雑木林の間だった。
近くの町から、山道を登ってきている。オリーブの町の、北東にある町の近辺だった。
グラシアは、一人でその道を歩いていた。
その理由は、五日前になる。
とある情報が、小城にいたグラシアのところに届いたのだ。いくつか並行して捜させていた事柄の一つだった。グラシアは、すぐにボルドーとグレイに、その話を伝えた。
二人の内のどちらかが、行くのだろうと思っていた。ところが、どちらも行かないと言い出したのだ。
グラシアが行けと言ったのは、グレイだった。ボルドーも、簡単にそれに同意した。
どういうつもりかは、ここに来る道中で、なんとなく分かったつもりだった。
日は、傾いてから少し経っている。心地のいい風が、正面から吹いていた。
しばらく歩いてから、木々の間から建物の屋根が見えてきた。
さらに近づく。
小規模の平屋の家だった。古そうではあるが、造りはしっかりとしているようだ。その家の前には、人工のものであろう池があった。水は、濁っている。
その池の縁に、一人の女が、腰掛けているのが見えた。
グラシアは、少し緊張した。
遠目にも、生気が失せているのが分かる。俯いていて、黒い髪が風に靡いていた。
池の真ん中を見ているように見えるが、どこも見てはいないのかもしれない。
グラシアは、女に近づいた。
女は、当然こちらに気付いてはいるだろうが、まったくこちらを見ない。
「……意外ですね」
消え入るような、か細い声が聞こえた。
「私を殺しに来るのは、グレイかボルドーさんだと思っていました」
「悪かったわね、私で」
シーは相変わらず、視線を前に向けたままだった。
グラシアは、シーから三歩の所で立った。敵意はないように見えるが、一応警戒はしておく。
「どうして、こんな所にいるの?」
グラシアが言った。
「……ここは、前の戦争の時に作った、隠れ家の一つです。どこに行こうか考えていた時に、ここのことを、ふと思い出しまして」
「そういうことじゃなくて」
やつれてはいるが、整った顔立ちは、そのままだった。
「もう私は、中央とは関わりのない人間ですから」
シーは言った。
「信じられないね」
「そうですか」
「三年前、カラト達を襲ったんでしょう?」
グラシアが切り出した。
少しの間。
「……ええ」
シーが言う。
「殺したの? カラトを」
「はい」
あっさりと言った。
グラシアは、シーを見ていた。
「どうやって?」
「もう分かっているのでしょう? 私が研究していた人工心気。それを施した者達を引き連れて、カラト達を襲ったのです」
「王子に命令されて?」
「ええ」
「どっちの王子?」
「シアン王子です。私の研究の支援をしていたのが、彼なので」
グラシアは、少し何を言うか考えた。
「なんて命令されたの?」
シーは、間を置く。
「……王族の生き残りに成り済まして、国家の混乱を謀ろうとしている者がいるから、討ってほしい、と。その仕事の成果を見て、今後の研究費用を決めると。省略すれば、そういう命令でした」
「今の言い方だと、始めは、相手がカラトだとは知らなかったのね?」
シーは、黙った。
「シー?」
「そうです」
「いつ知ったの?」
「西で、目標を捕捉して、少し追跡していた時です。すぐに、ただ者ではないと感じました。森に入った辺りで、ああ、多分カラトだな、と」
「分かっても、止めなかったのね」
「……そうですね」
グラシアは、間を置いた。
「でも、じゃああなたは、どうしてシエラを追わなかったの? カラトを殺してまで、任務を完遂しようとしてたんじゃないの? 第一、それじゃ、あなたがここにいる理由にならないじゃない」
再び、シーは黙った。
グラシアは、少し苛立ってきた。
「でも良かったわね。研究は大成功じゃない。あのカラトを倒したのなら、これ以上の成果はないでしょう」
皮肉を言ったつもりだったが、少し酷なことを言ってしまったかもしれないと、すぐに思った。
ただ、シーは無反応だった。
「成功、なのでしょうか」
シーが言う。
「どういうこと?」
「私が連れていた百人は全滅しました。一人一人が、達人級に心気の力がある者達ばかりでしたが、カラト一人に殲滅させられたのです。これが、成功だと言えるのでしょうか」
全滅?
「もしかして、それが中央に戻れなかった理由? それで、シエラを追えなかったと?」
返答はない。
グラシアは考えた。
シーの言っていることは、一応の辻褄は合うのではないか。シーは、研究のため、故郷を救うために、中央に残った。そして、研究を支援をしていた王子の命令で、カラト達を襲ったのだ。
ただ、その戦いで実験体達が、予想外の損害を受けてしまったということか。それが、王子の不評を受けて、追放されたということか。
ただ、それでは王子達が、シエラの追跡を止めた理由は、やはり分からない。
それに、まだ疑問はある。
「あの、各地に現れた突然変異の動物は、あなたの仕業なの?」
「……都の近くにある研究所で飼っていた、実験動物であることは確かでしょう。ただ、私は三年前から、一度も研究所には戻っていません。おそらく、勝手に逃げたのか、誰かが逃がしたのかと思います」
「本当ね?」
「私の、理解です」
シーが言った。
「北で、ボルドーさん達を襲ったのは?」
シーが、初めて視線を動かした。
「……それは分かりません」
「頭が禿げていて、意識がはっきりとしていなかった男らしいわよ」
「だとすれば、おそらく私が率いていた者の生き残りだと考えられます。私が指揮を放棄したので、目的を失い、放浪していたのでしょう。頭髪が抜け落ちたり、意識が混濁することは、人工心気の副作用ですから」
「何気に、えぐいこと言うわね」
シーは、再び俯いた。
しばらくしてから、口を開く。
「……話すことは話せました。私は、これらを伝えたかったから、今まで生きていたのだと思います……もう心残りはありません」
そう言う。
「……私を、殺して下さい、グラシアさん」
シーが言った。
グラシアは、シーを見ていた。
「あなたを殺すつもりはないわ」
グラシアが言う。
「今更あなたを殺したところで、何も意味はないってことでしょう。だからこそ、グレイも私に行けって言ったんだと思う。だから、あなたは殺さない」
そう言った。
シーは、俯いたままだった。
「シー、南のことは知っている?」
しばらくしてから言う。
「……少しだけなら」
「過去のことは、なかったことにはならないけど、協力してくれる気はない? 私達には、一人でも戦力になってくれる人が必要なの」
「私には、もう戦う資格はありません」
「あなたに、自責の念があるというのなら、戦う意味としては、これ以上のことはないはずだと思うけど」
「……意味?」
「叛乱の主は、カラトが命懸けで守っていた、あのシエラなのだから」
言った。
しばらく見ていたが、シーは無反応だった。
グラシアは、息を一つつく。
「最後に一つ、聞きたいことがあるんだけど」
グラシアは言う。
「カラトの遺体……運んだのは、あなた?」
沈黙。
少しして、シーは僅かに頷いた。
「そう……」
埋葬したのか、弔ったのか。それが、シーなりの行動だったのか。
場所を聞こうかとも思ったが、止めた。もう遺体は、土に還っているだろう。なんの証拠にもなりはしない。
そういえば、シーは自分の故郷のことを知っているのだろうか。もしかすると、知らないのかもしれない。
聞こうかとも考えたが、黙った。
「そう、分かったわ。話してくれて、ありがとう」
しばらく見ていたが、やはりシーは無反応だった。
「……じゃあ」
さらに、しばらくしてから、グラシアは振り返って歩き始めた。
「……待って下さい」
背後から、声がした。
グラシアが振り返ると、シーが立ち上がっていた。
「……着いてきて下さい」
そう言うと、家の方に歩き始めた。
「どうしたの?」
グラシアの問いに、返答はなく、シーは家の扉を開けて中に入っていった。
何なのだろう。
少し考えたが、グラシアは着いていくことにした。
家の中に入ると、すぐに異様な臭いが鼻を刺した。
中には、動物の死体が入った、大小様々な瓶が並んでいた。それに、いろいろな工具が、所狭しと並んでいる。見ていて、気分が悪くなりそうな物ばかりだった。
「まだ、研究は続けてたんだねえ」
シーの姿が見えなかった。
見回すと、入り口のすぐ横に、下に降りる階段があるのが分かった。
ここを降りたのか?
ここで、この有様なのだから、地下ともなると、もっと凄惨なことになっているのかもしれない。
少し躊躇ったが、思い切って降りることにした。
人一人が通るのが、やっとのぐらいの狭さで、薄暗い階段だった。しかし、少し降りると、先に日の光があるのが分かった。
階段を下りきって、驚く。
清潔感がある部屋がある。真っ直ぐ突き当たりには、窓が見えた。そこから、日の光が入ってきているのだ。何故地下に、窓があるのか。
グラシアは、近辺の地形を思い浮かべた。そういえば、この家の後ろには、渓谷になっているのだった。成る程、崖に窓がついているということか。
ここが、シーの生活空間ということだろう。さすがのシーも、あんな凄惨な場所では、生活はできないのだろう。
突き当たりの窓の側に、扉がある。シーは、それを開けて立っていた。
そこに近づく。
シーは、無言で開けた扉を支えている。
「中に入れってこと?」
シーは目を伏せている。
グラシアは、中に入った。
ここも、清潔感と生活感がある小部屋だった。ここにも窓がある。
その窓の、すぐ側に寝台が置いてあった。
グラシアは、一瞬思考が停止した。
見知った顔が、寝台の上に見えた。