Neetel Inside 文芸新都
表紙

ラストメンヘラー〈リマスター版〉
karte7(♂)『はつ恋』

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 リーリーリーリー。冗談めかして投手をけん制するコバの声が聞こえる。
 最近、野球部の三年生は昼休み返上で攻撃の練習をしている。練習といっても、時間がかぎられているから半分遊びみたいなものだ。それでも、共有した時間の長さがチームを成熟させ、大一番での勝利を引き寄せる。発起人のコバが得意げにそう語っていた。きっと漫画かなにかの影響だ。昼食を抜いてお腹がすかないのかと尋ねたら、二時間めと三時間めの授業のあいだに早弁するから問題ないと返ってきた。だけど毎度結局、彼は五時間めの授業がおわってすぐ、購買に売れ残りのおにぎりを買いに走っている。
 月曜日の昼休み、僕は学校の自転車置き場で鶴田さんと対面していた。呼び出したのは僕のほうだ。自転車置き場は学校の塀の外側にあって、昼間はあまり人が寄りつかない。密談をするにはうってつけだった。視界のあちこちで銀色のトップチューブが光る。自転車の列と列に挟まれて、僕たちはさえぎるもののない夏の日射しに灼かれていた。握りしめた手がひどく汗ばむ。
「じゃあ、中原くんの片想いだったってこと?」
「そうだね。彼女、いまはだれともつきあう気はないって。タイミングが悪かったかな」
「私も、タイミングが悪かった?」
「……そうだね」
 これで二回、鶴田さんに嘘をついたことになる。前回は放課後、靴箱の前で鉢あわせしたとき。あのときもいまも、五十嵐との関係を守るために嘘をついた。ちっぽけな良心が軋みをあげる。五十嵐と密会をするようになってから、僕は嘘をついてばかりいる。
 先週の金曜日、鶴田さんから僕と五十嵐がデートしているところを目撃したと報告を受けた。僕は近いうちに事情を説明すると約束し、たったいま約束を果たした。僕はずっと五十嵐に片想いしていて、勇気を振り絞ってデートに誘った。デートは楽しかったけど、想いは実らなかった。二日間の猶予期間中に僕が用意したストーリーはそんな内容だ。
 もっとも、まっ赤な嘘というわけではない。想いが実らなかったという点に関しては、認めたくないが事実だ。いくらふたりきりで空間と時間を共有しようと、隅から隅までおたがいの身体の特徴を知っていようと、僕の愛情は一方通行だ。僕と五十嵐は求める愛情の種類が違っている。そのミスマッチは前回の密会で浮き彫りになった。
「いまでも五十嵐さんのこと好き?」
「好きだよ」
「そっか。つけ入る隙、ないね」
 たとえ一方通行でも、求めることはやめられない。
 野球部のだれかがウグイス嬢のものまねをした。それに反応して笑い声が起こる。のどかできらきらした青春の一ページ、そのすぐ近くで、僕と鶴田さんは青春の苦みを味わう。
 どうして僕は五十嵐を好きになったんだろう。ほかのだれかじゃダメだったんだろうか。先週の金曜日以来、そんな問いが楔のように頭に引っかかって、抜けない。
「鶴田さん、このことは」
「わかってる。みんなにはないしょでしょ」
「ありがとう。助かる」
 先ほどの口ぶりからすると、きっと鶴田さんはいまでも僕を好きでいてくれている。彼女にしてみれば屈辱だろう、五十嵐に想いを寄せていることを口外しないでほしいと、ほかならぬ僕自身に頼まれるのは。
「時間取らせちゃってごめんね。でも、すっきりした。中原くんと五十嵐さんのこと、ずっと気になってたから」
「うん」
「先に教室戻ってるね。誤解されたら面倒だもんね」
 生まじめな性格が丈の長さにあらわれたスカートをひるがえして、鶴田さんはやや駆け足に自転車置き場を去っていった。
 引き止めようと伸ばしかけた手が力なく垂れ下がる。引き止めてどうしようっていうんだ。強がりでも「すっきりした」と言ってくれた鶴田さんをまどわせるだけじゃないか。
 僕たちはもう後戻りできない。気軽にCDを貸し借りすることも、帰りの電車で参考書を開きながら他愛もない会話を楽しむことも、今後はなくなってしまうのだろう。あいまいにしていたことを、はっきりさせてしまったから。鶴田さんは僕を見ていても、僕は彼女を見ていない。五十嵐を見ている。
 隙間なく瑠璃色で埋め尽くされた空の下、再度自分に問いかける。
 ほかのだれかじゃダメだったんだろうか。
 どうして僕は、五十嵐を好きになったんだろう?

                    *

 進級にともなうクラス替えが四月にあり、それから一週間と経たずに、僕は教室のどこにいても五十嵐を目で追うようになった。さらに一週間が経つころには、教室のどこにいてもすぐに彼女を見つけ出せるようになっていた。
 だけど思い出せない。どうして五十嵐を好きになったのかが。
「面倒な仕事を押しつけてしまってごめんなさい。座って。お礼したげる」
 なにか理由があったはずだ。頭の隅でそんなことを考えながら、僕は五十嵐にうながされるまま診察台に見立てたテーブルにあお向けになった。そして彼女に襲われた。
「たっぷりかわいがってあげる。私の愛しい人」
 口内に五十嵐の舌が攻めこんでくる。この日の彼女はやけに舞い上がっていた。鶴田さんの問題が無事解決して気分がよくなっているのだろう。これで僕たちはなにものにも脅かされることなく、晴れていままでどおりに密会をつづけられる。それなのに、僕は素直に喜べないでいた。
 同じこころの病気に罹った、たったひとりの理解者。前回の密会で、五十嵐は僕との関係をそんなふうに表現した。恋人のようでいて恋人ではない。どうやら彼女の中では、僕は一卵性の兄妹か、あるいはみずからの半身であるかのごとく、唯一にして絶対の、替えのきかない存在として認識されているらしかった。信仰、と言ってもいい。だけど僕がなりたかったのはそんなわけのわからないものじゃない。たいした用事もないのに電話してみたり、手をつないで街を歩いたり、なにかの記念日にはプレゼントを贈ったりする、ただの恋人になりたかった。
 診察は五十嵐なりの愛情表現なのだろう。信仰する唯一絶対の理解者への。
 いまはそれが、痛い。
「どうしたの? 鶴田さんのことでなにか気がかりでも?」
 僕の身体を上から下へとなぞっていた唇が不意に離れた。制服のスカートを履いたまま僕の腰にまたがった彼女が、心配そうに眉を下げている。
「今朝から体調が悪くて。夏バテかな」
 つくり笑いでごまかして髪をそっと撫でてやると、五十嵐はなにごともなかったかのように診察を再開した。僕の身体は体育の授業でたっぷり汗をかいた後なのに、彼女の獰猛な唇はそんなことおかまいなしに吸いつき、齧りついてくる。
 こんなことをさせておいて悩んだりするのは身勝手だろうか。だとしても、悩みを無視できない。
 五十嵐すみれが、好きなんだ。歩道橋の上でシゲの口から告げられたその言葉が、蚊帳の中に舞いこんだ羽虫みたいに胸をざわつかせていた。
 もしも僕ではないだれかに好きだと言われたら、五十嵐はどう答えるのだろう。五月ごろ僕が鶴田さんにしたのと同じことをするのだろうか。それともこんな私を好きになってくれる人があらわれた、恋人ができた、と僕に報告するのだろうか。なんの罪もないような顔で、僕の嘘を罰するのだろうか。
 そんなことはないと信じたい。信じたいが、弱ったこころがそれを許してくれない。
「あのさ、五十嵐」
「なに?」
 いっそのこと、洗いざらいぶちまけてしまおうか。きみのことを好きだっていう男がいるんだ。そいつは僕の友だちで、ほら、無駄に背の高いあいつだよ。あいつが僕からきみを奪おうとしている。もちろん断ってくれるよね。だって僕はたったひとりのきみの理解者なんだから。僕さえいればきみは生きていける。そうだろう?
「……いや、なんでもない。きょうはこのへんで帰るよ。本当に体調が悪いんだ」
 できない。五十嵐が僕に恋愛感情を持っていないことを再確認してしまったら、このつくり笑いを保てる自信がない。
 この日、僕は下校時刻のチャイムを待たずにほとんど一方的に診察を切り上げた。
 乗客がまばらな電車に乗り、だらしなく窓枠に頭をもたせかけてシートに座る。反対側の窓枠を、変わり映えしない街の風景がせわしない紙芝居のように流れていった。
 無理やり頭の底に沈めていた疑問がふたたび浮き上がり、僕を暗い気分にさせる。
 鶴田さんを傷つけてでも密会を守りたかった。いまでもシゲの言葉が胸をざわつかせている。これほどまでに僕を五十嵐に執着させているものはなんだ。どうして僕は五十嵐を好きになったんだ。
 きっかけはとても単純なものだったような気がするのに、どうしてもそれが思い出せない。

                    *

 校舎全体が灰色に覆われているようだった。階段の下から聞こえてくる下級生たちの笑い声も、こころなしかいつもより元気がない。曇り空は人をおとなしくさせる。
「まだかよコバ~、授業はじまっちゃうじゃん」
「もうちょっと、もうちょっとででかいのが落ちてきそうなんだって。どわなくろ~ずまいあ〜いず♪」
「いいから早くしろって」
「うっせえな話しかけてくんじゃねえよ! 俺は人が近くにいると集中できないタイプなの!
 こう見えて意外と繊細なの!」
 階段の踊り場に面した男子トイレの奥のほう、鍵のかかった個室からコバのうなり声が漏れてくる。女子には絶対に見せたくない光景だ。コバが「やべえアルマゲドンきた」と腹部をさすりながら個室に駆けこんで、もうすぐ六分になる。便意もないのに男子トイレまで強制連行された僕と水野はいいかげん教室に戻りたくなってきていた。
「てか要、さっきからずっとなに見てんの?」
「ん? ああ、ちょっとね」
 洗面台の鏡の前で毛先のハネ具合をチェックしていた水野がこちらを振り向く。あわててスマートフォンをズボンのポケットに引っこめる。
「女の子とメールでもしてた?」
「馬鹿、そんなわけないだろ」
 もうコバほっといていこうよ、と水野の背中を叩いたところで、思わず鼻と耳を塞ぎたくなる豪快な音が男子トイレに響き渡った。どうやら決着がついたみたいだ。デトックスをおえて個室から出てきたコバは、生まれ変わったかのように晴れ晴れとした顔をしていた。
 予鈴が鳴り、ぞろぞろと階段の踊り場に足を向ける。そこで僕たちと同じく教室に戻ろうとしていた女子生徒の集団に出くわした。その中には鶴田さんの姿もあった。「きょうって小テストあったっけ?」「俺また資料集家に忘れてきちゃった」。そんな会話をしながら、ひとつの塊となって階段を上がってゆく。僕と鶴田さんはひと言も言葉を交わさなかった。避けているつもりはなかった。だけど、むこうはどうかわからない。自転車置き場で話したあの日から、そんな状態がつづいている。
 授業中、僕の意識は教科書とノートと黒板と、ふたつの席をいったりきたりしていた。
 そのうちのひとつは五十嵐の席だ。彼女は机に片肘を立て、手で頭を支えるようにして大儀そうに板書を取っていた。悩みがあるときやストレスが溜まっているとき、彼女では自分でもそれと知らずにこの姿勢になる。彼女がなにに悩み、なにをストレスに感じているのか、遠く離れた僕の席からは見通すことができない。
 もうひとつはシゲの席だ。シャツに肩甲骨のかたちが浮き出た大きな背中は、いまはそこにない。最近、彼はよく学校を休む。その徴候が出はじめたのは、五十嵐のことが好きだと僕にだけこっそり打ちあけてくれた翌日からだ。どうしてかと僕やコバが理由を尋ねてみても、毎回冗談で煙に巻かれてしまう。
 教師が粉を撒き散らして黒板にチョークを走らせる。その隙に、僕は机の下に忍ばせたスマホのホームボタンを押す。
 何度も見返した既読のインスタントメッセージが、チャット形式の画面に表示される。

【五十嵐と進展あった?】
【まだなんも笑 今日と昨日のぶんのノート今度コピーさせて。メシおごる!】

 会話はそこで止まっている。
 このメッセージを真に受けていいものだろうか。シゲはあまり経過を口にしたがらない。サッカー部を辞めたときも、前の恋人と別れたときもそうだった。彼から上がってくる報告は、
「辞めた」「別れた」という結果のみだ。
 学校を休んで、シゲはなにをしているのだろう。五十嵐と関係のあることなのだろうか?
 友人を疑い、メッセージを送って探りを入れる。相談に乗っているふりをして、内心彼が五十嵐をあきらめてくれればいいと願っている。僕は卑怯な人間だ。
 この際シゲに頼みこんでみようか。実は僕もずっと前から五十嵐が好きなんだ、だから彼女のことはあきらめてくれ、と。
 できるわけがない。それが発端となって密会のことがバレたらどうする。第一、頼みこんだところでシゲがすんなり要求を飲んでくれるとはかぎらない。
「最近、なにか変わったことあった?」
 一度、我慢しきれなくなって密会の最中に五十嵐にそう聞いてみたことがある。
 シゲに告白とかされなかった? 僕以外の男子と会ったりしてない? 本当はそう聞きたかった。だけどそれをしてしまうと幻滅されそうな気がしてならなかった。いつから中原くんは私の恋人になったの? 私たちの関係って、そういうものじゃないでしょ? 興が削がれたような顔でそんなふうに僕を突き放す五十嵐を想像してこわくなった。だからあいまいな表現に逃げた。
「なにもないよ。どうして?」
「そっか。ならいいんだ」
 このとき、はっきりと自覚した。僕は五十嵐を信用していない。あるのかどうかもわからない、「なにもないよ」という言葉の裏を覗こうとしている。好きな人ができて、僕は卑怯で疑り深い、孤独な人間になった。
 近ごろ、以前のように診察に没頭できない。五十嵐のことを好きだと思えば思うほど、だれにも渡したくないと思えば思うほど、こころと身体が分離してゆく。抱きしめていてもキスをしていても気持ちがついてこない。箸の持ちかたや靴紐の結びかたを忘れてしまったみたいに、これまであたり前にできていたことができなくなっている。彼女のほうもそれを察しているのか、このごろの愛撫はどこか遠慮がちで、他人行儀になっていた。
「夏休みになったらさ、またふたりでどっかいこうよ。しばらく先になるけど」
 かけ違えたボタンをもとに戻したくて、止まったままの物語を進めたくて、僕の腕の中にいる五十嵐にそんな提案をしてみた。学校は八月の頭まで補講期間で、僕たち三年生は授業の進度や成績のよし悪しとは無関係に全員出席が義務づけられている。夏休みはたったの二十数日しかない。だけど僕には長すぎる。このままの状態で長期間密会ができなくなってしまったら、彼女とのこころの距離が取り返しのつかないところまで開いてしまう気がする。
 鶴田さんのことがあってか、五十嵐はあー、とか、んー、とかうなってなかなか返事をしてくれなかった。僕と恋人同士のまねごとをするのが嫌だったのかもしれない。だけどこのままではいけないという思いは彼女も同じのようだった。
「遊園地。遊園地にいってみたい」
「人の多いところは嫌いなんじゃなかったっけ」
「大学って遊園地みたいなものじゃない。いまのうちから慣れておこうかな、なんて」
 どういう心境の変化なのかは知らないが、夏休み中一度も会えないよりはずっといい。
 きょうも街の風景が電車の窓枠を通り抜けてゆく。
 いつの間にか七月になっていた。

                    *

 期末試験が一週間後に迫ったある日、五十嵐との密会をおえて家に帰ると、見覚えのないフラットシューズがひとそろい玄関にならんでいた。我が家は三人家族で、デザインから察するに持ち主は若い女性だ。となると、こころあたりはひとつしかない。
「ただいま」
 ローファーを脱ぎ、洗面所を素通りしてリビングルームに顔を出す。テーブルに肘をついておみやげらしき和菓子を口に運んでいる母のむかいに、案の定、彼女が面談中のバレリーナみたいな完璧な姿勢で座っていた。
「おかえり。お邪魔してます」
 おじぎをして垂れ下がった前髪を横に流す優里(ゆり)ちゃんの笑顔は、僕の記憶の中にいる彼女を寸分の狂いもなく忠実に再現していた。
 小湊(こみなと)優里は、僕が父の仕事の都合でこの街に引っ越してきて最初にできた友人だ。そして、友情以外の感情を抱いたはじめての相手でもある。
「入っていい?」
 いったん自室に戻って鞄を下ろし、スマホを充電プラグに挿したところでドアがノックされた。姿見で密会の形跡が首筋に残っていないか確認して、優里ちゃんを部屋に招き入れる。
「母さんとはもういいの?」
「うん。要ちゃんが帰ってくるまで一時間くらいあったから」
「その要ちゃんっていうの、やめてくれないかな。来年大学生だよ、僕」
「じゃあ要ちゃんも優里さんって呼ぶことだね。来年人妻になってるかもよ、私」
 どう受け止めていいのかわからず苦笑する。優里ちゃんには去年まで同じ大学の院にいた歳上の恋人がいる。話を聞くかぎりではなかなかできた人のようで、交際期間も二年半とそれなりだ。このまま順調にいけばいずれはそういうことになるだろう。無理をせず、適切なペース配分で自分が幸せになれる道を進む。ただまっすぐ進んでいるだけで、いつの間にか落とし穴や障害物を避けている。僕には彼女がそんなふうに見えていた。この世に神様に祝福された者とそうでない者がいるとすれば、彼女はおそらく前者に入る。
 優里ちゃんはベッドに、僕は勉強机の椅子に座って、おたがいの近況を報告しあった。彼女は大学ではフランス文学を専攻して教職課程に就いていたが、訪問介護のアルバイトをした縁で現在は医療福祉関連の職を探しているそうだった。我が家に立ち寄ったのは中学時代の友人に会いにきたついでだと言う。
 前回優里ちゃんが我が家に遊びにきてくれたのは昨年の九月、彼女が通っている大学の長い夏季休暇期間のまっただ中だった。それからきょうまでのあいだに、僕は高校三年生になり、彼女は大学四年生になった。十ヶ月の空白を埋めるのには十分とかからなかった。ニュースフィードに表示される写真と百四十字のつぶやきで、僕たちは遠くにいながらおたがいの生活を覗き見ることができる。ソーシャル・ネットワーキング・サービスの恩恵と引き換えに、現実での会話は本来の価値をうしない、すでに共有している情報を補強するためのツールになり下がった。
「こっちきなよ」
 優里ちゃんがベッドのシーツをぽんぽんと叩く。ややためらいはあったものの、誘惑に打ち勝てなかった。彼女の右となりに移動し、拳ふたつぶんほどの間隔を取って座る。
「要ちゃん、前会ったときより背ぇ伸びたよね」
「伸びてないよ。なんか毎回このやりとりしてる気がするんだけど」
「それだけ大人っぽくなったってことかな。私の中にはまだこんなだったころの要ちゃんのイメージが残ってるからね。どうしても比較しちゃうんだよ」
 こんな、と言って優里ちゃんは水平にした手を肩の高さまで持ち上げた。彼女によく遊んでもらっていたころ、僕の背丈はちょうどそのくらいだった。一生埋まらないんじゃないかと感じていた身長差が逆転したのはいつだったか、いまとなっては正確には思い出せない。
「受験勉強、ちゃんとやってる?」
「そこそこね。でも、志望校が決まらないんだ」
「クラスの子たちとはうまくやれてる?」
「それもそこそこ。二年生のときとほとんど同じメンツだからあんまり新鮮味はないかな」
「カノジョできた?」
 そこそこ、では回避できない問いかけに当惑する。僕はこころの中に何重にも防護服を着こんでいて、五十嵐との関係はその一番奥に隠している。それどころか、好きな女の子がいることすら隠している。親友であるコバやシゲや水野はおろか、鶴田さんにだって告白されるまでは教えなかった。もちろん写真やつぶやきでほのめかしたりもしない。そうするのは密会を守るため、本当にたいせつなものはだれの目にも触れない場所にそっとしまっておきたいという五十嵐に恭順の意を示すためだ。
 だけど優里ちゃんになら教えてもいいと思えた。彼女は僕を裸にするのがうまい。
「カノジョはいない。でも、好きな子はいる」
「どんな子?」
 また答えに困る。五十嵐すみれはどんな子だろう。
 クラスで孤立しているわけではない。人に好かれないわけでもない。だけど常に警戒の網を張り孤独を抱えている。第一理科室で手首を切っているところを目撃する以前、授業中よく退屈そうに窓の外を眺めていた五十嵐が、僕にはそんなふうに見えていた。どうせあなたたちに私は理解できないんだから、気安くしないで、やさしくしないで。そう言っているように見えていた。彼女がだれよりも強く他人を求めていたことに気がついたのは、密会をするようになってから、処方箋のない診察をするようになってからだ。
 そんな彼女のどこに僕は惹きつけられたのだろう。
 またこの疑問だ。
「ここ」
 不意に左手から優里ちゃんの指が伸びてきて、僕の首筋の襟足近くに触れた。
「しるしがついてる」
 あわてて手のひらで覆い隠す。念入りに確認したつもりだったが、さすがに首の裏側までは気がまわらなかった。
 耳もとにあまい声がささやきかける。
「上書きしてあげよっか」
「からかわないでよ。僕も優里ちゃんも、好奇心で人を傷つけていい歳じゃない」
 優里ちゃんが艶のある直線的な黒髪を肩の後ろに払いのけるのを、僕はただじっと見つめていた。むかしからそうだった。
 いつだって、僕は彼女の好奇心に逆らえない。

 この街に引っ越してきたばかりのころ、僕は新しい環境に馴染めず、小学校の授業がおわるといつもひとりで家にいた。母は引っ越してきてすぐパートの仕事に就いたため、転校なんてしたくなかったと泣き言を漏らす相手もいなかった。近所にも遊び相手になってくれるような同学年の子どもはおらず、となりの家に中学二年生になる背の高い女の子が住んでいるくらいだった。それが優里ちゃんだった。
 ある日、両親が遠方に住む親戚の葬儀に出向き、ひと晩留守を任されることになった。両親にはついてきてもいいと言われていたが、初対面の大人たちとどう接したらいいのかわからず、留守番を選んだ。その日の夕がたごろ、僕ははじめて小湊家に招かれた。インターホンが鳴って玄関に出ると優里ちゃんが立っていた。それまでたまにあいさつをするくらいでろくにしゃべったこともなかったのに、彼女はきわめて気さくに、まるでふだんからそうしているみたいな調子で言った。「うちでいっしょにごはん食べない?」
 小湊家の人たちは僕を歓迎してくれた。食卓にはいかにも僕くらいの年代の子どもが好きそうなハンバーグや唐揚げがところ狭しとならんでいて、洗面所には新品のバスタオルと歯ブラシまで用意されていた。きっと僕の両親が事前に頼んでいたのだろう。息子が心配なので気にかけてやってください、と。小湊家の人たちにひとりで留守番もできない子どもだと思われるのがどうしようもなく恥ずかしかった記憶がある。だけど優里ちゃんの両親は僕をとてもかわいがってくれて、ハンバーグも唐揚げもおいしかった。泊まっていきなよと誘われるころにはもうすっかりその気になっていた。
 優里ちゃんは僕を自分の部屋に上げるのに難色を示さなかった。僕が退屈しないよういっしょにテレビゲームをして遊んでくれ、寝るときはベッドを譲ってくれた。いまになって、あの夜彼女がいかに気を遣ってくれていたかがわかる。たとえ相手が子どもでも、自分が認めた人間以外は部屋に上げたくない。女子中学生がそういう生きものだと知ったのは、僕自身がその年齢に達してからだ。
 小学校で流行っている遊びのこと、毎週録画して観ているテレビ番組のこと、前に暮らしていた土地のこと。電気を消した暗い部屋でさまざまなことを話した。当時から僕は口数の多いほうではなかったけれど、優里ちゃんが相手だと内側から言葉がよどみなく生まれてきた。
 その夜はなかなか寝つけなかった。緊張していたのだ。小学四年生だった当時の僕にとって、一学年上の女の子はお姉さんで、それが中学二年生にもなると、もはや立派な大人の女性だった。そうでなくとももともと僕は人と打ち解けるのが苦手なタイプで、仲よくなったばかりの人と同じ空間で寝ることに慣れていなかった。
「やっぱりそっちいっていい? いつものベッドじゃないと落ち着けないみたい」
 なかなか寝つけないのは優里ちゃんもいっしょだった。暗くなった部屋の中、彼女はブラインドの隙間からかすかに漏れてくる外のあかりを頼りに起き上がり、僕が被っていた掛け布団にもぐりこんできた。彼女は丸まった僕の背中を包みこむような格好でベッドに横たわった。シャンプーのにおいが鼻をくすぐった。こんなことされたら余計寝つけなくなる。そう思ったのを覚えている。
「手、触ってもいい?」
「どうして?」
「私がそうしたいから」
 へえ、意外とやわらかいんだ。それにちっちゃくてかわいい。未知の物質を前にした科学者みたいな声が耳の裏で聞こえた。息ができなくなった。優里ちゃんの心臓が僕の心臓とくっつきそうなほど近くに感じられた。だけどふしぎと、今度はぐっすり眠れそうな気がした。

 あのとき優里ちゃんがどうしてあんなことをしたのか、僕にはわからない。頑是ない子どもをからかってみたかったのかもしれないし、単に言葉どおりそうしたかっただけなのかもしれない。ただひとつ確かなのは、あの日を境に僕は彼女の好奇心の奴隷になったということだ。僕に同学年の友だちができ遊ぶ回数が減っても、彼女が高校進学を機に家族とともによその街へ引っ越しても、その関係は変わらなかった。
 僕の手が硬く無愛想になったいまでも、優里ちゃんはこうしてたまに会いにきてくれる。そして彼女の艶のある直線的な黒髪を見るたびに、僕はなぜだか少しほっとするのだ。
 ああ、そうだ。思い出した。
 僕が五十嵐を好きになったのは、彼女のきれいな黒髪が優里ちゃんによく似ていたからだ。

                    *

 実験器具と薬品が入った小瓶を観客にむかえ、彼女はきょうも弁説を振るう。
「クラゲって身体のほとんどが水分でできてるんだよね。脳も心臓もなくて、神経もばらばらだから単純な運動しかできない。きっと生きる意味も目的もない。あったとしても自覚できない。一生なにも考えずにふよふよと海中をただよって、機械的に捕食して、繁殖して、最期は溶けてなくなるの。自分が死んだことにも気づかずにね」
「それって幸せなのかな」
「だから幸せも不幸せもないんでしょ。すごくうらやましい。私クラゲになりたい」
 彼女がこういう愚にもつかないことを言い出すのは、家族やクラスの女子生徒たちとなにかあったときだと相場が決まっている。だから僕は、なにかあったの、と聞いてやる。すると案の定、そうなの聞いてよ、と彼女は語りはじめる。僕はその愚痴に黙って耳を傾け、大変だったね、気持ちはわかるよ、と理解を示すふりをする。女の子と接する上で重要なのは、聞き手に徹することと肯定してあげること。むこうはこっちの意見なんて求めちゃいない、共感したふりしとけばいいんだよ。いつだったか、水野がそんなことを言っていた。まったくそのとおりだ。五十嵐と密会をするようになって、僕は嘘の達人になった。そして彼女は疑うことを知らないおぼこ娘のように僕の嘘に騙されつづけている。
 もっとも、それもきょうでおわりだ。
「人間関係ってどうしてこうも面倒くさいんだろ。女同士はとくにそう。同調圧力って言うのかな、矛盾してるようだけど、自分を殺さないと生きていけないんだよ。クラゲのほうがよっぽど自由なんじゃない? 人とかかわりあうだけで精神が摩耗していく感覚、中原くんなら理解できるでしょ?」
「……できない」
「え?」
 冷たいテーブルの上、五十嵐は両脚をそろえて僕と向かいあっている。僕はうつむき、踝に重ねた両手に視線を落としている。不安に柳眉を曇らせる彼女の顔を見なくていいように。
「理解できないんだ、きみの気持ちが」
 家族やクラスメイトを疎ましく思う気持ちも、放課後に学校で手首を切りたくなる気持ちも、診察と称して恋人まがいのことをしておきながら恋人ではないと言い張る気持ちも、僕にはさっぱり理解できない。
 針金細工のように細い肩を抱き寄せ、語りかける。
「五十嵐、ページを進めよう」
「どうしたの? きょうの中原くん、変だよ」
「かもしれないね。でも、僕はきみと恋人同士になりたいんだ。たいした用事もないのに電話してみたり、手をつないで街を歩いたり、なにかの記念日にはプレゼントを贈ったりする、ただの恋人同士になりたいんだよ」
 優里ちゃんと会ってはっきりした。僕は五十嵐が好きだ。ほかのだれかじゃダメなんだ。
 これ以上シゲのことで悩みたくない。五十嵐を疑ったりしたくない。そんなのはもう疲れた。不安に押しつぶされそうになるのはもうたくさんだ。
 証がほしい。五十嵐もほかのだれかじゃダメなんだという証が。
 肩に手を添えて五十嵐の身体を引き離し、そのまま押し倒す。
「好きだ、五十嵐」
 五十嵐が悲しそうな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。それを否定するように彼女に覆い被さり、なにかを告げられる前に口を塞ぐ。
 冷たいテーブルに、僕の大好きな黒髪が広がっていた。

       

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