(1)【発行国】日本国特許庁(JP) (2)【公報種別】公開特許公報(A) (3)【公開番号】特開2088-104847203(4)【公開日】2086年2月8日(54)【発明の名称】ヒトの頭蓋骨の開口部の配置及び筋肉の接続方法(51)【国際特許分類】…………
【課題】ヒトの筋肉と頭蓋骨の造形について生物学的な進化を鑑み、視野の拡大及び呼吸器の効率について近代的な配置を提供する。 【解決手段】20〜30cmのヒトの頭蓋骨に5つの開口部を一定の法則に従って配置する。(図1)……(図2)……………
つまるところ僕の姉の夫のひいおじいさんが日本人の顔の造形に意匠権を取得し、大富豪になったという話。100年以上前の話だ。意匠権は3年間5100円で継続され、僕らの先祖は税金のような扱いで姉の夫のひいおじいさんに意匠権侵害の罰金を分割払いしつづけた。生きているだけで意匠権に違反しているので当然だ。当時、貧しき民衆は整形を余儀なくされ、目を腕につけるとか鼻を背中につけるとか、意匠権からなんとか逃れようとした。海外に永住権を取ればいいじゃないかと言うかも知れないが、その頃にはとっくにグローバリゼーションは去って各国外国人を締め出していた。永住権の取得は呼吸器をつなぎ変えるより困難であった。そのため街中に顔に5つの開口部を持った人間は極端に少なくなり、以前と変わらないのは富豪か姉の夫のひいおじいさんの家系だけ、ということになってしまった。
僕?そりゃ、顔に5つの開口部があるわけにいかないので、顔だけスチールの仮面になっている。これは技術の進歩で、今や大半の人が顔をオーダーメイドでオリジナルではない、ヒトとして定義されないものに作り変えている。なので、目や鼻や口がもう一対あることになる。君には奇怪に聞こえるかもしれないけど、しょうがないんだよ、なんせ国民全員が敗訴したってことだからね。
「はぁっ?」香港からやってきたニャンニャン(もちろんハンドルネームです。)が素っ頓狂な声を上げて、僕を軽蔑した目で見た。いささか演技じみた、批判的な響きを帯びていた。
「何?全然わかんない。やーの言ってることが」
僕の名前は矢野口だが、ニャンは頭文字プラス長音がこなれたあだ名の付け方であると思っている。
「言ってることはわからんかもしれないが」僕はニャンの眠そうな目を直視して喋り続ける。
「観察可能なものを調査して理論を導くのが科学的な考え方だし、というか君はアジアの歴史について政治経済を勉強するためにここに来たんだろ」
「いやしかしね、こんなことは聞いてないよ。そして理解もできそうにない。斉一説にあてはめても、いや、アクチュアリズム――現実過程説ですらこの現象を説明できない、というか、してはならない。なぜなら何の集積も証拠もないから。それにバカバカしいから。」
「君が激変説を簡単に持ち出したくないのはわかるけど、隕石衝突とか氷河期とか海が割れるとか太陽が近づくとかわかりやすい天変地異はいくらでも起こっているんだし……」
「4つの目で俺を見るな!」
僕は腕をテーブルの下に隠した。
「なにか嫌だったのか」
「あー、これは差別に当たるね、ごめん、謝る。腕を出してくれ、驚いただけなんだ」ニャンの語り口は温厚であるし、変なまねきねこ(カラオケチェーン店)のTシャツを着ているので、どこか苦労人のような雰囲気を醸し出している。
「別に。不快に思うんだったら隠すよ」
「いい、いい、ほら両腕テーブルの上に出す。てかそれじゃなんも食えないでしょ」
僕は両腕を戻した。まあ、そろそろ勿体ぶらず彼の目にしているものを述べると、僕は両腕に2つの目を持っており、首元に鼻、続いて口を鎖骨の下辺りに持っている。
つまり僕はもともとの顔のパーツ自体が、生まれつき顔になかった。ずれて腹から生まれた。(帝王切開ね)これは僕だけでなくすべての日本人がそうだ。
「でもこんなん見せられて、ありえないよ。意匠権を回避するために進化しただなんて!」ニャンは大声でヒステリックに叫んだが、周囲の親子連れが彼をスチールのなめらかな顔面で睨んだため縮こまった。多少顔面が伸び縮みする素材であれば、ニャンにだって意匠人間の頬骨の機敏がわかる。「ごめんこれも差別的発言だ。えーと、こんなん、ではなく……」
「だからいいってば」僕はだんだんニャンの気遣いに疲れてきたので、ぞんざいにグリーンピースと温玉をぐちゃぐちゃに混ぜ始めた。「本題に入ろう。君は僕に話したいことがあると言っていたが」
「ああ、うん。そうなんだ。ええと、それおいしいの?」「うん」
ニャンは細面で、ため息をついてから、ソーダで唇を湿らせて言った。
「君のいとこを名乗る人物から連絡があったんだ」
「はあ」
「その人は顔に5つの開口部……ええと、つまり僕と同じ顔のパーツの配置だった。しかも日本人」
「まああの一族の者だったらそうだろうね」
「そいつが言うには、実は君には一族の血が流れており、顔に5つの開口部があるはずだった、というんだ。しかし、母方の血が強く出てしまったため、パーツがずれてしまい、助産婦が気づかなかった」
「なんだ、君、顔のこと知ってたんじゃないか」
「顔にパーツがないのは知ってたが別の場所にあるとは思わなかった」
「で、何?」
「で」ニャンは息を継いだ。「君に正式に謝罪したいというから、屋敷に来いと。だからアレでしょ、整形とか、賠償金とか、そういうのが来るんでしょ多分」
「はあ……」僕は正直、困惑した。これまで20年ちょっと、スチールの仮面を我が表情として生きてきた。たしかに安物だし、感情表現には欠けるかもしれないが、わりと満足していた。上位モデルになると皮膚や頬の筋肉をリアルに再現できるモジュールもあるが、僕はそこまで高い性能は求めていない。
それが一気に、生の顔面に生まれ変わるのか?想像できない。
「僕はこのままで十分だから」
「そんな。表情を獲得したいとは思わないのか。それだけじゃない、一生遊んで暮らせるだけの金が手に入るかもしれないんだぞ。いや、盛った。一生はない。ないけど、このまま脳の領域を又貸しするバイトを続けてたってつまんないぞ。ちょっと小金を手にしてさ、ちゃんとした顔にもどって、どっかいいところで暮せばいいじゃないか。香港なんかいいぞ。快適なマンションに充実した飯屋に先駆的な交通に……」
「うん」僕はグリーンピースをスプーンですくいながら考える。充実した飯屋って、ここにファミレスがある。ぷちぷちした緑豆の。温泉卵の。交通だって日本は申し分ない。僕の住んでいる部屋だって不便はない。エレベーターあるし。
「なぜ乗り気じゃないんだ」ニャンが呻くように言った。
「面倒だよ。僕は職業学校を卒業したら電話会社に就職しようと思ってる。何も不満はない」
「なぁ~!違うだろ!俺が言ってるのはやーの顔のことだ。日本人は不幸だった、災難だった、しかし、君はそこから脱出できるんだよ!鎖骨の下に口があっていいのか!?なあ!」
「うん」
ニャンが額に手を当てて考え込む。
「そういえば、君のいとこと名乗った人物は、君の数歳下だった。叔母がぜひ会いたがっています、と言っていたよ」
「叔母?母親でも父親でもなく?」
「だって君の父親は18歳のとき工場のプレス機に頭を挟まれて死んだろ」
「なんで知ってんだよ」
「聞いた」
「母親は」
「父親の後追い自殺」
「正解」
「だからこそこの状況を打破するチャンスだ、違うか?」
だからこそってなんだ。なぜ打破しなければならないのか。しかし、僕は言い返せない。
叔母……。会ったこともない。いとこすら、存在を今初めて知ったのだ。
「なあ、頼むよ。俺が一緒に行ってやるから」
「ええ?」
ニャンは半ば懇願するように僕に頭を下げる。どうも様子がおかしい。
皿の中のグリーンピースが順調に減ってゆく。
僕はわざと鎖骨の下にある方の口を大げさに動かして、言った。「何か訳があるのか、ニャン」
ニャンはソーダ瓶の水滴を指先で弄び、くっつけて一つの大きな水滴にしながら白状した。「俺も新しい身体のパーツを作って欲しいんだよ。猫耳がほしいんだ。あと尻尾。セラミックでもスチールでもなんでもいい。日本の加工技術は精密と聞いた、だって毎日スチール製品を形作ってふやふやの赤ん坊の顔にはめてんだもんね」
「赤ん坊にはめるのはゴム製の仮面さ。」
「ふーん。俺はさ、天鶩絨の、フワフワした耳毛付きの立派なのが欲しいんだよ。だってさ、辛いとき、俺猫耳ついてるしぃって思えば頑張れるだろ?夢だったんだよ。自分の意思に連動してぴくぴく動く器官が。悲しいときはしょんぼり垂れ、嬉しいときは天指す、尻尾も同じさ、振ったり逆立てたりしたい。もちろん公の場では取り外せばいいし。その仮面だって取り外せるだろ。とにかくちょっと個性的な感じになりたいんだよ」
「うん」
それが目的か。
「じゃあわかった、僕もいとこと叔母には興味があるから、行こう。」僕は負けた。
「よっしゃ!」ニャンは拳を空に突き上げる。
ニャンはガリなので、猫というよりはトカゲに近い風貌だ。とはいえ、僕はニャンや一族の顔面以外の顔に5つ穴が空いている人間は知らないので、もしかしたらもっとトカゲっぽい人間がどこかにいるのかもしれない。
「じゃあこれ待ち合わせ日時と場所。ハッピーライフ掴もうぜ!」
確かに猫耳が生えるだけで人生ハッピーになるのだったら、悪い話ではない。
自宅に帰り、日課の観葉植物への手入れを終えたあと、漫画を読んで暇を潰した。それから金魚に餌をやった。確かに、今の生活から少し離れてみるのもいいかもしれないと一瞬思った。僕は18歳のときに両親を亡くしたが、そのときにはすでに自宅を出ていたため、死んでも特に困らなかった。親の顔ももう思い出せない。母方の血が強く出た、と言われたが、父親も仮面を被っていた。
金魚は豪快に水面を動き回り餌を喰らっている。僕が甘やかすのでまるまる太っている。2年前に金魚を買ってきたときは、もともと5匹いたのだが、次の日水槽を見ると4匹になっていた。3日後に3匹、6日後に2匹に。最終的に残ったのがこいつだった。共食いしてライヴァルを蹴散らしていったのだ。僕はこいつに”王(キング)”と名付けた。キングは順調に育ち、今では僕の中指ほどの胴体を持つ。僕は彼を尊敬している。
そのため、金魚は減ったのに、水槽は手狭になってきた。資金があれば彼をもっと大きな環境に移してやれるかもしれない。僕は部屋を見渡した。青やどぎついピンクの金魚が、天井まで積まれた氷塊のような水槽の中に1匹か2匹ずつひらひら漂っている。バイオレットのカルキ臭い水がスタティックに鎮座している。こいつらの維持費もバカにならない。しかし、金魚を見ていると、僕はとても落ち着く。彼らは僕の瞳孔に当たる部分の光に反応して近寄ってくる。そして餌をねだる。僕は玄関に近い方から、順番に、サーモン色のフレークをぱらぱら落としてやる。水槽の中が活気付き、全て周り終える頃には、部屋中ぼこぼこ狂乱の金魚たちが騒ぐようになる。僕がフフっと息を漏らしても、彼らは関しない。それがいい。
洗面台の蛍光青の灯りに僕のスチールの顔が鈍く絹のように光っている。目に位置する場所には縦2センチ横6センチのスリットが入れられ、口には10cmの切れ込みがある。目の奥がちかちか点滅しているのは常に周囲の光量を取り込み疑似網膜の表面に投影し、僕の脳内からのシグナルを適切な明度に修正するためだ。口には声帯の響きを引っ張ってくるために鎖骨の下らへんからむりやり管を引っ張ってきている。そのため僕からは、上の口から声が漏れ、下の口はただぱくぱく動くだけ、となる。変な意味じゃないよ。
気管はとくにいじっていない。首元の鼻をそのまま機能させている。
耳も同様。僕の場合は後頭部に慎ましやかについている。本来ここは意匠権外、図面には点線で描かれていたはずなのだが、進化の過程で自然にずれた。鏡が水垢で汚れてきた。そろそろ掃除しないと。
僕は仮面をはずした。
目の部分には出生時に穿った穴がぽつんと2つ開いている。口の部分にも同様。目の奥はきらきら点滅し続けている。
この場所に個人差はない。みな等しくこの配置で、穴が3つ。穴が5つ開いていては違反するからだ。
ニャンは驚くだろうか。間違いなく、驚くな。僕はさっさと水道の冷たい水で顔面をすすいだ。
待ち合わせ場所の地元の駅に赴くと、すでにニャンは到着していた。
「来ないんじゃないかと、ハラハラしてたよ」
「今朝までずっと迷っていた。
帰りに金魚の餌買いたいんだけど、いい」
ああ、とニャンが言った。ここは周囲に店舗や公園が続く、まあまあ栄えている駅だが、道ゆく通行人は彼の顔をちらちら見ている。当然だ、顔に5つの穴が空いている、ということの意味するところは、富豪、選ばれしもの、外国人(今じゃほとんど旅行産業は衰退した)、大げさにいうなら異星人のようなものなのだ。
駅に乗ろうとするとニャンは身分提示を求められた。自分が正式な留学生であるということを5分かけて証明する間に、電車を一本逃した。これで証明できないと即意匠権侵害となるので、こちらも慎重になる。
やっと駅員から解放されて、僕らは電車を捕まえることができた。
「ニャン、仮面をつける?」
「嫌だね。俺は汗っかきだから」
彼は喉元の襟をぱたぱたして見せた。車内は冷房が効いている。乗客は相変わらず、ニャンを物珍しげに横目で観察する。
「やーくんは俺見て驚かなかったよな」
「驚いたよ。だけど、事前に写真を見ていたから。暗号化ソフトで君の画像を送ってくれただろ、ペンパルの時に」
ペンパル。古めかしいと思うだろうか。しかし、画像の送受信は権利関係からスムーズに行うのが難しい。日本ではドラマなど生身の人間を画面上に映すことが難しくなった。それは僕ら一人一人のスチールの仮面自体に一応肖像権があるからで、悪用の危険を鑑みてもう顔を保存可能な媒体に残すことはしなくなった。よって僕らの間で流行っているのはラジオのボイスドラマとか、音声を使ったものだ。まだ声には法整備がなされていない。文字や文章にも同様。
「早く顔を手に入れてしまうことさ。なあ、香港に来なよ」
彼は僕との3年分の文字の積み重ねから僕のことを友達だと認識している。疑いなく。充実した子供時代を送った人間特有の根本的な自信というのがにじみ出ている。こういう人間はいくら気弱に見えようと一番奥底の部分は花崗岩のようにしっかり揺るぎなく彼自身の本質を保っている。だから僕を友達だと思ったら滅多なことがない限り僕は友達のままなんだ。僕はあまりできた人間ではないので上っ面だけは強がるようにしたいと思っている。やらないよりマシ。そしてそれをニャンのような人間は疎ましがらず仲良くしてくれる。それは彼らが人間関係において深く考えないからだ。代わりはいくらでもいるもの。
僕らは電車から降り、タクシーを拾った。ニャンは赤と白の派手な包装の封をきり、中からチョコクロワッサンを取り出してパクつき始めた。マカデミアナッツのチョコクリーム、という、異国情緒あふれるありがちなやつ。
チョコの匂いが後部座席に漂う。
「香港に行ったらさ、まずは俺のマンションに住めばいいだろ。そっから部屋探しをすればいいんだよ」
彼は僕が香港に来るものだと思っている。
「僕は日本で過ごしたいよ。まだ職業学校の最終試験が残ってる」
「頑固者だよ。君は。そんなに電話会社が好きなわけ」
「好きとかそういう問題じゃないだろ。就職しないと生きていけないんだよ」
「俺は好きかどうかを聞いてんの。やーくん文章よりつまんない人間になってるよ、会話すると。文字ではあんなに生き生きしていたのに」
「画面上に時間制限はないからね」
「はぁっ」舞台俳優のように短く息を吐き、肩をすくめる。この仕草は僕が一生かかっても習得できないものだ。
「いる?」ニャンは僕にチョコクロワッサンの包みを取り出した。「うん」僕はしっかりした包装を開けた。パイ生地を齧るとふにゃっとしていた。空気清浄機が作動し、油染みたパンの匂いが速やかに吸い込まれていく。赤信号。運転手の視線がニャンに向いた。彼は気にしないが、僕はニャンが不快にならないかと少しひやひやしていた。
僕は軽い話題を提供しようと試みた。
「あっちでは金魚とか、流行ってる」
「え」ニャンは怪訝そうに僕を見て、考え込んだ。
「飼ってるのはいるけど。でも今は熱帯魚のが人気かもしれない。今香港のレストランでは壁面に本物の熱帯魚を水族館みたいにディスプレイするのが流行ってるね。とはいえ、数社がすでにその熱帯魚マーケットを占めてるけど」
「ふうん。空気は綺麗か」
「うん。なんてったってマンションがいちいち墓標のように高いからね、高層階に住めば綺麗な空気を思う存分吸えるさ。なに、この前の金魚?あの写真送ってくれたやつ?あいつらだったらどこか適当な部屋を借りて住まわせられるよ」
「なぜ僕を香港に来させたいわけ」
「こんなとこ狂ってる」
「僕から見たら君らの方が狂ってる」
「じゃあ小っ恥ずかしいけど正直に言おう。俺は君のことを友達だと思ってる。君は実際会ったらつまらなそうな顔をしていた。だから環境を変えることを提案したい。もっと言うと、俺は専門がアジアの歴史だから、君から色々情報を仕入れたいの」
「勝手だな」
「俺はお節介焼きだよ。それは君もわかってるだろ。君はそれを承知して3年文章を俺と交わしてきた。やーはあくまで受け身でいたいようだが、それは果たしていい選択なのか、よく考えるべきだよ」
「あちらでは顔の良し悪しがコミュニケーションに深く関わるということを聞いた。僕らはみんな同じ顔だから想像ができない。余計なファクターを通して人と交流したくない」
「そんなの迷信さ。顔がスチールでない限りね。つまり、スチールだと日本人ってことがバレて居住許可を得られない可能性がある。お役所には、顔は皮膚と目玉と口があった方が圧倒的に有利なの」
「僕は人間の顔を漫画でしか知らないから、不安だよ」
「うだうだ言うなよ。ほら、もうすぐ着くぞ」
いつの間にかタクシーは涼しげな森の中を走っていた。時折庭付き一戸建てが現れては消える。道路の上に、木の葉が雨さながら日陰を落としている。春。長閑な気分を味わえたのは久しぶりのことだった。
軽井沢の一等地にある煉瓦造りの家が彼らの”第一住居”らしい。僕らは防弾プラスチックの門の前に佇み、ベルを鳴らした。
しばらくするとシューっと音がして、門がスライドした。そこから、ショートヘアの大人しそうな少女が出てきた。これが僕のいとこらしい。
「こんにちは、お兄ちゃん」
「初めまして」
飽きるほどメディアで見た顔だ。二つの目、中央にある二つの鼻孔、よく開く口と、唇。
僕らが邸玄関に向かって歩き出すと、当然のようにニャンもついてきた。
「付き添いだよ。俺は。ねっ!」
いとこは無邪気に頷いた。悪い子ではないのかもしれない。
邸の中は、まあ金をかけているので、そのぶん豪勢だ。金持ちは金を使う事で快感を得るのだから、当然の結果として、絨毯や壺は上等になり花はみずみずしくなる。
「君、今何歳」
「14歳」
「学校は楽しい」
「まあまあ。みんなバカばっかりよ」
茶色のふわふわした髪が歩くたびに揺れている。
「僕らのような能面ばかりだとつまらないかい」
「いいえ。先生はCataracsは本物の音楽ではないというし、生徒といえばそもそも音楽なんかろくに聞いたことがない木偶の坊ばかりなの。これは、文字通り、中学生は檜の仮面をつけることが義務付けられているからよ、健康に悪いからって」
「スギもミズナラもダメなのか」
「クラスの子と同じこと聞くのね」いとこは失笑し、ニャンは屈託無く笑い、僕は息を漏らして笑いを表現する。
しゅこーしゅこーしゅこー……
二人は顔を見合わせた。そうか、この人たちの間では、声を出して笑うのが当たり前なのだ。僕らの社会では、大爆笑といえばしゅこーしゅこーと嵐のように息が吹き荒れるのがお馴染みの光景だった。
「お兄ちゃん、これから思い切り笑えるようになるからね」
なぜかいとこは僕を哀れんだような目で見る。
「そのことなんだけどさ、僕は……」いとこが急に立ち止まった。我に返って前を見ると、目の前に大きなドアが佇んでいる。
「ここに叔母さんやパパやおじいちゃんがいるから」いとこは事務的に説明した。「できるだけ押して押して有利な条件を勝ち取るべし、よ。私たちの家系はちょっとでも相手が隙を見せるとすぐつけこんで強引にこちら側に有利な条件を提示してくるから。まあ押しが強いってこと。今回はこっちが100パー悪いんだし、毟りとれるだけむしり取りなよ、お金」
「うん」
「大丈夫、俺がいるから」ニャンがいとこにサムズアップする。こいつは仕草の一つ一つが大げさだが、素なんじゃないかと思い始めてきた。
いとこがドアを開けてくれた。ギイっと前に両扉が重々しく開き、開幕、といった感じがした。その向こうに今回僕を呼びつけた叔母さんやお祖父さん、いとこの父親、がいた。
「初めまして、矢野口ツクバさん」叔母がにこやかに微笑みかけてきた。
「おかけになって」
僕は金色と紅のツートンに光るソファに腰を下ろした。続いてニャンも座る。それはもう自然に、何の疑問も抱かせないほど、当然のように。
祖父は僕に一礼して、いとこの父親に全て任せる、というようにして部屋を出て行った。とりあえず僕の顔を見たかっただけらしい。父親は僕に近づいてきて、会釈した。僕も返した。それから握手。
顔がある。凸凹の顔面に、目玉が1対おさまって、鼻腔があり、口がある。ここの一族にはスチールなど必要ないのだ。
「お会いできて光栄です」僕はとりあえずそう言ってみた。
「こちらのセリフですわ。この度は本当に、申し訳ない。私どもはずっとあなたを探していたのだけど、見つけるのに20年もかかってしまったわ」
「意匠の存続期間ですね」
「あら、そうね。うちでは然るべき遺産をきちんと守るように矢野口建造さまのお言葉を受け継いできていますから、これからも未来永劫、しっかり日本人の顔面配置の権利を守っていきますわ。それはそうと、あなたのことね。こちら側はもう賠償の準備が整っている。あなたのお父様は何の準備もしなかったけれど、そんなことでツクバを見捨てたりしないわ」
「非常に助かります」
「整形費用もこちらで持ちます。だから安心して……」
「それなんですが」僕は慌てて遮った。「整形はしたくないんです」
「何ですって?」叔母の揺らぎない口調に影が差した。
「ぼ、僕は」矢継ぎ早に言葉を継ぐ。「今の環境に満足しています。僕はスチールの仮面が自分の顔の一種だと思っていますし、不便ではありません。しかし僕の顔が変わってしまうと、友人や職場の人間とこれまでの関係を続けていくのが難しくなる。ニャン=タミラペスニからこのお話を聞き、様々なことを考えました。結果、お金はいただきますが、整形はしない、ということに決めたんです」
「あなたが物事を自主的に取捨選択できるような方に成長したのは素晴らしい。そうね、部分意匠で権利化する際もどこを点線で、実線で書くかを吟味するわ。しかし、あなた、整形はメリットしか産まない選択なのよ」
「そうかもしれません。しかし、やはり抵抗がぬぐい切れないのです。僕の父はひょんなことから顔に5つ穴が空いてしまい、多額の負債を背負いましたから」
え、とニャンが僕の方を見た。そこまでは知らなかったのか。
「僕の父は工場勤務でプレス機に顔を押しつぶされましたが、脳は無事でした。そこで医者が僕の父の顔を復元しました。そこにはあなた方と同じ5つの開口部の空いた顔があった。裁判所は父親を意匠権に反すると判決を下し我が家はあっという間に困窮しました。我が家は月々のキャッシュを払えず父親は保険金のために死に、次に母親が父親恋しさに自殺しました」
僕は自らの都合のために父と母をダシに使ったことを後悔した。実際彼らは不道徳だったし死んでも全く悲しみを感じられなかったのだが、今初めて、罪悪感を覚えている。僕の親譲りの狡さを自覚したから。
「そう……」申し訳ない、と叔母はもう一度言った。真摯に。誠実そうに聞こえる話口調を心得ているのか、自然に出てしまった口調なのか。前者ではないかと、勘ぐるが、意味のないことだ。
「だったら尚更あなたは整形、いや然るべき位置に顔のパーツを再構成するべきよ。今後の身内の不当な不利益を回避するためにも再発防止に力を入れるわ。だから、償いだと思って整形を受けて欲しいし、それに、あなたの顔が変わったからってご友人もお知り合いも避けたりなんかしないわ。断言できる」
なぜ「だから償いだと思って」なのかわからないが、とにかく叔母としては僕に整形を受けて欲しいらしい。
ニャンが咳払いした。「あの」
叔母といとこの父親の注意が僕から彼に移った。
「どうした」父親が初めて口を開いた。叔母はニャンがそこにいることに、初めて違和感を覚えたようだった。
「猫耳と尻尾を作って欲しいんですよね、俺」
父親が困ったように彼を見た。話題を切り出すのが唐突すぎるだろ、と思ったが、ニャンは気にしない。
「香港だとなかなかないんですよ、リアルな猫耳と尻尾を作ってくれるところは。神経との連動なんて全く考えてくれない。俺は感情に即してぴょこぴょこ動く耳と尻尾が欲しくて欲しくて。娘さんからお話を伺った時」ニャンは父親を熱心に見つめた。「これしかない、と思いました。あなた方の整形技術をもってすれば義耳と義尾なんてお茶の子さいさいでしょう」お茶の子さいさい、と言う言葉を得意げに使う。
「なんなんだ、君は」ますます彼らは困惑を極める。ニャンは畳み掛ける。「頼みますよ、あなた方の商売を広げるチャンスにもなるでしょうし。と言うか、なぜ僕らの顔の意匠権は取得しなかったんですか」
ニャンの唐突な質問。だが、僕もそれは気になっていた。
「お祖父様もそのつもりで、苦心したのよ。モンゴロイド自体の顔の権利を取ろうと。しかしね、すでに中国では自然に生ずるものとして認定されていたから、『顔面は遺伝特許』として取得できなかった。それはアジア全体でも同じ。だから、日本だけに留まったの。しかしあなた、猫耳を作れだなんて、厚かましいこと……」
「まあいいんじゃないか」父親が口を挟んだ。「3割負担で作ってやろう」
ニャンはソファに仰け反り帰り、堂々と条件を提示する。「7割」
「3.5割」
「6割」
「4割」
「6割」
「5割」
「決まりです」ニャンは父親に人懐こい笑みを浮かべ、手を差し出した。父親はぞんざいに握手をして、さっさと手を振り払った。
「うへへ、楽しみだなぁ、これで女の子がじゃんじゃん寄ってくることだろう」
「なんで」
「女の子は猫が大好きなのさ。猫を見ると必ず近寄ってくる。僕も猫になれば女の子が耳を触りたくなって近づいてくるよ。愉快なものさ、僕の正直な気持ちを表してくれる器官ができるとは……」
ニャンに猫耳と尻尾が生えるところを想像して、それが本当にうまくいくのか疑問だったが、彼はいたって心配していないようだ。
僕は居心地悪く、スチールの顎部分をしきりにさすった。だんだんニャンが羨ましくなってきたのだった。それほど物事を熟考しているように思えないが、彼はポジティブだし、その結果要領のいい判断を下せている。嫌味のない気持ちの良い態度をとっている、と思う。僕にもいとこにも叔母にも父親にも。ニヤニヤしているニャンを見て、僕の羨望は加速した。僕は今までの人生を振り返る。スチールの仮面でいることに不都合はなかったが、問題なのは、僕はスチールの仮面が大好きだったということだ。なぜなら僕は笑いのポイントが他人とずれていたため、いまいち楽しさの情動に全身で乗っかることができなかったが、仮面はそれを隠すことができた。例えば文化祭の時なんかも、僕は放課後残ってペンキを塗らされることに我慢がならなかったが、みんなは至って楽しそうにやっていたし、エンジョイしてたし、それは鎖骨か首元か胸元にある口を使って表すのではなく、仮面内のスリットからシューシュー音を漏らせば伝わるので、僕はその意を装うことが簡単だった。さらに僕の嫌いな奴を目前にしても、僕はおはようとかこんにちはとか言うだけなので、僕の気持ちは言葉の抑揚と意味以上に相手に伝わらない。好きな人を目の前にしても同様、腕にある目を隠すことでフラットな態度を実現できていた。僕以上に積極的な奴——つまり社交的なクラスメイトは、もっと仮面をアップグレードしたり飾り付けて自らの感情を表現しようとうまい手を使っていたが、僕はそれをしなかった。しないのも選択だから、特に不審には思われなかった。僕は仮面のおかげでうまくやっていけていた。仮に仮面がなかったとしたら、顔のパーツが顔にあると言うことで、それは目や口や頬の筋肉の運動がモロバレだと言うことで、そんなのは絶対に耐えられなかった。僕は邪な考えを持ち、奇妙な表情をする、変なやつ、と露呈して終わりだったろうから。
ニャンはそんなこと気にしないのだろう。今はだらしなくありがとうありがとうと言ってるだけで、怪訝な目をされても全く意に介さない。
それは香港がそれを許すから?それとも、彼自身の性格?
……。
「少し、ニャンと相談させてください」
僕は唐突にこう宣言して、ニャンを応接間の外のドアに連れ出した。いとこはすでにどこかへ消えていた。
「どうした、やーくん」
「ニャン、僕は相当気持ち悪い人間なんだよね」
「はあ」
「僕が顔を獲得したら、君に表情が適切に動いているか、見て欲しい。助けて欲しい」
「それはつまり、君の思い通りに表情が動くか、不安だということ」
「まあ、そうなんだけど。だからさ、僕が気持ち悪い表情をしていないか見て欲しいんだよ。そして直して欲しい」
「えーっと」ニャンが困ったように首を抑えた。「君が気持ち悪い人間かは知らないけど、変わった趣味を持ってるってことは知っている。で、その趣味は変わらないだろうなとも思う。君の性格は確実に表情に出るよ。ただ、それでみんなが君を嫌いになるかといえば、そんなことはないよ」
「それはお世辞か、それとも本気」
彼は困ったような表情をしているものの、少し口元をニヤつかせた。
「妙な質問だな。少女漫画のお風呂の中のモノローグみたい」
「バカにするな。僕の人生に大きく関わることだぞ」
「やーも不安になる時がある、ということはわかった。そん時は適切な判断ができなくなるな。だけどまあ、俺から言わせてもらうとね。気持ち悪い表情をしようと何だろうと矢野口は矢野口なのだよ」
「もう少し詳しく説明して欲しい」
「君が知りたいのはつまり、表情を獲得してみんなから嫌われないかってことだろ」
僕はバツが悪くなって一瞬黙ったが、「うん」と意思表示をした。言葉にするとやけに陳腐でありがちなことに聞こえてしまう。僕の中では、ものすごく大きな問題であるにも関わらず。
「それだったら心配しないでいいよ。少なくとも俺は嫌いにならない。これで満足か」
「……」
満足したのだが、満足したくない。
意地を張るのは得策でないとわかっていても。
しかし、ニャンは誠実な人間であると僕はわかっているのだった。
親を亡くした直後に文通、というかチャットを始めたニャンだったが、彼はおおらかな人間だということも熟知していた。週に一度連絡を取り合う時もあれば、数ヶ月単位で便りが途切れることもあったが、お互いふとした時に近状を送ってよこした。それは僕にとって、金魚と同程度の癒しを与えてくれていたことを認めざるを得ない。僕にとって金魚は大きい存在だ。
僕はニャンの細面を眺めた。彼はこれから猫耳がつく期待感で、相変わらずだらしない表情をしている。
……それで何となく、僕は肚を決めてしまった。
僕は即座に屋敷地下の箱型手術台に横たえられ、目や口の部分にぴったりサイズの膜を貼られた。冷たくなりますよ、と声がして、次の瞬間、足裏にひやっと液体の感触がした。3分ほどすると僕は完全に液体に浸かる形になり、どこを向いてもライラック色の視界になった。この液体の中では息ができる。やがて仮面が取り払われ、青色の点滅が、深海に潜る潜水艦のように僕の居場所を主張した。やがて水面が波打ち、泡立ったかと思うと、僕はものすごく眠くなり、スムーズに睡眠に導入されてしまった。
耳の中が水圧で満たされている。が、悪い気分ではない。僕の意識が徐々に浮上し、薄眼が開くと、「お疲れ様でした」と誰かが言った。
「お似合いですよ」
僕はガバッと水面から体を起こした。慌てて腕を見る。ない。目がない。鎖骨はどうだ。いつもある歯がない。鼻もない。ああ、嘘だろ。うそうそ。本当になくなってしまったのだ。だけども、さっきと同じように僕はものが見えているし、呼吸もできている。
「お兄ちゃん!よかった、手術成功したんだね!」
いとこが満面の笑みで駆け寄ってくる。手術室の薄いブルーの壁にずっと寄りかかって、僕の手術風景を見ていたのだ。
「ほらっ。これがお兄ちゃんの顔です!」
目の前に鏡が容赦無くやってくる。待て、まだ心の準備が……!
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僕は仰天した。
「何だ、これは?」
この数時間中に、すっかり声の出し方を忘れてしまったようだった。
「これが僕……」
そうだよ。お兄ちゃん。よかったね!
1対の瞳。鼻腔。口。
それらが一つの顔に収まっている。
僕は信じられずに、顔をでたらめに触って、一つ一つの穴を確認し始めた。
「ダメだよお兄ちゃん、まだつなぎかけなんだから、剥がれちゃうよ」
顔。これが僕の顔。これが僕の……
「ふ……」
唇が、声に合わせて歪む。
「ふざけ……」
眼球がびくびく動いている。頬の筋肉が僕の鼓動と同期する。指先が震える。
嬉しそうに笑っていた、いとこの表情がこわばる。
「お兄ちゃん……?」
僕は思わず叫んでいた。
「ふざけんな、こんな、こんな配置が僕の顔のわけあるか!!」
胸の奥から、じわじわと、焦燥感が湧いてきた。取り返しのつかないことになったと、僕は悟った。衝動的に指が、眼孔を弄ろうと目尻に爪先を引っかけた。
「いや!やめて!落ち着いて……誰か!」
「矢野口さん!」
慌てて医者が僕の元へ飛んできた。僕の目玉から流れ出した血を見て、眉根が恐ろしげに上がった。僕の腕は即座に拘束された。
「何やってるんだ、バカにしやがって、クソみたいだ、こんなの僕じゃない」
「落ち着いてください。私どもはあなたのDNAにしたがって忠実に復元を——」
「ただの不細工じゃねーかよっ、こんな醜い男、見たことがない!」
「何言ってるの!お兄ちゃんは顔に5つ穴がある人間なんて、ほとんど見たことがないじゃない!」
「漫画と全然違う!こんなのは全然!僕にだってそれぐらいわかる!目の大きさも形も、唇の太さも、鼻の高さも……」
「漫画と現実では何もかも違うのです!慣れてないだけだ、あなたは!」
「それにしたってこれは不細工すぎる!なぜ、少しぐらい改良したって……」
「規定に反します、我々はあくまで生まれたままの顔面を再現する義務がありますから」
「いやだ、こんな顔で外に出たくない、全然違う、何もかも!ニャンともいとことも全く違う!!クソ、なぜ、軽い気持ちで決めたのが間違いだった、気味悪がって誰も近寄ってくれやしないさ、こんな顔になるぐらいなら死んだほうがマシだ、こんな……!」
僕は箱型手術台の中から立ち上がり、医者に蹴りをくらわせた。医者は後ろに仰け反り、いとこは悲鳴をあげた。僕は拘束された腕のまま台の下に落ちた。それからドアめがけて突進する。その瞬間、後ろ手を掴まれて、数人に取り押さえられた。「やめろ!」首に鋭い痛みが走った。その瞬間、僕の意識は崖から足を踏み違えたかのように、パッと手放しで落ちていった。
彼とは会いたくなかった。しかし、ニャンの呼び鈴を鳴らす音で目覚めた。僕は自宅の敷布団に寝かされていた。
玄関で、ニャンは僕の顔をびっくりしたような目で眺めた。僕はいたたまれなかった。いくら不細工にも限度というものがある。
「香港に行く決心はついたか」
「ああ」僕は素早く言った。泣きそうになる表情を隠すために。……どのみち、この顔ではもう知り合いに会えない。
「じゃあ、落ち着いたら発とう。大丈夫、俺のスーツケースの中に、多少金魚が入る隙間あるから。……どうした。随分沈んだ顔をしてるけど」
「この顔で楽しくなれって方が難しい」僕は早速自分の感情が顔に出ていることに失望した。
「なんだ、そんな悲しい顔してちゃ、幸せが逃げるぞ。自分の顔に困惑するのも無理はないが」
僕は辺境の地で見捨てられた女みたいにさめざめ泣きたい気分だった。
「あっち行って何するよ、仕事のツテでも紹介してやろうか」
「金魚を売ることにする」僕はなんとか声を絞り出して言った。「僕の品種改良した金魚を殖やしてバイヤーになるよ」
「なるほどね。いいんじゃん」
自宅の窓はそらぞらしい春の陽気を、僕のシーツに落としている。
「なあ、ニャン。僕はまだ矢野口か」
「うん」ことも無げに言う。なぜそんな、平然としていられるのか。
「僕が不細工でも」
「お前さ、そんな変な主観は捨てた方が、身のためだよ」
「……」
ニャンはカバンからチョコクロワッサンの包みを取り出して、ふにゃふにゃしたパイ生地を齧った。
「あ、そうだ。これ、金魚の餌」
ニャンからビニール袋を受け取った。いつも使っているフレーク状の餌だった。僕はそこで初めて、金魚たちの様子に気がついた。丸1日餌をやっていない。彼らは僕を見て、しきりにバシャバシャやっている。慌てて”キング”に近づいた。彼は僕を見て半ば獰猛に何かを訴えている。ニャンには反応しない。僕が餌をくれる人間だとわかっているのだ。
「……お前ら、僕のことがわかるのか」
キングはまん丸なぎょろっとした、思慮深い目で、同時に猛烈に、僕に訴えかける。
早く早くと。
フレークを彼の上に落としてやった。キングは待ってましたとばかりにサーモン色のフレークをぷよぷよした咥内の向こうに吸い込んでゆく。
「……」
僕は次々に金魚に餌をやった。だんだん、現実感がつかめてきた。そして自信も戻ってきた。金魚は常に主に忠実である。彼らはいつでも本質を見ている。つまり、自分の命を握っている奴を把握している。
水面にさくさく口を突き出して餌をがっつく金魚を見て、僕は彼らの保護者だと言う気持ちを改めて認識した。
「一国の王だな、君は」
ニャンが呟いた。
餌というささやかで、なおかつ大きな命綱で、僕らの関係は保たれている。まあ、飼い主なんて動物に振り回される面倒な役割を担ってしまった哀れな人間のことだが、僕はとにかく、奴らが可愛くて仕方がない。それは手術を受ける前も後も変わりない。
「……香港行くか」
僕はニャンに言った。その時初めて、彼の頭に本物そっくりの猫耳がついているのを見つけた。つまり、こちらは滞りなく成功したということだった。
「それ、なかなかいいんじゃない。リアルで」
ニャンはニヤついた。僕はなんかもう重い気持ちが疎ましく感じられた。というのは、僕は口端があがっていたことに気がついたからで、それはつまり、ニャンと全く同じ表情をしていたからだった。ニャンはそれを見てまた大きくニヤついて、最後には大爆笑していた。僕もニャンと同じ感じだった。相乗。僕らは莫迦みたいに笑っていて、ひとしきり笑い終えた後も、その波は小さく打ち返してきた。僕はそれが楽しいと思った。表情を持つのも悪くないと思った。つまり、新しい言語を覚える時のように、ニャンの表情を真似て笑いかたを取得するというのは、赤ん坊に戻った頃のようで、どこか心地よいものだからだった。僕は新しく得た顔を、新しいおもちゃのようにして遊んだ。ニャンはそのおもちゃの扱い方を教えてくれる師匠である、そんな気がした。
終