用法用量を守って正しいストーキングを。
13
キャンパスで他愛もない喧騒を繰り広げる学生たちの中を、瀬賀はすり抜けるように後にした。途中、知人の声かけもあったが、誘いを受ける度に今日は用事があると断った。瀬賀ほどのパイプがあれば予定があるのも当たり前だろう、と彼らは気を害することもなく喧騒の中へと戻っていった。
騒々しさを抜けて、瀬賀は近所のショッピングモールに足を踏み入れる。
近辺にレジャー施設が増えたこともあってすっかり通りは活気を失くし、今では中高年層をターゲットに営業方針を切り替え、結果、安らぎすら感じるほどに静かで穏やかな環境となっている。
途中通りかかったフードコートの香ばしさを横目に、瀬賀は目的地を目指す。
「****様ですね。お待ちしてました。ご依頼の品出来上がっているので、ご用意します」
ギフトセンターの受付が口にした本名に対して、ひどく嫌悪を覚えたが、喉の奥に押し込み瀬賀は笑顔で頷いた。
細長いケースに淡いミントグリーンの包装紙と銀リボンが上品にかけられた箱を手に受付の女性は淡々と商品を読み上げ、金額を口にする。
全ての手続を終えた瀬賀はケースをしげしげと眺める。彼女は、喜んでくれるだろうか。いや、彼女が自分の施しを断ったことはない。いつだって、瀬賀の言うがままにしてきた。ただ、瀬賀の望む綺麗なマネキンとなるよう育ててきたのだから。
ケースに差し込まれたメッセージカードには「for 愛美」と女性的な丸文字が手書きで記入されている。可愛い字だ。瀬賀もよく丸文字を意識的に書くが、自分よりも自然で伸び伸びとしたその字体に、少しだけ腹が立った。
刃物、捨てちゃった。
愛美にそう告白されて、瀬賀はひどく動揺した。心が不安定な時は血を見ればいい。間接的にだが、そう教えたのは瀬賀だった。彼女にそれとなくナイフを渡したのも瀬賀。好きな物は貪欲に求めるべきで、手に入らないなら壊さなくてはいけないと教えたのも瀬賀だ。
いつだって愛美の手元には、向精神剤の如くその刃物があった。それは彼女が渇く度に刃先を照らし、自らの手でその渇きを癒やすことを勧めていた。
片時も離すことなかったその刃物を何故、今更捨てるというのか。
むしろ、これからではないか。
あざみに執拗なまでの愛を向けていた潮が、あざみのイメージチェンジをきっかけに酷く傷つき、憔悴しきっている。愛美は彼を励ますだろう。だが、潮は愛美を求めない。求められない時、愛美は必ずこう思う筈だ。
『なら、壊すしかない』
そこに、刃物がないなんて。
ふと瀬賀は立ち止まる。ショッピングモールを出て、空車の目立つ駐車場を横切っている途中だった。彼は空を見上げ、次に背後のショッピングモールに目を向け、きょとんとした顔を浮かべた。
一体、何をしているのだろう、僕は。
脳裏に浮かんだ疑問を抱くと同時に、鞄の中に綺麗にラッピングされたプレゼントがまるで異物のように見えてきた。すぐにでもゴミ箱に叩き込んでやりたい。彼の腹の奥底でちりちりと種火のようにそんな想いが揺れている。
はじめは、愛美が潮をくっつけばいいと思ったんだ。
二人に接点ができて、尚且つ愛美が潮に恋をしていた。ストーカー気質で、執着的で面倒くさい愛美とくっついたら、常に上辺だけでやり過ごしている潮の中身を覗ける気がして、それが面白そうだと思ったんだ。
潮があざみに恋をしていることを知った時も、悪くない流れだと感じた。厄介な三角関係の中でどんな展開が待っているだろう。時にはちょっとした演出を盛り込みながら、ドラマを見ている感覚で瀬賀は三人を観察していた。
きっかけは、森とルナだろうか。ボロクズのように横たわるルナを見た時、これは望んだ展開じゃないと感じた。同時に潮に積極的になるあざみにもだ。彼女は添え物で、愛美が潮をより強く求める促進剤程度になれば良かった。
だから、二人のデートが決まった時、ひどくムカついたのを覚えている。
少しづつ脚本からズレていく恋模様に苛立った。
恋をして綺麗になっていく愛美に苛立った。
どう足掻いても、愛美という容れ物に自分が入れないことに苛立った。
「愛美、喜んでくれるといいんだけどな」
鞄に突っ込んだプレゼントを見下ろしながら、瀬賀はそっと呟く。いつものよく出来た笑顔は浮かべられない。憂鬱そうな、羨ましそうな、陰のある表情。
ふと背後からクラクションの音がして、瀬賀は慌てて路肩に避ける。目を細めて睨む女が瀬賀を一瞥した後、走り去っていく。
なんだよ、と瀬賀は口に出して言った。
なんだよ。
●
駅まで戻ると、改札の前に見覚えのある赤毛のショートボブがいて、瀬賀は誰だったか目を細め、やがてそれがあざみだということに気がついた。ああ、そういえば切らせたんだった。噛み終えたガムを見るような気分で彼女に目を向けていると、あざみも瀬賀の存在に気がついたようで、小走りにこちらに駆け寄ってきた。
「瀬賀くん、良かった……」
「何があったの、糸杉さん」
ひどく怯えた様子のあざみに、彼女が求めているであろう返答を返す。できればこのまま愛美の家に届けに行きたかったのだが、どうにもそれは叶わないらしい。
「あの、ね……森くんが、うちに来たの」
囁くような言葉に瀬賀は眉根を上げる。森に、ルナ。イレギュラーなことが起こる時に、必ずあの二人が出てくる。瀬賀は不快な顔を隠すようにうつむき、頭をかく。
「最近見てなかったけど、元気だったんだね。でも、どうして糸杉さんのところに? ルナちゃんは?」
彼女は首を振る。ここじゃ話せないらしい。瀬賀はそっぽ向いて肩を竦める。
「糸杉さん、僕もちゃんと教えてもらわないと分からない時もあるよ。君がそんなに怯えている理由は何? 森くんに何かされたの?」
「されては、ない。でも……見たの」
「見た?」
「ここじゃ、言えない……言いにくい……」
半ばパニック状態のあざみも珍しい。常に自分優位に会話をするタイプだったから、こういう時の対処法は考えていなかった。
「喫茶店とかは?」
あざみは首を振る。
「じゃあ、糸杉さんの家は」
目を大きく見開いて大げさに首を振る。そうか、家にいられなくて飛び出してきたんだろうし、戻りたくはないよな。
「ねえ、瀬賀くん。瀬賀くんの家、言っちゃ駄目かな」
「僕の家?」
あざみは潤んだ瞳でこちらをじっと見つめる。ほとんどの男たちが求めてきた顔がそこにある。一体どうしてみんな彼女を求めるのだろう。瀬賀は困り顔で、うちはちょっと困るな、と小首を傾げる。
「あ、そうだ小波君。彼の家に行こうよ。愛美ちゃんも呼ぶし、みんなで糸杉さんの相談を聞いたほうがいいよきっと」
「断られたの」
「え?」
「もう、断られたの……。というか、電話、繋がらなかった」
「小波君にも連絡したんだ」
瀬賀は腕を組むと改札の先を見やる。
そうか、先に潮に連絡を入れたのか。自分ではなく、彼に。
「……うち、ちょっと散らかってるんだ。少し片付けさせてもらえるなら、いいよ」
「ほんと?」
「うん、糸杉さんの頼みだもん。できることはしてあげたいしね」
瀬賀の笑顔に、あざみは顔を綻ばせる。それまでの強張っていた顔が緩み、彼女は当たり前のように瀬賀の腕に手を回した。まだ、手に微かな震えが残っている。
一体、森は彼女に何をしたのだろうか。ルナはどこへ行ったのか。気になることはいくつもあるが、とにかくあざみから聞き出すには、人気のないところへ行くしかない。
愛美にプレゼントを渡したかったのに。
せっかく気分転換になるかもしれない日に、あざみに会うなんて。
今日は、最悪な日だ。
●
あざみは今、頼れる男がいなかった。
森が来たという訴えも虚しく、小波には無言で電話を切られてしまった。
誰かに話そうと思っても、森はとにかく地味で、どうしてルナと付き合っていられるのか分からないという周囲の認識のせいもあり、あざみの交友関係の中に彼を深く知る者はほとんどいない。話したとして、誰も今回の彼の凶事の重大さを分かってはくれないだろう。
ルナに関しても同じだ。行方を晦ました彼女に誰もが自業自得という烙印を押している。恋路を踏み躙られた男どもから、男を誑かされた女どもから。元々彼女の下半身の奔放さを嫌っていた者どもからも。だから、例え森のバッグの中身がそうだったとしても誰も言わない。少なくとも足をつっこむ物好きは皆無だ。
森とルナをよく知る人物としてあざみの脳裏に浮かんだのはたった二人だった。
小波と、瀬賀。
はじめから瀬賀にかけるべきだったとあざみは思う。自分と距離を置いた男に、どうして私は連絡をしたのだろう。全く自分でもどうかしていた。まあ、今こうして瀬賀を頼れたのだからもう気にすることでもないか。
それに、今この状況は瀬賀との距離を縮めるいいチャンスでもある。どうも瀬賀には人との距離に一線を引いているきらいがある。それは誰にでも平等に。あの愛美にでさえもどこか他人行儀のように思えることがある。
あざみは、彼の扉を開けてみたかった。誰にも開けることのできない扉ほど心が踊る。強固であるということは、裏を返せばそれだけ誠実であるということだ。確実な信頼と愛を感じた相手を見つけた瞬間、彼はきっと何もかもを恋人に差し出すに違いない。そしてそれができるのは、私だけ。
「少し汚いから片付けさせてもらえるかな。ちょっと待っててね」
「うん、大丈夫。無理言ったのは私だから……ここで少し待ってるね」
瀬賀はごめんね、と苦笑しながらあざみに言って、部屋に入っていった。
あざみを置いて部屋に入った瀬賀は、まずナイフを取り出した。包みを捨てて刀身を見つめる。窓の外から差し込む淡い光を呑んで刃が鋭く輝く。落ち着け、と瀬賀は自分に言い聞かせる。あいつは話しを聞きたいだけだ。それ以上のことは何もしないし、させない。
なにより、アレは見せない。
そう呟いて、瀬賀は自嘲気味にふっと笑った。全く嫌になる。自分でもこれが異常であると感じていることに。異常と認識していても、辞められないことに。絶対になれないものが、自分の願望であることに。
僕は結局何になりたかったのか。
お姫様だろうか、モデルだろうか、スチュワーデス、役者。考えればいくつも湧いて出てくる。その中でも、突出して思うのは「愛美になりたかった」ことだ。
自分がアイツだったなら、あの美しさを無駄にはしなかったし、毎日綺麗にして、毎日着替えて、毎日鏡の前で自分を眺め続けていられただろう。こんなゴツゴツした輪郭が太くて、体毛も濃くて、何より歪な性器をどうして愛することができようか。顔が良くなければ自殺していたかもしれない。
ああ、思えば思うほど憂鬱だ。
こんな憂鬱で退屈な人生。少しでも刺激がないとやっていられない。
その結果身を滅ぼすなら、それはそれで構わない。
瀬賀はクローゼットを開け、そこに並ぶ女性衣類をぐっと奥に押し込むと、再びクローゼットを閉じた。流石に、人のクローゼットを勝手に開ける馬鹿はいないだろう、と。
「それで、森くんはまた消えたんだね」
あらかたの話を聞き終え、瀬賀がそう繰り返すと、あざみは俯きながら小さく一度頷く。瀬賀は顎に手を当ててしばらくテーブルに目を落とす。
「その鞄の中が、ルナちゃんだっていう証拠はないんだよね」
「でも、あの大きさと、あの動き方は人みたいだった……」
「小柄のルナちゃんでもボストンバッグに入るかな」
あざみはぐっと押し黙る。瀬賀はそこに一言付け加える。
「そうだね……胴体だけ、とかなら話は別かもしれないけど」
「胴体、だけ?」
あざみの怯える目を見て、瀬賀は胸の内がスッと冷めていくのを感じた。
「あれだけひどい状態のルナちゃんを見た後だから、森くんが奇行に走る可能性もなくはない気がする。まあ、現実的に考えて愛している人の手足を切るなんて人がいるかどうか、は僕には分からないけど」
「でも、そんな、ひどい……」
「でも、なんで糸杉さんだったんだろうね」
その一言で、あざみの動きがぴたりと止まった。瀬賀は頬杖をついて彼女を見つめる。
「ルナちゃんと森くんと、糸杉さんってうまく結びつかなくてさ。なんで森くんは、糸杉さんを尋ねたんだろう」
あざみは黙ったままだった。
瀬賀はああ、お前か、と心の中でつぶやく。相当な衝撃と心的被害からパニックになっていたせいで、あざみはそこに行き着かなかったのだろう。何故、と尋ねられることに気がいかなかった。ただ、自分を慰める人を欲して墓穴を掘った。
「糸杉さんの中で、なにか心当たりない? ルナちゃんに何かされたとか、森くんと喧嘩したとか」
「な、ないよ。全然思いつかない」
「そっか、ちょっとづつ考えてみよう。そうしたら、きっと糸杉さんを尋ねてきた理由が分かるよ」
そう言って瀬賀は立ち上がり、凍りついたままのあざみを見下ろすと、笑みを浮かべた。
我ながら、完璧な笑顔だった。
●
あざみは生まれて初めて、その笑顔が怖いと思った。
瀬賀はなんとなく、この一件から何かに勘付いている。ルナがどうして森に誘拐されるに至ったかについて。
温かいものでも淹れてくるよ。そう言ってキッチンに消えた瀬賀を見送った後、瀬賀は口が固いほうだろうか、とあざみは思案を巡らせる。少なくとも友人を無碍にするタイプではないように見える。問題は、あざみと森とで瀬賀がどちらを取るか、だ。
森とルナにしたことを知って、彼がどう転ぶか。彼はひょうひょうとしていて、その実行動力もあれば、交友関係も広い。そして何より、森がやったことと自分がやったことに対して周囲が抱く反応は、明らかに自分のほうがイメージが悪い。
不意に、ベッドの下に雑誌の切れ端を見た。あざみは這うように近づいてそれを引っ張り出す。二十代を対称とした女性誌だ。でも何故ここに女性誌があるのか。見たところ、他にそういった類は見当たらない。本棚にも、机にも、ベッドの下にもそれが一冊だけで、隠してあるという風でもない。
もしかして、恋人がいるのか。
あざみは雑誌を強く握り締める。もし相手がいるのなら、自分は良いピエロだ。ルナのような汚い女にはなりたくない。だが、その存在を隠した上で自分のアプローチを見ていたのだとしたら……。
あざみは思わず雑誌を投げた。雑誌はクローゼットの扉に当たり、中でがたん、と何かの倒れる音がした。あざみは我に返ると慌ててクローゼット前に落ちた雑誌を取り上げ、それからクローゼットに手をかける。
何か倒れてしまったみたいだし、直さないと……。
ぎい、とクローゼットの扉を開いて、あざみは目を疑った。
手元の女性誌の理由が、同時に繋がった。大量に収容された女性物の服と下着、そして様々なヘアスタイルのウィッグたち。
雑誌を取り落として、あざみは口を両手で塞ぐ。
「……気持ち悪い」
あざみが思わず口に出した言葉と同時に、部屋の開く音がして、あざみは振り返る。
瀬賀は、にっこりと笑っていた。
やけに長い刀身のナイフを持って。