Neetel Inside ニートノベル
表紙

斉藤武雄の忘備録
その8

見開き   最大化      



 Ⅷ

 難攻不落かと思われたモラトリアムも、いつかあっさりと崩れ落ちる。そうして崩れ落ちたモラトリアムも、案外すんなり終わりを告げる。決して根拠がある話ではない。だけど、そんな気がしていた。
 pちゃんに手を引かれるようにして、pちゃんの家の中へと僕は導かれる。pちゃんの両親への挨拶もそこそこにした後、僕とpちゃんは楓さんの部屋がある二階へと向かう。楓さんの部屋の前にはドアがあって、ドアは静かに固く閉ざされているようだった。そんな無言の威圧感を感じた僕は、少したじろぐ。
 たじろぐ僕を見てpちゃんは少し微笑む。その後、pちゃんはドア越しに楓さんに話しかける。
「楓、saitoさんがお見えになってるよ? 外に出て挨拶してくれないか」
「嫌よ、そんなの。大体、saitoさんって何者なの? お兄ちゃんの友達? 」
「そ、そうだよ。最近少しskypeをしてる友達」
「知らないよ、そんなの」
「いやいや、そんなこと言わずにさ……。きっとsaitoさんは楓さんの力になってくれると思うよ?」
「そうなんだ。じゃあ聞くけど、お兄ちゃん、そのsaitoさんは私に何力を与えてくれるの? 」
「いや……何力って……そりゃあ……その……対話力? 挫折力? 」
「何それ、怪しい自己啓発みたい。うさんくさい。嫌。お兄ちゃん、高校中退して、家で勉強ばかりしてたら頭までおかしくなっちゃったの? こんなお兄ちゃん嫌い」
「は、はぁ」
 そう溜息を漏らしたpちゃんが僕の方をちらりと見る。
「どうしますか、saitoさん」
「ど、どうって言われても……。ま、まあ楓さんも嫌がってることだし、きょ、今日のところはもう良いんじゃないのかな。ははっ……」
「……まあそうなんですけど、年の功でどうにか楓を説得してくれませんか。ね? saitoさん」
そう言いながらpちゃんは僕を上目遣いで見る。上目遣いで見られると訴えかけられているみたいで、そうすると僕は断りきれなくなる。嘆願されると断りきれなくなるという僕の元来の性格をpちゃんに上手く利用されている気がした。でも、きっと僕はpちゃんの頼みを断わることはできないだろう。
「そ、そうだなぁ……どうしようかなぁ。は、ははっ……」


 鍵はかかっていないのだから、このドアノブを引っ張れば、僕は楓さんとご対面することはできる。だけど楓さんの部屋のドアには妙に堅牢で、静かで、そして威圧感があった。だから僕は目の前にある扉を開けることができなかった。勇気も湧かなかったのだ。
 人生でこんな風に、絶対にやらねばならないけれど、だけど全く立ち向かう勇気が湧かないという状況が、幾つかあることは僕も知っている。少しの勇気を振り絞って、例えば今の状況であればドアノブを引っ張って、ドアを開けてみれば、開けないでいるよりはよっぽど違う結果が、未来が待っていることを僕は知っている。同時に、開けないでいるとどうしようもない未来が待っていることも僕はよく知っている。なぜなら僕はそういう勇気を振り絞らなければいけない状況の時に、半分くらいは勇気をどうしても出せずに、つまり扉を開けられずにいたからだ。
 だけど半分は扉を開けた経験がある。だから扉を開ければ、つまりこの目の前のドアを無理矢理にでも開ければ、開けないでいるよりはよっぽど良い未来が待っていることも知っている。
 だけど今日の僕は、目の前に広がる、静かに、そして固く閉ざされたドアを開けられずにいた。
 pちゃんの顔をちらりとみる。その精悍な顔立ちは、僕をぎろりと睨む。どうやら今日は意地でも返してくれないらしい。
 だけど今日の僕は、どうしてもドアを開ける勇気がわいてこなかった。だから僕は楓さんのいる部屋のドアの前で三十分ほど右往左往していた。右往左往とドアの前をぺたぺたと歩きながら、僕は自分の高校時代を思いを馳せていた。


 それは、薄寂れた校舎が多くを占めているような、そんな高校に通っていた頃の思い出。放課後の文芸部のワンシーン。
 天文部や文芸部といった文化部に入って、とっくに日が暮れた放課後の部室で、窓の外に映る夜の空を見ながら、後輩の女子と淡い恋慕に僕だってうつつを抜かしたかった。勉強だってもっとできるようになりたかった。クラスで一番嫌いだったあいつより良い大学にも受かりたかった。
 でもそのどちらも僕にはできなかった。淡い恋慕にうつつを抜かすこともできず、勉強だってできず、嫌いなあいつより良い大学に入ることはできなかった。
 だけどそんな未来はいざ知れず、映画や小説で描かれているような、文化部の甘酸っぱい群像劇に淡い群像劇に期待を寄せながら、高校一年生の僕は、文芸部に入部した。
 だけど入部してみたものの、結果は散々だった。文芸部とは名ばかりで、部員の読む本はライトノベルばかり。心底がっかりした。……いや、散々というのは、正直なところ言い過ぎだけれど。散々、でもなかった。でも結局彼女ができることはなかったのだから、その意味では散々なのかもしれないけれど。
 新入生の部員は僕含めて三人で、女子は一人。同じ新入生で入部した男子の名は、佐藤といった。佐藤は天然パーマで小柄で、読む本は専らライトノベルで、アニメの話しかしないという典型的なオタクだった。女子の名前は山城さんといった。山城さんは海外文学を読んでいた。ライトノベルも読んでいた。
 端正に着こなされた制服とのスカートから伸びる、華奢で白い足と黒ソックス。黒ショートでボブの髪に包まれた、一本芯が通っていそうな純真無垢な横顔が、たまらなく好きだった。
 文芸部に毎日来ていたのは、僕と山城さんと、一つ上の田坂先輩くらいで、佐藤や他の部員は殆ど部室には来なかった。僕と山城さんと田坂先輩は、互いに言葉を一切交わすことなく、自宅や図書室から借りてきた本を持ち寄って、ただひたすら本を読んだ。ひたすらに読書活動に没頭する、それが文芸部の部活動だった。読書は嫌いではなかったけれど、読書ばかりでは流石に退屈で仕方なかった。肉体的に疲弊するわけではないけれど、文芸部はそんな理由で僕にとっては地獄の部活だった。
 特に田坂先輩が来ている日は地獄で、唯一の女子の山城さんに少しでも話しかけようとする素振りを見せようものなら、すぐに部室の掃除を今すぐするようにと睨みつけられたものだった。今にして思えば、田坂先輩も山城さんのことが好きだったのかもしれない。だから僕が山城さんと話そうとすると、そうはさせるものかと牽制してきたのかもしれない。……田坂先輩が山城さんと話している所を見たことなんて、数えるほどにもないのだけれど。
 だけど田坂先輩が来ない日は、二人で一言、二言だけ会話を交わした。山城さんの気が向く日に限ってだったけれど、窓の外の木々が風で揺れる様子を静かに見つめながら、二人でできる限りの差し障りのない話をした。天気の話、最近の陽気の話、今日の授業の話。最近読んでいる本の話は、結局一回もすることはなかった。だから僕は山城さんが読んでいる本の内容は一切知らない。知っているのはカバーから見えるタイトルだけだった。
 田坂先輩が卒業して来なくなってからの高校三年からの一年間は、今となっては山城さんと仲良くなる千載一遇のチャンスだったのだろうけれど、田坂先輩が部室に来なくなった後、なぜか山城さんは文芸部には来なくなっていた。
 卒業して数年経つ今になって考えてみても、理由はよくわからなかった。なぜ山城さんは文芸部に来なくなったのだろう。それに、田坂先輩が卒業してから、山城さんを学校で見かけたのは卒業式の時くらいしかない。今頃山城さんはどうしているのだろう。
 そんなものだから普段は横を向いて読書している姿しか見ることができるのだったけれど、たまに見せてくれる笑顔も大好きだった。文芸部に入っていた三年間の間で、山城さんは僕にそんな笑顔を見せてくれることは数えるくらいしかなかったけれど、でも、その見せてくれた笑顔の全てを僕は今でも鮮明に記憶しているし、きっとこれからも鮮明に記憶し続けているだろう。少し気取った台詞を吐くとすると、山城さんが僕に見せてくれた笑顔は、僕の一番の宝物だった。
 宝物だった、と過去形で語るけれど、でも別に山城さんとの関係が特に険悪だったわけでもないし、ろくに言葉も交わさずに二人とも卒業してしまったのだから、そもそも終わってすらいないのかもしれない。卒業式の後に、お別れの言葉が言えなかったことが唯一の心残りだったくらいで、今でも会えばきちんと言葉を交わすことくらいはできるだろうと、実は心の奥底では信じていたりする。
 そういえば、山城さんは卒業後どの大学に行ったのだろう。そんなことすら僕は知らなかった。だけど顔も良く、理知的で、だけど芯の通った山城さんのことだ。きっと今頃は、しっかりとアイデンティティー形成の問題にもきっちりと決着を着けて、山城さんなりの人生をしっかりと歩んでいるに違いない。……こんな青年期のアイデンティティー形成に失敗した、ひきこもり童貞ニートの僕なんかと違って。
 社会に出ていれば、きっといつかは山城さんにまた出会えるのかなぁと空想してみる。言葉は交わせなくたっていい。せめて後ろ姿だけでも、いや、横顔だけでも、また見れないものだろうか。


 ついさっき、山城さんが田坂先輩が卒業した後、つまり高校三年生の四月を境にぴたりと学校で会わなくなったという話を回想しながらふと思ったのだが、楓さんもそんな風に周りに思われていないだろうかという考えが頭によぎった。
 もし山城さんのように思っているなら、いや自分を想ってくれる人がいるのなら、僕はひきこもらずに学校に行った方が良いのではないかと思う。……いや、これは専ら好きな女子が学校に突然来なくなった時の心情だけれど。
 もし楓さんに淡い恋心を抱いている男子が居るとすれば、彼はどんなに悲しむだろうか。彼女に奉げた青春を、こんなひきこもりの魔力にされるがままに、ただ静かに終えてしまってもいいのだろうか。
 ……良いわけないはずがなかった。楓さんが良くても、いや、楓さんだって良くないだろうけれど、こんな形で、ひきこもりによって貴重な十代の青春を奪われるのは、彼にとっても、いや楓さんに関わる全ての人にとっても良いことは一つもないだろう。
 そうと決まれば僕がやることは一つだった。少しの勇気を振り絞って、この扉を開けてみること。それだけだ。でも、その少しの勇気を振り絞ることが僕にはとても難しかった。
 理髪店の前で右往左往した時と同じように、僕は楓さんの部屋のドアの前で右往左往した。その足音がよっぽどうるさかったのか、ついにドア越しから楓さんの怒号が飛んでくる。当然、怒号の対象は僕だ。
「もう! saitoさん! いい加減にしてください! 足音うるさいです! いい加減、早く帰ってください! 迷惑です」
 突然の怒号に僕はたじろぐ。頭が真っ白になりそうになる。女子高生に怒られただけなのに、たまらなく泣きそうになる。その僕の姿を見て、pちゃんが少し微笑む。声には出さなかったけれど、やれやれ仕方ないですね、と口を動かしていた気がした。
 楓さんの怒号にpちゃんが呼応する。
「わかった、わかったから。そんなに怒らないでさぁ、いや、ちょっと会うだけでいいんだよ。ちょっと会うだけでsaitoさんも帰るって約束だし。ね? そうだよね、saitoさん」
「お、おう……」


 しばらく間が空いて、部屋の周りが静寂に包まれる。物音が何一つしなくなる。お昼なのに掃除機の音だってしないし、何よりこの家には僕とpちゃんと楓さん以外はいないかのよう。不思議な感覚だった。さっきは挨拶だってしてきたのに。pちゃんと楓さんのお母さんも買い物に行ってしまったのかもしれない。
「……そ、そこまでお兄ちゃんが言うなら……。きょ、今日は特別なんだからね……。saitoさんもお兄ちゃんも、ちょっと話したらすぐ出ていってね……」
ドア越しに、楓さんが小さい声で囁いた。今が千載一遇のチャンスなのだと思い立った僕は、楓さんがドアを少し開けようとしたのを利用して、一気にドアを引く。
「痛っ」
あまりに強くドアを引いてしまったものだから、その拍子で勢い余った楓さんは、部屋のドアの前にある壁に頭をぶつけてしまった。ごん、という鈍い音がした。
 しまった、引き過ぎてしまった。真っ白なブラウスと赤いリボン。紺のブレザーとプリーツスカートに身を包んだ黒髪の楓さんが、壁に頭をぶつけて、しおらしく体をしならせながら床に座り込んでいる姿に、不謹慎だけれど劣情を催さないわけがなかった。女子高生に手を出すだなんてとんでもないことくらいは頭ではわかっているけれど、乱れる思春期少女を見て性的に興奮しないわけがないというのは、悲しき男の性としか言いようがない。どうしようもない。
 だけどこの劣情を悟られてはいけないと思った僕は、丹念に結った黒髪さえ視界に入らないように注意しながら、必死で平静を装うとする。すると、しばらくの間が空いた後、楓さんが口を開く。
「もう……、何? 今ドア引いたのお兄ちゃん? saitoさん? 痛いんだけど……。もう……最悪」
まさか壁に頭をぶつけるとは思わなかったのだけれど、ここで謝ればまた楓さんはドアの向こうにひきこもってしまうような気がしたので、僕は今回は謝らないでおくことにした。
「あ、ええと……saitoさん、紹介します。これがうちの妹。ひきこもりの妹。楓です」
pちゃんの声で我に返ったのか、僕とは逆に今度は楓さんがたじろぐ。
「あ……え、ええと、桃木楓……です。さ、さっきは怒鳴ってすみません。よ、よろしくお願いします。あ、はは、はは……」
物音一つしない二階の廊下で、楓さんの枯れた愛想笑いだけが響いていく。いつの間にか、ついさっきまでは淫らに開いていた足もきちんと閉じていて、ちゃんと女の子らしいぺたん座りになっていた。
「あ……いえ、大丈夫です。こちらこそさっきはすいません」
そう言って僕は会釈する。楓さんの部屋の窓が開けっ放しだったせいか、急に突風のような風が僕たち三人をつんざいていく。その風の方向にpちゃんと楓さんの視線が向いている隙に、僕はスマホを確認する。午後二時三十分。
 楓さんが重い口を開くまで、実はあと三十分ほどかかることを、その時の僕はまだ知らなかった。

       

表紙

田中佐藤 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha