※便乗です
俺の住む家には、一つだけ大きな欠点がある。
家は二階建てだ。煉瓦造りの洋風建築。他界した祖父から代襲相続したもので、広さは十分。むしろ、男の一人暮らしには広すぎるのが短所といえば短所である。しかし、そんなことは些細な問題だった。掃除が多少、面倒なくらいだ。
欠点は家の外にあった。
――――リィィィィン…………ゴォォォォォォン――――
ああ、今日も聞こえてくる、この音である。荘厳で神聖な鐘の音。家のすぐ近くには、教会があるのだ。
俺はなにも、騒音被害を訴えているわけじゃない。うちは仏教徒だから宗派的に相容れないとか、面倒なことも考えていない。そんな程度でイエスに唾を吐くほど不躾じゃない。
憎たらしいのは唯一、教会で行われる結婚式だ。
「おめでとー」
「幸せになれよー」
「サイコー」
はしゃいだ若者たちの声が届く。俺は無意識に親指を噛んだ。血が出るほど強く。
これは、人の幸せを喜べない性質というやつか。いや、違う。そもそも、『結婚おめでとう』などと屈託なく言えるのは、心に余裕があるからのはずで。つまり、俺には余裕がないということで。内心の焦りを、否応なく認めさせる鐘の音が、俺はやっぱり嫌いだった。
結婚適齢期も過ぎ去ろうとしている途中だが、俺には恋人がいない。もちろん、人生の伴侶も。
意中の人ならばいる。隣の家のちさとちゃんだ。彼女は両親と暮らしている女子大生で、たまに会うと挨拶をしてくれる。その優しい声もさることながら、聖母のような笑顔とバストが魅力の、癒し系女子だ。はっきり言って、付き合いたい。
ところが今のところ、進展は一切ない。歳の差は大きくないが、ちさとちゃんはまだ学生だ。社会人の男に馴れ馴れしくされれば警戒するだろう。まして、家が隣にあるのだ。無用な恐怖を与えるわけにもいくまい。そういうわけで、俺はほとんど声もかけられずにいる。
「ちさとちゃんもガーデニングが趣味なの? 奇遇だなぁ、俺もだよ。なんなら、色々と情報交換しないか。ほら、俺の連絡先」
口の中で独り言を呟く。おそらく、一生役に立たないイメージトレーニングだ。
いたたまれない気持ちで、俺は窓の外を見た。教会、とんがり帽子の屋根に立つ、十字架を眺める。今日もまた一組、幸せな夫婦が生まれたのだろう。許せん。
そのとき、視界に黒い影がよぎった。影は放物線を描いて落ちていく。直後、何かが割れる音。
「なんだ?」
音は自宅の庭から聞こえたようだ。俺は外履きのスリッパを履いて、表へ出て行った。
****
割れていたのは、ベランダの鉢植えだった。縁に掛けてあったものが落ちたのだろう。
「あーあーあー……」
散らばった土と破片を拾い集める。教会からは、まだ鐘が鳴っていた。踏んだり蹴ったりだ。
子どもにボールを投げ込まれたか、はたまた鳥でも突っ込んだか。辺りを探ってみると、原因らしきものを発見した。飛来したのはボールではなく、鳥でもなかった。それは、カラーの花束。白い花弁をつけたものが、リボンで留められている。
「なんじゃこりゃ」
鉢植えで育てていた花ではない。やはり、外からやってきたのだろう。なんにせよ、これが鉢植えを破壊したことは間違いない。悪質ないたずらだ。俺は鼻息を鳴らして花束を引っ掴むと、自室へ戻った。
手に持った花束を、ゴミ箱に投げ捨てる。すると、インターホンが鳴った。
「ああん? なんだ一体、次から次へと」
玄関から顔を出す。門のところには、二人の男女が立っていた。男はタキシード、女はウェディングドレスを着ている。一目で新郎新婦とわかる格好。珍妙な来客だ。
「すみませーん、この辺りにブーケが飛んでいってしまったんですが、お庭を探させてもらってもよろしいでしょうか」
新郎らしき男が頭を下げる。
ブーケという単語を聞いて、俺の中ですべてが繋がった。さっき飛んできた花束は、結婚式で使うブーケだったのだ。よくある形とは違っていたから気が付かなかったが。
理解と同時に訪れたのは、しまい込んでいた憎悪だった。人が独りで寂しいときに、結婚式など挙げやがってからに。さらには、鉢植えまで破壊する始末。この恨みはらさでおくべきか。ブーケは絶対に返さないぞ。俺は心に決めるのだった。
「ええ、どうぞどうぞ、好きに探していってください」
悪魔の微笑みを湛えて、二人を迎え入れた。
新郎新婦はしゃがみ込んで、うちの庭を探索している。俺はベランダに腰かけ、高みの見物を決め込んでいた。
「今日は結婚式かい? いいねぇ、仲睦まじくて」
新郎の方に話しかける。
「はい、とんだハプニングに見舞われちゃいましたけど」
ハンサムな新郎がはにかむ。見るからに人のよい青年という感じだ。にわかに罪悪感が持ち上がったが、頭を振って堪える。こちらは大事は鉢植えを壊されているのだ。少々仕返しするくらいは許されるだろう。
「教会で式をやってたんだろう? ブーケがここまで飛んでくるって、一体どんな肩をしてるんだ、キミの奥さんは」
「彼女、昔はやり投げの選手だったんです。僕はトレーナーをしていて、そのときに、その、惚れてしまって。彼女が競技をやめるときに告白したんです。これからも一緒にいてほしいって」
「ほぉ~」
惚気か。
会話に応えながらも、新郎は手を汚してブーケを探す。奥では、強肩の新婦も。おかしな光景だ。しかし、二人は真剣そのものだった。目を凝らして、無駄に広い庭を探っている。
「でも、キミたちが直々に探しにこなくてもよかったんじゃないかい。式場の職員がやってくれるだろう、こんなことは」
「職員さんには、他の家を当たってもらっています。けれど、どちらにしても僕らが謝らないといけないので。投げたのは彼女ですから。当然、夫の僕も同罪です」
「……そうか」
ふいに、新郎は俺の家を見て言った。
「素敵なご自宅ですね。僕たちも、こんな家に家族で住んでみたいです。そのためには、仕事を頑張って、お金を稼がなくちゃいけませんけど」
「……そうか」
新郎の目はあまりにも真っすぐだった。
俺はベランダから立ち上がる。無言のまま家に入り、自室のゴミ箱を漁る。カラーのブーケを手に取って、台所に向かった。ブーケの汚れをふき取っているあいだ、不思議と惨めな気分にはならなかった。物を綺麗にするということは、こんなにも清々しかっただろうか。
庭に戻ると、二人は探索を終えた後だった。
「ありがとうございました。ここにはないみたいなので、他を当たってみます。お邪魔しちゃってすみませんでした。では、失礼します」
背を向けて去っていく。
「待ってくれっ!!」
俺は声を張り上げる。驚いて振り向く二人。新婦の方に向かって、後ろ手に持っていたブーケを投げた。
ブーケは放物線を描いて、見事に新婦の胸の中に……収まる予定だった。しかし、俺の手を離れたそれは目標落下点から遥かに外れ、あらぬ方向へと飛んでいく。宙を漂う白い花。学生の時分、体力測定のボール投げで枠に収まったためしがなかったことを、俺は思い出していた。
「ふえっ!?」
数秒後、どこかから恍けた声が聞こえてくる。それは間違いなく、俺の想い人、ちさとちゃんの声だった。
****
「へぇ、そういう経緯だったんですかぁ。おもしろい偶然があるものですね」
俺はいま、ちさとちゃんの家の庭にいる。ちさとちゃんが目の前で、俺に向かって話している。夢のようだ。こんな奇跡が起こり得るものか。
あのあと、暴投したブーケは、ちさとちゃんの胸に落ちたことが判明した。ちょうど、花に水をやるところだったらしい。庭先に出た直後、ブーケが降ってきたというわけだ。なんたる偶然。
俺は謝罪のために、ちさとちゃんの家を訪ねた。新郎新婦も一緒に謝ってくれたのだが、式の続きがあるからと、早々に撤退していってしまった。そうして、残されたのが俺たち二人。
ちさとちゃんはさっきから、楽しげに話しかけてくれる。しかし正直言って、まったく頭に入ってこない。これ以上ないシチュエーションを前にして、俺は完全に思考停止していた。
「でも私、三島さんと話す機会ができてよかったです」
「……え?」
「三島さんもガーデニングされてますよね? 私、趣味の合う子が周りにいなくて。それに、優しそうな方だなって、隣から見てて思ってたんです。あ、ごめんなさい、こんなこと言われたら気持ち悪いですよね」
「……え?」
「あ、あの、それで」
ちさとちゃんは頬を赤くしている。見あげるように俺を窺いながら、言った。
「これ、私の連絡先なんですけど。よ、よかったらお友達になってくださいっ、それじゃあっ」
番号の書かれた紙きれを押し付けると、脱兎のごとく駆けていく。一人、取り残される俺。
「……え、まじ?」
自室。俺はロッキングチェアに腰掛けている。手に持った紙きれを見つめ、顔面崩壊させながら。ひとしきり楽しんだ後、連絡先は机にしまっておいた。
脇に置いたワインボトルを手に取る。地下のワインセラーから引っ張り出した高級品だ。なんでも、死んだ親父が残してくれたものらしい。そういえば、祖父も酒が趣味だった。祖父から父へ、父から俺へ。酒飲みの遺伝子は脈々と受け継がれている。
俺も子どもを残せるだろうか。グラスの中の、血のような液体を想像して思う。今日の分なら幸先はよさそうだ。我ながら気持ち悪い妄想をして、また顔面を崩す。
教会から、鐘の音が聞こえた。荘厳な音をBGMにして、俺はワインのコルクを開ける。
「祝ってやるさ。今日くらいは、な」