はじめて人が死ぬ場面に立ちあったのは、小学六年生の秋だった。
静かな、安らかな死だった。心電図の音と医師の宣告がなければ、病室に集まった親族のだれひとり大叔父の死に気づかなかっただろう。意識があるのかないのかはっきりしない状態が長くつづいていた大叔父は、それくらいあっけなく息を引き取った。
七十六歳にして寡婦となった大叔母がベッドにしがみついて泣いていた。叔母がハンカチを口もとにあてて泣いていた。父はやりきれない気持ちを顔全体で表現して立ち尽くし、母は父の肩に隠れるようにして顔を覆っていた。死が充満する狭い部屋の中、私だけがなにも感じていなかった。
すべてが芝居がかって見えた。人が死んだらこう振る舞わなくてはいけないと台本に書かれていて、みんなそれに従って演技をしているのではないかという気さえした。そんな馬鹿げた空想をする余裕があったのは、私がまだ子どもで、人が死ぬことの意味を理解できていなかったからだ。それに、大叔父とは年に一回会うかどうかで、遊んでもらった記憶もほとんどなかったから、薄情かもしれないけど、永眠ですと言われてもどこか他人ごとだった。
もし私が死んだらどれくらいの人が泣いてくれるだろう。芝居でも場の空気に酔うのでもなく、私のためにこころからの涙を流してくれる人は、いったいどれくらいいるだろう。勉強机の抽斗から取り出した剃刀を見つめてそんな空想を弄ぶ私は、きっと本質的にはちっとも成長していない。大叔父を看取ったあの日から。
その三年後、中学三年生の冬に私は生まれてはじめてリストカットをした。それ以前から日常的に指や腕を傷つけていたので、もともと素養はあったのだろう。だから罪悪感なんてものは最初からなかった。その代わり、いまでも手首を切るとときどき自己嫌悪に陥る。
危なくないようにキャップをはめて剃刀をバッグにしまう。外出時、私は常に剃刀を携帯している。手首を切るためではない。なぜかそうしていると落ち着くのだ。学校にも毎日持っていっている。言うなればそう、これはお守りだ。
抽斗を閉めて鍵をかける。姿見の前に立ち、ブラウスの袖からブラの紐がはみ出ていないか確認。シフォンスカートを持ち上げて腰の高い位置で絞る。最後にドット柄のシュシュを右手首につけて擬態完成。きょうの私はどこに出しても恥ずかしくない、どこにでもいる休日の女子高生だ。
「どこいくの」
「中学の友だちと会ってくるって言ったでしょ。お昼ごはん、いらないから」
一階に降りると台所に母がいた。丸椅子に掛け、腕を枕にしてキッチンカウンターに頭を乗せている。物憂げな顔は換気用の小窓に向けられていた。四十三歳にもなって、授業に身が入らない女学生みたいだ。昨晩、父になにごとかをわめき散らす彼女の声を聞いた。彼女の行動パターンは二種類しかない。癇癪を起こしているか、ぼうっとしているかだ。
流し台に今朝使った食器が積み上げられていた。洗剤と水が服に飛ばないように注意して、一枚一枚ていねいに皿を洗ってゆく。
「遊びに出かけるのもいいけど勉強もしなさいよ、受験生なんだから」
まるで母親のようなことを言う。自分は専業主婦の仕事をほったらかしにしているくせに。
「お母さんもたまには外に出れば? 日曜日の午前中からお父さんに買い出しさせてないで」
「私がなまけているように見えるっていうの? その歳まであんたを育ててあげたのはだれだか言ってみなさいよ」
「話をすり替えないで」
蛇口のレバーを上げ、水を切って食器を流し台に置く。刺激したら面倒なことになるとわかってはいる。この程度の小言は受け流すのが正解だってことも、相手にするだけ無駄だってこともわかっている。それでも、母の生活態度を思うと、ひと言やり返さないと気がすまなかった。
「家族の役に立つことなんてしないくせに、口を開けば不満ばっかり。私、産んでもらう親を間違えたかも」
「そう。私も産む娘を間違えたみたい」
母が丸まった背中を大儀そうに動かし、敵意たっぷりの視線を寄越してくる。
数秒間、私とは母は身じろぎひとつせずにらみあった。わずかでも目線をずらせば負けになる。こんな人に負けてなるものかと、私は持てるかぎりの憎悪を眼球にこめた。
白旗を揚げたのは母だった。興味をなくしたようにそっぽを向き、ふたたび背中を丸める。
「さっさといきなさい。あんたといるとむしゃくしゃする」
「安心して、高校を卒業したらこんな家すぐに出てくから」
残りの食器は母に任せて、私は廊下に足を向けた。あの人はいつもこうだ。機嫌がよかろうが悪かろうが、自分以外の人間は全員敵だと思いこんでいる。それは一番身近な他人である家族も例外ではない。温厚な母親を演じているときもあるが、長つづきしない。ちょっとしたことでスイッチが入って、拗ねたり、やっかんだり、挙げ句の果てには暴れたりする。
そんなあの人を醜いと思う。
でも、あの人の血を受け継いだ私も、きっと同じくらい醜い。
「……聞いてたの」
「面白かったからついね」
半開きになっていたドアを開けて廊下に出ると、妹のさくらがすぐ横に立っていた。シルクのシャツにショートパンツという格好で、痛んだ髪をぺたりと壁にくっつけている。刷毛で軽くこすったような眉のラインは地肌の色をしていた。さっき起きてきて、洗面所にいく途中で私とあの人が話しているのに気づき、そのまま立ち聞きしていたのだろう。
壁際を離れたさくらが、厭味ったらしく口角を上げて私の行く手をさえぎった。
「お姉ちゃんとお母さんって顔をあわせれば揉めてるよね。水と油ってやつ?」
「どいて。邪魔」
さくらの肩に手を置き脇を素通りする。玄関でミュールのストラップを留めているあいだも、私を嘲弄するような笑みがべったりと背筋にへばりついていた。
「ひょっとしてデート?」
「そんなのあなたに関係ない」
「デートなわけないか。リスカするような面倒くさい女、ふつう関わりたくないもんね。あ、それかあれだ。カレシもお仲間だ」
無視して扉に手をかける。挑発に乗るのはさくらの思う壺だ。彼女はわざと私を怒らせようとしているのだから。私があの人に抱いている感情が同族嫌悪だと証明するために。
気に入らない。私によく似たあの人も、私とは似ても似つかない妹も。
外に出たとたん、晴れ渡った空の青さに立ちくらみしそうになった。照りつける太陽の光を日傘で遮断して、築九年になるコンクリートの一軒家を振り返る。
もし私が死んだら、あの人もさくらも泣くだろう。台本どおりに涙を流して、家族をうしなった者の悲しみを表現してくれるはずだ。
この家で、私たちは家族の芝居をしている。
*
顔も名前も知らない人間と待ちあわせをするのは妙な気分だった。
一週間ほど前、同級生にすすめられるまま登録したソーシャル・ネットワーキング・サービスに一通のメッセージが届いた。差出人は夢飼玲奈(むかい れな)というハンドルネームの女性で、リストカットと向精神薬の体験談を綴った個人ブログの管理人だった。私は彼女と直接の面識はなかったが、住んでいる地域が近かったため、過去に何度かメールで心療内科の情報を提供してもらっていた。半年以上前の話だ。SNSに届いたメッセージには、メールアドレスで検索をかけて私のアカウントにたどり着いたと書かれていた。それから、私に興味がある、ぜひ一度会ってみたい、とも。
女として生きることに不自由を感じてはいても、私も一応女だ。よく知りもしない人間に会ってみたいと言われたら、当然警戒心が働く。でも好奇心が勝った。メールでやりとりをするかぎりにおいては彼女はそんなに悪い人間には思えなかったし、同じこころの病気に苦しむ彼女なら中原くんのような存在になりえるのではないかという期待もあった。つまり、私の孤独を救ってくれる存在になりえるのではないかと。
待ちあわせ場所は商業ビルの立ちならぶ繁華街の駅出口。巨大な庇に守られているとはいえ、五分もそこに立っていると真夏の熱気でじわじわと体力が奪われていくようだった。それ以上に体力を奪うのは人の熱気だ。休日を楽しむ幸せそうな人の群れを眺めていると、わけもなく緊張してしまい、ぐったりする。人ごみは私の天敵だ。
「あなたがすみれさん?」
いっそ近くのビルに逃げこもうかと考えはじめたころ、待ち人がやってきた。
「はじめまして、玲奈です。きょうはよろしく」
いえ、こちらこそ、と戸惑いながら頭を下げる。玲奈の容貌ははかなげな印象をあたえるブログの文章から想像していたのとまるっきり違っていた。髪はブロンドと言うには光沢感に欠けるブロンドで、体型はややずんぐりむっくりしている。上下の服は黒いプリントTシャツにダメージジーンズと素朴だが、ごてごてしたアクセサリーと赤いラバーソールがとにかく目を引いた。ゴスなのかパンクなのか、私には判別できない。
人の波を避け、玲奈の案内で喫茶店に移動する。日光にさらされていると、厚化粧をした彼女の顔は、生まれてこのかた一度も外に出たことがないんじゃないか、というくらい白かった。その白い顔に、長いつけまつ毛とアイシャドーが影をつくっている。学校にもそれ以外にもグロスくらいしかしていかない私とは好対照だ。
喫茶店は繁華街の大通りから少し離れた場所にあり、私たちが店に入った時点でやっつあるテーブルはふたつしか埋まっていなかった。角のテーブルに席を取り、料理と飲みものを注文する。ポスターやフライヤーが大量に貼られた店内には外国のロック・ミュージックが流れていて、甲高いボーカルとやけに響く低音が私を落ち着かない気分にさせた。
「すみれさんがこんなにきれいな子だったなんてびっくり。学校でモテるでしょ」
「そんなことないですよ。暗いんで、私」
「でも暗い女って一定の需要あるじゃない。実際私も男いるし」
そうなんですか、と生返事をする。私はまだ想像していた玲奈と本物の玲奈のギャップに戸惑っていた。彼女は思いのほか表情豊かで、よくしゃべった。それにしても、びっくりとはどういうことだろう。少し悲しくなる。
「すみれさんは? 男、いないの?」
「私ですか。私は……」
恋人はいるのかと聞かれて真っ先に思い浮かぶのは中原くんの顔だ。ふたりきりになって服を脱がせたり抱きしめあったりするのが恋人なら、私たちは恋人同士ということになる。記念日にプレゼントを贈ったり週末にはかならずふたりでデートをするのが恋人なら、私たちはそれには該当しない。これは定義づけの問題だ。
しばし思案したすえ、私は玲奈にきっぱりと告げた。
「恋人はいません。そんなもの、私には必要ないんです」
そうだ。私に恋人はいない。なぜなら中原くんは、目を見ずとも、言葉を弄さずとも、いっさいの齟齬なく感情が伝わる相手。罰を与える代わりに同じ罪を背負ってくれる運命の共犯者。たったひとりの私の理解者だからだ。
くだらない定義づけはいらない。
恋人になんかならなくても、私と中原くんは魂を共有している。
「せっかくきれいなのにもったいない。貴重な女の十代を無駄にしないようにね」
そこから玲奈の一方的な恋愛トークがはじまった。食事中も食後も、彼女は口を閉じたら死んでしまうかのようにしゃべりつづけた。高校を中退して二年間かよった調理の専門学校で知りあった男のこと、好きなバンドのライブで知りあった男と肉体関係を結んだこと、現在はインターネットの動画サイトで人気のある配信者の家で押しかけ女房のような真似をしていること。私とふたつしか年齢が違わないのに、彼女はずいぶんと生き急いでいる。
玲奈が華麗な恋愛遍歴を語っているあいだ、私は幻滅しっぱなしだった。
この人が中原くんのような存在になりえるかもしれない? とんだ見こみ違いだった。
需要を計算してキャラクターをつくったり、先を見据えて十代を謳歌しようとしたり。私も中原くんも、そんなふうには生きられない。うまく人と関われずに苦しみもがき、いまを生きるのに手いっぱいだ。この人は芝居をしている。手首を切るのも向精神薬を服用するのも、自己演出の一環にすぎない。
「でね、彼の前で手首を切ってやったわけ。そしたら彼、どうしたと思う? 血を見てテンパっちゃって、ごめんなさいごめんなさいって泣いて謝るの。ついさっきまで浮気はさせたほうが悪いとか意味不明な理屈こねてたくせにね。笑えるでしょ」
恋人との喧嘩のエピソードを自慢げに披露して、玲奈は手のひらが上になるように片腕をテーブルに乗せた。手首から肘にかけて、生々しい傷痕が定規の目盛りのようにびっしりと刻まれている。
「きのうもね、バイト先で嫌なことがあって軽くやっちゃった」
玲奈はうっとりと自分の腕を見つめ、眠る我が子を慈しむように新しい傷痕をさすった。
「もう癖になってるの。いらいらしたときに爪を噛む人いるじゃない。あれといっしょ。すみれさんだってそうでしょ?」
シュシュをずらして右手首を凝視する。一時期は傷口の皮膚が隆起してぼろぼろになっていた右手首も、いまはだいぶましになった。あのころに戻りたいとは思わない。
「……私は違います」
「え?」
「私は玲奈さんとは違う。リスカするのは否定したいからです。自分の中に流れる肉親の血を、ふつうの人みたいにふつうのことに感動して、明るく楽しく笑えない自分を否定したいからです。決して癖なんかじゃない。ある人が肯定してくれるまで、傷だらけの不細工な手首も、そんなふうにしか生きられない自分も、大嫌いでした」
いまでも少し、まっさらになりたいと思う。傷つくことも傷つけることもなく、まっさらな手首のままで生きていけたらどんなに楽だろう。
私はリストカットをする自分を嫌っている。玲奈はリストカットをする自分を愛している。この溝は簡単には埋められない。
「なんだか笑っちゃう」
テーブルに乗せていた片腕を下ろし、さっきまでの友好的な態度から一変して、玲奈は私を蔑むように口もとをゆがめた。ことばとは反対に、目はちっとも笑っていない。
「あなたのは本気で思い詰めたすえのリスカで、私のはファッションだ、とでも言いたいわけ? たかがリスカに違いなんてあるわけないでしょ。ネットで検索してみたら? いまどきリスカくらいだれでもやってる。カジュアルな感覚で手首を切って、写真を撮ってアップしてる。あなた、自分がとくべつだと思いこみたいだけなんじゃない?」
「……違う」
「違わない。あなたも私も根っこの部分は共通してる。リスカして、自分と他人を色分けして、かわいそうでとくべつな自分を認めてもらいたいだけの、掃いて捨てるほどいる平凡なメンヘラのひとりにすぎない」
「違う!」
たまらず自分でも驚くほどの声が出た。玲奈がびくついたまま固まっている。店員やほかの客がこっちに注目しているのが痛いほど感じられた。でも後悔はない。こんな人と、こんな手首を切るのを男との駆け引きに利用したり、あてつけで手首を切ったりするような人といっしょにされるのは、我慢ならない。
料理の代金をテーブルに置いて席を立つ。玲奈は憮然たる面持ちで椅子にかけていた。
「帰ります。これ以上あなたと話すことはありません」
「そう、残念。また会えるといいけど」
こころにもないことを。
無言で喫茶店を後にし、もときた道を引き返す。足早に大通りを抜けてそのまま駅と直結した百貨店の化粧室に飛びこんだ。洗面台の前に立ち、手と顔を執拗に洗った。口をゆすぐのも忘れなかった。とにかく玲奈とともにすごした時間を洗い流したくてしかたがなかった。
ほんの少しでも期待した私が馬鹿だった。あんな人に私の孤独が理解できてたまるか。やっぱり私の理解者は中原くんしかいない。彼こそが、私にとって唯一のリアル。どんなに理解あるような顔で近づいてこようと、彼以外はみんなエピゴーネンにすぎない。この世界はニセモノ、ニセモノ、ニセモノだらけ。そんなのとっくに知っていたはずなのに。そのはずなのに。
どうして涙なんか流さなくちゃいけないんだ。
鏡に映る自分に腹が立つ。
消えてなくなれ。
ニセモノだらけの世界も、私も。
*
翌日の私はひどく気落ちしていた。
教科書の内容がまったく頭に入ってこない。体育の授業も、体調不良ということにして休んでしまった。せっかくつくってきたお弁当もなかなかのどを通らず、友だちということになっている同級生の女の子にほとんどあげてしまった。私の胃袋はとても素直だ。素直というか単純だ。気分がいいときは活動が活発になって、なにを食べてもおいしく感じる。気分が悪いときはなにも食べたくなくなって、食べてもすぐに吐き出したくなる。まだ月曜日だというのに、こんな調子で一週間を乗り切れるだろうか。
きのうのことを思い返せば思い返すほど、気分は水中深くに沈んでゆく。玲奈に失望したのは事実だし、非礼を詫びるつもりもないけれど、あの態度はなかった。気に障ることを言われて店を飛び出し、挙句の果てに泣いてしまうなんて。あれじゃまるで子どもだ。
SNSのアカウントはあの後すぐに削除した。クラスメイトとの友だちづきあいの一環で登録してはみたが、もともとああいうのは私の性にあわない。これまでも何度となく登録しては退会しを繰り返してきた。アカウントの作成に用いたメールアドレスも変更した。玲奈に会うことはもう二度とないだろう。
「やばい、このなめこ超かわいい!」
「俺の股間にもかわいいなめこいるよ」
「ごめんそういうのいいから」
「あ、はい」
昼休みを持てあました女子生徒と男子生徒が、私の目の前でスマートフォンの画面を覗きこんで楽しそうにおしゃべりしている。私はふたりの会話をBGMにして、鎮静剤を打たれたサイみたいにぐったりと机に伏せっていた。
男子生徒は水野くんといって、中原くんの友だちのひとりだ。直近の席替えでこの女子生徒が私の前の席になってから、彼はときどきこうして雑談をしにやってくる。女子生徒のほうもまんざらではなさそうだ。でもたぶん彼女の本命は水野くんじゃない。水野くんと行動をともにしている、もうひとりの男子生徒だ。
「五十嵐はああいうの興味ねえの?」
いきなり声をかけられ、まごつきながら顔を上げる。もうひとりの男子生徒、繁原勇樹が斜め向かいに立っていた。
「ああいうのって?」
「ゲームとか。やってんの見たことないなって思って」
「時間の無駄だから」
そう答えると、繁原くんは「おまえらしいな」と言って笑った。呼び捨てにされる覚えはないし、おまえ呼ばわりされる覚えもない。
仲間と冗談を言いあっているときもクールな態度を崩さず、またそれが様になる。勉強も運動もそつなく適度にこなし、そのくせそれを鼻にかけない。みんなの人気者と言うほどの親しみやすさはないものの、だれにもおおよそ好意的に受け入れられている。繁原くんは陰気で要領の悪い私とは似ても似つかない性格で、私の一番苦手なタイプだ。
その繁原くんが、近ごろよく私に話しかけてくる。きっかけはこの一学期からスタートした選択授業だ。私にはクラスに数人、友だちづきあいをしている女子生徒がいる。趣味も気もまったくあわないけれど、高校生活をうまくやり抜くために友だちとして接している。ある日、そのうちのひとりが選択授業の最中に繁原くんに声をかけられた。それ以来、彼と私たちのグループは、友人でも赤の他人でもない微妙な距離感で交流している。
「ねえ、どうして私に話しかけるの。私無愛想だし、話しててもつまんないでしょ」
「そんなことねえけど。迷惑だった?」
「……ごめんなさい、そんなつもりで聞いたんじゃないの」
「じゃあいいじゃん」
よくないし、本当のことを言えば迷惑していた。私たちのグループでは、この中にだれか繁原くんの好きな子がいるんじゃないかと最近もっぱらのうわさだ。その上面倒なことに、抜け駆けを牽制しあうような空気がある。彼と親しげにしていたら、かげでなにを言われるか知れたものじゃない。
それに、繁原くんの無警戒で大げさでない自然な笑顔を見ていると、どうしてか悪意がこみあげてくる。
いったいどんな目的があって繁原くんは私たちのグループに接近してきたのだろう。グループのみんながうわさしているようにお目あての子がいるのだろうか。その子との仲介役を期待して私に話しかけているのだとしたら、これほど迷惑なことはない。
寝るふりをして、これ以上あなたと話す気はないと繁原くんに意思表示する。
早く放課後にならないかな。
いまは中原くん以外、だれとも関わりたくない気分だ。
その中原くんとは、この日も放課後に密会をした。
三回、三拍置いて、また三回。等間隔のノックを聞きつけて、第一理科室のドアを内側から解錠する。
「どうだった? 鶴田さん、納得してくれた?」
「うん、まあ」
だったらどうしてそんな浮かない顔をしているの。そう聞こうとして、やっぱりやめた。聞いてしまったらこれからはじまる楽しい時間が台なしになるような気がした。
「鶴田さんがものわかりのいい人で助かったよ。水族館でのことも口外しないって約束してくれた。おかげで昼休みつぶれちゃったけどね」
「面倒な仕事を押しつけてしまってごめんなさい。座って。お礼したげる」
中原くんを診察台に見立てたテーブルの上に座らせ、そのとなりに座る。彼の頬に手を添えてこちらを向かせ、唇を奪い、そのままゆっくりと押し倒す。きょうは私が先攻だ。
「たっぷりかわいがってあげる、私の愛しい人」
舌で中原くんの唇をこじ開け、手探りでシャツのボタンをはずしてゆく。密会を重ねるうちにすっかりこの手の技巧が板についてきた。それもこれも、彼を悦ばせたい一心だ。
先週、私と中原くんの関係をおびやかす不測の事態が起こった。同じクラスの鶴田茜という女子生徒が、私たちが水族館でデートするところを目撃していたというのだ。彼女は私たちを恋人同士だと誤解している。私たちはそんなくだらない定義づけのいらない関係なのに。それに、疑惑が広まれば密会に影響が出るかもしれない。そこできょうの昼休みを利用して、中原くんに事情の説明と口止めをしてもらった。
これで安心して密会ができる。目いっぱい診察を楽しみ、こころゆくまでこころを通わせられる。
それなのに、中原くんの表情は曇ったまま晴れない。
「どうしたの? 鶴田さんのことでなにか気がかりでも?」
「今朝から体調が悪くて。夏バテかな」
中原くんは気丈に笑ってみせたが、それがつくり笑いであることは見え透いていた。
この日の中原くんは始終様子がおかしかった。診察中にふと横顔を盗み見ると、悲しい映画のエンドロールを眺めるような目をしている。高級な反物の生地を確かめるように私の髪を撫でるいつもの仕草もどこかそっけない。身体を密着させていても、こころここにあらずという感じだ。
「あのさ、五十嵐」
「なに?」
「……いや、なんでもない。きょうはこのへんで帰るよ。本当に体調が悪いんだ」
この日、中原くんは下校時刻のチャイムを待たずにほとんど一方的に診察を切り上げた。やっぱりなにかあるんだ。
森閑とした第一理科室に、ひとりぽつんと取り残される。次の密会までの、生きているか死んでいるのかもあいまいな時間のはじまりだ。中原くんと別れてから帰宅するまでのタイムラグはいつも私を憂鬱にさせる。あの人とさくらが待つ家に帰らなければならないと思うとそれだけで気分が沈む。きょうはただでさえ落ちこんでいるというのに。現実は残酷だ。
スクールバッグからノートと教科書を取り出し、テーブルの上に広げる。まったく頭に入ってこなかった授業のおさらいをしなくてはならなかった。きょうは中原くんが早めに帰ってしまったから、時間はたっぷりある。
ノートに落ちた影が時間の経過とともに濃くなってゆく。夏の日射しが翳り、この広く味気ない密室ごと私を夕闇に包んでいった。そして夕闇は私がごまかそうとしていた不安を無視できないレベルに膨張させる。
さっき中原くんはなにを言おうとしていたのだろう。なにに思い悩んでいたのだろう。
あのつくり笑いとそっけなさが、突き放されたみたいでつらかった。
もし中原くんが私のもとを去ってしまったらどうしよう。もしまたひとりぼっちで放課後をやりすごす日々に戻ってしまったら。いったんそんなことを考え出すともはや勉強どころではなかった。きょうはとことん勉強に縁のない日だ。あきらめて教科書とノートをスクールバッグに直す。
すると底のほうに樹脂の手触りがあった。お守り代わりに入れていた剃刀だ。
なんとなく剃刀を手に取り、キャップをはずしてみる。ステンレス製の刃には錆も刃こぼれもない。垂直に右手首にあてがう。ひんやりして気持ちよかった。
親指にほんの少し力を加えれば、いとも簡単に手首を切ることができる。
いまここでやってしまおうか。中原くんと密会をするようになってから手首を切る回数が目に見えて減っている。私の手首に真新しい傷痕を発見したら、きっと彼は心配してくれるだろう。そうすればきょう感じた不安も多少はまぎれるかもしれない。
だめだ。それじゃ玲奈とやっていることが変わらない。私は自分を否定するために手首を切る。中原くんに突き放されたと勝手に思いこんで、森の中で迷子になった少女みたいにおびえている。そんな弱くてみじめで大嫌いな自分を否定するために。
親指に力を加える。
目を凝らさないとわからないほどの細い傷口に、ぷつりと赤い実がなった。
この赤い実を見るたびに、私は自分を否定した先にあるものに思いを馳せる。
病室で最期を看取った数時間後、私は祖父の家で大叔父と再会した。再会した大叔父はまだ棺に入れられる前で、葬儀社の人たちの手によってシミひとつない純白の死装束に着替えさせられていた。眼瞼は下ろされ、鼻には綿を詰められていた。私は赤茶けてところどころ破れ目のある畳の上に正座して、永遠に起き上がってこない大叔父の寝姿をじっと見つめていた。
手を握らせてください。葬儀社の人にそう頼んだのを覚えている。大叔父の手は胸の上でがっちりと組まれていて、小学六年生の私の力ではとてもほどけそうになかった。ほどけたとしても、断りもなくそんなことをしたら怒られるに決まっていた。
母は無理言わないのと私をたしなめた。だけど葬儀社の人はこれでお別れだからと頼みを聞き入れてくれた。私が大叔父との別れを惜しんでいると解釈したのだろう。
でもそうじゃなかった。
私はひと目惚れしていたのだ。血液の循環が止まり、皺や節くれまで光るように白く美しくなった大叔父の手に。
葬儀社の人のはからいで、私は望みどおり死人の手に触れることができた。大叔父の手は冷たく、硬かった。きめ細やかな皮膚は生前とは別もののようになめらかになっていて、腱が伸びきった手首などはまるでていねいに磨かれた彫刻みたいだった。
私もいつかこんなふうになりたいと思った。
あの日以来、私は死に魅入られている。
手首を切り、自分を否定した先で、あの冷たい手首が私を呼んでいる。
重たい気分を引きずって薄明かりの廊下を渡る。
ひょんなことから鍵を手に入れてはや半年。放課後の第一理科室は私の聖域となった。中原くんとの密会もまた、だれにも売り渡すことのできない秘密だ。安息の場所と人を守るため、私は毎日、最終下校時刻の二十分前には下校するようにしていた。最終下校時刻の前後十分以内は文化系の部活に所属している生徒が校内をうろついている。その時間帯さえ避ければ同級生に出くわす心配はない。この日も難なく靴箱のある北館の正面入口にたどり着いた。
ところがその先に厄介な人物が待ちかまえていた。
「五十嵐!」
校門をくぐろうとしたところで、砂埃にまみれたサッカーボールが転がってきて、ローファーのつま先に触れた。酷使されて油性ペンで書かれた学校名が消えかかっている。それを拾い上げた私のもとに駆け寄ってきたのは、制服のズボンをふくらはぎのあたりまでロールアップした男子生徒だった。
「いま帰り? 五十嵐って部活やってたっけ」
「忘れもの取りに戻ってたの。繁原くんこそ、部活なんてしてなかったよね」
「去年の二学期までサッカー部だったんだよ、俺。きょうは暇だったから、ほかの暇なやつらと遊んでた。それに調査もしなくちゃいけなかったし」
「調査?」
私から受け取ったボールを、繁原くんはしなやかな動作で校庭の片隅にいる仲間たちのほうに蹴った。放物線が狙った地点に伸びてゆくのを見届けて顔をほころばせる。またこの笑顔だ。無警戒で大げさでない自然な笑顔。私にはできない笑顔。
「俺らのクラスに小林っているじゃん。小林隆太。あいつが言うんだよ、この学校には幽霊がいるって。野球部に何人か目撃者がいるんだと。高三にもなって学校の怪談かよって。馬鹿みたいだろ」
「それで幽霊が本当にいるか実地調査? よっぽど暇なんだ」
あいにく私は怪談のたぐいに興味がない。時間はあるけれど、こんな人の目につきやすい場所で繁原くんと立ち話をする理由もない。適当に切り上げて帰ろうとすると、「まあ待てよ」と腕をつかまれた。どうして彼はこうも私にまとわりつくのだろう。こっちはいろいろあって気が滅入っているというのに。げんなりしつつ、一応話のつづきに耳を貸す。
「目撃者がいるってことは、幽霊が出るのはそんなに遅い時間じゃないってことだろ。だったらこの目で確かめてやろうと思ってさ。南館の第一理科室に出るっていう、その幽霊とやらの正体を」
「……いま、なんて?」
繁原くんは答える代わりに、あの自然な、不気味なほど自然な笑顔で私を見つめていた。
本能的に危険を察知して、繁原くんにつかまれた腕を振りほどこうとする。しかし彼はそれを許してはくれなかった。かえって強い力で身体を引き寄せられる。
「やっぱりな」
満足げそうつぶやく繁原くんの瞳は私の手首に固定されていた。
まだ赤みを帯びている真新しい傷痕がむき出しになった、私の右手首に。
「思ったとおりだ。幽霊なんていない」
そのひと言が、私の足を地面に縛りつける。繁原くんがなにをたくらんでいるのか、どこまで私の秘密に気づいているのか、検討もつかない。ただ圧倒的な予感だけがあった。
聖域が踏み荒らされる。