あるいは世間に対する悪意が強い人間みたいだ。
 時計が無感情に音を立てながら時を刻んでいく。矢の如く進んでいく時間は空にも変化をもたらし、やがて世界が白んでいく。朝のはやい老人が学校の前を散歩で通り過ぎようという頃になって、僕らの作業は完成した。明るくなるにつれて焦りとともに作業が進めやすくなった。まだまだ手直しを加えたいところはあったが、おおむね必要な部分は表現できたように思う。
 僕は協力してくれた匿名の人たちと握手を交わし、感謝の意を表した。このときのために用意しておいた菓子も、陳腐だが喜んでもらえたようだ。彼らには彼らの生活がある。それがろくでもないものだとしてもだ。僕は再び塀を乗り越えて去っていく彼らの背中を見送って、その場に残った。
 眠い目をこする。どこかで顔を洗ってこなければ。僕は作業が終わったからといって家のベッドで眠るというわけにはいかないのだ。皆の反応を見届けたい。サプライズの主として当たり前の期待と義務があった。そろそろ早朝出勤の職員が訪れる時間だ。僕は身を隠すためにそそくさとその場を立ち去った。もしかしたら朝の早い職員たちに片づけられたりはしないだろうか、そんな不安がよぎったが、少ない人数で簡単に済むことではないと自分を安心させて僕は自分の作品の全貌が見えやすい場所を探した。
 選んだのは現在は人の出入りが少ない旧校舎の屋上だった。屋上の扉には鍵がかかっていたけれど元々年季の入った錠だったので壊して入った。本当は事前に職員室に行って盗み出しておけばよかったのかもしれないけれどこの時間になってはもう不可能だ。すでに教員の一人や二人出勤していてもおかしくない。
 屋上の風は涼しかった。先ほどまでの作業で知らぬ内に汗ばんだ体を吹き抜けるのが気持ちいい。僕は疲労によって重くなる頭と生ぬるい空気に包まれる体の強烈な誘惑に耐えかねて、屋上のコンクリートの上に体を横たえる。そういえば最近はコンクリートの上に寝転がる機会が増えた気がする。自分の骨よりも硬い地面でくつろぐのにも慣れてしまった。これで仮にホームレスになったとしても問題ないな、とどうでもいい考えが浮かぶ。
 意識があったのはそこまでだった。心にあった高揚ごと微睡みに飲み込まれた僕は、そのまま温かい暗闇に身を落としてしまう。ああ、きっと朝起きたら楽しいことになる。少年の日、大人たちの目を盗んでいたずらをしたときと同じ気持ちが頭の中でずっと反響していた。
 目を覚ましたのはざわざわという大勢の喧噪を聞いたからだ。その音は遠くからのようだった。はじめは他人事と決めつけて微睡みの快楽にしがみついていた僕も騒がしさに嫌々身を起こす。そして全てを思い出すと慌てて、現在の時刻を確認した。午前九時、よかった、寝ていたのはほんの数時間だったようだ。ということはこの喧噪は文化祭が始まったのと、きっと。僕は錆び付いた手すりを掴んで向かいにある新校舎と校庭の様子を見下ろす。
 果たして、僕の作り上げた作品は作成当時のままにそこに残っていた。僕は思わず声を上げて笑う。
「はははは、やったぞ」
 僕が自己表現に選んだ手段は、以前文化祭の出し物案で却下されたものだ。校庭に白いラインや、机・椅子などの立体物も使って一つの造形を作り出す。それはあの、テレビのニュースで見た新潟の稲作アートをアイデアの源にしている。
 描いた画は、この町の肖像だ。僕の家を出発して、この高校、そしてK大学を結んだ三角形。三点に囲まれる範囲だけが作品の題材だ。同時に、僕の世界のすべてでもある。極めて狭い面積であるのに、中には多くのものが蠢いている。おっかなびっくり近づいている教師たち。騒ぎを聞きつけて集まってくる生徒。各々、別の表情をして作品を彩っている。こんなにも醜くて、グロテスクで、それでいて愛に溢れた作品はこの世にない。僕はひたすら心の中で自画自賛する。どう考えたって設計の段階からたったの一、二週間で完成した素人の作品が芸術的価値を持つことはないのだが、それでもよかった。なんといってもこれは僕自身の内面を吐露したものだ。地味で目立たなくてつまらない僕が、それでも作り上げて、大勢の前に晒したものだ。羞恥はある。躊躇う気持ちもある。けれどそれも今では心地よく思う。
 やがて校庭に集まる人数は増えていく。内容はともかくとして、反響は上々である。どうだ見たことか、教室の中で上品ぶって喫茶店なんかやっているよりもこっちのほうがインパクトがあって客受けがいいぞ、と僕はクラスの連中に勝ち誇った。最高の気分だった。


 ひとしきり作品の趣と観衆の反応を楽しんだ僕はやっと落ち着いてその場に座り込む。そして冷静になる。やがて騒ぎは収まるだろう。文化祭の後には校庭でキャンプファイヤーをすることになっているはずだ。少なくともそれまでには撤収作業が済んで、お祭り騒ぎの終わりとともに、僕の成果もなかったことにされる。空を昇っていく太陽を見て、一日の終わりを想像する。もの寂しい気持ちになった。
 藤崎さんもどこかでこの作品を見ているだろうか。いや、藤崎さんだけじゃない、大村くん、三石くん、ついでに短い間つき合っていた伊藤さん、僕のことを歯牙にもかけていなかった女の子たちにも見て欲しいと思う。僕は皆の驚いている様を思い浮かべる。藤崎さんなんかはもしかしたら、この芸術の作者が僕であることに気が付いているかもしれない。そうして、「まったく、近藤くんはおかしな人だなあ」なんて呆れて、それでも笑ってくれるに違いない。
 僕は自分の将来についても思いを馳せた。そういえば、仁美さんは以前の強姦について警察に届けたのだろうか? もしかしたら近い内、僕は逮捕されるかもしれない。それもいい。あるいは数多の強姦被害者に漏れず、自分が辱められたことをひた隠しにし続けるのかもしれない。もしそうだったら、僕は罪に問われることなく高校を卒業して、ひょっとして大学を経由して社会人になるかもしれない。今の自分からは想像も付かないけれど、それもいいだろう。悪いことをした人間がのうのうと生きているなんてこの世界にはありふれたことだ。ふてぶてしく生きてやるとも。
 ふと、僕は思った。そうだ、作品が撤収されてしまう前に、僕も騒ぎに加わろう。学校には、事前に欠席を告げているのだから訝しがられるだろうが、問題はない。今はそんなことよりも楽しみたいのだ。思えば最初から、作品には何かが欠けていた。画竜点睛。僕が彼らに混ざることで、空白を埋められたらいい。
 頭で様々なくだらない情景やら思考を繰り広げながら、僕は屋上の扉を開く。こんなお祭りの最中でも人の少ない旧校舎の下り階段には音もなく、人影すら見つからない。僕はぽっかりと口を開けて闇を晒すその階段を弾む足取りで降りる。狭い通路には自分の足音だけが響いている。僕はこれからきっと、素晴らしい人生が送れる。生まれて初めてそんな確信を抱いて、いつまでも細い道を歩いていった。


       

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ヤスノミユキ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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