水が滴り落ちた。
濡れた前髪から、滴が落ちた。雨が降り始めて、しばらく経つ。もう、全身が濡れそぼっていたが、気になどしない。
森の中だった。そして、背後には百人の精鋭達が、息を潜めて自分の指示を待っていた。
どこで、作戦開始の合図を出すか、しばらく、それだけを考えている。
王族になりすまして、国家転覆を謀ろうとしている者がいて、その者を討つか捕らえるかしろというのが命令だった。ただ、細かい概要はよく分からなかったので、調べながらの移動になった。
その偽王族という者が、本物かどうかなど関係がないと思っている。どちらにせよ、今新たに王族と名乗る者が中央に現れてしまえば、ようやく収まりつつあった中央の混乱が、再び再燃するのは必至だからだ。
そして、一番の問題は、その偽王族を護衛している者だった。
報告を聞くだけで、能力がある者だと分かる。機転もきくようで、もう何度も、偵察をまかれていた。
そして数時間前に、ある考えが過ぎった。
まさか、あの人ではないのか。
しかし、何故。
考えがまとまらないまま、追跡を続けた。そして、ある森の手前で補足をして、見失わないように追跡を続けている最中だった。
しばらくして、偵察に向かわせていた数人が戻ってくる。
男が一人で立っているという。
少し考える。
もしかすると、あの人には戦う気は無いのではないのか。こちらが、姿を見せれば、大人しく投降してくれるのかもしれない。それに、あの人ならば、この部隊がどれだけ精強か知っているはずだ。
そう考えると、そうとしか思えなくなってくる。
それに、これはいい機会なんだ。一番最初に、この部隊を見せたいと思っていた人に、見せることができるではないか。思い描いていた状況とは違うが、機会は機会だ。
十傑が解散すると知った時、自分はどうするかと当然悩んだ。ただ、研究を続けるためには、中央以外にはないのだ。
どうしても、研究は続けたかった。だから残った。
村を助けたいという思いは、当然ある。しかし、それ以上の動機が、自分にはあった。
昔、あの人が、自分の研究を褒めてくれた。
それだけで、一生を費やす価値があると思った。
また褒めてくれるだろうか。
意を決して、手を挙げた。
集団は黙々と、木々の合間を進んだ。
やがて、木々がない開けている場所で立っている男が見えた。その向こうには沢があるようだ。
全員で、歩を進める。
男が、こちらに目を向けた。
「やあ、シー。久しぶりだな」
懐かしい声。雨音など、気にもならない。胸が、ざわめいた。
しかし、今は。
「カラト……私は、今回のあなたの行動が理解できない」
そう言った。
「今からでも遅くない。投降して」
毅然な態度を保っておこうと思っていたが、気持ちが緩んでしまう。
「私は、貴方を殺したくない……」
表情を隠そうとも思ったが、もう遅かった。
少しして、カラトは微笑んだ。
しかし、何か嬉しいことのようには思えない。
「今までは、理解できていたのか?」
一瞬、言っていることが分からなかった。
「勿論!」
当然だろう。
「私は貴方を尊敬している」
「それはきっと気のせいだよ」
「気のせい?」
カラトは、間を置く。
「オレ自身が、自分の行動を完全に理解しているかと聞かれれば、はっきり言って分からないんだ。だけども人は、理屈じゃなくて感覚的に動く時があると思う。オレは、ずっとそれを大事にしてきたつもりだ。今までも、そして今回も」
なんの話をしているのだ、と思った。
「今回あなたがしていることは、あきらかに間違っている!」
「そうかもしれない。だけどねシー。今もまったく後悔はしていないんだ」
そう言って、もう一度カラトは微笑んだ。
俯いた。
そこまでして、中央の実権を取り返したいのか。外敵ならば、もう撃退したではないか。確かに、王族達は許せないが、これ以上国を混乱させては、あの戦いの意味が無くなってしまうのではないのか。
何か、気持ちが擦れ違っているような思いしかない。
だが、ここは、あくまでも毅然に振る舞うべきだろう。
「今更、私は今の地位を捨てる気はない……」
体が震える。
「貴方を殺します」
「ああ」
顔を上げ、カラトを見つめる。
「私がカラトを殺します」
本気だと、脅しではないぞと、思わせたい。
しかし、カラトは予想外の反応をした。
カラトは、微笑んだ。
「そう易々とは殺されてやらないけどね。だけど、君に殺されるんだったら、それもいいかもしれない」
そう言って、カラトは剣を抜いた。
もうやるしかないのか。
本気で殺すことは、当然ないにしても、ある程度戦闘能力を奪うことはしなくてはならないだろう。そう思った。
いや、こちらが手を緩めていると気付かれれば、自分は殺されないという安心感を与えてしまうことになるかもしれない。そうなれば、投降をさせるのに、手間取る可能性がある。
やはり、ある程度、力の入った攻撃をするべきだ。
右手を挙げる。複雑な指示でも、この部下達ならば、容易に伝わる。
挙げた手を振り下ろした。
部下達が、一斉にカラトに殺到した。
後は、部下達を止める時機を計るだけだ。
そう思っていた。
瞬間、攻撃の前列にいた部下達の体が、ばらばらになって飛び散った。
目を疑う。
カラトに、ある程度接近した者は、次の瞬間には切り刻まれていた。
それが、しばらく続く。
なんだ、これは。
カラトが、放っている心気は、今まで見たことがないほどのものだった。
あのクロスとの戦いでは、本気を出していなかったということなのか。桁違いの心気の量だ。
部下達には、自分の身が危険になった場合には、手を緩めるなという指示を与えてある。つまり、全員本気で掛かっているはずだ。
戦場が、右に左にと移動する。木々の中に突っ込んだと思えば、元の場所に戻ったりとしていた。
凄まじい戦いになった。
カラトも、ある程度の傷は受けている。全身に、血が滲んでいる。ただ、ほとんどが返り血だろう。
まるで舞っているようだ。
しばらく呆然としていた。
気がつくと、部下はもう二十人ほどになっていた。
何をやっているのだ、自分は。
もっと早くに止めるべきだった。呆然自失としてしまったせいで、部下を死なせてしまった。
カラトに殺された。
そちらの精神的な動揺の方が大きいのかもしれない。
どちらにしろ、もはや中央に戻って何だというのか。自分が、一番欲しかったものは、何だったのか。
冷たい気持ちが、一気に心に広がった気がした。
もう、ここで死のう。
どうせなら、カラトに殺してもらおう。
それも、悪くない気がしてきた。
両手に短剣を構えた。
残った部下達は、次々とカラトに掛かっていく。その後ろに走った。
前にいた最後の一人が、斬り飛ばされる。続けざまに、カラトは剣を振りかぶっていた。
飛び込んだ。
短剣を振るう。
カラトと目が合った。
ようやく自分に気がついたようだ。目を見開いていた。
ただ、もう剣は止まらないだろう。
それに斬られて終わりだ。
そう思った。
しかし、カラトは剣は来なかった。
止まるはずのない腕を、下から、もう片方の腕で殴り飛ばして軌道を変えていた。
当たるはずのない自分の攻撃が、カラトの胸部に当たった。
勢いで、そのまま飛び越える。
着地のことなど、考えてはいなかった。カラトの後ろにあった沢に、頭から落ちた。
平行感覚を失う。雨の中で濁った水だ、勢いが強く、前が見えなかった。
しばらく、混濁。
気がつくと、上半身が川辺の地面にすがりついた状態だった。
もう死んでもいいと思いながらも、いざ死に直面してしまうと、無意識にでも生に執着してしまうということか。
なんて、浅はかなんだ。
呆然とした頭で、立ち上がる。
戦場となっていた場所まで、覚束ない足取りで戻った。
立っている人間は一人もいなかった。部下達の死体は、心気強化の影響で、すでに遺体が溶け始めていた。
自分でやったことなのだが、この異臭だけは、どうしても慣れなかった。
目を閉じる。
しばらくしてから目を開いた。
カラトは、どこだろう。
少しの時間、探して回ると、血を引きずったような後を見つけた。
森の方へと続いている。
それについて行った。
しばらく歩くと、木に寄りかかっているカラトを見つけた。うなだれていて、まったく動く気配がなかった。
傍に寄った。
辛うじて息はあるようだが、もう長くはないと分かった。
胸の傷は、自分が与えたものだ。それが、致命傷だろう。
間。
ふと、考える。
王族を捕らえた場合、使おうと持ってきていた荷車が、森の中にあったことを思い出した。
立ち上がり、駆けた。すぐに荷車を見つけた。
それを、できるだけカラトのいた場所の近くまで運んでくる。
カラトの体を引きずって、荷車に乗せた。
しばらく、沈思。
それから、荷車を引っ張って歩き始めた。
グレイは、グラシアの幕舎に向かった。
中に入ると、すぐに黒い髪が目に入った。
長かった髪が無くなっていたので、一瞬別人かと思った。自分よりも、短くなっているのではないか。グラシアが会った時は、長かったらしいので、その後に切ったということなのだろうか。
シーが、こちらを向いた。
確かに、聞いていた通りやつれている。しかし、面影はそのままだと思った。
シーは、少しだけ頭を下げた。
「久しぶり……」
グレイが言った。
「……お久しぶりです」
消え入りそうな声。
「貴女……」
グレイは、少し言葉を考えた。
「ここに来て、その……大丈夫なの?」
最初に疑問に思ったことを言った。
「はい」
そう言う。意図は、すぐに伝わったようだ。
「もう私は必要ありませんので」
消え入りそうな声のままだった。
「……いえ、始めから必要など、無かったのでしょう。必要だったのは、私の方だったのです……きっと」
「そう……」
グレイは、曖昧に返事をした。
「まあとにかく、来てくれたのは本当に助かるよ。こっちとしては、部隊指揮ができる人が増えるのは、大いに有り難いからね」
グラシアが言った。
「指揮はできません。私は一兵卒がいいです」
「いや、そんな勿体ないことできるわけないでしょ。ただでさえ指揮官が不足してるんだから」
「一兵卒以外は、できません。私には、資格がないのです」
頑なな口調だった。
グラシアと目が合う。
「うーん」
グラシアが唸る。
「だったら、諜略部隊なんてどう?」
少し経ってから言う。
「諜略?」
「そう、隠密の仕事。そこだったら、資格も何もないでしょう?」
「いいのですか? そんな重要な役職を、私のような者に」
「相応しいと思うから勧めたのよ」
「裏切るかもしれませんよ」
「その時は、その時よ。私の見る目が無かったと思って諦めるわ」
シーは少し、目を伏せた。
「分かりました。私には、合っていると思います」
「そう、じゃあ宜しく」
シーは、少し頭を下げた。
「何をするかは、ライトって男がいるから聞いて。ライトの所までは、その部下が案内するようにするから」
「分かりました」
「何か言いたいこととか、聞きたいことはある?」
「ありません」
「そう」
シーは、グラシアの方に一礼する。
それから、こちらを向いた。
「……ごめんなさい、グレイ。謝って、どうにかなるものでもないのだけど……本当に、ごめんなさい」
口調が、昔にものになっていた。
「まあ……」
また、言葉に迷った。
「いいよ、まあいいよ。今更、どうしようもないでしょう」
間。グレイは、頬を指で掻いた。
「貴女なんでしょ? 王子に、シエラを討ったっていう偽の証拠をでっち上げて報告したのって。そのお陰で、この三年、シエラが追われずにすんだんだから。よかったよ」
「そうですか」
シーが言った。そして、歩き始める。
グレイは、ふと思った。
もしかすれば、シーは死に場所を探しているのかもしれない。何か機会さえあれば、自棄になって、死にに行くようなことをしてしまうかもしれない。
このまま行かせてしまっていいのか。
「あ」
グレイの言葉。
「やっぱ、せっかくだし一発殴っとこうかな」
シーが、こちらに目を移す。
「ちょっと」
グラシアが、泡を食って立ち上がった。
「一発だけだよ」
「あんたね」
「分かりました」
シーが、真っ直ぐこちらを向いて、直立した。
「いいね?」
「はい」
シーの頬を、思いっきりぶん殴った。
シーが、二三歩後ろによろける。
体が鈍っているのかもしれないと思っていたが、自分の拳を食らって、ここまで踏ん張れるのなら、ほとんど鈍っていないように見えた。ある程度は鍛錬をしていたということなのか。
「まだ、もう二、三発殴りたいけど、手が痛いからもう止めとくわ。続きは、また今度殴らせろよ」
シーの目が、こちらを見る。
「だから、死ぬなよ」
グレイの言葉に、シーは少しだけ頷く。
それから、歩き始めた。
「グレイも」
微かにそう言って、幕舎から出て行った。