用法用量を守って正しいストーキングを。
14
「ねえ、この服、なんなの?」
「その前に聞かせてよ、どうして開けた?」
「ねえ、恋人でしょ? あたしに秘密で……」
大きな衝撃がした。瀬賀傍の壁にナイフが突き立てられる。あざみが上げた小さな悲鳴を掻き消すような声で、瀬賀はもう一度あざみに言った。
「開けた理由を答えろっつってんだよ!」
「な、なんでそんなこと気にするの?」
開け放たれたウォークインクローゼット一杯の衣類をちらりと見て、その場にへたりとしゃがみ込んだままあざみは瀬賀を見上げる。普段の彼とは違う。涼しくて、分け隔てないいつもの彼はそこにいない。
彼は、今、真実の目で私を見下ろしている。
恐らくここで何も言わず、ただそっとクローゼットの戸を閉めて、瀬賀と金輪際出会わないという選択を失敗なくできたならば。
だが、あざみの選択は、違った。
限りなく残った可能性を自ら摘み取るように、不敵に笑って、静かに言った。
「……着てるんだ」
瀬賀の目が大きく開く。口元がきゅっと窄まるのを見て、あ、今彼は奥歯を噛み締めているとあざみは分かった。彼がまた剥けた。
この部屋に異性の匂いはない。なら、瀬賀が着ていると考えるしかない。というかその考えを一番はじめに持ってくるだけで、このウォークインクローゼットに秘められた謎はいとも容易く紐解ける。
「たくさん着てたんだね。普段はそんな様子見せもしないのに」
あざみは、自分がひどく興奮していることを自覚していた。これまで以上だ、と。こんなにも私を興奮させてくれた男がかつていただろうか。だって、彼は普段は完璧なのだ。男にも女にも分け隔てなく、誰とでも好意的に付き合って、誰にでも良い顔をする。そんな男が、裏では女の服に魅力を感じ、似合いもしないのに着ているのだから。
すぐそばの全身鏡もきっとそのためだろう。随分立派だ。大方ここで着飾った自分を見て楽しんでいたに違いない。丁寧にウィッグまで揃えて。
「ねえ、どうして着るようになったの?」
あざみは片膝をついて瀬賀との距離を詰める。瀬賀が一歩退くのが見えた。
「女の子になりたかったの?」
瀬賀からの返答はない。
「男として生まれたのが嫌だったの?」
返答はない。
「そんな女受け良さそうな顔して、何が不満だったの?」
動悸が早くなる。怖いのだろうか。好奇心だろうか。いずれにせよ、どんどん自分が湿っていく。
「でもさ、瀬賀くん、体もしっかりしてるし、指だってそんなに太いしさ、頑張ってるみたいだけど髭だってあるよね。どうやっても男にしか見えないよ」
だって彼は男なのだから。こんな格好が似合うわけがないのだ。
「瀬賀くん、あんなに良い人なのに勿体無い」
「……勿体ないって、何?」
ようやく瀬賀が口を開いた。突き立てられたナイフを下ろし、俯いたまま発せられた声はひどく弱々しかった。あの彼が、弱気になっている。あざみの胸の奥に悶たいくらいの悦楽が湧き上がっている。あざみは湧き出そうな感情を抑えるように自分の腕を掴み、爪を立てて握り締める。
なんて彼は愛らしいのだろう。
こんなにも男の弱い部分を目の当たりにしたことがあっただろうか。これまでのどんな男の取り繕った姿ともまるで違う。誰にも露出することなく隠し通し続けたからこそ、暴かれた時にそれは魅力的に映る。
可愛くて、気遣いができて、誰からも好かれて、嫌味のない彼が、こんなにも歪だったなんて。
「瀬賀くん、今、何を考えてる?」
「何って……」
「私ね、今すごい興奮してるの。すごくない?」
瀬賀はたじろぐ。あざみは構わずに立ち上がり、彼に詰め寄る。ナイフを持つ手に自らの手を添わせ、彼の太ももを両足で挟み込んで、余った手を胸にやる。固くて、しっかりした手から確かなぬくもりが伝わる。
「ほら、今ね、ドキドキしてるでしょ? 瀬賀くんに会えなかったら、あたし、こんな興奮を知らないままだったかもしれない……。本当に、今日、ここに来れてよかった……」
「何を言って……」
「だって、瀬賀くんのおかげで、あたし生まれてよかったって思えたんだもの」
戸惑いが、疑問に変わった。
「……は?」
眼の前に迫るあざみは恍惚とした表情で瀬賀を見ていた。だがそれは普段の媚を売るような、誘惑するようなものとはまた違ったもので、同時に、瀬賀だけが理解できる表情だった。
彼女は瀬賀の不完全性を見て、自分の優位性を強く感じている。これまでもそうだったように、他者の歪さを見下すことで彼女は悦楽を感じていた。
「不完全って、嫌なものね、****くん」
瀬賀の反応を見て、あざみは吐息のような笑みを漏らした。
「瀬賀って名前も、できるだけ自分のイメージから遠ざけたくて広めてたんでしょ。不思議だなって思ってたけど、みんなも構わず呼ぶからてっきりあだ名だと思ってた。でも違ったのね。ここに、あなたの一番弱いところがあったのね」
「違う」
「じゃあ、どうして瀬賀なの? まあ瀬賀って名前でもそんな柔らかいイメージしないけど。****よりはマシには聞えるけどね」
それに比べて、ほら見て。あざみは胸元に押し付けていた瀬賀の手を頬にやる。
「すっごく気を使って手入れしてる肌、なめらかで良いでしょ。さらさらしてるでしょ。これもね、****君にはどうやっても手に入らないものなんだよ」
艶の良い髪も、陶器みたいに白くキレイな肌も、乳房も、陰部も……。あざみはその一つ一つを丁寧に瀬賀に触れさせていいく。彼の指先が震える度に快楽がぶるりと背筋を震わせる。彼の目元に映る劣等感が気持ちいい。
「****君、すごい。こんな歪で気持ちの悪い人、あたし初めて会った。あなたのおかげで、あたし、今すごい満たされてるの」
「やめてくれよ」
「なんで? こんなに満たされてるのに。ねえ****君、あたし達、きっとすごくお似合いよ。だってほら、こんなに結末が違うんだもの」
「違う。お似合いなわけない。俺はあんたのこと、大嫌いなんだよ」
あざみはキョトンとした後、破裂するみたいに大きな声で笑い始める。瀬賀の右手に、力が入る。
「何言ってるの。あたしもあなたのことが嫌いよ」
「あんたの考えてることが全く理解できない」
「嘘。本当は認めたくないだけでしょ。歪で醜い自分を肯定したかった。でも性癖がそうさせてくれなかった。どうにか女装して、化粧をして、そのちっちゃな鏡で自分に言い聞かせて凌いでるんでしょ。キレイだよ、とか独り言を言いながらさぁ」
「違う!」
「何もかもが気持ち悪いよ、****君」
瀬賀の表情が固まった。
「でもそれが良いの。あなたの気持ち悪さのおかげで、あたしは、あたしがあたしとして生まれて良かったって……心の底から思えるから」
あざみはにやりと笑うと、瀬賀の耳元で囁いた。
「女装好きの****君」
風を切る音がした。
ぱたた、と跳ねた血痕が床から壁に向けて線を作る。
瀬賀は、はじめ何が起きたのか理解できなかった。足元であざみが顔面を抑え転がっているのを見てようやく、自分のしたことを理解した。
ああ、ちゃんと殺そう。瀬賀は手にしたナイフの血をシャツで拭った後、握り直す。
この醜い女をまず殺そう。どこまでも癪に障るこいつを消さないと、自分に平穏はやってこない。
気だるそうにしゃがみ込み、目の前で悶えるあざみを見下ろす。軽蔑するような、ゴミでも見るような視線で。
「ほんっとうに性格悪いな。そういうとこが透けて見えるから男にも見限られて浮気されんじゃねえの。潮に関しては付き合う前に振られて滑稽だよな」
こんな女になりたくなかった。
いつだって自分の理想は、愛美だ。
「俺さ、愛美が好みなんだよね。理想っていうかさ、幼い頃から手塩にかけて自分好みにしてんのよ」
なりたかった自分になっていく愛美を、自分は心から憎んでいる。だから、育てた。自分の心の平穏を保つために、完璧にして、それを全部壊したい。
「あざみはさぁ、俺と似てるんだろうね。でも似すぎてて、俺の考えてることにイチイチ茶々入れてくるのかすっげーうざくてさ」
「瀬賀……君?」
「始めっからこうすりゃ良かったんだ」
あざみの目の前にナイフを突き立てる。とん、と先端がキレイにフローリングに刺さって、キレイに磨かれた刀身があざみの目を映し出す。顔を覆う手の隙間から見える自分の目は、恐怖に塗れていた。
「さっきさ、アンタが自分のいいところ全部自慢してきたじゃん? それをさ、一個づつ台無しにしてこうと思ってる」
「!?」
「自慢できるとこ全部削ぎ取ったら、あんたに何が残るんだろうね。ちょっと興味出てきた」
ナイフを振り上げた瀬賀を見上げたあざみは、そこにある目が冷たく沈んでいるのを見て、衝動的に彼の腹部に蹴りを入れた。彼がよろめくのを見たあざみは震える足を必死に動かし、這うようにして玄関へ向かう。振り向くと、瀬賀が再びあざみを見ていた。
「嫌ぁ!」
うまく立ち上がれないままドアノブに手をかけ、転がるように出てドアを閉める。あれは、本気だった。自分に危害を加えるつもりの目だった。
ガタン、とドアが揺れた。ノブが何度か押し込まれる音がする。
ガチャガチャ。
ドンドンドン。
ガチャガチャ。
ドン。
ドン。
あざみは消え入りそうな悲鳴を上げながら立ち上がり、必死に走った。これ以上ここにはいられない。捕まったら、何をされるか分からない。
どうしてこうなったのだろう。
いや、もう初めからこうなることが決まっていたのかもしれない。
どこからかはもう分からないが、自分は選択をどこかで誤った。
本当なら、潮に愛されていたかもしれない。
どこまでも貪欲にあたしを愛してくれて、あたしはその愛を感じて、自分が満たされていることを感じて幸福になっていたかもしれない。
本当なら、瀬賀に愛されていたかもしれない。
彼の表向きの完璧さと裏の歪さを見て、自分が正しく生まれたことを幸福に感じられたかもしれない。
いくつもの道があった。でもいくつもあったはずの道はどうやってもうまく続かなかった。いつも私は疑問だった。一体どうして道筋を外れてしまうのだろう。手繰れば済むだけのはずなのに。
しばらく走って、後方から瀬賀が追ってきていないのを確認すると、あざみはへたり込むように道の端に座り込んだ。肺が苦しくて痛い。心臓も痛いくらい鳴っている。顔が、体がとても熱い。
瀬賀は危ないヤツだって、みんなに伝えないと。
「あの、大丈夫ですか?」
「え?」
顔を上げると、野暮ったいスーツを着た中年男性があざみを見下ろしていた。
「いや、警察とか、救急車とか、呼びましょうか?」
「警察? 救急車?」
彼の言葉がうまく飲み込めないでいた。彼は、何を言っているのだろうか。
彼は少し言いにくそうな顔で、恐る恐るあざみの顔を指さした。
「すごい、血が出てますよ。一体誰にやられたんですか……?」
血、とは。
そこであざみはようやく、自分が瀬賀の部屋でまず何をされたのか思い出した。
『自慢できるとこ全部削ぎ取ったら、あんたに何が残るんだろうね』
「か、鏡……」
「え、鏡?」
「あたしの、か、顔はどうなってるの……?」
中年男性は慌てて鞄や自分のポケットをまさぐり、やがて携帯を取り出すと、自撮りモードにしてあざみの前にディスプレイを向けた。
一文字の線が、顔を横断するように入っている。
とてもキレイな赤が、あざみの顔を染めている。
あざみは、呆けた顔で自分の顔に触れた。指先が傷口に当たる度に、焼けるような痛みがあった。
その傷は、痛くて、熱くて、紛れもなく現実だった。
「あた、しの顔……だい、じな顔……みんなが好きなのに……どうしよう、どうしよう……嫌われちゃう、誰にも愛してもらえなくなる」
「大丈夫ですか? お嬢さん?」
「嫌だ、嫌だ、嫌だぁ」
駄々をこねるように髪を振り乱しながらあざみは泣き喚き、顔面を覆って駆け出す。呆然とする男をその場に残して。
シャキン。
シャキン。
シャキン。
ハサミの音がする。
あざみが髪を切った時のような、ルナの髪を切った時のような、小気味良いハサミの音だった。
どれだけ走り続けても、どれだけ顔を覆っても、どれだけ夜に紛れようとしても。
ハサミの音は、彼女の耳元で鳴り続けていた。
●
薄青のプリーツ・スカートに薄いベージュのストッキング、白いブラウスと淡色のピンクカーディガンを身に着けて、ウェーブのかかった栗色のウィッグを被る。これだけでも悪くないが、瀬賀はそこに更に化粧を載せていく。下地に日焼け止めクリームを塗って、ファンデーション、チーク、目元にアイシャドウとまつげ、眉を描いて、リップは照りのある紅を。
鏡を見て全体を整えた後、瀬賀はおろしたての白いパンプスを履く。窮屈さとバランスの悪さを感じながらも、瀬賀は無理やり立ち上がり、全身鏡の前でポーズを決める。
いつだって、コーディネートにはこだわってきた。自分に合いそうな化粧の盛り方も、洋服の合わせ方も、女性の服は特に流行り廃りが早いから、常にアンテナを張っていなくてはいけない。とても大変だったが、それでもトレンドにぴったりの組み合わせを自分で見つけると、達成感があった。
隠れてやっているブログでも瀬賀のコーディネート案は人気だ。いつだって世の女性達の羨望を受けている。
【こんな素敵な服の組み合わせを考えられて羨ましい】
【いつも読んでます! ここの服装を参考にするととっても反応が良いんです!】
【この間の合コンでかなり上手く使えました!】
【こんな人がモデルとかスタイリストじゃないなんて信じられない! 実は有名な人なんじゃないの……?笑】
全身鏡を両手で掴んで、覗き込む。ほら、こんなに似合ってる。髪型だってぴったりだ。男性受けだけじゃない。女性にだって受けの良い服装も提案できる。
こんなに完璧なのに、何がいけないっていうんだ。
鏡の隅に血が飛んでいることに気がついた。とても鮮明な赤だ。瀬賀はそれを人差し指で拭うと、唇に塗りつける。より赤の強くなった口元を見て、悪くない、と瀬賀は思う。
「すごく似合ってる」
鏡の中の自分に微笑みかけながら瀬賀は、頬に触れた。疲弊してざらつく肌と、薄く隠れた髭の引っかかるような感触がした。
あざみの肌は、とても滑らかだった。
「本当に、ぴったりだ」
瀬賀は鏡の中の自分を見て頷く。頷きながら、涙がこぼれて一筋の道を作る。
「きれいだよ、とてもきれいだ」
きれいだ。
きれいだ。
自分に言い聞かせるように瀬賀は呟き続ける。
だが、今自分が装っている姿に当てはまる顔は、瀬賀ではない。柔らかな髪とつるりとした肌に、どこか憂いのある目をした従兄弟の顔がどうやっても脳裏に浮かぶ。
ああ、どうしてあれが自分ではないのだろうか。
きれいだ、という声が震える。
やがてその声は濡れて、嗚咽へと変わっていく。
誰にも見せられない姿で、鏡の中の自分を見て。
瀬賀は、ずっと泣き続けていた。