「晶納!」
頭部や手足から血溜まりを生んでいる深い傷が見えて、慌てて旭が隣まで走り寄る。そのあとを血の気の引いた表情の昊が。最後に周囲への警戒を強める日昏が続いた。
起こすより前に怪我の状態を見ようと伸ばし掛けた手を、がばりと起き上がった晶納が苛立たし気に払い除けて、
「クソがッ!!どこ逃げやがったあの野郎ォ!!」
返り血と流血で真紅に染まる顔を四周へ振り回してこの場にいない敵を探し求める晶納を見て、一通り危なげな気配が無いことを確認した日昏が責める口調でもなくただ事実を確認しに掛かる。
「仕損じたか」
「あぁのおおお、クッソ犬がああああああ!!!」
日昏と同様に付近に目当ての気配が感じ取れないことを認めた屈辱の絶叫が、その事実を肯定していた。
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「…スマン旭、殺し損ねた」
昊に応急的な手当てを受ける晶納が不貞腐れたように、しかし僅かに申し訳なさそうにそっぽを向いたまま消え入りそうな声で詫びるのに無言で頷く。
「仕方ないよ。相手が相手だった。晶納が生きてるだけで充分だよ」
「それに、人面犬にも相応の深手は与えたのだろう?」
「…おう、一応はな」
珍しく晶納のフォローに回る日昏の発言に、強大な人外を相手に善戦したことすら誇れるものではないと言外に伝える悔しげな応答。
「
神代三剣に属する一振り、布都御魂という霊剣には荒神を退けたと云われる霊力が蓄積されている。その逸話に従い、この刃には善性悪性を問わずして人ならざるものの力を削ぎ落とす性質が付与されていた。
神代の名に恥じぬその切れ味は、まさしく神すらをも断ち切る。その一振りを前にして、通常であれば都市伝説『程度』は滅却されておかしくないはずだった。
そうならず敗走を許してしまったのは、一重に人面犬という存在の博識っぷりに遠因があったと言えよう。
「刺した胴体を自分で食い千切って、逃げやがった。即断即決だったぜあの野郎」
「…そうか。それは聡明だったな」
その神威は人外にとって猛毒に等しい。切り口から瞬時に全身へ回る崩壊の因子を流し込まれることを知っていた人面犬は、すぐさま刺された胴体の肉ごと刀を遠ざける為に自らの牙で腹を噛み千切ったのだ。
当然それとて致命傷には違いないだろう。瞬間で導き出した最善手だったにしても削り取られた力はかなりのものであるのは間違いない。
だが同時に、人面犬は確実だった死を回避したとも取れる。どこで知ったのか、歴史の浅い都市伝説は古くから伝わる神代三剣の脅威を正しく理解していたのだと皆はそれぞれに内心で舌を巻く。
「しかしそうなれば、今の人面犬は限りなく力の弱い人外と化したことになる。それこそ、昊が素手で闘っても勝てる程度にはな」
懐から出した紙箱から煙草を取り出そうとして、話題に上がったばかりの昊から咎めるような視線を感じ取った日昏が仕方なしに煙草をしまい込みながら言う。
この中でもっとも感知能力に長けているのは他ならぬ昊だ。『陽向昊』の真名は範囲内の同胞の力を上昇させるものだが、同時に陽に反する邪な気配を詳細に感じ取れる効力も有する。その昊をして、この付近に人面犬の気配を感じ取れないのだという。
それは人面犬がこの街から逃げ切ったというわけではなく、単純に昊ですら感じ取れないほど弱々しく衰退した力の低下を示しているのだと日昏は予想していた。そんな状態で出来ることなどたかが知れている。野垂れ死にすらありえる有様だ。
「退くぞ。今回は少々やり過ぎた。主に晶納と旭のせいで隠形結界に亀裂が入っている、じきに人払いの効力を失うぞ」
彼らのいる場所は人面犬との戦闘で切り刻まれ分断され崩落した、およそ高速道路としての面影の一切が消え去った無残な残骸だけが残る地となっていた。旭が起こした憑百との戦闘も重なって、一般人から意図的に興味を取り払った限定的な領域を作り出していた結界も限界が近しくなっている。
他の特異家系者達の横槍を込みで考えるなら、この若輩四人組で挑んだ此度の任務は、達成度としては上々であると言える。これより先へは踏み込む必要が無い。
なにより晶納の怪我が酷かったのがある。本人はどうってことないと意気込んでいるが、顔色は失血で蒼白となっているし、一人ではふらついて立って歩くことすら困難だった。
四人で組んで動くことを家から命じられている中で、一人でも行動や戦闘に支障の出る者がいることはあまり芳しいことではなく、撤退に足る理由は充分過ぎるほどに溢れていた。
「はい。晶納様、早くちゃんとした手当てをしないと…」
「そだな、帰ろ帰ろ」
「………チッ」
心底から晶納の傷の心配をする昊と旭も頷き、大見得切った上で対象を逃がしてしまった手前何か強く言うことも出来ずにいた晶納も舌打ちで妥協を示す。
こうして様々な要素の絡んだ都市伝説討伐戦はとりあえずの落着という形を迎え、それぞれはそれぞれに引き際を見極め人の世から退く。
ある者は再び影へ。
ある者は再び世界へ。
ある者は再び座へ。
次なるはこの時より四年の先。退魔の若者達が成人の歳を迎えてからのこと。
これは未だ始まりの切っ掛けに過ぎず。
切っ掛けから始まり、全てが拗れ始める。
結論は破滅、顛末は悲劇、獲得は負、終着は次の始まり。
退魔師を初めとする特異家系と、人ならざるもの達とが大きくぶつかり合い、積み上げた歴史は崩れる。
陽向旭が辿る悲惨で幸福な未来への、これは未だ始まりの切っ掛けに過ぎず。
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…………………………、
「―――……」
荒い息を吐いて薄汚れた道路の端っこに横たわる四足の獣がいた。
本来の力と姿をほとんど失い、今は柴犬のような形を留めるのが精一杯の、強大な人外『だった』もの。
受け入れ難い死が、魂魄を強引に天へ押し上げようとしている不快感に包まれる。しかし彼にそれに抗うだけの力は無かった。
あとは想うだけ。生きて来たこれまでを想い返すだけ。
(ああ、ああ、まったく。くだらない生だった。奪うだけの生、であれば、最期に奪われる我が身の生は必定であったか…)
笑みすら浮かぶ。実際には、柴犬の口が不気味に歪んで笑みを形作るかなり怖気の走る表情ではあった。
傷は深い。退魔師に受けた傷、致命傷を避ける為に自ら千切り肉の欠損した部位からは真っ黒な内臓と血液が零れ出している。
(…まあ、いい…。どの道、意地になって生きる甲斐は無い。仕様も無い幕引きも、また、頷けるというものだ)
妙に達観した『人の顔を持っていた犬の人外』は、瞳をゆっくり下ろしていく。薄れて行く意識の中で、最後にその耳と鼻は何かを感じ取った。
小さく、軽い音。幼く、無垢な匂い。
「…わんちゃん?けが、してるの……だいじょーぶ…?」
こうして彼は、死に時を見失う。