約束の地へ
第22話
今週はやりすぎた。
週明けの朝、トラックマンにとって唯一の完全休日。日々大きくなっていく妻のお腹を見ながら、朝川は昨日の痛飲を悔いる。まあ飲んだ。飲み会前の風景をtwitterに写真付きでツイートした以降の記憶がおぼろだ。デスクから話を持ちかけられてから、モヤモヤ感をずっと抱えていたからだろうか。酒と煙草の量がいつにも増して多くなってしまった。
納豆をグリグリかき混ぜてからタレをかけ、ご飯をかき込む。これくらいしか食えそうもない、と諦める。
「ねぇ」
妻が口を開く。朝川はドキッとしてその顔を見る。
「"今日は"時間ある? ちょっとウォーキングに行きたいんだけど。妊娠中は軽い運動した方が良いから。一人だと不安だから、あなたも一緒に来て?」
これは断れない。直感的に朝川は首を縦に振った。本当は午前中は動きたくない。しんどいのだ。午後は大事な仕事があるし。そこまでに少しでも体調を整えたい。でも断れない。これは断れない。
「いいよ、いいよ」
もう安定期に入ったのか。朝川はふと思う。トラックマンという稼業は、競馬のレーシングスケジュールとともに急速に時が過ぎてゆく。日々があっという間に終わる。きっと、妻と自分の感じ方は、同じではない。妻は少しずつ、しかし確実に育っている我が子との時間、胎内に子がいてくれるその人生からすれば僅かな時間を、大事に大事に育んでいるのだろう。
初めての子供だ。時を共有できれば、それは理想的だ。だが、やはり仕事が優先になる。競馬は待ってくれない。競走馬が駆け抜けるその一瞬一瞬を追いかけていかなければ、人はあっという間に置いてけぼりにされてしまう。
そんな状況で、あの仕事を受けていいんだろうか。決断してしまったその後も、妻とお腹の子のことを思うと、もう逡巡しても仕方ないのに逡巡してしまう自分に朝川は戸惑っていた。
子供は、予定日どおりならば、ちょうど日本ダービーの頃に産まれてくる。その頃、俺はどんな気持ちなんだろう。朝川はその時のことを想像しようとしたができず、妻とのウォーキングに備えて重い腰を上げたのだった。
ラジオやテレビにはよく出る。とはいえ、現場はスタジオではなく競馬場のパドックにある放送席である。撮影スタジオというのは、全く違う雰囲気に感じられた。
スタジオ内では様々な人がそれぞれの仕事を必死にこなしている。この人たちそれぞれの頑張りで番組ができるんだ、と朝川は他人事のように思う。四月から自身が毎週出演するテレビ番組の番宣撮りだというのに。
テレビのレギュラーは初めてだった。放映は毎週水曜日、夜九時から一時間。中央競馬専門チャンネルでの放送であり、地上波でこそないものの、競馬ファンが多く視聴する番組になるだろう。
番組では、週末のメインレース展望をしっかり時間をかけて行うほか、その週もっとも馬券的にオススメしたい馬を取り上げるなど、馬券購入のヒントとなる企画が盛り込まれる予定である。その一方で、競馬場のグルメやオススメスポットの紹介といった特集を組むなどして、馬券以外の競馬の楽しさを伝える試みがなされるという。
出演者もバラエティーに富んでいる。メイン司会者は、中央競馬の実況アナウンサーとして知られるラジオKEIZAIの大葉速人アナウンサー。ラジオアナウンサーながら、テレビのアナウンサーに勝るとも劣らない長身のイケメンである。
朝川にとっても知らない顔ではなかった。競馬場を職場とすることでは同じなので、すれ違うことは多かったのだった。実際話してみると、見た目の印象どおり、実に気さくな好人物だった。
「朝川さんおいくつですか?」
「今年三十五になりますね」
「あ、同い年です」
「ホントですか!? もっと若いと思ってました。競馬実況始められたのもそんなに昔じゃないですよね?」
「私、はじめはテレビ局勤務だったんですよ。数年そこで働いてからラジオ局に中途採用されたんで。やっぱり、競馬が大学時代から好きで、『どうせアナウンサーになったなら競馬の実況したいな』と思って、ラジオKEIZAIに」
給料はガッツリ下がりましたけど、と笑う大葉アナを見ながら、なるほど、だからキャリアの割には歳がいってる気がしたのか、と朝川は納得した。しかし、中途と言いながら、大葉アナは現在では数多くのGⅠ実況を任されている一流実況アナウンサーである。実際、聴いていても実況に淀みがなくて上手いな、と感心させられるものはあった。
「…そういえば、下ネタ好きって本当ですか?」
朝川は、以前聞いたことのある噂をあえて直接ぶつけてみた。生半可なレベルではなく、相当エグいネタも繰り出してくる、と知り合いの某社トラックマンが話していたのを覚えていたのだった。
「誰が言ったんですかそんなこと? 全然ですよ! そりゃ毎週写真週刊誌はあらかたチェックしてるし、色々なDVDも持ってますけど……それだけですから!」
どうやら本物らしかった。アナウンサー、長身、イケメン。これだけの勝ち組属性を持ちながら独身なのが、何となく分かった。
「写真週刊誌はほぼグラビアのために買ってますけどね。グラビアアイドルは一期一会ですから。もちろん、長年第一線で活躍されてる方もいますけどね」
そう言って、大葉アナはその場にいたもう一人の司会者である榎本マユミに視線を向けた。『2016年版浮気相手にしたい女性ランキング』で初登場一位を獲得したその美貌。そして、決して心のうちを悟らせまいとするような、怪しげな微笑み。大葉アナのテンションがあからさまに上がっているのが手に取るように分かったが、正直俺も、と朝川は自覚している。週刊誌でグラビアを見たことも一度や二度ではない。写真やテレビの中の存在が目の前にあるのだ。上がらない方が異常だと思う。
番組での役割としては、大葉アナが全体の操縦役、榎本がバラエティ番組としての彩りを添え、朝川が競馬解説全般を担う、ということになる。
「とりあえず、競馬の話題は朝川さんにどんどん振りますから! やっぱり中央競馬専門チャンネルですからね、競馬の話が最重要です」
「…そりゃそうですよねぇ、頑張ります」
プレッシャーがかかる。メインレース展望では、紙面での自身の予想を先出しするような形になる。予想の当たり外れが、これまで以上に晒されることになるだろう。そう考えると、やはり緊張の度合いは増してくる。とはいえ、この状況は、自分自身が望んだことでもあった。
競馬ファンに知ってほしい。『駿馬』という思いのある人間が作っている競馬専門紙のこと。朝川征士というトラックマンがいること。そして、競馬そのもののことを、さらに。
競馬には人生の大部分を費やすだけの魅力があると、朝川は心底から思っている。それは朝川のみならず、周りのトラックマンもそうだった。実際に人生を賭した人もいる。それほどのものだと、どうしたらみんなに広く伝わるだろう。
最近は、仕事に忙殺されるだけではなく、伝えることを意識し始めていた。望んで始めたわけではないTwitterも、いつの間にか宣伝の域を超え、積極的に競馬の楽しさを伝えるツイートをするようになっていたし、今回バラエティ色の比較的強いテレビの仕事を受けたのも、朝川の中では、その流れの一環という位置付けだった。
もちろん、仕事は大切である。印の的中不的中は競馬専門紙の根幹だ。それにプラスアルファして、競馬そのものの魅力も伝えたいのだ。そのために、自分自身の余暇が削られようとも。
そういう意味では、俺も庄田さんに近づいてきている気がする。そう考えていると、これまで黙って微笑んでいた榎本が、口を開いた。見た目の印象より高い声だった。
「…私、馬券買ったことないんです。朝川さん、私に競馬のこと教えてね?」
いくらでも教えます、と瞬間口を突いて出た。これが非日常か、と身をもって体感したのだった。
『ライフ・ホース・オン』と冠された新番組。本放送まではまだ間があるが、今日の番宣撮りを通じて、朝川の決意は強固になったのだった。