まず、オカ研は人数が少ない。定期的に集まるメンバーは三人。部活動強制の校則のために、籍だけ置いている部員を合わせても五人と、堂々の零細ぶりを誇る。加えて、活動内容が不明瞭である。『世界各地で発生した、あるいは今後発生し得る超科学現象に対し、参考文献を用いてドラスティックな解明を試みると同時に、実地に赴き、一つの体験的な娯楽としての利用を模索する』。書類上はかくあるが、まったくもって意味不明だ。おまけに活動の歴史も浅く、創部者は、現在二年生の発起人かつ初代部長である。
以上の帰結として、オカ研は正式な部活として認められず、部室もボロを押し付けられているわけだ。
つまるところ、わが研究会は極めて内輪なサークルなのである。そして古今東西、こういった集団は、常に人間関係の火種を抱えているものだ。男女混合の構成ともなれば、なおさら。男など所詮、女を取り合う飢えた狼なのだから。
……などと、高説をのたまう俺も例外ではないのだが。
****
部室に入ってその光景を見たとき、俺は身を翻して帰ろうかと思った。
一郎が先んじて椅子に座っている。会議仕様に並べられた教室机に肘をついて。いわゆるゲンドウポーズで。背後には窓がある。暮れかけた西日が逆光となり、顔に暗い影を落としていた。
「よう、相棒……」
一郎が俺に呼びかける。地の底から漏れ出したような声だ。毛量に乏しい坊主頭が、今日はいっそう寂しく見える。
――俺は知っている。こいつは昨日、姫希に振られた。
姫希というのは、オカ研に所属する部員の一人だ。三人いる定期メンバーのうちの、紅一点。こんな怪しげなサークルに興味を持つのだから変わり者には違いないが、顔は悪くない。加えて体も。後ろでさっぱりとまとめた髪型、性格を挙げてもとにかく嫌味なところのないやつで、惚れている男子も少なくない。恥を恐れずに言えば、俺もその一人だ。
大体、仕方がないのだ。思春期の男女が、放課後も時間をともにするなんて。狭い教室で、たまに肩が触れ合ったりとか。夕日に染まる横顔が、いつもより可愛く見えたりだとか。恋慕の情が生まれないほうがどうかしている。
「振られちまったよ」
今度は泣きそうな声で、一郎は言った。
だから俺は、こいつのことを馬鹿にしたりはしない。あからさま、手近な女に告りやがってと罵ったりはしない。告白した勇気は素直に称えよう。けれどもやっぱり『よせばいいのに』と思わずにはいられないのだ。なぜならば、一郎の敗着は、はるか前からわかりきっていた。
俺たちは三人、ともに長い時間を過ごしてきた。一年以上も顔を突き合わせていれば、互いのことは大抵わかる。例えば、部室内に充満する、恋愛の感情図なんて。よほど鈍い人間でなければ、俺が姫希を好いていることなど、手に取るようにわかるだろう。同様に、
つまり、一郎は知っていたのだ。俺と姫希が両想いの関係であるということ。そして、自身に勝ち目がまったく無いということも。誰が誰を好きなのか、誰と誰が結ばれるべきなのか。抽象的な領域においては、全員が了解していた。一郎はわかっていても抑えきれなかったのだろう、自分の気持ちというやつを。
「はは、オレは惨めだろ、相棒。笑えよ」
ついに涙を浮かべる、高校入学以来の友人。俺は立場上、慰めようにも慰めにくい。曖昧に応え、席に着いた。
重い沈黙が続く。室内には、壁時計が時を刻む音だけ。気まずさから逃れたい一心、俺は時刻を確認した。入室した時間から、五分と経っていない。一体、男二人、いつまでこうして座っているのか。地獄の窯もかくやという心地で、俺は時計から視線を戻す。
「憲正」
一郎が俺の名を呼んだ。さっきまでの悲愴なふうはなく、どこか腹を括った様子。「憲正、お前も姫希のことが好きなんだろ?」
「……一応」
「一応ってなんだ一応って」
「いや、好きだ、真剣に」
「そうか」
一郎は納得したように、うんうんと頷く。「姫希も憲正のことが好きだよな?」
俺の方を向いて尋ねる。
「俺に聞くなよそんなこと。……いや、でも、まあ、そうなんじゃないか、たぶん」
「だよな」
もう一度深く頷いて、一郎は腕を崩した。顔には何故か笑みが浮かんでいる。気味が悪い。
不審に思っていると、突然、にこやかな口元から言葉が放たれた。
「相棒、暗い話題はもうやめようっ、空気が濁っちゃうだろ」
「いや、一郎から切り出したんだろ」
「ここはオカルト研究会だ。色恋沙汰は置いておいて、らしくオカルト話でもしようじゃないか、なあっ、おいっ」
「お、おう……?」
俺の戸惑いをよそに、一郎は語りだした。
「
うちのクラスに一つ、空いてる席がある理由を知ってるか? そう、窓際の一番後ろの席だ。予備? 転校生用? ノンノン、違うぜ相棒。あの席には元々、オレたちのクラスメイトが座ってたのさ。……あぁ、そうだろうさ、覚えてないのも無理はない。なぜなら、出席番号11番、吉田弘樹は消されちまったんだ。この世から、存在ごとな。……え? だったらどうして、オレが吉田を覚えてるのかって? おいおい、慌てるなよ。それも含めて、これから話していくんだからさ。
まあ、最初にずばり言ってしまうと、吉田を消し去ったのは沼神様だよ。学校からずっと西に行った先の、林をさらに抜けたところに、湿地があるのを知ってるか? 沼神様はあそこに住んでる。
沼神様は大蛇の姿をした女の神様で、これがかなり性質が悪い。彼女はいつだって腹を空かしてるんだ。なのに、食べられるものは唯一、沼に落ちた人間だけ。まぬけな獲物が罠にかかるのを、ひたすら待つしかないってわけさ。けれど、あの辺りにはほとんど人が通らないだろ? 黙っていても、腹が減っていくばかり。だから沼神様は策を考えたんだ。別の人間に、獲物の人間をおびき寄せてもらうっていう、卑劣な手段をな。
お前にだって、消し去ってしまいたい知り合いの一人や二人いるだろう。そこで、嫌いな人間を連れてくれば食べてやると、沼神様は持ちかけるんだ。持ちかけられた人間は、最初は当然半信半疑さ。だが、一人を試しに食ってもらうと、もう信じざるを得ない。嫌いなやつが全員いなくなったなら、この世はどれだけ住みよいと思う? そうして味を占めた人間は、邪魔だと思うやつを次々に連れてくる。おかげでこの町は、万年過疎化に悩まされてるってわけだ。な? 説得力があるだろ? それで――」
「待て」
語りが熱を帯びてくるところ。続きをさえぎった。
「なんだよ相棒、いいところだったのに」
一郎は不服そうに俺を睨む。
「その話、でかい穴がある。明らかな作り話を聞き続けられるほど、俺は我慢強くない」
「へぇ、どこがおかしいと思ったんだ。ぜひ教えてくれ」
いつにも増して挑戦的な一郎の態度。生意気だ。論破してやる。
「おかしいもなにも、あり得ないんだよ。一郎の話じゃ、沼にはまった人間だけ、沼神様は食うんだろ? 俺はその場所に行ったことがある。あそこは湿地なんていう立派なものじゃないぞ。地面が少しぬかるむ程度だ。大体、沼なんてどこにもない」
これは明らかな矛盾点、欠陥だ。沼地や蛇なんてのは、子どもが不用意に近づくものの定番。教訓に聞かせる怪談話など、無数にあるだろう。一郎はどうせ、既存の伝承をまるごとパクったに違いない。
しかし語り部は、指摘など想定内だという調子で鼻を鳴らす。
「いーやあり得るさ。憲正のいう、ぬかるみこそが沼なんだ」
「あほ抜かせ。言い訳にしても苦しいぞ」
「まあまあ、聞けって。あそこのぬかるみは、何も知らない人にとってはただのぬかるみ。けどな、憲正にとってはもう違うのさ」
「どういうことだ?」
首をかしげる俺に、一郎はずいと近寄り、凝視してくる。
「沼神様は、自分を畏れない人間は食えないんだよ。それくらい、神様としての位が低いんだ。けどな、この話を知ってしまった人間は別。『自分は食われるかもしれない』、そういう思考に少しでもハマりはじめたやつは……ハマるのさ、沼っていう深みにもな」
畳みかけるよう、俺の肩に手がかけられる。厳めしい表情をつくり、一郎は言った。
「オレがなんで吉田を覚えてるのかわかるか? オレが吉田をハメたからだよ。沼神様に依頼した人間は、食わせたやつを忘れない。でなきゃリピーターになれないからな。吉田は鬱陶しいやつだったんだ。あんなのは消されて当然。……さて、相棒はどうかな。オレに嫌われることをしちゃあいないか?」
鼻先が触れんばかりにきて、一郎は目を血走らせた。しばしの間、俺たちは見つめあう。
「…………くっ」
「…………ふふっ」
緊張が閾値を超える。堪えきれず、二人同時に笑いを漏らした。大きく伸びをすると、硬直が解かれる。
「いやぁ、今日のは傑作だったぜ一郎。今のお前が言うと、マジでしゃれにならないからな」
「だろだろ? 昨日、姫希ちゃんに振られてから、ずっとこの話考えてたんだ」
仲良くハイタッチ。室内には、和やかな雰囲気が取り戻された。
一郎がこの手の怪談話を披露するのは、珍しいことじゃない。そもそも、オカルト関係に目がなく、勢い余って創部したのがこの男なのだ。
晴れやかな気分で、俺は一郎の背中を叩いた。
「いやー、それにしも、残念だったな、姫希に振られて」
「やかましいわ、このモテ男がぁ」
毒ずく口調に、もう暗い色はない。失恋をネタにもできないようなら、このサークルも解散かと思われたが。この分なら大丈夫そうだ。
「まあでも、憲正の応援くらいはしてやるさ。なんたって、相棒だからな」
「おう、頼むぜ」
男同士ってのはやっぱりいい。俺たちは友情の握手を交わす。ちょうどそのとき、部室の扉が開いた。
「おーす……」
噂をすればなんとやら。遠慮がちに入ってきたのは姫希だった。「あ、二人とも来てたんだね」
自分に告った男がその場にいるのだ。さすがの姫希も気まずいらしい(というか、こいつが一番きついだろう)。腰を低くして、おっかなびっくり歩み寄ってくる。
「遅いよ姫希ちゃーん」
「まあ、座れよ」
俺たちは努めて明るく迎え入れた。姫希はがっちりと結ばれた手を見て、安心したらしい。息を吐いて、表情を緩めた。
「なになにぃ、私がいない間に、おもしろいことでもあったの?」
姫希が席に着いて、やっといつものメンバーが揃った。机を囲んで小さな円になり、顔を突き合わせる。普段ならば、ここから益体のない雑談が続くのだが。今日は違った。
「実は、素晴らしい企画を用意してきたんだ」
言って、一郎はスクールバッグから用紙を取り出す。配られたA4サイズのそれには、ボールペンで描かれた線がごちゃごちゃと並んでいた。ミミズが這っているようでわかりにくいが、どこかの地図のようだ。所々に木や建物などの絵が描かれている。雑然とした中でも目を引くのは、中心部分に描かれた、タコのような生物。古典的な火星人の絵とも取れるが……。
「三人で、宇宙人に会いに行こうと思うんだ」
我らが部長様は、こともなげに言ってみせた。
****
「つまり、こういうことか」
俺はへたくそな地図を指で叩き、確認する。
「一郎は先日、UFOが降り立ったという噂を聞きつけた。そのうえ、更なる情報によると、ミステリーサークルも発見されたらしい。で、発見されたのが、この地図に示した空き地。周辺を調査すれば、高い確率で宇宙人に遭遇できる……かもしれない。最低でも、ミステリーサークルを拝むことができるはずだ。だから我々オカルト研究会としては夜間に赴き、レクリエーションを行う。あわよくば世紀の大発見。マスコミに売り込んで部費も無限大だ、と」
一郎が二時間以上も費やした説明。一息で言い切った。
「おー、けんちゃんすごーい」
「さすがだぜ相棒」
二人は他人事みたいに拍手する。俺は眉をひそめ、自分の意見を重ねた。
「色々とツッコミたいことはあるんだが、まずこれ、夜にやる必要なくないか?」
「何言ってるんだ相「ロマンだよっ」
一郎をさえぎる勢いで姫希は言った。「オカルトのロマン。けんちゃんにもわかるでしょ?」
「わかるような、わからないような……」
訴えかけるような瞳で、無理やり納得させられる。つくづく、こいつも変人だ。
「とにかくそういうわけだから、来週の土曜は空けておくように。これにて今日の活動は終了」
最後は一郎が強引に締めて、お開きとなる。窓から外を見やれば、すっかり日没。夕飯も用意されているころだろう。
「んじゃ、帰るか」
立ち上がった俺の袖を、一郎が掴んだ。
「憲正はオレと居残り」
「はあ?」
「え? いっしょに帰らないの?」
姫希も不審を表す。
「ごめん姫希ちゃん。ちょっと、男同士の話があるからさ」
「……ふーん、そっか」
姫希は釈然としないようだったが、しずしずと部室を出ていく。残されたのは男二人。またもむさ苦しい空間になった。
「おい一郎、一緒に帰るチャンスだっただろうが。お前やっぱり、人の恋路を邪魔するのか」
「バカ言え、逆さ」
やけに上機嫌で、一郎はバッグを漁りだす。取り出したのはまたもA4の用紙だった。しかし、先ほどとは書かれた内容が違う。『ドキドキ、裏・ミステリーサークル告白企画』。タイトルとともに、マル秘と印がされている。見るからに頭の悪そうな企画書だ。
「なんだよこれ」
「さっき言った、宇宙人とUFOの話、あれ全部嘘」
「はぁっ!?」
一郎は悪びれる様子もなく続けた。
「実はこっちが本命。ずばり言って憲正、姫希ちゃんに告白してくれ。サプライズ告白。オレが計画を考えたんだ」
「お前、おかしいんじゃないのか。やるか、こんなもん」
嫌がる俺に、用紙を押し付けてくる。
「頼むよ相棒。だってさ、同じ部室内で甘酸っぱい恋愛見せられるのツラいんだよ。どうせならさっさとくっついてもらって、カップルとして扱う方がまだ楽だから。それにさ、オレは振られちゃったけど、友達としては二人に関わっていたいんだ。オレの企画で二人が結ばれるなら本望だし、頼む。後生だからっ」
一郎は膝から崩れ落ちる。床に顔を擦りつけ、土下座の姿勢。
「あーあー、わかったから。顔上げろよ……ったく」
「いいのかっ!?」
許しがでるなり、バネみたいに跳ね起きる。調子のいいやつだ。
なんだかいいように操られているような気もするが、仕方あるまい。いずれ告白しようとは思っていたし、少々告白の方法がおかしくたって、振られないものが振られるなんてことはないだろう。オカ研を続けるつもりなら、一郎の機嫌を取っておくのも悪くない。
「で、どんな計画なんだ」
「さっきは全部嘘なんて言ったけど、ミステリーサークルの件は本当にするつもりなんだ。オレたちの手で」
「というと?」
ややこしい話になりそうだ。俺は再び席に戻り、真剣に話を聞く。一郎は両手を広げて熱弁をふるった。
「まず当日、三人でレクリエーションすると見せかけて、俺たちは隙をみてはぐれるのさ。姫希ちゃんは一人取り残され、心細さの極致っ。そんなとき、頼りになるのはさっき渡した地図だけ。彼女は目的地に着けば、オレたちに合流できると考えるだろう。あの目的地、地図で示した場所、あそこな、原っぱを見下ろすかたちになってるんだよ。そうして、到着した姫希ちゃんが見下ろした原っぱには、ミステリーサークルがバーンと見えるわけ。もちろん、ただの丸いやつじゃない。なんと、『好きです付き合ってください』と書かれた特大の告白メッセージさっ!! 憲正は先回りして、あらかじめミステリーサークルの横で立ってる。それも、最高の笑顔で。どうよ、完璧だろ?」
息を荒げながら、一郎は満足そうに話を締めた。
「クッセェなぁ……」
開口一番、俺の口から洩れた本音。「柄じゃねぇ」
「告白に柄も何もあるもんか。女の子と付き合うんだぞ? 恥なんて捨てなくちゃだめだ」
「うーむ」
「安心しろ。面倒なミステリーサークル作りはオレが一人でやっておくからさ。憲正は当日、オレと一緒に先回りするだけ。な、決まりだ!!」
一片の曇りもない陽気さ。悪戯小僧のような表情に、反論する気力も湧かなかった。
****
街中から離れた夜は、深い穴に閉じ込められているみたいだ。人口の光はしばらく見ていない。不安定な砂利道を歩くと、転げ落ちているような気さえする。止めどなく鳴いている虫の声だけが、地面の方向を確かめさせていた。
俺たちオカ研メンバーは予定通り、ミステリーサークルがある場所を目指している。
地図からは想像がつかなかったが、かなりの悪路だ。途切れ途切れの獣道を一郎が先導していく。手に持つ懐中電灯には、道を塞ぐ枝が照らされて。それを取り払う役割もこいつが担っていた。俺と姫希は後ろに従い、ひたすらついて歩く。
「ね、けんちゃん、探検ってドキドキするね」
隣の姫希が顔を寄せてくる。もう随分と歩いた気がするが、好奇心が勝っているのか、疲れは見えない。
「寒くないか?」
姫希はパーカーの格好だ。まだ秋口とはいえ、夜は冷え込む。
「ちょっと寒いけど、こうすれば大丈夫」
言って、俺の手を握った。
「お、おい」
「はぐれたら大変だし、ね?」
躊躇いもなく、体をくっつけてくる。触れ合うまでに近づけば、発火する羞恥で温まった。胸板の辺りで染まっている頬を見るに、姫希も同じ気持ちらしい。多幸感を味わいつつも、俺は前を歩く背中を窺った。一郎は振り向くことなく、一心不乱に枝を折っている。
「すまんな、一郎」
俺は小さく謝辞を述べた。
比較的開けた場所に出ると、一郎は腰を下ろした。
「ここらで休憩にしようか」
「りょーかいです、隊長」
姫希は待ってましたとばかりにレジャーシートを広げ始める。俺は辺りを確認した。
月光が射すからか、はたまた目が慣れたのか。視界がマシになっている。注意深く観察すると、遠くに街明かりが見えた。しかも、見下ろす格好で。どうやら俺たちは、ゆるやかな坂を登ってきたらしい。
自分の住む場所が離れて見えると、浮ついた気分になる。日常を離れ、未知に飛び込む高揚感。探検の醍醐味だ。……と、感動しかけたところで、俺は本来の目的を思い出した。レクリエーションは今まで順調だ。しかし、このまま終わっては意味がない。
姫希からなるべく勘付かれないよう、一郎に耳打ちする。
「おい、おい」
「どうした相棒」
「もう結構進んできたが、俺たちはいつ先回りするんだ」
「そう慌てるなよ。ちゃんと合図は送るからさ。しかるべきときに、しかるべき方法で――」
「あーっ!!」
密談の途中、甲高い声が割って入った。目を向けると、姫希が口を開けたまま、藪の中を指さしている。「なんか光が見えたよっ」
つられて指の先を追うが、暗闇しか見えない。俺が事態を把握する間もなく、姫希は地面を蹴った。
「本当だって。宇宙人かもっ」
弾むように駆けて、脇道を分け入っていった。みるみるうちに、姿が闇に溶けていく。
「マジかよっ、姫希ちゃん、オレも行く!! 相棒、荷物を持っといてくれ!!」
計画のことなど、どこへやら。『宇宙人』というおもしろワードに触発された一郎も、一瞬で姿を消した。
「おいおい……」
手渡された荷物。地図と企画書が喪失を際立たせる。そして訪れる静寂。俺は立ち尽くすほかなかった。
****
二人が去ってから三十分。俺は立ち上がった。ここに留まったって、合流は叶わないだろう。スマホの液晶には圏外の文字。引き返して、電波が届く場所まで行くか。もしくは、目的地を目指して進むか。
「進むしかないか」
三人分の荷物を手に歩きだす。もとより、目的地で落ち合う計画があったのだ。二人もきっと、そこで待つだろう。幸い、地図は手元に残っている。
「はは……」
乾いた笑いが漏れる。結局、俺と姫希の立場がまるきり逆転してしまったわけだ。
歩みを再開してすぐ、重大な事態に気付く。懐中電灯がない。一郎のやつ、どさくさの中でも灯りだけは手放さなかったらしい。仕方なしに、スマホで足元を照らした。……光が捉えた違和感。なにやら蠢く影に目を凝らす。靴の上に、ムカデがよじ登っていた。
「うあぉっ」
慌てて振り払う。柄にもなく、情けない声を出した。しかし、それを笑う者さえ今はいない。思い出したように、俺は孤独を実感する。四方から闇が迫り、押しつぶされる幻。夜風にさざめく枝々が、まるで嘲笑っているようだ。ふと立ち返れば、ひどく不気味な場所なのだ、ここは。
竦む脚を動かしながら、反省する。俺は、姫希にこんな役を押し付けようとしていたのか。せめて、探検の下見くらいはしておくべきだった。いやそもそも、一郎の提案をはねつけておくべきだった。後悔はとどまることがない。自然、足取りは重く、顔もうつむき加減になる。
膝に鈍い痛みを感じたころ。うつむいた視線の端に、白を捉えた。白。草木に囲まれた夜道では、とりわけ目立つ。俺は反射的に顔を上げる。すると、白はひらりと木陰に姿を消した。質感からして、布、服なのか。ともかく、それはひとりでに動いたのだ。
「なんだなんだなんなんだ……」
言ったところで、正体がわかるわけでもない。一郎も姫希も、白い服は着ていなかったはず。だとすれば別人か? 街外れた獣道、それも夜中に、まさか。脂汗で全身が冷え込む。正体を知ることは恐ろしいが、見過ごして進むのもまた恐ろしい。両頬を張り、俺は木陰の奥へと追っていった。
ヒラリ、ヒラリとからかっているように、白い布は移動していく。俺は後を追いながらも、地図の確認を欠かさない。ところが都合の良いことに、俺とそいつは同じ方向を目指しているようだった。
「おいっ、待てっ」
焦らされるのも限界。俺はついに走り出した。落ち葉を蹴り、巻き上げた直後、視界が開ける。密集する木々を抜けた先は、崖になっていた。落下する寸前、慌てて足を止める。白い布はどこにもいない。もしかすると、崖から落ちたのか。怖々、下を覗き込んだ。
――そこには、予想だにしない光景があった。
『好きです付き合ってください』と、場違いにのんきなフレーズ。つい先週、大々的に伝えようと画策していた。草原に刈り込まれた文字の横に、姫希が立っている。満面の笑みとともに。
「けんちゃーん、好きですっ、付き合ってくださいっ!!」
上に立つ俺に聞こえるよう、大声で。告白する姫希の後ろには、一郎が。とっておきの悪戯が成功したときの、ムカつく表情。俺はすべてを理解する。黒幕の所在は明らかだった。
「てめー一郎っ、ハメやがったなぁ!!」
「逆ドッキリ大成功ーっ!!」
大馬鹿野郎は準備よく、プラカードまで掲げている。
「ぜってぇ殺すっ!!」
「だまされる方が悪いのさぁっ!!」
本当なら殴ってやりたいが、下は崖だ。俺たちは叫び声を上げ、醜悪に言い争った。
「あのー、けんちゃん?」
喉が嗄れて、息を継ぐ隙。見計らうように、姫希が手を挙げた。「できれば先に、返事もらいたいなぁ、なんて」
おずおずと言ってのける。共犯者のくせにしおらしくしやがってからに。俺は激情に任せて返した。
「オッケーに決まってんだろ、付き合うよっ、あーくそっ」
「やったぁ!!」
「言っとくけど、こんなのロマンチックでもなんでもねぇからなっ」
負け惜しみの罵倒などなんのその。姫希は飛び跳ねて喜んでいる。計画の成功を称え、一郎とハグまでする始末。抱き合う相手は俺だろうが。まあ、しかし、認めざるを得まい。俺は完全に敗北したのだ。新しい恋人と、憎むべき友人に。
気付いたときには、俺も笑っていた。下にいる二人と同じ笑顔で。そうとも、結果はどうせ変わらないのだ。好き合う者同士が付き合って、全員がおもしろおかしく笑い合う。簡単なことだ、青春なんてのは。
****
「おーい、そろそろ降りて来いよ相棒」
ひとしきり盛り上がった後。俺はいまだ、崖の上に立っていた。
「どうやって降りればいいんだよ」
「左向け左。……そう。それで、ずーっと歩いていけばぐるっと回ってこられるからさ。がんばれよー」
一郎は無責任に言い放つ。不満はいくつかあるが、いい加減、この立ち位置にもうんざりしてきた。俺は文句も言わず、再び藪の中に入っていった。
これまで、長い距離を歩いてきた。俺はいま、どの辺りにいるのだろう。疑問が降ってわく。一郎に渡された地図でどの辺り、という話ではない。俺が暮らしている場所から見て、どこだろうということだ。入り組んだ道を進んできたから、方角の感覚すら怪しい。景色からするに、森の中か、林の中か。とにかく、住宅地とはほど遠い。帰りの道程を考えると、気が重くなった。
疑問はもう一つ。先ほど逃してしまった白い布。あれはなんだったのだろう。俺をミステリーサークルまで誘導するため、一郎が用意したもの。これが最も妥当な線だ。しかし、一郎は崖の下にいたはず。あの位置からできることなど――
思索に耽っていると、木に囲まれた地帯を抜けていた。足元には黒い土。背の低い草花が、地面を斑に埋めている。物陰がなく、見晴らしもよいはずだが、別に視界を妨げるものがあった。それは、一帯を漫然と覆う、霧。腕で払うまねをしても、まとわりつくようで鬱陶しい。今日一日、俺はとことん何かに化かされる運命なのだろうか。
「おぉい、憲正じゃないか」
声は唐突に聞こえた。活力に乏しい、病人のような囁き。
「おぉい、おぉい……」
俺は音の所在を探り、目を凝らす。薄白い景色、一点に、ひときわ白い人影を見つける。
「お前は、さっきの」
木陰の奥に見た、白い布。布は、白装束の一部だと判明した。謎の人物が徐々に近づき、全体像が露わになる。そして前に立ったのは、蒼白い肌をした、まるで幽霊のような人間だった。
「久しぶりじゃないか、憲正」
久しぶり。掛けられた言葉を反芻するが、まったく覚えがない。こけた頬、濁った眼。いかにも不健康そうないでたちの男は、いくら記憶を探しても見当たりそうになかった。
「ああ、そうか、憲正は覚えていないんだな」
呆けた俺の様子に、男は肩を落とした。
「誰なんだ、あんた一体」
「吉田だよ。言っても無駄だろうけど」
「吉田……」
「吉田弘樹。昔は同じオカ研メンバーだったんだけどな」
フルネームを聞いて思い出した。一郎が語る怪談に登場した、食われた人間の名前だ。
「じゃあ、まさか、あんた」
「もう察しはついてるかもしれないけど、幽霊だよ、僕は」
「幽霊っ!!」
思わず悲鳴を上げた。オカ研に所属しておきながら、俺は今の今まで信じていなかったのだ、幽霊というやつの存在を。いや、今、この瞬間だって。
「本当なのか……?」
吉田の蒼白い肌に手を伸ばす。指先は接触することなく、そのまま通り過ぎた。視覚的には、俺の腕が体に飲み込まれている。どう考えたって、通常ではあり得ない光景だ。
「嘘だろ」
「嘘なんかじゃないよ、憲正。あいつ……一郎は冷酷なやつさ。自分一人のためだけに、姫希が惚れたサークル内の男を次々に消しているんだ」
「次々に?」
「そう、次々に。僕だけじゃないよ、一郎に消されたのは」
言われて見回すと、霧の中には白い影が立ち並んでいる。空間から滲み出るように姿を現し、増えた人数は二桁に迫る勢いだ。
「憲正、見えるか。ここにいる全員、元オカ研部員だよ。しかも、姫希といい仲になったことがある、ね。……はは、姫希も姫希で問題だ。惚れた男が消えてしまうと、また別のオカ研部員に惚れるんだから。女っていうのも、手近な男で済ませたくなるものなのかな」
吉田は皮肉めかして笑った。俺はまだ、現実を受け止めきれない。
『碌な女じゃないっ!!』
どこか遠くの幽霊が言った。叫びは呼び水となり、堰を切ったように。
『いーや、許せないのは一郎だけだ』
『あいつは絶対に呪い殺してやりたい』
『まだ、姫希とキスもしていなかったのに』
『あの体とセックスしてれば、成仏できたろうになぁ』
取り囲む幽霊たちから、不平不満の大合唱。霧の中にこだまする。俺は立ち竦み、耳を塞ぐことすらできなかった。
「なあ、気を付けろ、お前も一郎に消されてしまうぞ?」
知らぬ間、背後にいた吉田が耳元で言う。直後、俺は駆けだした。一刻も早く、この場を逃げ出したい。でなければ、気がおかしくなってしまう。林立する幽霊たちをかき分けるように走る、走る。だが、幽霊たちは同じ速度でついてくる。地面を滑るみたいに悠々と。
「ちくしょうっ、離れろっ、離れろぉっ」
『おいおい、逃げるこたないだろ憲正』
『僕たち仲間じゃないか』
『ああ、ほら、その辺りはぬかるみがあるぞ』
『ヌルっといっちまう、ヌルっと』
ぬかるみ? 頭の端に疑問符と躊躇が浮かぶ。裏腹に、全力で踏み出した足はもう止まれない。夢なら覚めてくれっ!! 心で唱え、俺は強く目をつぶったのだった。
****
場所はオカ研の部室、いつもの会議机。我らがサークルの紅一点は、花のような笑顔を咲かせていた。
「あはは、それにしても恥ずかしい告白だったよね。いくらなんでもクサすぎるよ。……ん? えへへ、そうだね。こうして付き合えることになったんだし、結果オーライかな。ね、今日はどこに寄って帰ろっか。たまには買い物付き合ってよ。洋服買いに行くの。もうすく冬だから、コートとか、アウター揃えようかなって。もちろん、荷物は全部持ってね。うそうそ、冗談冗談。……うん、じゃ、行こっか、一郎くん」
「よしきた」
姫希ちゃんに促されて、オレは立ち上がる。見れば、窓の外には暗闇が広がっている。なにもかもを飲み込んでしまいそうな黒。ふと、過去にいた部員たちが脳裏によみがえった。オレと姫希ちゃんを除いた、総勢11名。世界中で唯一、オレだけは思い出すことができる。
「まさか結局、オレ一人になっちゃうとは」
小さく呟いた。後悔があるわけではない。仕方がないことだったんだ。自分に回ってくる順番がたまたま最後だった。それだけのこと。オレは、姫希ちゃんから12番目に好かれた部員だった。とんだピエロ。だとしても、どうしても手に入れたかったんだ。悔いはない。けれどもし、一つ前の選択で、憲正ではなく、オレが選ばれていたなら。三人仲良く、サークルを続ける未来もあっただろうか。
「悪いな、相棒」
外の闇に謝罪を投げる。
「どうして突っ立ってるの、一郎くん。行こうよぉ」
「ああ、うん、ごめん姫希ちゃん」
「……どうかしたの?」
「え?」
「浮かない顔してる」
「……いや、いよいよオカ研も今日で廃部なんだなって、感慨に」
「しょうがないよ、部員二人だもん。むしろ今まで、どうして許されてたんだってくらい。……あれ、どうして許されてたんだっけ?」
「いいさ、そんなことは。どうでも」
オレは姫希ちゃんの手を取った。瞬時、手のひらと同じに柔らかそうな彼女の頬が、朱く染まる。ああ、幸せだ。オレの青春にはこれだけあれば十分。他には何もいらない。二人一緒に、部室の入り口をまたぐ。片方の手で扉を締め、鍵をかけた。きっと、二度と開けることはない。