Neetel Inside 文芸新都
表紙

ラストメンヘラー〈リマスター版〉
karte1(♂)『あらゆるものごとの中心に位置する存在』

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 だれもが理解者を探している。
 家族でも親友でも、遠い異国の宗教家や哲学者でもいい。あるいはテレビに映し出された指名手配犯だってかまわない。目を見ずとも、言葉を弄さずとも、いっさいの齟齬なく感情が伝わる相手。罰を与える代わりに同じ罪を背負ってくれる運命の共犯者。そんな人を、だれもが必死になって探している。世界のどこにもいないと知りながら。
 だから僕は、彼女の理解者になったふりをした。
 信じてもらうために、騙した。

                    *

 セックスしてえ、とコバが言った。
 いや、セックスしてえ、とは言わなかった。近くで女子が群れをなしている手前、いつもより多少やわらかいニュアンスで、エッチしてえ、といつものごとく下品なことを言った。
 昼休みになると教室は小さな群島になる。大小のグループがそれぞれの島に陣取って、食事をしたり、ノートの写しあいをしたり、携帯ゲーム機で対戦したりする。僕のグループでは恋愛相談所が開かれていた。相談者は小林隆太(こばやし りゅうた)さん、高校三年生。最近恋人が冷たいんです。ベッドに誘っても全然応じてくれなくて。どうすればいいんでしょうか?
「強引にいけよ。もともとおまえオラオラ系じゃん。エリカちゃんもそういうところに惚れたんじゃないの」
「無理無理。この前強引に押し倒そうとして真剣に警察呼ばれそうになったもん」
「だったらもう土下座してやらせてもらえば? 泣き落とし作戦」
「エリカ弱い男嫌いなんだよ」
「おまえの嫁面倒くせえな」
 グループでもっとも女性関係に強いシゲがいとも簡単に匙を投げた。他人の色恋沙汰なんてどうでもいいって感じだ。マイペースな水野(みずの)にいたっては、話を聞いているのかいないのか、ずっとスマートフォンの液晶画面を鏡にして前髪をいじっている。コバひとりが深刻そうな顔をしていた。
「三年つきあってんだよ? 三年だよ? それでまだエッチさせてもらえないって……どうすりゃいいんだよもう。こんなんじゃ甲子園行けねえよ」
「甲子園をなんだと思ってんのおまえ」
 野球部随一のスピードスターが、束子がつくれそうな五分刈りの坊主頭をかかえこむ。
 十七歳の僕たちにとって、あらゆるものごとの中心には異性が位置している。それでいて、僕たちは常にその外側を衛星のようにぐるぐるまわり、抜け出したくても抜け出せないジレンマに頭をかかえることしかできない。
「そういえば要(かなめ)は好きな子いないの?」
 突然、話題の矛先が僕に向けられた。ブランドもののカバーが表になるようにスマートフォンを机に伏せた水野が、屈託のない顔でこちらを見ている。コバとシゲもこちらを注視する。苦手なパターンだ。
「ごめん、そんなに見られても好きな子とかいないから」
「茜(あかね)ちゃんは? 仲いいじゃん」
「鶴田(つるた)さんとはそういうのじゃないよ。去年委員がいっしょだったから、それで仲よくなっただけ」
「きっかけとしてはじゅうぶんだろ。ていうか茜ちゃんは要のこと好きっぽくない?」
「どうかな」
 食い気味で質問を被せてくる水野を無視して、窓側の席を盗み見る。
 教室のどこにいても、すぐに彼女を見つけ出せる。目印は病的に白い肌と、艶のある直線的な黒髪だ。彼女は自分の席に座り、頬杖をついてつまらなさそうに窓の外を眺めていた。昼休みは親しいクラスメイトとおしゃべりをしていることもあるが、きょうはひとりだ。
「もしかして五十嵐(いがらし)のこと見てる?」
 水野にばれてしまった。目ざとい。
「ふうん、要は茜ちゃんじゃなくてああいうのがタイプなんだ。変わってんな」
「そう? 俺はアリだと思うよ」
「まあかわいいっちゃかわいいけど。暗いじゃん、あいつ」
「話してみたらわりとふつうだよ。となりの席のとき、よくノート写させてくれたし」
 勝手に品評会をはじめる水野たち。あれはあと二年もすれば化けるとか、もうちょっと胸があるほうが好みだとか、本人に聞こえていないのをいいことに言いたい放題だ。
「でもさ」
 シゲが急にまじめな顔つきになってつぶやく。
「あいつ、リスカしてんじゃないかってうわさあったよな」
 リストカット。刃物で手首を切る自傷行為。五十嵐はその常習者で、制服の下には無数のためらい傷がある。僕たちのクラスでは、そんなうわさがまことしやかにささやかれていた。真相を確かめるのは簡単だ。本人に直接聞けばいい。だが、だれにそんなデリケートな質問ができるだろう? タブーにふれる勇気を持つ者はいない。
「やってんのかなあ。やってそうだよなあ」
「コバ、見すぎ」
 それでも、みんなが覗きたがっている。
 彼女が制服の下に隠している秘密を。
「リスカといえばさ、要にもあんなのなかったっけ」
「ああ、これ?」
 ふたたびコバたちの注目が僕に向けられる。僕は友人たちの前でカッターシャツの左袖をまくり、去年の夏に短期のアルバイトをして買ったポール・スミスの腕時計をはずしてみせた。
 手首の腱をまたいで走る、一文字の傷痕。小学六年生のころ、図工の授業でカッターナイフを使ったときにできた傷だ。見かけは同じでも、リストカットでできる傷とはまるで意味あいが違う。僕の傷痕は、ニセモノの傷痕だ。
「へえ、手首の傷って一生消えないんだな。レーシックで視力も回復する時代なのにさ」
「傷の深さにもよるだろうけどね。あんな思いはもう二度としたくないよ」
 ぱっくりと開いた傷口から見たこともない量の血液があふれ出し、生まれてはじめて現実的な恐怖として死を認識した。あの日以来、僕はカッターナイフに触るのが苦手になった。
「意味不明だよな、自分で自分の手首を切るなんて」
「まったくだ」
 ほどなくしてローファイな予鈴が鳴り響き、五時間目の担当教師が教室にやってきた。いっしょに机を囲んでいた仲間たちは散り散りになり、僕も教科書の用意をした。

 放課後、昼休みに話題に上がった鶴田さんと教室でふたりきりになった。
 教師もクラスメイトもいなくなった教室で、仲のいい女子とふたりきり。まんざらでもないシチュエーションだ。だけど僕には、この状況を歓迎できない理由があった。
「この前貸してくれたCD、あれすごくよかった。ありがとね」
「うん」
「今度ほかのアルバムも貸してよ」
「いいよ」
 途切れ途切れのぎこちない会話がつづく。会話をぎこちなくさせているのは、主に僕のほうだった。
 そのとき、僕は出席番号順に割り振られる日直の最後の仕事に取りかかっていた。学級日誌の記入欄を片っぱしから「特になし」で埋めていく。欠席者、特になし。早退者、特になし。授業の感想、連絡事項、特になし。一方の鶴田さんは今週の掃除当番で、黒板消しをクリーナーにかけていた。みんなが制服が汚れるからと言ってやりがたらない仕事もきちんとやるのが彼女のいいところだ。
「あの、さ」
 僕が学級日誌を閉じるのとほぼ同時に、鶴田さんが核心にふれた。
「この前の話、考えてくれた?」
 ついにこのときがきてしまった。調子はずれのピアニカみたいな、変にうわずった声。僕が座る席からは背中しか見えないが、黒板と向かいあった鶴田さんの顔が赤くなっているのが容易に想像できる。彼女は感情をごかますのがへただ。僕は彼女のそういうところが好きだった。それだけに、返答を告げるのは胸が痛い。また、少なからず惜しくもある。CDの貸し借りを通じて心の距離を近づける甘く心地よい関係も、今日でおしまいだ。
 だけど僕は審判を下さなくてはならない。それが礼儀だ。
 呼吸を整えて、静かに、きっぱりと告げる。
「ごめん。じっくり考えてみたけど、やっぱり鶴田さんとはつきあえない」
 罪悪感で胸がいっぱいになった。先週の鶴田さんの告白には、僕がこのひと言を絞り出すのに要した何倍もの勇気がこめられていたに違いない。僕はそれを踏みにじったのだ。
 開けっぱなしの窓から生あたたかい五月の風が舞いこむ。ふんわりとふくらんだカーテンが鶴田さんの背中を隠した。ほんとごめん、ともう一度謝ると、罪悪感の目盛りがひとつ増えた気がした。
「そっか、そうだよね。なんとなくそんな気はしてた」
 明るく振る舞っていても無理をしているのが丸わかりだった。感情をごまかすのがへたなのは、鶴田さんのチャームポイントであり、弱点でもある。
 これからも友だちでいてほしいとか、またCDを貸してほしいとか、そんな言葉に耳を傾けながら、僕は人生の法則について考えていた。十七年と六ヶ月生きてきて、いくつかの法則を発見した。ごわごわした癖のある髪は、雨の日には余計にごわごわする。身長が高くなってくると、膝頭があたって学校の机の裏がだんだんへこんでくる。スポーツ番組とお笑い番組、とりわけすぽると!とアメトーーク!はとりあえず観ておいて損はない。きょう、その法則のリストに新たな項目が追加された。傷つけたくない相手を傷つけてしまったとき、自分も同様に傷つくのだ。
「鍵、そこに置いといて。掃除がおわったら閉めて帰るから」
 言われたとおりに教室の鍵を教卓に置き、鶴田さんの顔も見ずに廊下に出た。
 これから僕たちはどうなるんだろう。苦く心地よくない関係になってしまうんだろうか。
 鶴田さんのことが嫌いなわけじゃない。告白されたときは、わりと本気で嬉しかった。
 だけど鶴田さん、きみじゃ駄目なんだ。
 彼女じゃないと、駄目なんだ。

 鶴田さんと別れたあと、僕は大急ぎで学校の南館にある第一理科室に向かった。
 この学校にはみっつの校舎があって、それぞれ北館、中館、南館と呼ばれている。教室と職員室があるのは北館だ。生徒たちの思い出のほとんどがそこに詰まっている。次いで利用頻度が高いのが、体育館や食堂などの各種施設が集中している中館。もっとも築年数の長い南館には特別教室がある。しかしそれらを部室代わりにしている文化部でもなければ、生徒がこの校舎に立ち入る機会はめったにない。さらに一階より上となると、一度も足を踏み入れることなく卒業する生徒がほとんどだろう。二階と三階の特別教室は、いまはもう使われていない。言わば忘れ去られた場所だ。
 そこで彼女が待っている。
 三回ノックして、三拍置いてまた三回ノック。それが第一理科室のドアを開く合言葉だ。
 解錠の音がすると、僕は周囲に人がいないのを確認してドアの内側に侵入した。盗賊の隠れ家に忍びこむアリババのように、こっそりと、慎重に、興奮を押し殺して。
 すると部屋の主人が僕を招き入れてくれる。
 僕の顔を見ると、彼女は口もとで小さく笑った。
「きょうは遅かったね、中原くん」
「申しわけない。ちょっと野暮用があって」
「放課後に野暮用って? 女の子に告白でもされた?」
「まさか」
 きょうの彼女は機嫌がいいみたいだ。教室にいるときとは大違い。せっかくの上機嫌を損ねないよう、鶴田さんの件は伏せておくことにした。
 ドアを内側から施錠し、彼女のあとについて密室と化した第一理科室を歩く。室内に電気はついておらず、黄土色のカーテンを透過して射しこむ外の光が照明の役割を担っている。それでも日が出ているうちはこの密室もノートの写しあいができる程度には明るく、歩いていてテーブルの角に足をぶつける心配もなかった。
 薄暗い密室のちょうどまん中あたりで、夕暮れ色に染め上げられた彼女と向かいあう。
「さっそくはじめる? きょうは時間もないし」
「待って。その前に」
 彼女は片腕を僕に差し出し、純白のブラウスの右袖をまくってみせた。僕もシャツの左袖をまくってそれに応える。これまで何度となく繰り返してきた確認作業だ。
 たがいの身体に深く刻まれたそのしるしを確認して、僕らは安堵する。
 僕の左手首にある一本の筋と、彼女の右手首にある無数の筋。
 この傷が、僕たちの絆だ。
「……する?」
「うん」
 僕が肩に提げていた学生鞄を床に落としたのを合図に、彼女はゆっくりと制服のリボンをほどいていった。つづけざまにブラウスのボタンに手をかける。華奢な鎖骨、血色の悪い肌が、僕の目をとらえて離さない。彼女が女子高生の殻を破り生身の少女へと変わっていく過程を鑑賞しながら、僕自身もネクタイやら腕時計やら、診察の邪魔になるものをテーブルにどけていった。
 上半身は下着のみという格好になって、僕たちはどちらともなく抱きあった。彼女の身体の熱が伝わってくる。彼女の呼吸が、脈拍が、心が、僕の中に流れこむ。
 どれくらいそうしていただろう。彼女を抱きしめているあいだはすべての概念があいまいになる。グラウンドから届く野球部のかけ声も、山奥で聞くラジオのように現実味がない。街も人も鳥も猫も消えて、世界には僕たちしかいなくなる。
 胸もとで彼女がささやいた。
「私たちがしょっちゅうこんなことしてるって知ったら、みんなどんな顔するかな?」
「想像すると楽しい?」
「ほんのちょっとだけ」
 大好きな黒髪を撫でてささやき返す。
「僕もだ」
 これからはじまることへの期待に、僕の胸は躍る。鶴田さんはおろか、コバもシゲも水野も、だれにも想像しえないだろう。僕と五十嵐が、こうして忘れ去られた場所で密会を重ねているなんて。
 十七歳の僕たちにとって、あらゆるものごとの中心には異性が位置している。
 五十嵐すみれ。
 高校三年生の春、僕の世界の中心には、いつも彼女がいた。

       

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