Neetel Inside ニートノベル
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約束の地へ
第8話

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水曜早朝、美浦トレーニングセンター。
人は皆、眠気を押し殺している。調教師や調教助手、騎手といった直接調教に携わる人達も、慣れているとはいえ、眠い。双眼鏡片手に調教を見つめ、タイムを取りメモ、とひたすら繰り返しているトラックマンも同様である。眠い、などと漏らしている暇もないほどに忙しい。何百という馬が、早朝から数時間の間で一斉に調教を終えるのだから当然だった。眠気を全く感じていないのは、もしかしたら馬だけなのかもしれないと、朝川はたまに思うことがあった。

「アリス時計!」
時計を見せてくれ、というわけではない。自分の担当馬場の採時を終えた朝川は、ポリトラックコースに移動し、試しにアリスに採時をさせてみたのだった。
ストップウォッチを押すタイミングが遅い、という意味で、朝川は鋭く声を上げた。
「…ボタンを押すタイミングが分かりませんでした……」
それは当然だった。アリスは何も分からない。調教は、レースのようにゲートから発走するわけではない。乗っている人間が馬を動かし始めてからがスタートなのである。また、仕掛け始めたその位置がゴールまで何ハロンの位置なのかも把握しなければいけない。もちろん、慣れている人間ならゴールでのタイムから走行距離を逆算することはできるが、それは、慣れてからの話である。
同じコースを走っているとしても、一頭一頭、調教の中身は微妙に異なる。だからこそ、双眼鏡で常に目的の人馬を視界に入れ、ハロン棒を通った段階でストップウォッチを止め、1ハロンごとのタイムをメモに控えておかなければならない。
その数字を元に、馬の能力や調子を読者は判断するのだ。ミスは許されない。練習でも厳しく言うのは、そういうことだと、アリスには分かってもらいたい。
「今は間違えてもいいよ。お前の計ったタイムが新聞に載るわけじゃないから。だけど、早くモノになりたいと思うなら、ここはすぐに覚えないと」
「ハイ!」
返事はいい。気持ちはまだ萎えてないな。
朝川も双眼鏡を取り、調教ノートを机に開いた。
「これから追い始める馬、見てるか?」
「あっ、はい」
「俺もやるから」
「えっ、あ、ありがとうございますっ!」
狭い視界の中、まだ標的は緩々と動いている。
鞍上が体を揺らした瞬間、視界には何もなくなった。人間の指示に敏感な、反応の良い馬のようだ。それに合わせて朝川は首を動かす。
『10』と書かれたハロン棒を通過したタイミングで右手の親指を動かす。採時が始まる。『8』の通過でラップタイムを取る。双眼鏡を置き左手でノートにタイムを書き殴りまた双眼鏡を両目に当てる。その繰り返しのうちに、人馬はゴール板を通過していた。
ノートには、馬を区別するためのゼッケン番号と騎乗者の名前、その下に1ハロンごとのタイムがメモされていた。それは象形文字のようだった。馬は1ハロンを速いときは11秒台で走り抜けていく。その間にメモを取らなければならない。書き殴りのようになるのも必然だった。それでも、ちゃんと自分には理解できるように書けている。積み重ねあってのことだった。
アリスの方を見た。机に突っ伏している。明らかに疲労困憊だった。
「大丈夫か?」
「…お腹が空きましたー」
朝飯食べてなかったのか。時計班は早朝から多大な緊張感のなかで業務にあたる。空腹では、こうして途中でエネルギー切れを起こす。
「…食堂行こう」
朝川が言うと、アリスの目に輝きが少し戻ったようだった。

アリスはあまり朝食を取る習慣がなかったのだと言う。
「この世界でいい仕事しようと思うなら、そういう生活習慣も変えていかないと……って聞いてる?」
「美味しいです……先輩、このきつねうどん……!」
疲れてる分、余計に美味く感じるのだろう。恍惚とした表情でうどんを啜るアリス。その様子を見ているだけで、朝川は心がほぐされる思いがした。
可愛いな。もし子供が女の子だったら、こんな風に育ってくれたらどんなに良いだろう、と将来に想いを馳せた。
「…ご馳走様でした! 落ち着いた。落ち着いたところで質問したいことがたくさんあります! いいですか!?」
アリスは表情をあえて強張らせた風にして、小さく立ち上がった。前のめりだ、と思った。
「初歩的なことかもしれないんですが……『ハロン』って、なんですか?」
そこからか。
朝川にとってはある種新鮮な質問だった。でも確かに、日常生活ではまず使わない言葉だもんな、と思い至る。よくよく考えれば、競馬でしか使わないような専門用語はたくさんある。自分があまりに競馬好きすぎるために、それが競馬に詳しくない人間には必ずしも伝わらないと気づくこともないほどに、朝川はどっぷりと競馬に両肩まで浸かっていたのだった。
「ハロンってのは、200メートルってことだな。よく競馬のレースを見てると、ゴールの後に、ゴール前3ハロンのタイムを言うだろ。あれは最後の600メートルのタイムって意味だ。3ハロン33秒ってのは、600メートルをそのタイムで駆け抜けたってことになるな」
「知らなかった! そうなんですね! ボルト選手でも200メートルは19秒台ですもんね、そう考えると馬ってとてつもなく速いですね……」
アリスは競馬好きの男にとっては理想の彼女かもしれない、とふと思う。競馬に詳しくないけれど、興味はすごくある。話もどんどん聞いてくれる。「話したい欲」をこんなに満たしてくれる女の子はいないだろう、と思う。少なくともウチの嫁さんは違った。
ただ、アリスは新米とはいえトラックマンだし、今後どんどん詳しくなっていく。今は素人に毛が生えた程度だが、加速度的にプロになっていく。こんなことを思うのも今だけだ、と朝川は自分を戒めた。少し寂しい気もしたが。
「さっきの調教は、5ハロン追いだったな。『10』の板から追い出した。タイムは何秒だった?」
「ええと……」
アリスは手元のiPhoneのメモ画面を見て答える。
「62.1でした」
朝川の計ったタイムは62.2だった。ほぼ一致した。初めてにしては上等だ、と思った。それにしても、スマホで採時できるものなのか、と思う。それが可能なら、読みやすさという意味では断然そちらがいい。アリスは相当操作に手練れていると、朝川は畏怖の念を抱いた。新しい世代だ。
「ハロン毎は?」
「4ハロン目が14.2、次が27フラット、その次が39.8、ラスト前が51フラットです」
「速めのタイムだな。ポリは時計速いというのもあるけど」
「ポリトラックって……」
なんですか? と言う前に朝川は解説を始めた。
「いわゆる全天候型コース、雨や雪の影響を受けづらいのがメリットだ。馬場は化学混合物で出来ていて、馬の脚にも優しいとされてる。他の調教コースと比較すると時計も早く出る。ただ、個人的にはここで良いタイムを出した馬は、予想ではそこまでアテにはしないかな」
「時計が早く出るから、ですか?」
「見た目の数字は良いんだが、中身が伴っているかどうかと言う話。馬に優しいってことは、逆に負荷が足りないとも言えるからな。そうそう、時計といえば、お前、今しゃべったタイムがそのまま新聞に載ると思うか?」
アリスは、10秒ほど考えたあと、答えた。
「…載らないと思います。紙面で見た表記は少し違ったような……」
「正解。計ったタイムを少し加工する必要があるんだよな。最後の1ハロンを何秒で駆けたか、一目で伝わるようにしなきゃいけない。読者の中には、時間に追われて馬券を買う人もいるってことを忘れちゃいけないんだ」
朝川はノートに書きながらアリスに調教の表現方法を説いた。
調教欄の見方は読者により様々である。例えば、全体の時計が遅くても、最後の1ハロンがずば抜けて速ければトップスピードの優れた馬と判断することができる。そうした馬は、実戦で先行勢が止まるような展開になれば末脚勝負で台頭してくる可能性がある。逆に最後に止まったとしても、全体時計が速ければ、ハードなトレーニングが課されたのだと考えられる。そうしたトレーニングが活きて本番で好走することも起こり得る。どこに着目するかで見え方が全く変わってくるのが調教欄なのである。
そのためには、ハロン毎の通過タイムでは分かりづらくなる。例えば最後の4ハロンを何秒で駆けたか、など一目で理解できるように作らなければならない。
「アリスの採時を使えば、全体5ハロンの時計が62.1で、最後の4ハロンの時計が62.1-14.2で47.9ってことになるよな。14.2は4ハロン目通過時点、つまり1,000メートルから800メートルまでのタイムだからそれを除くわけ。ほかも同じ考え方だ。3ハロンの時計は?」
「ええと……62.1-27で……35.1です。そうすると、2ハロンは」
「紙面では最後の2ハロンは省略するから考えなくて良い。ラスト1ハロンは?」
「62.2-51=11.2です!」
朝川は内心驚いていた。計算スピードが急に上がった、もう勘所を押さえたのだろうか。
「なんだか、数学の授業受けてるみたいです」
アリスは満足気に言った。少し成長できた実感があるのだろう。知りたい物事を理解できると嬉しい、その気持ちは朝川にもよく分かった。
「ただ先輩、1つ疑問が浮かんだんですが……」
「うん?」
アリスは朝川の顔を下から覗き込んで、問うた。
「なぜハロンを使うんですか? 距離表示板はメートル表記ですよね? その方が皆に伝わるような気もするのですが……」
考えたこともなかった。アリスの言う距離表示板は、実際には『ハロン棒』と呼ばれている。名前はハロンだが、10のハロン棒は、ゴールまで残り1,000メートルという意味である。なら『メートル棒』でいいのではないか。朝川もモヤモヤしてきた。普段当たり前すぎて意識もしないことに気がつくと、人間こうなるものである。
「にひゃくめーとる」
「え?」
突然棒読みを始めた朝川を、アリスが怪訝そうに眺める。
「いちはろん」
「はあ?」
朝川は、とりあえずの答えを掴んだ。
「…競馬は時間に追われるスポーツでありギャンブルだ。テレビやラジオの解説でも、時間をなるべく短縮しなければいけない。つまり……」
アリスは朝川の答えを読み解いた。
「ハロンの方が!」
「そう、文字数が少なく済む!」
決まった。朝川とアリスは、顔を見合わせて笑った。これでいいや、と朝川は思う。仕事の話題で、こんなに会社の人間と楽しく話せたのは久し振りのような気がしていた。
そんな2人に近づいてくる影があった。
「楽しそうやん。朝川さん、新しいコレ?」
左手の小指を立てながら、スキンヘッドの男はニタニタ笑って言った。
古い、とアリスが小さく呟いたのを、男は聞き逃さなかった。
「そら古いわ、こちとら昭和46年製やぞ! 見るからに平成産のお嬢ちゃんから見たら化石みたいかもな〜」
かいらしわ〜、と何度も繰り返した後、朝川を見て、急に渋い顔になって男は言った。
「朝川はん、犯罪やで」
「…古城さん、俺の結婚式きてくれましたよね?」
古城勝、調教助手。
関東ナンバーワン厩舎、竹淵厩舎の番頭格である。

       

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