再び戦いが始まっていた。
敵の前衛は、少し西に進んできていて、前回の戦いとは違い、戦線が大きく広がっていた。それに伴い、こちらも防衛線を広げている。
グレイは、北側の戦線にいた。騎馬が百と、歩兵が五百の部隊の指揮を任されている。
こちらとしては、まずボルドーが抜けたことによる、全体の齟齬がどういうものなのかを確認しなければならない。それに、前回の戦いでの軍の損耗も、まだ回復はしていない。しばらくは、攻勢に移ることは不可能だというのが、全員の一致した意見だった。
敵側では、フーカーズとデルフトが、再び後方に下げられていた。パステルやインディゴも、前線にはいなくなっているようだった。
おそらく、前回の戦いでの、こちら側の戦力の低下を知って、王子達が、あの四人がいなくても勝てると踏んだのか。あるいは、ボルドーがいなくなっていると知って、こちらを軽んじているのか。
とにかく、こちらとしては、あの四人がいないのは、ありがたいと言えばありがたい。
こちらの全軍の指揮は、ルモグラフが担当することになった。その他の、物資のことや工作などはグラシアが担当だ。
グラシアからは、ただでさえ人員が不足しているので、余計な犠牲は絶対に出すなと言われている。
局地での戦い方も、自分で考えて動けと言われていた。ボルドーがいたころは、上からくる命令に従っていればよかっただけだったが、さすがに、それだけでは駄目なのだろうと思う。
さらに、変わったことといえば、シエラが積極的に軍議に参加するようになっていた。ほとんど、皆の話を聞いているだけなのだが、よく質問をしたりしている。
今も、ルモグラフから、軍指揮についての指導を受けているらしい。
グレイは、敵の北側のいくつかの部隊と、もう何度か小競り合いを起こしていた。敵方には、特に注意するべき敵将はいないようなので、そこまで精強な部隊はいないが、やはり数が圧倒的に違うので、本格的な攻撃はできないでいる。
グレイが、ここ数日で考えているのが、敵の北の拠点の破壊だった。兵糧なども、そこにため込められているようで、そこさえ潰せば、北側の敵は戦線を維持できなくなるはずだ。
ここ数日は、斥候の報告を聞きながら、地図を睨んでばかりだった。もう地図上には、自分でもよく分からない文字が、びっしりと書き込んである。
なかなか、いい攻撃手段が、思い浮かばない日々だった。
数日して、本隊が少し激しい戦闘をしているとの情報が入った。
グレイは、そちらの援護に向かったふりをして、密かに部隊を近くの林の中に潜ませた。本隊の戦闘は、全く問題ないとの連絡は来ているのだ。
陽動作戦だった。
慎重に放っていた偵察が、数人戻ってくる。
「敵の部隊が、南下するのを確認しました」
「数は?」
「およそ二千」
「えっ?」
グレイは、耳を疑う。
「二千?」
「三人の偵察が、三人とも、ほぼ同じ数を言っております」
間違いないということか。
もう一度、地図を見た。
ということは、敵の北拠点には、今ほとんど兵がいないのではないのか。陽動に引っかかったということか。
グレイは、しばらく考え込んだ。
戦の勝敗を分けるのは、ここぞという時の思い切りのよさだ、と誰かが言っていた気がする。
今行くべきではないのか。こんな好機、もう無いのかもしれない。ここで動かなければ、後で後悔するかもしれない。
さらに、何度も偵察を出した。
神経質なほど斥候を放っていた、ボルドーの気持ちが分かったような気がする。
やはり、敵軍の数は、大幅に少なくなっているようだ。
行くべきだ。
よし、行こう。
思ってからも、さらに五分ほど考えていた。
それから、グレイは進発の合図を出した。
グラシアに、攻撃の連絡を伝える早馬を出して、グレイは部隊を進発させた。
許可など、待っていられない。奇襲とは、そういうものだろう。
歩兵も走らせているが、途中で騎馬部隊だけで先行した。
両側が丘になっている道を駆け抜け、砦が見える。
報告の通り、ほとんど兵がいないようだ。
「攻撃! 敵が戻ってくる前に、叩き潰すぞ」
猛然と攻撃を仕掛けた。
歩兵が到着次第、すぐに砦への攻撃を始められるよう、外にいる敵部隊は、今のうちに潰しておかなければならない。
グレイは、先頭で槍を振り回した。
敵は、防御の陣を敷く前に瓦解した。一部の兵が、砦に駆け込もうとしているのが見えた。
それは、放置した。
ある程度戦い、砦の外にいた敵は一掃した。少しして、歩兵が到着する。歩兵は疲れているが、今は一気にやりたかった。
「攻撃」
合図とともに、歩兵が進む。
砦の壁での攻防になった。ある程度犠牲は出るが、今は仕方がない。
しばらくして、砦の門が、微かに動いた。
「掛かれ!」
騎馬隊を突っ込ませた。
門が、人二人分が入れるぐらいに開いた。そこから、騎馬隊を進入させた。
実は、先ほど敵が砦内に逃げ込む時に、自軍の兵を紛れ込ませていたのだ。
「火だ!」
完全に、門付近を制圧したところで、放火の指示を出した。
いくつかあった砦内の建物が、すぐに燃え始める。制圧した門とは、違う門が開かれて、そこから敵兵が逃れ始めた。
砦を破壊し、敵兵も退散させた。
完全な戦果だ。やはり、決断してよかった。
味方から、喚声が上がった。
「よし、みんな、よくやった!」
声を上げた。
「長居は無用だ。撤収!」
来た道を引き返した。
両側が、高い丘になっている道を通過する。
「北側に、部隊がいます!」
声とほぼ同時に、右手の丘の上から、いきなり矢が降ってきた。
敵の、残った兵の、反撃か。
そう思った次の瞬間、思考が止まった。
雨のような、矢が飛んできたのだ。
自軍の中から、悲鳴が上がる。
グレイは、自分に向かってきていた矢を数本、槍で払い落とした。
その後、目を疑った。
丘の上から、信じられないような規模の人間が現れた。五千はいるだろうか。
それが、どういう軍かを知る証は何もない。それでもグレイには、すぐにその軍の正体が分かった。
昔、嫌というほど見たからだ。戦ったからだった。
あの具足、そしてあの武器。
クロス軍だ。
クロス軍は、矢の攻撃を止めると、歩兵が丘を駆け下りてきた。
何故クロス軍が、こんな所にいるのか。スクレイの内戦に介入してきたということなのか。
しかし外国の軍が、何の騒ぎもなく、こんな内部まで来れるものなのか。こんな所まで来ているということは、北側の地域は、どうなっているというのか。
グレイは、首を振って、思考を振り払った。
今は、現状のことだけを考えるべきだ。
とにかく、これだけの兵力差があるのだ。戦いようがない。
どれだけ犠牲を少なくして逃げられるか。
「全速前進! 全軍、西にとにかく駆けろ!」
グレイは、声を上げた。
自軍が、慌てて進み始める。
「騎馬隊、私に続け!」
グレイは、騎馬隊を纏めると、クロス軍の先頭に向かって突撃を仕掛けた。
敵の勢いを挫くためだけの攻撃だ。すぐに、反転する。
駆ける味方歩兵の、後方に着いた。
騎馬隊だけならば、駆けに駆ければ、半数以上は逃げきれるだろう。しかし、そんなことできない。
しんがりで駆け回りながら、歩兵の前進速度に合わせながら、敵と戦いながらの前進になった。
敵の騎馬数部隊が、側面に回り込むような移動をしている。あれは、止めようがない。
いや、この騎馬隊を行かせればいい。
グレイが思った時、副官と目があった。
「お前が、この騎馬隊の指揮をして、あの敵騎馬と当たれ! 歩兵を援護しながら、退却をするんだ!」
「後ろの敵歩兵は!?」
「私が何とかする」
「隊長!」
「いいから、行け!」
乗っていた馬に矢が突き立った。グレイは、馬から飛び降りる。振り返って着地をして、持っていた槍を捨てた。
それから、腰についていた双剣を引き抜いた。
やるだけ、やってやる。
歩兵が、猛然と突っ込んでくる。
グレイは、先頭の数人を、内から外に切り払った。続けざまに、数人を斬り流す。
近づいてくる者から、斬って斬って斬りまくった。
敵歩兵の前進が、止まったことを感じた。
戦える。その気になれば、勝てる。
やはり自分は強い。そこらにいる、並の心気の使い手程度なら、相手にならないのだ。
自分の家は貧しい家だったようで、幼い頃、商隊の護衛を生業としている一団に売られた。そのころのことは、あまりよく覚えていない。
物心がついたころには、戦闘の訓練の毎日だった。自分と同じように、どこからか売られて来た子供たちも同じだった。しかし、才能が無いと見なされた子供は、下働きや、他の仕事に回されていた。
下働きなどが、それほど過酷というわけではなかったのだが、あそこに回されると、見放されたという気分になると思った。だから、そうならないように、ひたすらに訓練に取り組んでいた。
あの頃は必死だった。
やがて実力が認められ、商隊の護衛団に入ることになる。
その頃は、自分より強い者などいないのではないかと思うほど強くなっていた。
しかし、カラトと出会った。こんな者もいるのかと思った。それでもやはり、こんな者は稀だろうと思った。
その後、十傑に入って、さらに衝撃を受ける。自分が、あまりにも世間知らずだったということなのかと思った。
あいつらが、化け物なのだと、後になって分かった。
やはり自分は強いのだ。
敵が数人、槍を突っかけてくる。それらをかわした。
再び、矢が飛んでくるのが目に入った。
瞬時に、自分に当たる矢が、どれかを判断する。
三本か。
頭に来る一本を、首を傾けてかわし、右から来る一本は、右の剣で払い落とす。左の矢を、左手の剣で弾いた。
体が軽い。敵の攻撃も、全て遅く見える。
どこまででも戦えるのではないか。こんな奴らに負けるはずがないのだ。
いきなり、右から衝撃がきた。
何が起こったのか分からない。
見ると、自分の右肩に矢が突き立っていた。
そんな馬鹿な。間違いなく、払い落としているはずだ。
グレイは、自分の右手を見た。
手首から先が無くなっていた。
少女は英雄を知る
双牙
考えたくもなかった。
グラシアは、自分の騎馬部隊とともに駆けに駆けていた。
ルモグラフから、ある報告が届いたのだ。
ウッドに残していた元部下から、北東の国境を越えた一団があるかもしれないという情報があったという内容だった。規模は五千ほどだという。普通に考えればクロスの軍なのだが、戦闘などが起こった様子が全くなかったのだというのだ。
それとほぼ同時に、グレイからの攻撃連絡が来た。
グラシアは、再び嫌な予感に襲われた。
自分が率いていた歩兵には、本隊に合流するように指示をして、麾下の騎馬隊百だけを連れて、全速力で北に駆け始めたのだ。
予感が外れてくれるように祈っていた。
最悪の場合、グレイの部隊がクロスの軍五千の強襲を受けるかもしれない。そうなった場合、グレイが生き残るためには、部下の歩兵を見捨てて、騎馬隊だけで逃げるしかない。
出発前に、あんなことを言わなければ良かった。
視界が開ける場所に飛び出した。
丘の下が、戦場になっていた。東から西に、追われる軍と追う軍が進んでいて、その後方の辺りに、クロスの軍の歩兵の一部が、不思議な固まりを作っているのが見えた。
その中央に人影が見える。
グラシアは、雄叫びを上げた。
丘を駆け下りる。
間に合わない。
その時、グラシアが駆け下りている丘とは、反対側の丘から駆け下りてくる騎馬隊が見えた。その先頭にいるのは、コバルトだ。
しかし、あちらも間に合いそうにない。
思ったとき、また別の場所から、駆け下りてくる騎馬隊が見えた。
一気に気持ちが冷めていくのを感じた。それと同時に、今まで忘れていた痛みも感じ始める。全身が痛かった。
もう戦えない。
グレイは、前を見た。
知らない男たちが、こちらに槍の穂先を向けている。全員揃いも揃って、同じように怒気を顔に浮かべている。
当たり前というものか。何人、彼らの仲間を殺してきたというのか。その報いを受けるときが来たということなのか。
ここで死ぬのか。
自分の死を想像したことがないわけではない。しかしこれは、どんな想像とも違うような気がする。
こんなものなのだろうか。
こんなものなのだろう。
もう抵抗は無意味だ。
もういい。
グレイは、残った左の剣を放そうと思った。
──グレイ。
名前を呼ばれたような気がした。誰の声だったか思い出せない。
こんな状況で聞こえるのだから、きっと先に逝った誰かの声なのだろう。あの世というものがあるのだと、今ならば信じられる気がする。
「グレイ」
また聞こえた。さっきより少し大きくなっている。
この声は、確か。
分かった瞬間、前方を騎馬隊が横切った。
「グレイ!」
金色の髪が見えた。
「シエラ……」
目の前で、白馬に乗ったシエラが、こちらに手を伸ばしていた。
その姿が、すごく幻想的だと思った。
「グレイ、掴まって!」
グレイは、一瞬呆然としてしまう。
それから、やっと状況が理解できた。
「いけません、殿下! ここは、私が食い止めますので、すぐにお逃げ下さい!」
「グレイ、手を!」
「殿下、行って下さい!」
「手を伸ばして」
「シエラ! 言うことを聞いてくれ!」
言うと、シエラは少し俯いた。それから、顔を上げる。
「いつか助けるって約束した! これ以上私に、約束を果たせなくさせないでくれ」
言った。その言葉が、グレイの心の中を巡った。
「お願いします! グレイさん!」
瞬間の思考。
グレイは思い至った。跳躍して、シエラの騎乗の後ろに飛び乗った。
「前進!」
すぐさま、シエラが剣を振って叫んだ。周りの騎馬隊が動き出す。
グレイは、とにかく思考を働かせた。
まず、この部隊は、どこの部隊だ?
グレイは、周りを見回した。
これは、シエラの護衛部隊だ。
よく見ると、シエラの両脇に、マゼンタとセピアが併走しているのが分かった。
何故、シエラを止めなかった。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。とにかく、今は何が何でもシエラを生かして、この包囲を突破することだけを考えなくてはならない。
クロス軍は、先に逃がした自分の部隊に追いすがっている部隊と、自分の周りにいた部隊、その間にいる部隊とで、ばらけていた。シエラは、真っ直ぐ西に向かっているので、先に逃がした自分の部隊と合流しようとしているのだろう。
その間には、クロス軍が散在している。
無事に合流できるか、微妙だと思った。クロス軍が、本気でこの騎馬隊を潰しにかかってこられれば、どうしようもない。
ここにいる全員が命を懸ければ、或いはシエラだけでも、何とか。
グレイは、振り返って後方を見た。
敵が追ってきていると思っていたが、後方の敵軍の様子がおかしかった。何か、さらに後方で争闘の気配がする。
戦っている。
瞬時に、グレイは辺りの地形を思い浮かべた。
「シエラ、南だ!」
「え?」
シエラが、目線をこちらに向ける。
「このまま西に向かって、あの部隊と合流するのは難しい。ここは、一か八か南の隘路に入った方が、助かる可能性が高いはずだ」
「でも、南側にも敵軍が」
「グラシアとコバルトが来てる。あの二人なら、こちらの意図を察して、援護をしてくれるはずだ」
言うと、すぐにシエラは剣を左に振った。
騎馬隊が、進路を南に変える。
南側にいたクロス軍が、こちらに向いて展開をしようとしていたが、すぐに敵軍に動揺が走るのが分かった。
両側から、騎馬隊の攻撃を受けているのだ。
「突破!」
シエラが叫んで、クロス軍に突っ込んだ。
グレイは、とにかく周りに目を凝らしていた。流れ矢一本、シエラに近づけるわけにはいかない。
想像していたよりも容易く、敵の群を突破することができた。そのまま、隘路に飛び込んだ。
「あの二人は!?」
シエラが言う。
「二人とも、騎馬隊だけだ。離脱するだけなら大丈夫だろう」
「そうか」
シエラが、ほっとしたように息を吐いた。
隘路を駆けながら、グレイは、また別の不安が浮かび始めた。
もし、この隘路の出口に、クロス軍が部隊を配置でもしていたら。
グレイは、血の気が引くような思いになった。
何故、そこまで考えなかったのだ、自分は。普通、隘路のような道を通る場合、まず真っ先に考えることだろう。
とにかく、敵がいないことを祈るしかない。
最後の曲がり角を曲がった。
正面に、騎馬の部隊がこちらに向いて展開しているのが見えた。
グレイは、思わず天を仰いだ。
とにかく、こうなったら最初の状況に戻るだけだ。ここにいる全員が、命がけでシエラ只一人を逃がすことに、全力を注ぐしかない。
グレイは、左手の剣を握り直した。
「あっ」
シエラの声が聞こえた。
どうしたと思った直後に、グレイも、それを確認した。
正面にいる騎馬部隊の先頭に、白い髪の男がいるのが見えた。不機嫌そうな表情で、馬上で腕を組んでいる。
グレイは、剣を落としそうになった。
白髪の男が手を挙げると、正面の騎馬隊が一斉に前進を始める。
シエラ軍を素通りすると、後ろから追ってきていた敵軍とぶつかっていた。
どうしてここに。
グレイは思った。
グラシアにしてもコバルトにしても、自分が窮地に陥ったという情報を受け取ってから出発していれば、絶対に間に合わない場所にいたはずだ。つまり、自分が攻撃に向かうという連絡を受け取るやいなや動いたということなのか。そこまで、心配されていたのか。
情けないやら、嬉しいやら。
涙が出そうになった。
どいつもこいつも。
何かが落ちる音がした。
左の剣を落としたのだ。
そういえば、右の剣はどこにいったのだろう。後で、探しに行かなければ。あれがないと、双牙虎の名が名折れてしまう。
「グレイ?」
シエラの声が聞こえる。
シエラが無事で本当に良かった。もしも、自分のせいで何かあったら、ボルドーに顔向けができないところだった。
そして、助けに来てくれて嬉しかった。
お礼を言おう。
そう思い目を開くと、空が見えた。
どこだ、ここは。
自分が地面に仰向けになっているのが分かった。
馬から落ちたのか。
「グレイ!」
また、シエラの声。
先ほどまでの戦いが嘘のような、晴れ渡った空が見えた。こんな空、久しぶりに見た気がする。
青くて清々しい。
それから、目の前が白くなっていった。
グラシアは、自分の騎馬部隊とともに駆けに駆けていた。
ルモグラフから、ある報告が届いたのだ。
ウッドに残していた元部下から、北東の国境を越えた一団があるかもしれないという情報があったという内容だった。規模は五千ほどだという。普通に考えればクロスの軍なのだが、戦闘などが起こった様子が全くなかったのだというのだ。
それとほぼ同時に、グレイからの攻撃連絡が来た。
グラシアは、再び嫌な予感に襲われた。
自分が率いていた歩兵には、本隊に合流するように指示をして、麾下の騎馬隊百だけを連れて、全速力で北に駆け始めたのだ。
予感が外れてくれるように祈っていた。
最悪の場合、グレイの部隊がクロスの軍五千の強襲を受けるかもしれない。そうなった場合、グレイが生き残るためには、部下の歩兵を見捨てて、騎馬隊だけで逃げるしかない。
出発前に、あんなことを言わなければ良かった。
視界が開ける場所に飛び出した。
丘の下が、戦場になっていた。東から西に、追われる軍と追う軍が進んでいて、その後方の辺りに、クロスの軍の歩兵の一部が、不思議な固まりを作っているのが見えた。
その中央に人影が見える。
グラシアは、雄叫びを上げた。
丘を駆け下りる。
間に合わない。
その時、グラシアが駆け下りている丘とは、反対側の丘から駆け下りてくる騎馬隊が見えた。その先頭にいるのは、コバルトだ。
しかし、あちらも間に合いそうにない。
思ったとき、また別の場所から、駆け下りてくる騎馬隊が見えた。
一気に気持ちが冷めていくのを感じた。それと同時に、今まで忘れていた痛みも感じ始める。全身が痛かった。
もう戦えない。
グレイは、前を見た。
知らない男たちが、こちらに槍の穂先を向けている。全員揃いも揃って、同じように怒気を顔に浮かべている。
当たり前というものか。何人、彼らの仲間を殺してきたというのか。その報いを受けるときが来たということなのか。
ここで死ぬのか。
自分の死を想像したことがないわけではない。しかしこれは、どんな想像とも違うような気がする。
こんなものなのだろうか。
こんなものなのだろう。
もう抵抗は無意味だ。
もういい。
グレイは、残った左の剣を放そうと思った。
──グレイ。
名前を呼ばれたような気がした。誰の声だったか思い出せない。
こんな状況で聞こえるのだから、きっと先に逝った誰かの声なのだろう。あの世というものがあるのだと、今ならば信じられる気がする。
「グレイ」
また聞こえた。さっきより少し大きくなっている。
この声は、確か。
分かった瞬間、前方を騎馬隊が横切った。
「グレイ!」
金色の髪が見えた。
「シエラ……」
目の前で、白馬に乗ったシエラが、こちらに手を伸ばしていた。
その姿が、すごく幻想的だと思った。
「グレイ、掴まって!」
グレイは、一瞬呆然としてしまう。
それから、やっと状況が理解できた。
「いけません、殿下! ここは、私が食い止めますので、すぐにお逃げ下さい!」
「グレイ、手を!」
「殿下、行って下さい!」
「手を伸ばして」
「シエラ! 言うことを聞いてくれ!」
言うと、シエラは少し俯いた。それから、顔を上げる。
「いつか助けるって約束した! これ以上私に、約束を果たせなくさせないでくれ」
言った。その言葉が、グレイの心の中を巡った。
「お願いします! グレイさん!」
瞬間の思考。
グレイは思い至った。跳躍して、シエラの騎乗の後ろに飛び乗った。
「前進!」
すぐさま、シエラが剣を振って叫んだ。周りの騎馬隊が動き出す。
グレイは、とにかく思考を働かせた。
まず、この部隊は、どこの部隊だ?
グレイは、周りを見回した。
これは、シエラの護衛部隊だ。
よく見ると、シエラの両脇に、マゼンタとセピアが併走しているのが分かった。
何故、シエラを止めなかった。
しかし、そんなことを考えている場合ではない。とにかく、今は何が何でもシエラを生かして、この包囲を突破することだけを考えなくてはならない。
クロス軍は、先に逃がした自分の部隊に追いすがっている部隊と、自分の周りにいた部隊、その間にいる部隊とで、ばらけていた。シエラは、真っ直ぐ西に向かっているので、先に逃がした自分の部隊と合流しようとしているのだろう。
その間には、クロス軍が散在している。
無事に合流できるか、微妙だと思った。クロス軍が、本気でこの騎馬隊を潰しにかかってこられれば、どうしようもない。
ここにいる全員が命を懸ければ、或いはシエラだけでも、何とか。
グレイは、振り返って後方を見た。
敵が追ってきていると思っていたが、後方の敵軍の様子がおかしかった。何か、さらに後方で争闘の気配がする。
戦っている。
瞬時に、グレイは辺りの地形を思い浮かべた。
「シエラ、南だ!」
「え?」
シエラが、目線をこちらに向ける。
「このまま西に向かって、あの部隊と合流するのは難しい。ここは、一か八か南の隘路に入った方が、助かる可能性が高いはずだ」
「でも、南側にも敵軍が」
「グラシアとコバルトが来てる。あの二人なら、こちらの意図を察して、援護をしてくれるはずだ」
言うと、すぐにシエラは剣を左に振った。
騎馬隊が、進路を南に変える。
南側にいたクロス軍が、こちらに向いて展開をしようとしていたが、すぐに敵軍に動揺が走るのが分かった。
両側から、騎馬隊の攻撃を受けているのだ。
「突破!」
シエラが叫んで、クロス軍に突っ込んだ。
グレイは、とにかく周りに目を凝らしていた。流れ矢一本、シエラに近づけるわけにはいかない。
想像していたよりも容易く、敵の群を突破することができた。そのまま、隘路に飛び込んだ。
「あの二人は!?」
シエラが言う。
「二人とも、騎馬隊だけだ。離脱するだけなら大丈夫だろう」
「そうか」
シエラが、ほっとしたように息を吐いた。
隘路を駆けながら、グレイは、また別の不安が浮かび始めた。
もし、この隘路の出口に、クロス軍が部隊を配置でもしていたら。
グレイは、血の気が引くような思いになった。
何故、そこまで考えなかったのだ、自分は。普通、隘路のような道を通る場合、まず真っ先に考えることだろう。
とにかく、敵がいないことを祈るしかない。
最後の曲がり角を曲がった。
正面に、騎馬の部隊がこちらに向いて展開しているのが見えた。
グレイは、思わず天を仰いだ。
とにかく、こうなったら最初の状況に戻るだけだ。ここにいる全員が、命がけでシエラ只一人を逃がすことに、全力を注ぐしかない。
グレイは、左手の剣を握り直した。
「あっ」
シエラの声が聞こえた。
どうしたと思った直後に、グレイも、それを確認した。
正面にいる騎馬部隊の先頭に、白い髪の男がいるのが見えた。不機嫌そうな表情で、馬上で腕を組んでいる。
グレイは、剣を落としそうになった。
白髪の男が手を挙げると、正面の騎馬隊が一斉に前進を始める。
シエラ軍を素通りすると、後ろから追ってきていた敵軍とぶつかっていた。
どうしてここに。
グレイは思った。
グラシアにしてもコバルトにしても、自分が窮地に陥ったという情報を受け取ってから出発していれば、絶対に間に合わない場所にいたはずだ。つまり、自分が攻撃に向かうという連絡を受け取るやいなや動いたということなのか。そこまで、心配されていたのか。
情けないやら、嬉しいやら。
涙が出そうになった。
どいつもこいつも。
何かが落ちる音がした。
左の剣を落としたのだ。
そういえば、右の剣はどこにいったのだろう。後で、探しに行かなければ。あれがないと、双牙虎の名が名折れてしまう。
「グレイ?」
シエラの声が聞こえる。
シエラが無事で本当に良かった。もしも、自分のせいで何かあったら、ボルドーに顔向けができないところだった。
そして、助けに来てくれて嬉しかった。
お礼を言おう。
そう思い目を開くと、空が見えた。
どこだ、ここは。
自分が地面に仰向けになっているのが分かった。
馬から落ちたのか。
「グレイ!」
また、シエラの声。
先ほどまでの戦いが嘘のような、晴れ渡った空が見えた。こんな空、久しぶりに見た気がする。
青くて清々しい。
それから、目の前が白くなっていった。