僕が五十嵐すみれと出会ったのは、ほんの一ヶ月と少し前のことだ。進級にともなうクラス替えが四月にあり、それから一週間と経たずに、僕は教室のどこにいても彼女を目で追うようになった。
「俺は鶴田茜に賭ける」
「じゃあ俺は速水(はやみ)で」
「おまえそれ名前の響きだけだろ」
新学期がはじまって何度めかの体育の授業中、僕はささやかでくだらない賭けに参加していた。短距離走のトラックに立つ女子生徒たちを出走馬に見立て、だれの馬がより速いかを競うゲームだ。チップはおのおの二百円。勝てば食費を一回ぶん浮かせられる。
担当教師の身内に不幸があったとかで、その日の体育は男子のみ自習授業となっていた。自習しておけといわれておとなしく自習するやつはいない。少なくとも僕のクラスには。お目つけ役の教師がいないのをいいことに、教室はカーニバルの夜のような騒ぎになっていた。それで僕も、担当教師の身内に哀悼の意を捧げつつ、水野が提案した賭けに乗ったのだった。
男子四人、ならんで窓枠に収まり、太陽に照らされた女子生徒たちを見下ろす。
「正直さ」
「なに?」
「いい眺めだよね」
「わかる。心底うちの学校の体操服がショートパンツでよかったと思うわ。ハーフパンツぜんぜんかわいくねえもん」
「だよな。てかブルマーってなんで廃止されたの? 教育委員会頭おかしいんじゃねえの?」
体操服談義で盛り上がるコバと水野。その横でシゲが「おまえらみたいなのがいるからだろ」と半笑いでツッコミを入れていた。
この三人とは一年生のときから同じクラスだった。テンションが高いウザキャラの小林隆太。適度にチャラくて、空気を読むことに長けた水野慧(けい)。ブレーキ係の繁原勇樹(しげはら ゆうき)。彼らのノリに緩急をあたえるのが僕の役目だ。僕たちは気のあう者同士が自然に寄り集まってできた、最高にバランスのいいカルテットだった。こいつといれば得だとか、ほかのグループになじめないからしかたなくつるんでいるとか、そういった計算がいっさいない。いっしょにいるとそれがわかる。だから居心地がよかった。
「要はだれにする?」
「五十嵐さんかな。速水さん取られちゃったし」
「えー? すみれちゃんいっちゃう? 運動できそうなイメージ皆無だよ?」
「無駄な肉がついてなくてすばしっこそうじゃん。ここは一発、大穴狙うよ」
適当な言いのがれをして、出走の順番待ちをしている五十嵐に視線を移す。競争相手たちが楽しげにじゃれあうなか、彼女はだれとも言葉を交わさず長い髪を紐でくくっていた。彼女が口を開くのはその必要がある場合のみにかぎられている。といって、まったく協調性がないわけではない。話しかければ愛想よく返事をしてくれるし、気のきいたジョークには調子をあわせて笑ってくれる。クラスの女子たちにも好かれていた。なのに決して積極的に協調しようとはしない。
きっと五十嵐は朱に交わるのを避けているのだ。気軽に他人とこころの距離を近づけないことで、自分の領域を守っている。神経症の猫みたいに。
僕はどうすれば五十嵐の領域に侵入できるのかを毎日考えていた。早い話、彼女にあこがれ程度の恋心をいだいていたのだ。
「女子のケツのラインいいわあ。動画撮ったらばれるかな」
「コバ、リアルにきもい」
そうこうしているうちに出走の準備が整い、走者がスタートラインに横一列にならんだ。そのなかには五十嵐の姿もあった。クラウチングスタートの姿勢を取り、顔を上げてゴールをまっすぐ見すえている。
「茜ちゃーん! 俺のためにがんばってねー!」
空気を読めないコバが大声でエールを送ったりしたせいで、グラウンドの女子がいっせいにこちらを振りあおいだ。
体育教師が警告の笛を鳴らす。僕たちはあわてて教室に首を引っこめた。
結局、賭けはうやむやにおわってしまった。
放課後、水野とふたりで下校しようとしていたところを化学教師の曽我部につかまった。職員室にあるダンボール箱を南館の第一理科室に運んでほしい、という用件だった。
「中身は準備室の棚に適当にならべておいて。これ鍵ね。絶対なくさないように」
面倒な雑用を押しつけられたなと思いつつ、この世にひとつしかない貴重な鍵を受け取る。本来ふたつあった第一理科室の鍵は、いまはひとつしかない。昨年度の三学期にもうひとつの鍵が行方不明になったためだ。
水野は「あ、きょうバイトのシフト入れてたわ」と見え見えの嘘をついて先に帰ってしまった。裏切り者め。僕はしかたなく単独で任務を遂行することにした。
放課後の南館はここが通い慣れた学校の一部とは信じられないほど静かだった。かろうじて校舎の役目をはたしている一階よりも上は廃ビル同然と言っていい。廊下は電気が消えており、日あたりが悪いせいもあってかなり薄暗い。どことなくホラー映画の舞台にでもできそうな趣があった。
第一理科室に入ると多少ましになったが、入り口が直結している第一理科準備室は輪をかけて不気味だった。よくわからない瓶に閉じこめられた、よくわからない物体。無駄に精巧な人体模型はいまにも動き出しそうだ。屋根裏みたいなほこりっぽさとかびくささのなか、僕は一刻も早く用事をすませてここを出ようと決めた。
ダンボール箱には使い古された実験器具が大量に詰まっていた。おそらく授業で使われることはもうないのだろう。中館に第二理科室ができたおかげで、第一理科室とその準備室は巨大な倉庫と化している。鍵の紛失がさほど問題にならなかったのもそのためだ。
実験器具を棚に移している最中、僕はずっと五十嵐のことを考えていた。いや、そのときにかぎったことじゃない。僕は暇さえあれば彼女のことを考えていた。
五十嵐と仲よくなりたい。彼女のとくべつな存在になりたい。とくべつな存在になって、両親も教師も友人たちも眉をひそめるとくべつなことがしたい。
だけど僕たちには接点がなかった。話しかけても一分以上会話がつづいたためしがない。体育の授業のときのように、いつだって僕が一方的に遠くから見つめているだけだ。
どんなに小さくてもいい。
せめてひと粒、五十嵐のこころの水面を揺らせるなにかがあれば。
そんなないものねだりをしているうちにダンボール箱がからっぽになった。制服についたほこりをはらい、準備室を出る支度をする。
そのとき、聞こえるはずのない音が聞こえた。
第一理科室のドアが開く音が。
はたと足を止める。僕にはひとりきりの場所ではかならず鍵をかける習慣があった。部屋の大小にかかわらず、そうしないと落ち着かないのだ。その習慣は第一理科室に入ったときも守られていたはずだ。そして世界にひとつしかない第一理科室の鍵は、僕の手のなかにある。
ということは、つまり。
敵影を察知した歩哨のように、息を殺して第一理科室と準備室を区切る壁に貼りつく。行方不明になった鍵の持ち主がどんな人物で、どんな目的があってここにきたのか。それを確かめたくて、僕はおそるおそる壁際から首を出した。
次の瞬間、驚きのあまりさけびそうになった。
五十嵐すみれ。
僕の目に飛びこんできたのは、第一理科室の鍵を手にした彼女の姿だった。
ドアを施錠して、室内をきょろきょろと見まわす五十嵐。あわてて首をひっこめる。どうして彼女が鍵を? 見間違えじゃないのか? 僕はいつまでここに隠れていればいい? 胸の動悸にあわせて、さまざまな疑問が頭のなかをループしていた。
しばらくして再度壁際から首を出した。幸いにも五十嵐は僕の存在に気づいていないらしかった。実験用の大きなテーブルに肘をつき、スマホをいじったり、両手の爪を眺めたり、またスマホをいじったりしている。見るからに退屈そうだ。なにか目的があって第一理科室にやってきたというよりは、事情があってしかたなくここで時間をつぶしているといった様子だった。
変わったことが起こる予感なんて、これっぽっちもなかった。だけどしばらく経って、僕は思いがけず五十嵐の秘密にふれることになった。
スマホをいじるのにも爪を眺めるのにも飽きると、五十嵐はブラウスの袖をまくり、プリーツスカートの右側についているポケットから細いペンのようなものを取り出した。それが剃刀だと気づいたのは、彼女がキャップをはずして鋭く光る刃先を右手首にあてがったときだった。
やさしく口づけるように白い肌に重なり、沈む刃先。浮かび上がる血液。
僕は自分ののど音さえはっきりと聞き取れるほど興奮していた。
好きな人が、目の前で手首を切っている。
その行為にどんな意味があるのかは定かではない。ただ、自分の身体を傷つけることで安心する人がいること、そういう人はメンヘラと呼ばれていること、五十嵐がそのメンヘラだとうわさされていることは知っていた。
本当だったんだ、あのうわさは。
軽い吐き気に襲われる。あやまってカッターナイフで手首を切ったときの記憶がよみがえった。生理的な嫌悪と五十嵐の秘密にもっと迫りたいという興味。矛盾するふたつの感情が僕のなかに渦巻いていた。
五十嵐は脱力しきった表情で傷口を観察している。その神秘的な雰囲気に魅入られて、僕の注意力はすっかり低下していた。
壁に密着させていた腕に未知の感触があった。見ると、一匹のニホンヤモリが僕の肩をよじ登ろうとしていた。反射的に振りはらう。それがいけなかった。
腕が壁にぶつかり、大きな音を立てた。
「だれかいるの?」
警戒心をあらわにこちらを振り向く五十嵐。身を隠そうにもひと足遅い。僕はヤモリを指でつまんで床に放ち、観念して彼女の前に進み出た。
「中原くん?」
「や、やあ」
とっさに出たひと言がそれだった。自分の状況適応能力のなさを呪いたくなる。
「いつからそこにいたの?」
「ずっと、かな」
「いるならいるって言ってよ」
「……面目ない」
五十嵐の声にはあきらかに非難がふくまれており、まともに目をあわせることができなかった。さらに追い打ちをかけるように、彼女は「体育の授業のとき、見てたよね? 私のこと」と言った。最悪だ。もはや笑ってごまかすしかない。彼女のなかで僕の好感度が急速に下がっているのがありありと見て取れた。こんなことならはじめから隠れたりしなければよかった。
嫌われたくない一心で、僕は第一理科室を訪ねた理由を言葉を吟味してていねいに説明した。覗き見のようなことをするつもりはなかったと釈明するのも忘れなかった。多少声がうわずっていたかもしれない。
懸命の訴えが通じたのか、はじめこそ不機嫌そうだった五十嵐も、最終的にはもういいよと許してくれた。
「私がここの鍵を持っていること、ないしょにしておいてもらえるとありがたいんだけど」
黙って首を縦に振るしかない。
これ以上好感度を下げてはなるまいと、僕は馴れ馴れしくもよそよそしくもない態度で五十嵐に接するようこころがけた。
「ここにはよくくるの?」
「うん。家に帰りたくないときはだいたい。あと、こんな気分のときなんかにもね」
丸椅子に座り直した五十嵐が、左手首に目を落とす。そこにはまだ艶のある新鮮な血液がうっすらにじんでいる。さらにその下には、彼女がリストカットの常習者であることを示す淡い桃色の筋が無数に存在していた。
新しくできた傷口にティッシュをあてがいながら、五十嵐は自嘲気味に笑った。
「引いたでしょ?」
「いや、そんなことは……」
「無理しなくていいよ。自分がふつうじゃないのは自覚してる。ふつうの人は放課後に学校で手首を切ったりしないもんね。中原くんみたいなふつうの人には、理解できなくて当然だよ」
どうリアクションすればいいのかわからなかった。
手首を切る人間は、手首を切らない人間とは位相の異なる世界に住んでいる。それは日常生活とあらゆる種類の痛みとが分かちがたく結びつけられた世界だ。平凡な価値観にとらわれ極力痛みを避けて生きてきた僕には、確かに彼女の行動は理解不能だった。
だけど、理解すればそこに接点が生まれる。遠くから一方的に見ているだけだった五十嵐との関係が大きく進展する。
僕はその可能性に賭けることにした。
「理解、できるよ」
「え?」
おそらくこのときはじまったのだ。妄執と自己欺瞞に満ちた、僕の青春が。
カッターシャツの左袖をまくり、腕時計のバンドをはずし、自分に言い聞かせる。
理解しろ。
理解した気になれ。
手首を切る人間の心理を。
「どうしたの、それ」
腱をまたいで走る一文字の傷痕に、五十嵐が目の色を変えた。
予想どおりの反応だった。彼女が自分の領域を守りたがるのは、クラスメイトに共感できる部分が見出せないからだ。ならばこちらで共感できる部分をでっちあげてやればいい。あとは舌先三寸でどうとでもなる。
「僕もしたことがあるんだ、リストカット。僕もきみと同じ、ふつうじゃない人間なんだよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ。ほら、よく見て」
たとえ世界中の人間に嘘つき呼ばわりされたとしても、やはり僕は五十嵐を騙そうとしただろう。手首の傷痕を利用して彼女の気を引くというアイディアは、僕にとってそれほど魅力的だったのだ。
やがて五十嵐は、真剣味を帯びた表情で「いつ切ったの?」と尋ねてきた。
彼女のこころの水面を揺らすことに成功した。
賭けは僕の勝ちだ。
*
あの日から、僕と五十嵐は放課後の第一理科室で密会を重ねている。
「私の心臓、ちゃんと動いてる?」
「心拍数がかなり上がってるね」
頭上で恥ずかしげな甘い吐息。五十嵐の小ぶりな胸に耳をあてながら、絵筆のように鼻先をくすぐる彼女の髪のにおいを嗅ぎながら、僕は満たされてゆく。
「心拍数が上がってるのは中原くんのせいだよ。中原くんといるときだけ、私は生きている実感を得られるの」
こそばゆい台詞も、ノートに書き留めておきたくなるほどいとおしい。
手首の傷を利用してふつうじゃない人間になりすました僕に、五十嵐はいともあっさりとこころを開いてくれた。よほど切実に自分を理解してくれる人間を求めていたのだろう。彼女にとって、いまや僕は航海士の羅針盤だ。僕なしでは、彼女は行き先を見うしなう。どこにもいけなくなる。僕は彼女のとくべつな存在になったのだ。
密会をすると、僕たちはこうしておたがいの身体にふれて、いろんなところの温度やかたちを診察しあう。実験用の黒いテーブルの上で、頭をまっ白にして。僕がクランケになることもあれば五十嵐がクランケになることもある。ドクターはいない。彼女はこころの病気に罹っていて、僕はこころの病気に罹ったふりをしている。
細い腕で僕の頭を抱き、五十嵐が噛みしめるように言った。
「中原くんがいてくれれば、ほかになにもいらない」
同感だ。僕も五十嵐さえいてくれれば、ほかになにもいらない。彼女の目に映る僕が嘘に塗り固められたいつわりの理解者であろうとも。求めていたものに求められる。それはやみつきになる幸福なんだ。
罪の意識は白い肌の魔力にかき消される。
これからもずっと、僕は彼女のとくべつな存在でありつづけるだろう。
いつかこの嘘がばれる、そのときまで。