Neetel Inside ニートノベル
表紙

短編
後半

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 窓の外には朝から雪がちらついていた。暖房をつけても一向に温まらない。僕は頭から毛布をかぶっている。それでも寒い、何をしても鳥肌がおさまらない。
 僕はスマートフォンを手に取りたくなかった。しかし、放っておいたらもっとひどい事になる。そんな予感がした。ロックを解除して電話アプリを開く。「履歴」をタップ。ゆっくりスクロールして……。昨日の番号。間違いなく、登録済み。
 それはどう見ても見覚えのない番号だった。
 番号をいちいち覚えているわけではないが、先にも言ったとおり僕は交友関係が極めて限られている。父、母、実家、大学、バイト先。これが僕の知っている番号の全てだ(友人とはラインを使うんだよ、半年に一度ぐらい)。
 昨日かかってきた番号はそのどれでもなかった。
 削除しろ。削除しろ。僕の中の冷静な部分が語りかけてくるが、指が勝手に連絡先リストの中にその番号を探していた。
 あった。



 『わたし』



 ……誰だ。
 違う、きっと僕が間違って登録してしまったのだ。やっと僕は震えながら該当する履歴と連絡先を削除し、一息ついた。かけ直す勇気など起きるはずがなかった。
 もうあそこには絶対に行かないのだから、変なことも起きない、と無理にでもポジティブに考える事にした。せっかくの休日をふいにしたくない。それに、僕の1番の関心ごとであった村上さんのことも、もう考える必要は無くなったのだ……。
 しばらくネットを見てぼーっとしていた。雪は降り続け、隙間風がますます冷たくなった。昼になって、またカップ麺を開けた。冷ややかな暖かさとでも言うのか、部屋の中独りでしょっぱい麺を食べると、なぜか悲しくなってくる。
 僕はパソコンでyoutubeを流しっぱなしにしていた。面白動画とか、ハプニング映像集とか、何も考えたくないときに頭に流し込むと全て忘れられる。面白フラッシュとか。たまに懐かしい動画が流れてきたりして、思わず笑ってしまう。
 監視カメラに映った間抜けな強盗なんて最高だ。いくら見たって飽きない。テレビで見るより、ネットで発掘したほうがより笑えるというものだ。次に空がずっと流れるだけの動画が表示された。何処かの国の空だろうか、空気が澄んでいてとても綺麗だ。
 次、森の中の映像。
 次、夜の映像。やっぱり僕は風景を眺めるのが好きだ。
 次、街の映像。NYの街角、シャッタースピードの遅い、光のラインが尾を引く。僕の視聴履歴から好きそうな動画を流してくれる機能は割りと重宝している。
 次、別の街。アムステルダムってこういう街なのか。
 次、北海道。白銀の世界、一度行ってみたい。
 次、また街だ。繁華街に人が溢れ、仕事終わりの会社員が連れ立って居酒屋へ入り僕はノートパソコンを反射的に閉じた。
 僕の撮った動画だった。
 それは紛れもなく僕のスマートフォンで撮ったタイムラプスだった。
 僕は気配を感じてまた後ろを振り返った。誰もいないと知っているのに、本能は、そこに誰かいる、としきりに訴えかける。前を向く。ガラス窓から僕が僕を見つめていた。鼓動が強く胸の内側を打つ。外は風が強くなり、いつのまにか薄暗い空が広がっていた。
 ……心臓がおさまるのを待って、ノートパソコンを開けた。きらめく街の移り変わり、見慣れすぎた街の風景。
 タイトル「19」再生回数2。
 投稿者名「Nishifu」
 ぞっとした。
 僕じゃない。
 僕は絶対に投稿していない。
 その隣に顔のない人型の丸いアイコンがある。クリックする。投稿動画一覧を見る。全動画14本、それらはすべて僕の撮った映像だった。タイトルは全て数字だ。「24」「17」 「8」「16」「13」「5」「7」「14」「26」「4」「11」「19」「28」「6」
 意味がわからなかった。投稿日時を見るとどれもばらばらで、規則性があるようには思えない。最新投稿日時は3日前、僕が雑居ビルに行くのをやめた前日だった。そうか、あのビルにいる誰かがやったんだ、従業員がいたずらで投稿したんだ。そうに違いない。しかし、屋上においたスマートフォンの個人情報は全て削除してあったことを思い出した。僕の名前など知るはずもない。
 いや、どうにかして知ることができたら?知ることのできる存在だったなら?
 僕は「13」の動画をクリックし、タイトルの意味を色々類推する。奇数とか、偶数とか、フィボナッチ数列とか、そういう類のものだろうか?それとも、不吉な数字か?「13」「6」「9」「4」……
 動画は単なる街中の風景で、何もおかしなものは映っていない。僕が編集したものだ。「26」も同様だった。「11」「19」「28」「7」……。心臓が再び跳ねた。あいつが映っていた。「7」。「6」「5」「4」いる。近づいてきている。「8」を見た。すると、ずっと遠くに、注視しなければわからないほど遠方にあの影が微動だにせず立っていた。
 僕はようやく数字の意味するところを理解した。
 単純な並び。
 カウントダウンだ。
 これはクリスマスへの日数なのだ。
 
 いてもたっても居られなくなった僕はあの雑居ビル周辺の事故物件や事件を大島てるで探した。今まで興味本位で覗くサイトだったし、それに事故物件など気にしたことがなかった。日本中で人は死んでいるのだし、気にしていたらキリがない。そう思っていた。でも、今、僕は吐き気を覚えながら雑居ビルを探している。
 周辺には、都内なので当然だが数多くの炎マークがついていて、「飛び降り」「焼死」など物騒な字面が並ぶ。「女性 自殺」どの建物かストリートビューで確認する。僕は戦慄した。あの雑居ビルだった。
 それに、炎は一つだけではなかった。四つも密集していて、
 「女性 飛び降り」
 「女性 殺人」
 「女性 自絞死」
 ——薄気味悪さを覚える。
 ビルの名前を検索した。すぐに10年前のニュースの見出しが出てきた。
 「女性自殺か 複数死体見つかる 風営法違反で風俗店摘発 時間外労働、違法客引きも」
 聞いたことのあるニュースだった。今更、あの空きテナントの多さに納得した。そして自分の浅はかさを呪う。誰も屋上にいないわけだ。そして、読み進めていくと、僕は頭がぐわんと揺れるような衝撃を覚えた。
 「2007年12月25日、女性の変死体を従業員が発見。死後数時間が経過しており、警察は自殺の可能性が高いとして捜査を進めている。女性は自らの首をロープで絞め自殺を図ったと見られている。……」
 さらに調べてゆくと、一つのスレッドが見つかった。あの雑居ビルで起きた事件を語るというものだった。それによると、やはりこのビルの屋上の眺めは最高らしく、よく何も知らない人々が屋上から写真を撮っている、とのことだった。実際に”写って”しまった人もいるとか……。流石に動画を撮っている人はいなさそうだった。
 「ここはマジで肩が重くなる」
 「なんか首が締められるような感覚するんだよね」
 「あ れ .気づいたら本当にまずい」
 僕はこんなこと全く知らなかったのだ。僕はあの場所を必死に思い出そうとする。確か、地蔵や死者を弔う類のものはあのビルになかった。ここでまた馬鹿な考えが僕の脳裏をよぎる。ありえない、絶対にありえない、……。誰かに相談したかった。だけど、僕にそんな仲の知人はいなかった。
 僕は大島てるのページを閉じた。またあの動画のページが現れる。そのとき、僕は妙なことに気がついた。
 投稿動画数が増えている。
 それは僕の動画の数と同じ14本分投稿されていた。合計28本となった「Nishifu」のページに、青白い画面の動画がズラリと並んでいた。それぞれ微妙に角度が違うが、同じ部屋のようだ。……また僕の心臓が早鐘を打つ、僕はなぜか疲れ果てているのに、危機感を伴う焦燥に駆られていた。
 なぜなら、僕はその部屋を知っていたからだ。
 一番右上にある動画をクリックする。
 間違いない。
 バイト先の、百貨店の更衣室だ。
 それは編集もされず8時間分の尺があった。僕はバーを動かす。すると動画開始から4時間後に僕の顔が映った。僕の間の抜けた無表情がこちらを見つめている……。時折ニヤリとする。僕の顔はこんなに気持ちが悪かったのか。バーを飛ばす。僕は画面から去り、また4時間経過して、動画は終わった。何も映っていなかった。動画タイトルは僕のタイムラプスと同期していた。同じ日付に撮影されたものということだろう。
 僕はほとんど無意識下で全ての動画を確認していた。あいつがいないか。あいつの正体は。心霊関係の話をしていたり、怖い話を読んだり語ったりすると、本物の霊が寄ってくる、という。僕はそれを今リアルに体感していた。本当は、こんな動画を見るべきではない。すぐにページを閉じて履歴を削除しなければならなかった。なのに、僕はあいつを探していた。ほとんど時間も忘れて動画に没頭していた。気づくと窓の外はすっかり暗くなり、時刻は午後8時をさしていた。
 僕は最新の動画「4」までたどり着いた。バーをひたすら動かしていたが、手が疲れてしまい、動画を流しっぱなしにして一休みすることにした。僕はまた昼と同じカップ麺にお湯を注いで、パソコンの前に戻った。
 僕の足に熱湯がぶちまけられた。
 その時僕は、初めて 気づいた。
 僕は”見ていた”のではなく、”見られていた”ということに。
 あらゆる画面を通して、あいつは僕を監視していた。僕があいつを見る時間だけ、あいつは僕の所に向かってくる。
 白い顔。
 画面に映るどアップの真っ黒な目。
 僕は衝動的にディスプレイを破壊していた。
 ノートパソコンを床に叩きつけた。キーボードが雨のように床にバラバラと跳ね、狭い部屋に散らばった。次に僕は机の上に置いてあったスマートフォンを手に取り、窓に投げつけた。その瞬間窓にヒビが入り、スマートフォンが落ちてガシャンと画面が割れた。気道の奥が締め付けられるように苦しかった。肩が重く、砂袋でも乗ったかのように腕を持ち上げるのが難しかった。
 僕は何かを叫んでいたように思う。だけど声がどこから聞こえているのかわからなかった。とにかく自分の持っている画面を破壊しなくてはならなかった。立っている床が徐々に垂直になるような錯覚を覚え、僕は立っていられなくなって、次の瞬間には電子機器の残骸に頬骨を打ち付けた。僕は冷たい床を這って、スマートフォンを完膚なきまで破壊するため中に入っている基盤をめちゃくちゃにへし折った。ノートパソコンを踵で踏みつける。
 唐突に玄関のチャイムが鳴った。
 僕は固まった。出ないでいると、ドアをノックする音に変わった。僕はそれでも頑なに玄関に背を向けていた。そのうち、猛烈な勢いでガンガンガンガン!とドアを叩く音がした。
 (きた)そう僕は直感した。
 僕は十分な時間、《あいつ》を見てしまった。
 シンクに放置されていた包丁を掴み、僕は玄関に一歩づつひたひたと近づいた。買って数回しか使ったことのない包丁が鈍い光を放つ。「殺してやる」僕は柄を固く握り締めた。「やってやる、やってやる」うわごとのように呟いた。ドアに額がくっつきそうなほど近づいた。のぞき窓は、あいにくいつも塞いでいた。
 ノブに手をかける。膝ががくがくと振動して、大粒の汗が額を流れた。暖房のせいだろうか。暖房がききすぎているのか。「はあー、はあーっ」不規則な息がドアの表面に結露を作る。回すまでが妙に長く感じられた。
 僕はドアノブを突き放すと同時に、《あいつ》目がけて、包丁を持つ手を振り上げた。



 「きゃあっ————……!」
 「えっ!?」
 そこには村上さんが怯えた目をして立っていた。
 「あっ、えっ、西府……さん……!」
 高くあげた右手が石にでもなったかのように硬直して動かない。目の前にあるものがぼやけて、僕は目をしばたたかせた。何が何だか分からなかった。でもそこにいるのは確かに村上さんで、両手を僕に抵抗する姿勢で交差させて顔の前にかざしている。
 「や、やめて」
 僕はやっとの事で包丁を持つ手をおろした。「どうしてここに……」
 「すごい音、聞こえたから……それに叫び声も……泥棒とか、入ったのかと思って……」
 僕はやっと我に返って、部屋の中を見渡した。ガラス片と血が部屋中に散乱していた。ひどい有様だ。
 「やだ、大変!西府さん、顔、顔」
 村上さんがしきりに僕の顔を指さす。手を当ててみると、血がべったりと掌についた。
 「待ってて、今救急箱取ってくるから!」
 「あ、お構いなく、……」
 村上さんは自分の部屋に慌てて走っていった。




 「……信じられないかもしれないけど、そういうことがあって」
 僕は村上さんに一部始終を話した。
 彼女は僕の頰にマキロンをふっかけ、ガーゼを貼ってくれた。痛かったがそれ以上に村上さんの指が触れるたびにドキドキした。卵型の綺麗な爪が器用にテープを切る。今まで女の人の爪など気にすることなどなかったが、彼女のピンク色の爪は作り物めいて美しいと思った。彼女にそれを言うと、「硬化させてるからね」と少し得意げに言った。爪をつるつるにする機械を使っているらしかった。
 村上さんは話を親身になって聞いてくれた。少し怖がっているようで、申し訳なく思ったが、とにかく彼女は疑わずにちゃんと僕のことを信じてくれた。
 「その……それで」僕は思い切ってあのことを相談してみることにした。「あの雑居ビルには、地蔵も、神社も、死者の霊を鎮める物は何一つなかったんです。だからまだ、死んだ女性の霊が留まっているんじゃないかと思っていて……。僕に”憑いた”んじゃないかと心配しているんです」
 流石に村上さんはゾッとした表情を浮かべた。
 「あ!すいません、こんな話、ありえないっすよね……」
 「う、ううん、そんなことないって、信じたいけど。でも、お祓いとか行っておいた方がいいのかも」
 もしかしたら彼女は幽霊を本気で信じる類の人なのではないかと思った。他の人なら一笑に伏すところを彼女は真剣に聞いてくれた。それはありがたかったが、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
 「うん。そうだよ、お祓いに行けば大丈夫。お正月も近いしちょうどいいよ、一緒に行こう」
 「え?」
 僕は自分の耳を疑う。
 「だって、このまま不安なまま生活するの辛いでしょ。お参りのついでに行こうよ。西府くん、一人じゃ心細いでしょ?」
 彼氏とお参り行くんじゃないの?
 「ええと、村上さん、お正月とかご予定あるだろうし、僕なら大丈夫ですよ」
 また僕はバカなことを言う!
 「うーん、仕事も休みだし、一人だし。もしかしてお節介だったかな」
 「え、いやいやいや!!そんなことないです!じゃあお言葉に甘えて!」
 僕は目の前がパーっと開けてゆくのを感じていた。
 ”お友達”は、本当に”お友達”だったんだ!
 じゃ、決まりね、と村上さんは笑った。「それまで身体、大切にして。ゆっくり休んだ方がいいよ」村上さんは救急箱を携えて部屋から出て行った。甘いフローラルな香りが僕の部屋を満たしていた……。



 クリスマスイヴの百貨店の人出は凄まじかった。目まぐるしく商品の配置が変わり、僕は何回も両替のために往復させられた。あの更衣室に入るのが怖くて、僕は家から直接制服を着て行った。明日行けば終わりだ、と自分を奮い立たせた。
 僕は幽霊への恐怖心が薄れてゆくのを感じていた。村上さんのおかげだった。あんなにびくびくしていたのが嘘みたいだった。それでも帰り道、あの雑居ビルは避けて駅に向かった。ただ一つ引っかかっていたのは、ビルのスレッドの「 気づいたらまずい」というレスだった。




 最寄駅から家まで歩く道すがら、僕は正月にどこの神社へ行くか考えていた。バスか電車で行けるところになるだろう。免許を取らなかったことを今さら悔やんでも仕方ない。それかちょっと遠いところに出かけるとか……。計画を練るのはなんて楽しいんだろう。なんだか夜空がいつも以上に輝いているように見えた。僕はケーキをいくつか買ってきていた。村上さんと食べようと、少し高い上等な店に入って選んだ。別にケーキを隣人にあげるぐらい普通だろうと言い訳をして。
 保冷剤の関係で僕はやや急いでいた。早く冷蔵庫に入れないとチョコが溶ける。僕は部屋の鍵をポケットの中で探しつつ歩いた。ようやく、アパートが見えてきた。
 あれ?
 うまく言えないが、アパート全体に違和感があった。
 立ち止まって、部屋を一階から二階まで見渡す。いつもと何かが違う。僕はそっと後ずさり、身を隠して様子を伺った。電気の点いている部屋と、点いていない部屋。住民の自転車。いつもと特に変わったところはない。しかし、確実に何かがおかしかった。
 僕はじっとアパートを観察する。
 そして、重大なことに気がついてしまった。
 
 僕の部屋に、誰かがいる。
 
 明かりのなか、カーテンに影が浮かび上がっていた。せわしなく何かを探しているように、僕の部屋を行き来している。脂汗が吹き出した。僕はその場に凍りつく。ケーキの紙袋を持つ手に爪が食い込む。一瞬で冷水を浴びせられたように、僕のコートの中はびっしょりと濡れていた。今日の気温は摂氏9℃……。寒くてたまらないのに汗が止まらない。また身体中に響くような激しい動悸がする。嘔吐感に襲われた。それに、肩がずっしりと重い。逃げなくては。僕は後ずさった。突然、カーンと足元で軽い音が響いた。アルミのゴミ箱を蹴ってしまったのだ。
 《あいつ》が、ピタッと動きを止めた。
 《あいつ》はものすごい速さで頭を窓の外に向けた。
 僕はとっさにアパートの裏側に逃げた。玄関のある側だ。もはやあいつからは逃れられないのだと、僕は悟った。誰にも助けを求めることはできない。
 僕は今更「気づく」の意味を理解した。僕はとっくに 気づいていたのだった。
 僕は自宅玄関に近づき、驚愕した。コンクリートの地面に曲がった大きな釘が散乱している。ドアには無理やりこじ開けようとした形跡があり、鍵を挿す部分の金具がぐちゃぐちゃに壊されていた。玄関側の鉄格子がはまったすりガラスから僕の部屋はよく見えないが、時折光が遮られるのがわかった。あいつが動いているのだ。
 一歩、音を立てないように足を踏み出した。じゃり、と変な感覚がして、下を見ると僕のものではない髪の毛が何本も密集して落ちていた。
 ドアに震える手をかけた。歯が噛み合わない。この先のことは考えていなかった。だけど、僕は吸い寄せられるようにして、玄関のドアを開けてしまったのだった。
 僕は眩しさに目をつぶった。そして、ゆっくりと瞼を開けた。
 女の顔があった。
 

 「おかえり」


 「……村上さん」


 
 よく見知った女がニッコリと僕に微笑みかけた。
 
 「遅かったね、西府さん。クリスマスイヴなのに、お仕事お疲れ様」
 「村上さん……、どうして」
 「私からもプレゼントがあるんだ」
 そうして彼女は上着のポケットから潰れた箱を取り出した。あの時買ったチョコレートの箱だった。
 「ねえ、そんなところに突っ立ってないでよ。寒いから、入って。ほら早く」
 僕は女の目を見つめていた。
 「しょうがないなあ」
 村上さんは床に転がっていた金属バットを握った。
 「ちょっと早いけど……メリークリスマス」





 額から血を流して倒れた西府を村上は愛おしげに見つめた。
 「西府さんはそこにいるだけでいいんだよ」
 彼女はスマートフォンを取り出して動画を眺めた。
 「怖がってる顔、可愛かったなあ。更衣室の映像が撮れるなんて本当に最高だった」
 あらゆるものが投げ出されてひどく汚れた部屋の中で、村上は西府と一緒にいることに喜びを感じていた。数ヶ月前から彼女は西府に目をつけていた。友達づきあいがほとんどなく、消極的で、押しに弱そうな男性。彼なら自分につきっきりになってくれるだろうと確信した。彼女は”本当に”自分だけに尽くしてくれる男性を求めていた。今まで付き合った相手は全員ダメだった、そこに西府が現れたのだ。
 「電話で怒る西府さんも可愛かった」
 村上は録音データを何度も聞き直しては悦に浸った。さらに彼の動画撮影の趣味を知ってからは、親切心でYoutubeにアップしてあげたのだった。タイトルは明日までのカウントダウンにした。私と西府さんが結ばれる日だ。
 「これじゃ重くて運べないから、手足を切ってから運ぼうかな。あとで食べればいいし」彼女は西府の上着と長袖を脱がし、よく切れそうな包丁を手にして西府の肩に切り込みを入れた。力いっぱい引くとみるみるうちに血があふれ出してきたが、骨までは切れそうになかった。のこぎりを買ってくるんだった、と村上は後悔した。
 まあいいや。今夜はここで一緒に寝よう。村上は西府の手に握られたケーキの箱を見つけ、中身を見た。倒れた衝撃で全て崩れて混ざってしまっていた。西府の口に入れてあげようとしたが、開かないので自分で食べた。改めて西府の撮った映像をおかずにしながらケーキを口に運ぶ。
 「不思議だなあ、街の動画を撮るのが好きだなんて……。それに幽霊を本気で怖がるなんて、ピュアなところもあるし……ん?」
 村上は「0」というタイトルの動画を眺めていた。西府の撮った街の映像が早回しで流れている。そこに黒い影を見つけたのだった。
 「なんだろ、これ」
 ゆうに画面半分を占める黒い影は微動だにせず、ずっとカメラの手前で立ち止まっていた。
 「指が映っちゃったのかなあ」
 村上は動画を見続けた。動画のバーが終わりに近づく。「んー?だけどこれ、何時間も撮ってんだよね?なんだろ——」
 急に村上は喉に指の感触を感じた。それはじわじわと気道を締め付けてくるようだった。「な、なにこれ」苦しくなってきた。村上は喉からその指を離そうとするが、虚しく自分の喉をかするだけだった。「や……」村上は躍起になって喉の皮膚を首から剥がそうとした。やがて声が出なくなり、空気の流れさえままならなくなった。気道を塞がれた村上が最期に見たのは、眼前に迫る真っ黒な目をした女だった。










 



 ・・・・・・・


 僕は病院から自宅に向かっていた。
 まだ左肩の辺りが痛むが、脳震盪も収まり、僕は晴れて自宅へ帰れることになったのだった。
 まず自分が生きている、ということが驚きだったが、そんなことより、警察から聞かされた一言が今でもショックの尾を引きずっている。
 「村上はるかさんはお亡くなりになりました」
 なんでも自分で首を絞めて自殺したのだという。
 一連の事件は全て村上さんの犯行だったらしく、僕は事情聴取を受けた後、放心状態だった。なぜ彼女は僕の額に金属バットを振り下ろしたのだろうか。理解ができなかった。考えを処理するのに時間がかかりそうだった。僕のことが我慢ならなかったのだろうか。怪我を手当てしてくれたのも、優しさを装っていただけだったのか?
 わからない。
 それに、今自宅に帰ったところで、どうすればいいのか。
 曇り空の夕方、僕は途方に暮れていた。しかし、亡霊などいなかったという事実は僕を少なからず安心させた。とりあえずはこれから色々と考えればいい。とりあえず、病院食以外のものを食べたかった。大晦日が近い。僕はコンビニでスルメとかチー鱈とか味の濃いおつまみを買って帰ることにした。
 玄関先は警察がきれいに掃除してくれたみたいだ。鍵穴も新しいものに替えられている。
 僕は自分の部屋のドアを開けた。















 








 ……僕はすっかり忘れていた。


 でも、あなたはまだ大丈夫。今すぐこのディスプレイを破壊すればいい。

       

表紙

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Neetsha