熱いトタン屋根の上
14話…僕が眠るのは君の夢を見る時
「で、井上お姉ちゃんの昨日から急な心境の変化の理由は?」
二人分の昼食パンとコーヒーカップを載せたトレイを抱え、俺は彼女が「どうぞ」と促
してくれた食堂のオープンテラスのベンチに腰をかけた。座る直前、身を屈めて俺の買っ
たパンを物色する彼女のキャミソールの胸元からブラジャーが見えた。やばい……。
「朝さ、桜井君が」
「アイツが?」
先日の俺のマネジ勧誘では沈黙を守っていた桜井が、この如何ともし難い状況に一石を
投じたのであれば、それは喜ばしい事だろうが……
「いやー……『どうしても』ってねー、彼が」
俺の昨日の熱意を、桜井は一瞬で超えたようであり……なんとも微妙な心境を抱えての
目標達成は、倒してもいないのにクエスト達成を言い渡されたハンターの気分だ。
ともあれ、我が部に無事女子マネジが誕生したワケだが
「ほらぁ!転んで捕るようなボールじゃないよ、最初の一歩が遅い!」
就任一日目から張り切ったこの声を上げている。往々にして初日は仕事を覚えたり、他
の部員との顔合わせ等で、緊張やらがあって大人しいもんだと思っていた。
中学時代にだって何か大イベントの前でもなければ体験する事もなかろうペースで鬼の
ような地獄ペッパーを、今まさに俺は喰らっている。
「五人しかいないから、練習の……手伝いは、助かるけど……!」
「喋る余裕があるならさっさと構える!」
鬼コーチになってくれと言った覚えは無かった。
「おー……こわっ!」
鬼コーチ、井上さんの背後で投球練習をしている健太郎が、笑顔になりきってない表情
で感想を述べた。
部活の時間が終わるなり井上さんは、気合たっぷりにジャージを身に纏い、のっけから
俺達の練習メニューに付き合い出した。始めこそ、そういう女の子に物珍しさを覚えて桜
井なんかは気を緩めっ放しだったが、息を上げることもなくアップをこなしてキャッチボ
ールを始めた頃には、この時ばかりは予見に一日の長があった俺を除いたメンバー全員が
自分の態度を改める事なっていた。
女の投げる球じゃねぇー、というのが桜井の率直な感想だった。軟式とは言え、小中と
野球やってきたのだから、それなりにやるだろうとは思っていたが、これは想定外……だ
そうだ。
「なーに、佐々木お兄ちゃんはMなの?ねぇペッパー増やして欲しいの?」
そうだった、確か彼女の在籍していた軟式クラブはコーチ陣が厳しい事で有名だったの
だ……くそっ、早くも後悔してきたぞ。
バァッン!!
「しゃぁ!」
ここ数日で急速に聞きなれたこの音が、目の前がグラグラと揺れ出して意識が遠のいて
いこうとしたその時に聞こえてきた。
「ナイボー、ピッチ!五球目!」
健太郎の方を振り返り、井上さんが持っていたボールを手から溢して動きを止めた。
「お、ナイス健太郎」
この隙に呼吸を整えよう。井上さんは、もうじき太陽の光が入らなくなるこの裏庭に響
く剛球が奏でる音色を前に、野球経験者としての至極予想に難くないリアクションをとっている。
少なくとも数年は放置されていたんだろう、この部室のロッカーには埃に覆われていて
惨憺たる状況だ。陽も当たらぬ部屋の隅に置かれたボールバックの封印を解いて(ひどく
錆び付いていて、桜井のフルパワーでやっと開いた)、取り出せた硬球の数は
「さぁっん個!!」
部室に転がってたボールと足しても、両手と両足の指で数え切れた。
馬鹿みたいにテンションを上げないと泣きたくなる。これでどうやって部費が確保出来
ていたのか、非常に興味深い。我が校は、結果はともかく活動実態をきちんと報告すれば
ある程度の必要経費は部費として生徒会会計部より支給されるそうだ。しかし、ボールを
使っている気配がまるでない状態で一体……。
目の前に立ちはだかった想定外の障害に、一番肩を落としていたのは井上さんだった。
先日の部員集合の惨憺たる光景を目の当たりにしている俺達にとっては、あってはならな
い免疫が出来ていた。
「まぁまぁ、ボールの数がイコール部の強さってワケじゃ……」
桜井が必死にフォローする。その無駄な明るさは、どうやら井上さんの癇に障ったようで
「ボールを縫うのが楽で良いけどね……」
非常にトゲのある暗い返事で、桜井を逆に絶句させた。
「………」
「………」
中庭への道すがら通る、陽の当たる駐車場にしょぼーんと下を向く五人の足音と、とり
あえずの練習道具を積んだ台車を押す音だけが響いていた。
「でもさ、今の井上さんの発言ってさ……井上さん嫌々じゃないって事だよね。なんか安心した」
健吾がなんだかピントのずれた発言をした。俺達は呆気に取られて、顔を見合わせながら
「ふっ……」
含み笑いをした。井上さんは多少呆れながらも、『しょーがない』みたいな顔で肩を揺ら
していた。
その時だった。
「だからさ、ここで定義した数値がこの時にシステムに干渉しちゃってるんだから」
C言語の教書を広げながら、仲間と並んでこちらへと歩いてくる、我が野球部のキャプ
テン……ジョシュだったな、彼の姿だった。眉間にしわを寄せ、難しい話をしている。
「チャーッス!!」
それは殆ど不意打ちのような、鼓膜をつんざくような大声で俺達は挨拶をし、会話に夢
中になっていたキャプテンは吹き飛ぶように驚いていた。
「お、おぉ……これから練習?……そりゃおつか」
狼狽しながらも俺達の姿を見渡して、キャプテンらしい労いの言葉が口を吐いた……そ
の途中で彼の動きが止まった。その視線の先は……言うまでも無く井上さんだった。
「……れ?」
ジャージ姿の彼女を見て、頭にちょっとした混乱が訪れているようだった。
「先日から野球部のマネージャーになりました、井上麦です!よろしくお願いします!」
元気の良いはつらつとした声と、太陽みたいに眩しい笑顔だ。自分の役割を理解した上
の笑顔とは言え、俺にも練習中それを見せて欲しいものだ。
「あ、え……えーと、野球部のキャプテンのジョシュ・長岡ね。よろしく」
キャプテンの動揺が手に取るように分かる。
「はい!がんばります!……でもキャプテンは練習に参加はしないんですか?」
うーん、白々しいというか……策士だ。
「あ、えっとね……うん。今日は予定がね」
練習なんてしてたまるか、みたいなスタンスの足下にテコが挿し込まれたのだろう、そ
んな表情のキャプテン。振り返れば、彼女の後ろを固める健太郎や桜井の顔には『あと一
歩!』の文字が読めた。
「そうですか……残念です。でも明日もありますよ!キャプテン待ってます!」
おー、キャプテン……見事に顔が引きつっている。これは面白い事になった。
桜井、見えない所でガッツポーズをしてくれ。
「予想外だ……」
「うん、見事に」
井上さん出現に伴い先輩部員のモチベーションアップ、練習がまともに出来る……そう
いう算段だったのだが
「一日で挫折か」
(動機は不純だが)部活に来てくれた先輩達に一番テンションを上げたのは健太郎でも
桜井でもなく
「ま、まぁ……井上さんは一生懸命やってくれただけで」
さっきからずっと足下に視線を落としている彼女なワケで……。
「いや、まぁ先輩達の根性云々よりもハードルの高さもあったような」
健太郎の正直でいて傷口に塩を塗る一言、健吾が後ろから彼の脳天にトニー・ジャー
顔負けの肘打ちを喰らわせた。
部員が揃い、野球部の記念すべき本格的再始動かと思われた昨日、やる気満々の井上さ
んが先輩相手にも日頃の俺達に対する鬼コーチの姿を見せてしまった。当然と言えば当然
の彼女の行動だったが、翌日の俺達を避けるような先輩達の行動も至極必然と解釈出来る
だけに、この帰り道に落ち込む井上さんをフォローする言葉がまったく見付からない。
「とりあえず……俺の家で話そうかみんな」
雰囲気の暗い俺達を、一番後ろで歩いていた桜井が誘った。みんなで振り返る。
「茶ぐらいは出るよ……や、別に話すのは明日でも良いけどさ」
真新しいエナメルバッグを揺らして、健吾が
「おーおー行く行く!!だってお前の家……」
健吾がこうも食い付きの良いのは、何を隠そう桜井家が我が校の初代理事長と旧知の仲
でいて、現在の最大のパトロンだからだろう。これは過去のPTA会報を何気なく読んでい
た健太郎が桜井の名前を発見し、その本人に聞いた所判明した事だ。高校生活を野球に集
中したい彼の強い要望で仲間内だけの秘密にしているが。
バスで十五分くらいだ、と言った桜井の案内で京王バスに揺られて、降車後に歩いて程
無くすると、俺達は『そんな感じ』の家々の並ぶ住宅街に足を踏み入れていた。
「死ぬ程おっかねぇ番犬のいる家とかもあるから……あまりジロジロ見るなよ」
前日にニコニコ動画で、秋山森乃進が実況プレイするクロックタワーにおいて主人公が
犬に噛み殺される場面を見ているだけに、身震いがする桜井の忠告だった。
「それではようこそ、我が家です」
我が家は犬小屋ですね、分かります。
汚い部屋ですがどうぞ、と通されたのは桜井の部屋。部屋の中にブルペンが作れそうな
程に広い。俺達みたいな庶民が広い部屋で生活すると、空間を持て余して寝て一畳の範囲
に生活臭が集中し落ち着くところだが
「すごーい……部屋綺麗だねー」
桜井はこの床面積を余す事無く、家具などを配置している。朝に起床してから家を出て、
帰宅して服を着替えソファに落ち着く……そんな一連の流れをスムーズに行えるような、
工夫された配置のような気がする。
座り心地の良いソファに座らされて、程無くして使用人と紹介されたおばさんが出して
くれた紅茶を俺達は啜っている。どうも現実感に浸れないのか、見事なくらいに桜井以外
のメンバーが沈黙を貫いていた。
「……で、だ。そろそろコント的な展開は止めにして、どうすれば良いかを」
桜井が俺達を一瞥して口を開いた。その時だった。
「兄さん、帰ってるの?」
がちゃり、とノックも無くドアが開かれて、澄んだ声が部屋に飛び込んできた。
「!」
一斉に視線がドアに集まる。
「琉璃……」
「あぁ、お客さんがいたのね。ジャマしちゃってごめんなさい皆さん」
「あぁ……ただいま」
ドア越しに聞こえた声の主が姿を現して、桜井がその主を紹介した。
「妹の、琉璃ね」
そう言って、次に俺達を妹さんに紹介した。兄がお世話になっています、と言って彼女
はお辞儀をした。
「目元そっくりだけど……妹とは思えないくらい可愛いね」
流石に失礼なセリフなので、井上さんが耳打ちで感想を述べた。
耳がわずかに覗けるくらいに短い髪だけど、穏やかな目鼻立ちとほのかに朱に染まった
頬のお陰で、それ程活動的なイメージはなくて、むしろ儚さの漂う女の子だ。
「……さて、ちょっと俺はライティングの課題が残ってるからそろそろ」
健太郎がおもむろに立ち上がって、そう言った。確かに、言い方は悪いが空気をかき回
された感じだった。
「お茶、ご馳走様。おいしかった」
「お、ちょ……おい」
健太郎に倣い、俺達三人も荷物をまとめる。
「それじゃ桜井、明日は市民公園使えるみたいだからバット持って来いよ」
「じゃあね」
「グラブオイルありがとう、手入れやってみるから」
「あ……と、いけね」
桜井の家を後にして五分くらいか、ハッとなってバッグの中を確認して気付く。
「佐々木のあんちゃんどうしたの?」
井上さんの俺の呼称がまるで定まる気がしない。ただ、今はそれどころじゃなく
「課題が入ったメディア……置いてきた、あいつん家に」
「バカ……なんの為に気遣ってお暇したのかな」
明日提出の必要があるレポートを保存したUSBメモリだった。これが未提出になると今
期の試験が万が一芳しくなかった時に、単位を落としかねない。
「あー今日学校で仕上げたデータだったのに……家にあるのじゃ、あーくそ!」
多少面倒だが、桜井の家に戻った方が良さそうだ。
「あー先に行っててくれろ、バスが来たらそれに乗ってね」
『無論!』
「オムロン!」
走るのにも微妙に面倒な距離だった。このセレブ街では、住人はきっと走る必要のない
生活をしているのだろう。不備などパワーでなんとやらだ。
程無くして、桜井家に到着した。
俺達がうるさかったのだろうか、俺達が野球部について話し合っていた先程とは打って
変わって、屋敷全体を静寂が包んでいた。
「おじゃま…しまー」
呼び鈴を鳴らす事数回、中からの返事が得られずに、仕方なく扉を開けてお邪魔する事
にした。西洋風のお屋敷っぽい廊下を小走りに、まっすぐ桜井の部屋へと向かった。ドア
は半開きで、かすかに灯りが漏れていた。中からはティーカップを鳴らす音が聞こえ、誰
かしらの気配が感じられた。
「ん……?」
一応のノックをしようと、扉に手を掛けたその時だった。
「兄さん……また、野球を?」
さっきの妹さんの声だ。
「あぁ……言うのが遅れた」
二人でお茶会ってヤツか。中の良い兄貴と妹だ。
「だからなんだね、近頃は私につれないのは。ちょっと前はあんなに遊んでくれたのに」
「……すまない、あの時はお前しかいなかったから」
「お……じゃあ今は」
含むような笑みが感じ取れる口調の妹、琉璃の声だった。
「……琉璃、俺は」
「言わなくて良いよ」
カチャリ、とジノリのティーカップがテーブルに置かれる音か。桜井の張り詰めた沈黙
が伝わってきた。もはや「やぁやぁ……課題のレポート忘れて」なんて言って凸出来る雰
囲気じゃない。盗み聞きももっとタチが悪いが。
「兄さんが……同情でこうしてくれているのは、私も納得ずくだよ。優しさは……」
「………」
「例え兄さんのでも……背中にナイフ突き付けられてるみたいに、危ういの」
途中からまったく話が飲み込めなくなってきた。野球をまたやり始めたから、一体なん
なんだ。
そう考えていたら、中からわずかに衣擦れの音が聞こえてきて、そして
「……んッ!ふぅ」
「あっ……」
最初はかすかに、すぐにだが徐々に大きく……息遣いが耳に届き
「……おいおい」
じゅるじゅると、吐息に混じって何かを啜る音がした。
「あんッ……。ねっ、ねぇ兄さん……!」
「うん……」
「ぎゅっ…って」
これって、ディープキス?近親相姦?なんてエロゲ?
二人の息遣いは更に荒くなり、一際激しく啜る音がすると
「あああああああッあぁん、……兄さん!」
琉璃ちゃんの艶っぽい嬌声が廊下にまで響いてきた。
「………」
なんだか居た堪れなくなってきた。それに万が一こんなトコロ他の家の人にでも見られ
たら……。
課題レポートは帰宅したら記憶を頼りに仕上げよう。徹夜作業になるだろうが、明日桜
井の顔を見た時に普通でいられるよう、練習もしなければ……。
そう考えながら踵を返して、忍び足で俺は立ち去った。