Neetel Inside ニートノベル
表紙

約束の地へ
第7話

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月曜日。新宿のコーヒーチェーン店。
せっかくの休日だというのに、朝川は疲れた顔をしていた。
休日返上で、入社したての新人に仕事をレクチャーするよう頼まれていたのだった。
正直、お断りしたかった。土曜の重賞で大外しして、テレビ解説でもインパクトを残せなかった上に、翌日曜も紙面上の本命馬がさっぱり振るわず、休日は競馬を忘れてノンビリしたいと思っていた。
だが、今更断ることもできない。頼まれた相手が、『駿馬』予想陣の大御所・伊藤敏幸その人だったからである。また、その新人は、伊藤の姪っ子なのだった。余計断れない。
先輩としてへこんでいるところを見せるのもなんだかなと思い、なるたけ取り繕おう、と表情を引き締めて見せた。
「えーと、今日は悪いね、休みなのに」
「いえ! 朝川先輩こそ、こんなに早く来ていただいて申し訳ないです!」
こんなに早く、というのも、今日は夕方からこの新人、伊藤有栖(ありす)の歓迎会が新宿のとある居酒屋で催されることになっていたのだった。ただ飲み会は6時からなので、こんなに早く新宿まで出てくる必要が本来はなかったのだった。
ハキハキした子だ、と朝川は思った。
競馬専門紙の採用は狭き門である。業務が過酷であること、他者(厩舎関係者等)との意思疎通が問題なく行えるコミュニケーション能力が重要であることなどから、求人を行えばそれなりの希望者はいるものの、なかなかこれという人材に出会うことはない。
この子は、伊藤さんの姪っ子ってのも、そりゃあ理由の1つかもしれないけど……見込みがあるかもしれない。朝川は素直にそう思った。
まず、言葉遣いがしっかりしている。慣れれば崩れてくるだろうが、少なくとも何も知らない子ではない。
そして、とても元気そうだ。体力がありそうにも見える。小柄だからかもしれない。朝川は他社の女性トラックマンのことを思い浮かべている。小柄な人の方が長持ちしている気がした。
何より、笑顔が気持ち良い。さらに、世間一般的に見て可愛い部類に入りそうだった。可愛くてよく笑う子は人類の宝だと、朝川は常日頃から考えていた。
人事は良い子を採ったんじゃないか、と確信に近いものを持ち始めていた。
「…じゃあ、時間もないし早速始めようか。まず、伊藤さんは競馬のことどのくらい知ってるの?」
「自分で勉強してきた範囲で……ただ、正しく理解できているのか自信がないので、基礎から学ばせていただけたら嬉しいです! あと、アリスって呼んでください。駿馬で伊藤だと、叔父の方が連想されると思うので……」
それもそうか、と思った。細かいところにも考えが届く子だ。ただ、若い子を下の名前で呼ぶのも少々気恥ずかしくなる。あるいは周囲に要らぬ誤解を与えないか、という懸念もあった。少し距離を置いた話し方をしよう。朝川はそう決めて再び口を開いた。
「じゃあ……アリス"くん"は、競馬はどういうものだと思う?」
「競馬は……歴史の成り立ちではなくルール的な話ですよね? ええと、競馬は、1レースに最大18頭のサラブレッドと呼ばれる種類の馬で、設定された距離をいかにして早く駆け抜けるかを競うスポーツであり、その結果を予想するギャンブルです。距離は1,000メートルから3,600メートルまで、コース形態は芝とダート、など、様々な条件で施行されます」
「うん、厳密に言えば、地方競馬には800メートルなんて超短距離条件もあるし、いわゆるジャンプレース……障害レースだと、4,000メートルを超えるレースもあるけどね。海外競馬だと出走頭数のもっと多い条件もあるし、距離も6,000メートルを優に超えるようなものまであるそうだ」
「へぇ! 地方や海外のことはあまり知りませんでした……南関東競馬には昔連れて行ってもらったこともあるのですが」
南関東競馬とは、埼玉の浦和競馬場、千葉の船橋競馬場、東京の大井競馬場、そして神奈川の川崎競馬場の4場から構成される地方競馬のメッカである。賞金も他の地方競馬場よりはかなり高く設定されている。
「地方競馬はさらにディープな競馬ファンがやってる印象だね。平日やっているところも多いし、ファンの年齢層も高い。賞金も中央競馬という、農林水産省所管の法人……事実上国が行なっているレースよりもだいぶ安い。そのため、良い馬は中央競馬に集まる傾向が極めて強くなっている。中央の賞金水準は世界一で、馬券の売り上げもそうだ。馬券が売れるからこそ賞金が高いとも言える。ここ10年くらいで外国人騎手が日本に多く来るようになったのも、賞金の高さゆえってところがある。中央なら未勝利戦という最下層クラスでも1着賞金400万以上だし、それが馬主さんに8割、調教師に1割、そして残りを騎手と厩務員というその馬を世話する人で分け合う。このケースだと騎手は20万円もらえる。こんな国は他にない」
「さすが朝川先輩、勉強になります!」
そう言いながら手に持つiPhoneの画面上をとてつもないスピードでなぞるアリスを見て、やはり平成生まれの子だと思った。朝川には、紙にメモする以外の方法は取れそうもなかった。
方法は別に何でもいいのだ。身になればそれでいい。
「実は、叔父とはあまり競馬の話をしたことがなくて……採用面接でも、面接官のトラックマンの方に、他の受験者と比べたら競馬の知識が足りないと言われました」
アリスは肩をすくめて笑顔を少し曇らせた。自分より競馬に詳しく、もしかしたら情熱もあったかもしれない人間を押しのけてトラックマンの職を掴んだことに対する申し訳なさもあるのかもしれない、と慮った。
縁故は否定できない。そしてアリスにはその自覚もあるのだろう。
「…だから私は、そんな人たちよりも私を採用してくださったことで、会社の成長が少しでも鈍るのだとしたら、それはいけないと思います。私を採用して良かったと思ってくださるような仕事がしたいです!」
浅川は胸を打たれた思いだった。
この子は一人前にしないといけない。俺がする。今はまだ原石だ。でも磨けばきっと光る。それが翡翠かダイヤモンドかは分からない。
アリス 牝0歳
--産まれたてのサラブレッドのように、浅川の目には映っていた。
「…明日からしばらく、美浦支局に泊まり込めるか?」
「できます!」
即答。普通は迷いそうなものだ。やる気を感じた。
「今日だけじゃとても基礎は教えきれない。俺も一緒に泊まって、みっちり教えてやる。君を早く前線に立てるレベルまで持っていきたいから」
「ありがとうございます! でも、大丈夫ですか?」
心配そうな表情を浮かべるアリスを見て、ふと我に返った。相手はまだ大学を出て半年くらいの若い娘だ。かたやおっさん。不安になるのは当たり前だ。
「…大丈夫だよ、俺には妻もいるし、お腹の中には3ヶ月になる赤ちゃんもいるんだ」
朝川が言うと、アリスは不思議そうに首を傾げた。
「…朝川先輩が大変ではないかと思いまして……その話を伺うと、余計に心配になります。奥様のそばにいてあげたほうが良いんじゃないですか?」
「なんて……いや、心配ない。体調は良いし、なによりこの仕事のことをよく理解してくれてる。一週間くらい留守にしても許してくれるんだよ」
「優しい奥様ですね……」
なんて良い子なんだ、と口を突いて出そうになったところを止めた。これから指導する若者を事前に褒めすぎるとやり辛くなる、という思いが口を閉じさせた。
朝川は、店の請求書を手に取り立ち上がった。アリスが財布を開こうとしたところを、いいから、と制止した。
「このくらいは奢ってやるよ。先週大負けしたから飲み代までは出せないけど……」
「そんなわけには……」
「いいんだよ」
これは一種の投資だ。
「将来、駿馬の伊藤といえば敏幸じゃなく、アリス。そうなってくれるなら、コーヒー一杯くらいは安いもんだ」
アリスの笑顔の種類が少し変わったように、朝川には見えた。
「…朝川先輩、優しい」
この感情はなんだろう。今から遠い昔、ある時どこかに落としてきてしまった何か。
これは、そうだ、ときめき。
いやいや。
「俺には妻も子もあるから!」
「それは先ほど伺いました!」
伊藤アリス。
この子を、駿馬の看板に育てたい。
将来の駿馬のためだ。
朝川は、静かに決意した。

       

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