Neetel Inside ニートノベル
表紙

誰がために鐘は鳴る
加藤英玲奈という女の子

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 突然ですが俺は死にました。

 どうやらトラックにはねられたらしい。
 轢かれそうだった老人や動物を守って格好良く死んだわけでもなく、ただ無様に轢かれて死にました。
 どうしてこうなった。

 俺は今、体が半透明になって空中を漂っており、下を見るとぐちゃぐちゃになった俺の体がそこに横たわっていた。
 これが幽体離脱という現象なのだろうか。

 「ほっほ」

 不意に後ろから声が聞こえ、振り向くとそこには一人の老人がいた。
 まるで物語に出てくる神様のような風貌をした老人だった。

 「あんたは?」
 「ほっほ、神様じゃよ」

 そのまんま神様だった。

 「お主、運子珍々という名じゃな? 生前、放火に窃盗など随分と悪さをしてるようじゃったから少々むごたらしい死に方をしてもらったぞよ」
 「いや待て、俺はそんな酷い名前じゃない」

 運子珍々ってなんだよ。もはや名前とは思えない酷さだ。そんな名前つけちゃったからそいつ悪さしてたんじゃないのかマジで。

 「俺の名前は山田太郎だ」
 「え?」

 神様がぽかんとした顔でこちらを見つめる。

 「え、珍々じゃないの? 違うの?」
 「違うって言ってるだろう」
 「またまた、ご冗談を」

 神様は呆れたように笑い、スマホのような端末を懐から取り出し何やら調べ始める。
 そしてすぐに焦りの表情に変わり、汗が滝のように噴き出してきていた。

 「や、山田太郎くん…、17歳、百合ヶ峰高校2年生、身長176センチ、体重65キロ、帰宅部、1年時の成績はオールB…、彼女の類は今までいたことなし。おまけにいつもぼっち…」
  
 滝のような汗をかきながら画面を見ていた神様が震えた口調で言った。 

 「ご丁寧に紹介どうも、ムカつくがその通りだ」
 「すまぬ」
 「なんだ?」
 「手違いで君のこと死なせちゃった」

 てへぺろ、とでも言いたげな顔でそんなことを言いやがった。
 俺は怒りが爆発しそうになるのを何とか堪え、冷静に言う。

 「おい、この落とし前はどうしてくれる?」
 「どうしたもんかのう」
 「おいっ!」

 神様は腕を組んで考え始めたかと思うと、何か思いついたのか、すぐに顔を上げ言い放つ。

 「そうじゃ、お主を生き返してやろう!」
 「おお、そんなこと出来るのか」
 「当然じゃ、わしは神様じゃぞ」
 「さすが神様!」

 おだててみると、とても満足そうな神様の顔がそこにはあった。

 「しかし、条件がある」
 「え、なにそれ」
 「タダで生き返れるなんて、そんな甘いわけなかろう」
 「いや、そもそもあんたの手違いがなければ死んでなかったんだけどね?」

 俺が指摘すると、神様は自らの失態を誤魔化すようにわざとらしく咳払いをする。

 「とにかく、タダでは無理なんじゃ!」
 「じゃあ俺は何をすれば?」
 「ふむ、そうじゃな。誰でも良いので、3人の人間を救ってみせよ」
 「救う? どういうことだ?」
 「そのままの意味じゃ。その為にお主の肉体を一時的に現界に戻す。それにより、お主は今まで通りの生活を送ることが出来る」
 「それはありがたいね。しかし救うって抽象的に言われてもな。具体的に何をすれば」
 「現界に戻ればすぐに分かる。それ、いってこーい」

 神様がそう言うと、視界がぐにゃりと歪みあっという間に意識が途切れる。

 
 

           *




 チュンチュン。

 朝である。

 5月の暖かな朝。俺はいつものように目を覚ました。
 起き上がり、何となく自分の体を確かめてみる。
 とりあえずは、生き返ったということなのだろう。
 しかし、あのぐちゃぐちゃになった俺の体はあの後どうなったのだろうか。

 「……」

 想像するだけで気分が悪くなってきたので考えるのをやめた。
 一息ついた後、いつも通り制服に着替え、登校した。
 親には特に何も言われなかったので、俺の死自体は無かったことになっているのかもしれない。




               * 



 放課後。
 
 日直の仕事で片付け等を行っていたせいで帰宅が少々遅れてしまった。
 仲の良い友達などいない俺は一人で足早に昇降口へ向かう。
 しかしそこには夕日に照らされ立ち尽くす一人の少女の姿があった。
  
 「……」

 俺は何となくその雰囲気に圧倒され立ち止まってしまう。
 すると俺の気配を感じたのか、胸のあたりまで伸びている綺麗な黒髪を翻し、端正な顔立ちの少女がこちらを振り向く。

 「……」

 少女は大きな瞳でこちらをちらりと見たが、すぐに顔をそらしてしまう。
 確か、同じクラスの加藤英玲奈といったか。
 何やら様子がおかしいのが見て取れた。

 「どうした?」

 俺はそう言いつつ、彼女に近付く。
 
 「……」

 彼女は無言。
 しかし、近付いたことで彼女に何が起こっているのかがすぐに分かった。
 下駄箱から彼女の靴が無くなっていたのだ。 

 「靴がないのか?」 
 「うるさいな、ほっといてよ」

 そう言う彼女の顔は、怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、ひどく冷めた顔に見えた。
 まるで、こうなることを予想していたかのように。
 そして半ば諦めていたような、そんな顔にも見えた。

 その時俺は、脳裏に神様とのやり取りが浮かんでいた。
 
 『それはありがたいね。しかし救うって抽象的に言われてもな。具体的に何をすれば』
 『現界に戻ればすぐに分かる。それ、いってこーい』

 加藤英玲奈の現状を見て、俺は何となく悟った。
 つまりそういうことなのか、神様よ。
 



                    *

 
 翌日。

 俺は昨日の昇降口での出来事が気になっていた。
 結局靴は見つからなかったようで、加藤は仕方なく上履きのまま帰宅していた。
 漫画やアニメの主人公であれば一緒に靴を探してあげて彼女の好感度を高騰させていくのであろうが、現実はそんなに甘くはない。
 下手にお節介を焼くと、自らを滅ぼすことになりかねない。
 だから俺は厄介事には極力首を突っ込まないようにして生きてきた。
 
 …これからもそうしたかったのだが、そうもいかない事情が出来てしまった。
 見てしまった以上、見過ごすことは出来ない。
 出来ないが、今すぐどうこう出来る自信もない。 
 まずは情報を収集し、現状をよく把握しよう。



             *


 登校し、教室に入った俺の目に真っ先に飛び込んできた光景。
 椅子が無い自分の机の前に所在なさ気に、しかし全く動揺せず無表情で突っ立っている加藤の姿だった。
 
 クラスの連中は誰一人として加藤のその様を直視しておらず、それぞれがそれぞれの事に集中していて、まるで加藤の存在など無いかのような雰囲気であった。

 どうしてこうなった。
 
 昨日の出来事と今目の前で繰り広げられている様子を見る限り、加藤がいじめにあっていると考えられるのは容易だ。
 しかし俺の見立てでは、加藤は不良ではないが少々やんちゃな奴等が集まるグループに属していたはずだ。
 
 失礼ではあるが、加藤の場合、むしろいじめる側のように見える。
 そんな彼女がなぜ、そしていつの間にいじめの標的になったのか。

 思考を巡らせていると始業を告げるチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
 そして、加藤の椅子がないことに気付いた担任が別教室から椅子を持ってきて、その場は事無きを得た。

 椅子がなかった件について特に何も話がなかったあたり、どうやら担任は加藤がいじめにあっているとは気付いていないようだ。
 
 いや、本当は気付いていて知らないふりをしているのかもしれない。
 
 どちらにせよ、厄介事には関わりたくないというような顔をしている。
 担任がそんな態度でいいのかと甚だ疑問ではあるが。
 そして担任だけでなく、クラスの連中も関わりたくないオーラが出ている。
 皆、平穏無事に日々を過ごしたいということだ。
 
 当たり前だ。
 
 誰だって争い事は避けたいと思うし、下手に手を出したら標的が自分に移り変わるかもしれない。
 そうならないためには、見て見ぬふりをするしかない。
 そうするしかないのだ。


             *


 翌日、昨日とは打って変わって加藤の椅子は確かに存在していた。
 
 「ほっ…」

 やはり誰かがいじめられているのを見るのは非常に辛いし心も痛む。
 とりあえず、今日は何もないみたいで良かったと胸を撫で下ろす。
 
 しかし、そんな俺の甘い考えは次の瞬間すぐに打ち消された。
 
 教室内に入り、自らの机まで歩いている刹那。
 俺の目に飛び込んできたのは、罵詈雑言が綴られている加藤の机だった。
 
 何も良くなんてなかった。
 形を変えて、今もなお加藤は被害を受けていた。
 しかし、加藤はあまり意に介していないのか、少しの感情も読み取れない程の無表情さだった。
 俺は堪らず、声をかけてしまった。

 「加藤…」
 「なによ」

 加藤は相変わらずの無表情で答えた。

 「大丈夫なのか?」
 「うるさい。ほっといてって言ったでしょ」
 「まぁ、そうだが」
 「いつも一人のあんたなんかに、分かるわけないし…」

 加藤が恨み節のように、囁いた。
 しかし、先ほどの無表情とは打って変わってすぐさま焦りの表情になり、

 「あっ、ごめっ…!」

 自分は何をされても表情を変えないくせに、なぜか一瞬で表情を崩す。
 きっと、根は良い奴なのだろう。

 「構わんさ。事実だしな」
 
 まさに加藤の言う通り。
 クラスメートとは普通に話すが、友達と呼べるような関係の人間はいない。
 何となく、煩わしさを感じてしまう瞬間があるのだ。
 一人の方が気楽で、自然と一人でやることが多かった。
 今までそれで何とかなっていた事もあり、あまり必要性を感じなかったのかもしれない。
 
 ふと我に返ると、なぜかひどく後悔してる加藤が目に入る。

 「あー…ほんとごめん、なに言ってるんだろうあたし」
 「いや、マジで気にするなって」
 「あー、うん…」

 案外、真面目な性格なのだろうか。
 なんだか居た堪れなくなったので、そそくさとその場を後にする。


              *


 翌日も、その翌日も、加藤への嫌がらせはしばらく続いた。
 
 水をぶっかけられたり、机も椅子も無くなっていたり、授業中に紙くずを投げつけられたり。
 しかし加藤は相変わらず無表情で、向けられる敵意を甘んじて受け入れている。

 そして、ここ数日のクラスの様子から俺は気付いた。
 
 どうやらこのいじめの主犯格はクラスの中心的存在である、坊主頭の光岡オロチのようだ。
 そのオロチが加藤に嫌がらせをするよう、クラスメートに命令している様を何度も見た。

 自分は決して手を汚さず、裏で糸を引き、関係ないものに手を下させる。
 なぜ、オロチが加藤に対してそんなことをしているのかは分からんが、卑劣極まりない野郎だ。

 オロチは野球部で体格が良い事に加え、素行不良な一面もあり、キレると手に負えないことからクラスの連中も恐れ、泣く泣く言いなりになっているようだった。
 そして、とうとう俺にも火の粉が降りかかって来た。

 「おい、山田」

 オロチが俺を呼ぶ。
 次に来る言葉が容易に予想出来ただけに、俺は気だるそうに答えた。
 
 「なんだ?」
 「お前もなんかやれ」

 俺はオロチのニヤついた表情の顔を見て、心底気持ち悪いと思った。
 だが、ここで俺だけ拒否してしまえば、途端に標的は俺に変わり、面倒なことになるだろう。
 とりあえずは、従順な姿勢だけでも見せておきたいところだ。
 
 「そうだな。じゃあ、落書きでもさせてもらおうかな」

 俺はペンを手に取り、無表情でいる加藤の目の前に来た。
 
 机には、すでに新たに書くスペースが無い程に落書きがされていた。
 いじめに加担する気など毛頭なかった俺は、落書きする振りをして誤魔化しつつ、いくつかの落書きを黒く塗りつぶして消してやった。

 「え…?」

 加藤は驚きの表情を隠せていなかった。
 俺はそのまま自分の席へと戻り、しばし考える。
 このまま、この状況が続くのは本人にとってもクラスにとってもよろしくないな。
 どこかでこの状況を覆すための策を打たなければならないだろう。
 



                       *



 ある日の放課後。
 
 担任の手伝いをさせられていた俺はこれまた帰宅時間が随分と遅れてしまった為、足早に昇降口まで向かっていたが、宿題のプリントを机の中に忘れてしまった事を思い出し、渋々教室へと踵を返す。
 
 小走りで廊下を進み、すぐに教室の手前まで来る。
 すると、誰もいないはずの教室から何か物音が聞こえてくる。
 何事だと少し不安に思った俺は扉を少しだけ開け、恐る恐る中を確認する。
 
 「…………」

 教室の中には、加藤がただ一人。
 
 その手には雑巾が力強く握られており、無言で自らの机を拭いていた。
 恐らく、机の落書きを消しているのだろう。

 いつものように、無表情で。
 何をされても、何を言われても決して崩さなかった最強にして最高の武器と言わざるをえない、鉄壁の無表情。
 その無慈悲なまでの無表情さで、机を拭き取っているのだろう。
 そう思った。

 しかし、彼女の顔を見て俺は愕然とした。
 そこには、今まで決して見せることのなかった涙があった。
 
 とめどなく溢れる涙。
 何度も服の袖で拭うが、おかまいなしに溢れてくる。
 表情こそ、いつものような無表情であるものの、彼女は確かに泣いていた。
 
 俺は、彼女のそんな姿を目の当たりにし、ひどく打ちのめされたような感覚に陥った。

 何をされても決して表情を変えなかった彼女。
 そんな毎日が続いていた為に、それが日常になりつつあった。
 
 誰もが、彼女は鉄のように強い人間なのだと勘違いしていた。
 しかし、彼女だって人間なのだ。一人のかよわい女の子なのだ。
 悪口を言われれば傷つくし、嫌がらせを受ければ悲しくもなる。
 
 当たり前だ。そんなの、当たり前なのだ。

 そんな事は、誰だって知っていることじゃないか。

 なのに俺は、情報収集という体で見過ごしていた。
 そんなものは、少しやれば十分だったはずだ。
 すぐに手を差し伸べるべきだった。
 このままではきっと、加藤は壊れてしまう。
 そうなる前に、手遅れになる前に、行動しなければ。
 俺一人が足掻いた所で大勢は何も変えられないかもしれない。
 しかし、変えるきっかけを与えることは出来るはずだ。

 「……っ!」

 俺は両手の拳にぐっと力を込める。
 神様に言われたからではない。
 俺は俺の意志で、彼女を助けたい。力になりたい。
 素直にそう思えた。
 
 そして扉を勢い良く開け、加藤の姿を真っ直ぐと見据える。

 「加藤」

 「……!?」

 加藤はすぐさまこちらに振り返った。
 
 そして、鉄壁の無表情が少し崩れ、若干の焦りが見える。
 そんな加藤の様子を見て、俺は静かに言う。

 「何をやっているんだ?」
 
 そう言いつつ、加藤の前まで歩み寄っていく。
 
 何をやっているかなんて、最初から分かっていた。
 だが、何故か聞かずにはいられなかった。

 「やっ……ちがっ……これは、その……」

 いつもの加藤であれば、「うるさい」だの「ほっといて」だの言って、一蹴するはずだ。
 しかし言葉に詰まる加藤を見て、少なからず動揺しているのだと感じた。

 「消していたんだろ、落書きを」
 「だ、から…違うって言って…」

 口では否定しているが、いつものような覇気が全く感じられなかった。

 「何が違うんだよ。隠す必要なんてないだろ」

 そう言って俺は加藤の手から雑巾を奪い取り、落書きされた机を拭く。

 「ちょ…なに、やってんのあんた…?」
 「見れば分かるだろ、お前の机の落書きを消しているんだ」

 俺は、ただひたすらに目の前のクソみたいな落書きを消した。
 
 落書きと共に、自分の中の迷いを消し去るかのように。

 「なんなのよ、あんた…」
 「まぁ、いいじゃないか」
 「こんなことしてるのがあいつにバレたら、あんた……」
 
 加藤はその先を言わなかったが、どうなるのかは容易に想像出来た。

 「上等だ。かかってこいや、だな」

 俺は努めて明るく言った。
 
 「なによ、それ。あんた、いっつも一人のくせしてさ。なんでそんな強気なわけ?」
 「一人だからこそ、出来ることもあるんだぜ。何しろ、失うものが無いからな」

 俺は戯けて言ってみせた。
 実際、その通りだった。本来なら死んでいる俺には失うものなど無いだろう。
 すると、彼女もそれに呼応する。
 
 「あはは、なにそれ。ダサっ」

 制服の袖で涙を拭った彼女の表情は、少し柔らかくなっていた。
 そんな彼女を見て、俺の心も少し軽くなったような気がした。

 「お前は、そういう顔をしている方が似合っているぞ」
 「は…? どういう意味よそれ」

 加藤は俺から顔を背け、髪の毛をいじり出す。
 
 「そのままの意味だよ。あの鉄のような無表情より、よっぽど可愛いと思うぞ」
 「…ふーん」
 「だから、もう我慢するなよ」
 「え……」
 「加藤はよく頑張ったよ。いや、むしろ頑張りすぎなくらいだ」
 「なによ、急に…」

 加藤の表情が再び曇ってゆく。

 「クラスの連中から嫌がらせされてさ、辛かったろ」
 「……別に」

 いつもの無表情になろうとする加藤だが、上手くなりきれず、バツの悪そうな顔になる。

 「いいや、辛かったに決まってる」
 「あんたなんかに、何が分かるのよ……」

 確かに、加藤の受けた苦痛は俺なんかが分かるわけない。
 しかし、俺は見た。
 加藤が泣いている姿を。
 それが全てじゃないのか。それが嘘偽りのない本心なんじゃないのか。

 「だってお前、泣いてたじゃん」
 「ぅ……っ!」

 加藤は痛いところを突かれたとばかりに一瞬たじろぐ。

 「あまり我慢するな。辛い時は辛いと言わなきゃダメだ。じゃないと、そのうち壊れるぞお前」
 「なにそれ……」

 彼女は両手をきゅっと固く握りしめ、何かを考えるように俯く。
 そして次の瞬間、顔を勢い良く上げ、声を荒らげて言った。

 「辛い時は言えばいいって、馬鹿いわないでよ、一体誰に言えばいいってのよ!」

 彼女の大きな瞳には、怒りの炎が灯っていた。
 初めて爆発させた、怒りの感情。

 「みんな、みんなさ、あいつの言いなりになってるじゃない!! 男子も、女子も、みんな!! 担任だって、絶対気付いてるはずなのに、知らん振りでしょ!? 面倒事には関わりたくないような顔してさ!! そんな中で、一体誰に何を言えってのよ!! 何であたしが…、あたしだけがこんな目に…、こんな目に合わなきゃいけないのよ!! なんでなのよ…ううぅぅぅ……」

 加藤は堰を切ったようにまくし立て、矛先の分からぬ怒りを只々感情に任せてぶち撒ける。
 
 そして、溜まりに溜まったものを吐き出した為か、最後には力なく床へと座り込んでしまう。
 
 再び溢れ出る涙と共に、息切れするほどに感情を乗せたその言葉は、今の彼女そのものであるようにも思えた。
 
 彼女の気持ちは痛い程分かる。
 そうだね、と思わず賛同してしまいたくなる。
 しかし、俺はそれを否定しなければならない。
 否定しなければ、彼女の現状を変えることは出来ない。
 
 何をどうすれば彼女を救えるか、何となくイメージは湧いている。
 覚悟を決めなければならない。
 端から見てるだけなのはもうごめんだ。

 「でも、言わなきゃ伝わらない事もあるだろ」

 俺は、穏やかにそう言った。

 「なによ…ひぐっ…じゃあ、どうすれば良かったのよ…! ううぅぅ…」

 加藤の顔は既に涙でぐしゃぐしゃになっている。
 
 ここが分岐点だと、俺は直感した。
 選択を間違えないよう、慎重に言葉を選び、努めて平静を装って言った。

 「加藤は、どうして欲しかったんだ?」

 床にへたり込み、涙を流し、俯いたまま俺の言葉を聞いていた加藤。
 やがて、そのままの姿勢で言葉を紡ぎ出す。

 「……てよ…。……すけてよ……」

 その言葉は余りにか細く、とても聞き取れるような声ではなかった。
 しかし、俺には何を言わんとしているか分かるような気がした。
 
 そして、次第にその声が大きくなっていく。
 加藤自身の気持ちに呼応するかのように。

 「助けて…。助けてよ…!! 誰か助けてよ…! こんなの嫌…。一人ぼっちは嫌…。辛いよ…。どうしてこんなことになっちゃったの…もう嫌…。お願い…助けて…誰か…」

 彼女がついに口にした、本音。
 目の前にいるのは、鉄壁無表情の欠片もない、ただの、どこにでもいる少女だ。
 今の彼女はあまりに弱々しく、そんな彼女の力になってあげたいと、笑顔を取り戻してあげたいと俺は本心で思った。
 
 自分の身を犠牲にしてでも、彼女を救ってあげたいとさえ思えた。
 そして自分の中で何かが奮い立ってくるのを感じた。

 「わかった」

 俺は、一言そう言った。

 「…ぇ」

 予想外の反応だったのか、加藤は涙でくしゃくしゃになっている顔をハッと上げ、こちらを見つめる。
 俺はその場でしゃがみ、座り込んでいる加藤と目線を同じにする。
 そして、無言で彼女へ手を差し伸べる。

 「……っ」

 彼女はしばらくそれを見つめ、やがて意味を理解したかのように恐る恐る手を伸ばし、この手を掴んだ。
 俺は穏やかに、そして力強く言った。

 「よし、あとは任せろ」

 加藤は涙を一層溢れさせる。

 「な、んで…どうして……」
 「なんでだろうな」
 「なによ…それ…、意味、わかんない…ぅぅぅ…うぁぁぁん…!」 

 加藤は今までの悲しさや悔しさを全て洗い流すかのように涙を溢れ出させ、しばらくそのまま嗚咽していた。



        *



 加藤が泣き止んだ後、俺達は帰路についた。
 たまたま帰る方向が同じだった俺達は、自然と一緒に帰る流れに。

 「ごめん、情けない姿見せちゃったなー。あはは……」
 「ほんとだよ。まさか加藤があんなに泣き虫だったとは……」
 「泣き虫じゃないし!!」

 わざとらしく言った言葉に加藤は即座に反応し、鞄で殴りつけてくる。

 「てか、泣いてたのはマジ内緒だからね!?」
 「わかってるよ」

 生憎、言いふらすような相手もいないしな。
 
 それはそうと、折角の機会だし、加藤には色々と聞きたいことがある。
 こいつが巻き込まれている悪い流れを断ち切るためにも。

 「そもそもお前、なんでオロチから嫌がらせされてるんだ?」

 とりあえず、ストレートに聞いてみた。
 
 「いきなりね…。たぶん、なんだけど……」

 加藤は何かを思い出すかのように目を瞑り、しばらくした後に目を開け、意を決したように話し始める。

 「あのね、オロチがあたしの事を好きだって噂があってね」

 そんな噂があったのか。全く知らなかった。

 「でね、友達からその話を聞いて、あたしはあいつに対して好きとかそういう感情なんて全くなかったから、興味ないかなって話を友達としてたんだけど、どうもその話をあいつ聞いてたみたいで…」

 なるほどな。大体全体像が掴めてきた。
 
 「それで、その腹いせに嫌がらせをしかけてきてるってわけか」
 「たぶん…。その後、面と向かって、覚えてろよって言われたから……」

 そんな理由であれだけの事をするのか、と思いたいところではあるが、人間なんてそんなものなのかもしれない。
 クラスの皆もそれを聞いたら呆れるんじゃなかろうか。
 
 よし、道筋は見えた。
 あとは、やつに仕掛けるタイミングさえ間違えなければ。

 「加藤、ありがとよ」
 「うん…。ま、どーせあんたなんかに何も出来ないだろうけどね!」
 「こらこら、やってみなきゃ分からんだろ」
 「じゃあ一ミリくらい期待しとくー」
 「なんだよそれ」

 その後、加藤は暗い話を払拭するかのように他愛もない話を度々ふっかけてきた。
 俺にはよく分からない話ばかりだったので適当に相槌を打ってやり過ごした。
 


         *



 翌日。
 
 お昼の休憩時間中、その時は唐突にやって来た。 
 
 オロチは学食で昼食をとってきたようだが、食べ足りなかったのか購買で買った菓子パンを頬張っている。
 そして、ひどくつまらなそうな顔をしたかと思えば、奴の近くで弁当を食べていたグループの椅子を突然蹴飛ばし、蹴飛ばした椅子に座っている男子の名前を呼ぶ。

 「おい、鈴木」

 椅子を蹴飛ばされ、オロチに呼ばれた鈴木は恐る恐る振り向く。

 「なんだよ……」

 鈴木はサッカー部で、こいつも中々に体格が良く強そうに見えるが、こんなやつでもオロチを恐れているということから、いかにオロチが危険なやつかが分かる気がした。
 
 そして、振り向いた鈴木に対しオロチは顎で加藤のことを示した。
 
 やれ、ということだろう。
 鈴木は渋い顔をし、やりたくなさそうなのは一目瞭然だった。
 しかし、断ることなんて出来ないといった様子で立ち上がる。

 「はやくしろ」
 「あ、ああ……」

 オロチに催促され、鈴木は重い足取りで弁当を食べてる加藤の前まで行く。
 相変わらずクラスの連中は我関せずといった様子だ。
 加藤も加藤で、鈴木の存在に気付いてはいるものの、気にしない様子で弁当を食べ続けている。
 鈴木はそんな加藤の様子をしばらく見続け、葛藤しているようだった。
 そして、自分の中の何かに負けた鈴木はとうとう手を出してしまう。
 
 「……!」

 鈴木が加藤の手から弁当を奪い取る。
 そして、それを投げ捨てようとした所で俺も立ち上がった。
 
 「やめるんだ鈴木、そこまでだ」

 瞬間、今まで知らぬ存ぜぬを突き通してたクラス全員が一斉に鈴木と俺に視線を向ける。
 
 誰かの蛮行を止めに入るなんて事が今まで一度もなかっただろうし、いつもボッチの俺がこんな事するとは誰も思っていなかったのだろう。
 加藤も驚愕の表情でこちらを向いている。
 だが、今はその方が好都合だ。
 俺は構わず続ける。

 「鈴木、お前、加藤に手を下すの何回目だ?」
 「な、なんだよ急に……」

 鈴木はオロチの機嫌を損ねないか気にしているようで、チラチラと横目でやつの事を確認していた。
 しかし今のところオロチは何もアクションを起こしていない。

 「いいから早く答えろ」
 「に、二回目、かな……」
  
 鈴木がバツの悪そうな顔で答える。
 そんな鈴木に追い打ちをかけるように俺は言葉を続ける。 

 「そうか。お前は確か彼女がいたよな。彼女はそれを知っているのか?」
 「馬鹿かお前…。言えるわけねぇだろうが!」
 「だろうな。だが言えないということは、それだけ後ろめたい事をしているという認識はあるんだな」
 「ぐっ……るせー……」
 「これからずっと、彼女に隠し事して付き合っていくのか?」
 「うるせぇ……」
 「もし、いずれ彼女がお前の蛮行を知ったら、その時どうなるかなんて容易に想像できるだろ? それは不味いんじゃないのか?」
 「うるせぇ!! 言われなくても分かってんだよそんなこと!!」

 鈴木は鼓膜が震える程の怒号をあげる。
 しかし俺はその言葉が聞きたかったとばかりに、手応えを感じた。

 「そう、分かっているんだ。本当は、これはいけない事だって」
 「うっ……」

 鈴木は図星を突かれたかのように言葉に詰まる。

 「鈴木だけじゃない。お前らだって本当は分かっているんだろう? いけないことをしてるって。こんなこと本当はやりたくないんだって。そう思ってるんだろ?」
 
 俺は周囲を見渡しながら、皆の心に訴えかけるように呼びかける。
 クラスの皆は先程の鈴木のように渋い顔になり、これまでの自分の行いを考え始める。
 しかし、そこでとうとう奴が動き始める。

 「おいおいおい、何なんだおめぇは。黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって。まるで誰かにやらされてるみたいな言い方じゃねぇか」

 オロチは不遜な態度で言う。
 だがネタはあがっている。今更とぼけても無意味というものだ。

 「寝言は寝て言え。お前が皆にやらせてるんだろう」

 俺はオロチを睨みつけ、同じように不遜な態度で言い返してやった。

 「ハッ、何言ってんだてめぇ。確かに俺が指示は出しているが、別にやりたくない奴はやらなきゃいいだけだろ。だが現実はどうだ。皆やってるじゃねぇか。皆やりたいからやってんだろ? なぁ!?」

 オロチは先程の俺のように周囲を見渡し、両手を広げ、わざとらしく皆に訴えかける。
 
 いや、これは訴えかけなどではなく、一方的に圧力をかけているという表現が正しいだろう。
 おかげで、皆考えなおそうとしていた顔が一気に恐怖で引きつり始めている。
 
 だが、このまま奴に流れを持っていかれるわけにはいかない。
 俺はここで、昨日、加藤から聞き出したカードを切ることにする。

 「皆、何をそんなに恐れているんだ。こんな奴にびびる必要なんて全くないぞ」
 「あ…? んだとてめぇ」

 オロチが俺の言葉に反応し、眉をひそめる。
 俺はその様子を見て、ふっと悪戯な笑みを浮かべ、話を続ける。

 「そもそも、こいつが加藤に嫌がらせを始めた理由なんだが、皆知っているか? すげぇ下らないんだぜ」
 「てめぇ!! いい加減に――」

 オロチは途端に焦り始め、話を止めさせようとする。
 しかしここで止めるわけにはいかない俺は、オロチなど意に介さずお構いなしに続ける。

 「こいつは加藤のことが好きで好きでどうしようもなかったんだが、加藤にはその気が全然無いってのをたまたま知ってしまってそれに腹が立ち、嫌がらせを始めたんだよこいつは!」

 瞬間、教室内が一斉にざわつき始める。

 「どうだ皆、下らないだろう? そんな理由でこいつは加藤に嫌がらせをし続けていたんだよ。そんなことでお前達は今までこき使われてたんだ。何だか腹が立って来ないか?」
 「この野郎ォ!!!! ぶっっっ殺す!!!!」

 オロチは固く握りしめられた拳を振りかぶり、その巨体から重い一撃を繰り出してくる。
 俺は、俺の姿勢、行動、言葉、全てをクラスの皆の目に焼き付けさせる為、クラスの視線を惹きつける為、敢えてその一撃を受け入れる。

 「はぐぼぁ…!!」

 オロチの一撃は俺の顔面に直撃し、殴られた勢いで吹っ飛び、倒れこむ。
 教室内が一層ざわつく。悲鳴をあげる女子もいるようだった。
 鼻の奥から滴れ落ちてくるものを感じ、手の甲で鼻を拭うと鮮血で染まっていた。
 量が半端ない。鼻が折れてるかもしれない。
 だが、クラスの注目を集めることには成功したようだ。
 
 「おいコラてめぇら!! 山田の言うことなんて信じるなよ!? こんないつも一人でいるようなやつの言うことなんてよぉ!! ただの妄想だ妄想!!」

 オロチは威圧するようにして、再び全員に呼びかける。
 
 俺は脳震盪一歩手前のふらつく体にムチを打ち、どうにか立ち上がる。
 そして呼吸を整え、しっかりと敵を見据えて言い放つ。

 「ああそうだよ。お前の言う通り俺はいつも一人だ。一人の方が気楽だし、自由にやりたいからな。だから、だからな、お前の指図なんてもう受けない。俺の意志は俺自身のものだ。お前なんかの圧力には決して屈しない」
 「あ…? いい度胸だなてめぇ」 

 オロチは再び眉をひそめ、不快感を露わにする。
 すぐにでも襲いかかってきそうな雰囲気であった為、俺はすぐに次の行動を起こす。

 「だが、お前らは違う」

 俺はクラスの連中を見渡し、そう言った。 

 「お前らはゴミクズだ。ゴミ虫だ。オロチと然程変わらない。お前らは所詮、他者に流され、迎合して生きていくことしか出来ない甘ったれのクソ野郎だ。そこに自分自身の意志など存在しない。そんなの死んでいるも同然だ。生ける屍だ」

 俺は、敢えて口汚く罵るように言い放ち、皆の心を煽る。
 このクラスに巣食っている腐敗した流れを断ち切るには、誰かが犠牲になってきっかけを作らなければならない。
 皆だってそれにはきっと気付いているだろう。
 
 しかし、きっと誰もが犠牲になりたくないと考えているんだ。
 
 そうならない為の方法が思いつかないんだ。
 失敗すれば今度は標的が自分になり、高校人生が終わるかもしれない。
 そう考えると足が竦み、結局何も行動が起こせなくなる。

 だったら、その役を立ち回れるのは俺しかいない。
 いつも一人で、実はすでに死んでいて、失うものなど何一つない俺しかいない。
 
 だから、どんなに口汚い罵詈雑言を浴びせて皆から恨まれようとも、やり通さなければならない。
 俺は気を強く保ち、言葉を続ける。

 「だが、お前達にはそれがお似合いだ。一生そこで這いつくばっていればいい。一生底辺で馴れ合っていろ。そうしてお前達は後々気付くんだ。あの時、ああしていれば良かったと。そうやって、後悔に生きる人生を歩んでいけばいい」
 
 すると何人かが立ち上がり、お前は何様だと口々に俺を非難してくる。
 だが、そうなることが俺の狙いである。それでいい。それでいいんだ。

 「お前ら、悔しいか? 俺のことが憎たらしいか? だったら俺と同じことをしてみろ。オロチに歯向かってみせろ。それが出来ないようなゴミ虫には、俺を非難する資格は無いね!」

 重い体を引きずり、俺はオロチに向かっていく。
 
 勝ち目がなかったとしても立ち向かう姿をクラスの皆の目に焼き付けさせなければならない。
 その姿勢を見て、皆それぞれの、内なる何かを呼び起こさせる為に。

 「かかってこい、クソ野郎」

 俺はオロチを敢えて挑発し、戦いやすい環境を整える。

 「上等だカス野郎、望み通り捻り潰してやる!!」

 直後、再びオロチの一撃が飛んでくる。
 俺はそれを擦れ擦れで躱し、空振りに終わったことで体制を崩したオロチの頭部にお返しの一撃をお見舞いしてやった。

 「がっ…!!」

 手応えはあった。
 
 しかし、頑丈なオロチは倒れること無く体を仰け反らせた程度で、すぐにこちらに向き直る。
 そしてその表情は先程のキレ顔とは打って変わって、非常に落ち着いた冷静なものとなっていた。
 
 これは、オロチが本気でキレてしまって手に負えない状態の時の顔だ。
 
 正直、その雰囲気に圧倒されてしまったが、皆にあんなことを言った以上、俺から引くわけにはいかない。
 俺は自分を奮い立たせ、再びファイティングポーズをとり、オロチに向かっていく。

 「うおお…!!」

 俺は気合とともに一撃を繰り出すと、いとも簡単に奴の顔面にヒットした。
 しかしオロチは敢えて一撃を受け入れていたようで、食らった瞬間に俺の腕を掴まえてくる。
 
 突き出した腕を掴まれ、硬直したその瞬間にオロチから圧倒的な暴力が襲いかかる。
 俺は意識が飛びそうになり、膝の力が抜け倒れそうになるが、掴まれてる腕を引っ張られ、崩れ落ちることを許されない。
 そして、そのまま腹部に前蹴りをモロに食らい、文字通り吹っ飛んだ。
 
 腹部を蹴られたことで呼吸困難に陥り、若干生命の危機を感じる。
 そんな俺にはお構いなしに、オロチが近づいてくるのが見えた。
 
 これはマジでやばいかも。
 そう思った時、俺とオロチの間に割って入ってくる少女がいた。

 「もうやめて!!」

 加藤だった。
 まるで俺を守るかのように両手を広げ、昨日のように涙で顔をくしゃくしゃにしながら、大声をあげていた。 
 
 「もう、いいでしょ…!? もう、やめてよ…!!」
 「そこをどけ、英玲奈」

 オロチが圧倒的な威圧力で加藤に命令する。

 「どかない!! 絶対どかない!!」

 加藤も負けじと抵抗する。 

 「今すぐどけ、じゃないとお前も…」

 そう言ってオロチは拳を振りかぶる。
 加藤は一瞬恐れたものの、すぐに気を強く持ち直し、決して動こうとはしなかった。
 俺はその姿に加藤の強さを感じた。
 だが、彼女が傷つくのは俺の望むところではない。

 「加藤、どくんだ。俺に任せろと言ったはずだ。下がっているんだ」
 「馬鹿!! 何言ってんのよ!! こんなに血出ちゃってるのにさ!!」

 加藤は慌ててスカートのポケットからハンカチを取り出し、鼻血を拭き取ってくれる。
 白く綺麗な布切れが一瞬にして赤く染まっていき、何だか申し訳ない気持ちになった。
 
 しかし、俺は目の前に集まりだしてくるクラスメート達を見て、安堵した。
 
 自分の行いが正しかったかは分からないが、決して間違いではなかったはずだと。
 少し気持ちが軽くなり、加藤に言った。

 「違う、これでいい。これが、ベストなんだ」
 「意味わかんないよ…あんたがここまでする必要ないでしょ…!! あたしの問題なのに…。あんた一人がこんなに頑張ることない…!! もう十分だって…!」
 「加藤、それは間違ってる」
 「なにが間違ってるのよ…!」
 「これはお前だけの問題じゃないんだ。そして、俺は最初から一人で頑張るつもりなんてなかったぜ」
 「え…? それってどういう意味――」

 加藤は言いかけて、ハッとしてオロチの方へ振り返る。
 するとそこには、クラスの皆がオロチの周りに立ち塞がり、今にも奴を取り押さえようとしていた。
 俺は、勝負に勝ったと思った。

 「この戦いはオロチ対俺ではなく、初めからオロチ対クラス全員だったんだよ」

 オロチは謂わばこのクラスの独裁者だ。
 自分にとって気に入らない人間を虐げ、貶める。
 そして独裁者は圧倒的な力や恐怖で民衆を支配する。決して自らに反逆してくることのないように。
 
 しかし、その独裁体制が崩壊する時は毎回同じパターンである。
 それは、民衆による反乱だ。
 
 つまりこの戦いでの勝利条件は、クラスの連中がオロチの圧力に屈さず、恐怖に打ち勝ち、全員であの坊主頭のクソ野郎に立ち向かうことだった。

 「なんで…、皆、どういうこと…!?」

 予想外の出来事だったのか、加藤が慌てふためいている。
 だが、俺にとっては予定通り。
 この腐った現状を打破する為、俺には二つの考えがあった。
 
 一つは、クラスの連中の心を煽ること。
 
 例えどんなに汚い言葉を使ってでも、煽り、焚き付け、まずはオロチの恐怖支配から脱却させる。
 途中、偉そうなことを言う俺に対して非難の声が浴びせられたが、オロチへの恐怖から俺への怒りに対象が移り変わり、良い傾向だと思った。その時点で、一つの目的は達成できた。

 そして二つ目は、クラス全員でオロチに立ち向かうきっかけを与えること。
 
 俺に向けられた敵意をそのままに、上手く扇動し、その敵意をそのままオロチに移行させる。
 俺なんかが一人で歯向かった所で、あいつに勝てるわけがない。
 
 当然だ。そんなこと百も承知だ。
 
 だが、全員で戦えば必ず勝てる。
 だから俺は、自分の身を犠牲にしてでも立ち向かった。
 
 勝ち目のない戦いに突っ込んでいく馬鹿がここにいるぞ、と。
 悔しくないのか、お前ら。
 
 散々憎まれ口を叩かれ、敵意を抱いた相手が一人でオロチに立ち向かっている。
 ここで何もしなければ、本当に俺以下のゴミ虫に成り下がるぞ。
 
 立ち向かえ。
 立ち向かって、クラスのあるべき姿を取り戻せ。

 俺はそう皆に訴えかけるように、一人で戦った。
 
 勝ち負けは問題では無かった。
 皆が立ち向かうきっかけが作れれば、何でも良かった。
 そしてその試みは、どうやら上手くいったみたいだった。

 「なんだてめぇら。揃いも揃って」

 オロチが、自らを取り囲むクラスの連中を一瞥し、いつものように威圧する。
 
 しかし、皆はそんな圧力にはもう屈さず、強気の表情を保っている。
 すると、加藤の弁当を投げつけようとしていた鈴木が一歩前に出て言った。

 「いい加減にしろ、オロチ」
 「ああぁぁ!?」

 オロチは声を荒らげ、一層威圧するが、覚悟の決まっている皆は動じない。

 「もうお前の言うことは聞かない。俺だけじゃない、皆もだ。元々、あんなことするの乗り気じゃなかったんだ。皆だってそうだろ!?」

 鈴木はサッカー部でイケメンであることに加え、色々と気が利く奴で、度々クラスメートの相談に乗ったり手助けをしていた事もあり、クラスの皆からの人望はかなり厚い。
 そんな鈴木が問いかけるのだから、皆、頷いてみせる。
 オロチのように威圧して頷かせているわけではなく、皆、本心でそうしているようだった。

「オロチの指図はもう受けないって見せつけてやろうぜ!! 俺達の意志は俺たちのものだってことを分からせてやろうぜ!! みんなで自由を掴み取ろうぜ!!」

 鈴木が良い方向で皆を煽る。
 するとクラスの皆は、おぉ!!と一斉に応え、士気が上がる。
 やはり敵わないなぁと思った。
 しかし、その様子をみたオロチは再び怒りが爆発する。

 「てめぇら!! 全員ぶっ殺す!!」

 顔を真っ赤にしてそう言い放ったオロチは、目の前にいた鈴木の胸ぐらを掴みあげ、拳を振り下ろそうとする。
 しかし、近くにいた数名がオロチを押さえつけ、拳が振り下ろされることは無かった。
 オロチは舌打ちをし、押さえつけていた数名を弾き飛ばして再び暴れようとするが、また別の数名に押さえつけられているようだった。

 ここまでだ、と思った。
 ここまでで十分だ。これ以上はただの乱闘騒ぎになってしまうかもしれない。
 そう思った俺は、加藤に指示を出す。

 「加藤……」
 「な、なに!? どこか痛いの!?」
 「違う。そうじゃない。先生、先生を呼んでくるんだ。誰でも、いい」

 とにかく今は、この泥沼化しそうな状態を一旦収めてくれる権力者が必要だ。
 
 「そ、そっか。そうだよね! 分かった、すぐ呼んでくるね!!」

 加藤は俺にハンカチを渡し、すぐさま教室を出て行く。

 「よし。あとは……」

 あとはもう、鈴木に任せよう。
 きっと良いリーダーシップを発揮してくれるはずだ。
 そうなれば、もう、きっとこのクラスは平気だ。安泰だ。全てが上手くいくはずだ。
 何も問題は無い。何も心配はいらない。
 
 そう思った瞬間、気が抜けたせいか全身から力が抜け、崩れるように倒れ込んでしまう。
 そうしてそのまま、スイッチが切れたかのように意識が途切れた。 

   

                *

  

 目覚めるとそこには知っている天井があった。

 「保健室、か」

 俺は保健室のベッドで寝ていたらしい。
 誰かが運んでくれたのだろう。
 顔を傾けると、そこにはあの日と同じように夕日に照らされている少女の姿があった。

 「やっと起きたね、おはよう」

 そう言う彼女の表情は、普段のやんちゃな印象とは裏腹にとても美しく見えた。
 まるで見る人全てを安心させるかのような、とても穏やかで優しげな顔だった。

 「やっぱり待ってて良かった。なんとなく、そろそろ起きるんじゃないかなって思ってたんだ」

 加藤はニコッと笑みを見せる。
 
 ああ、彼女が笑っている。
 あれほど見たいと願っていた笑顔。
 あれほど取り戻してあげたいと思っていた笑顔。
 その笑顔が今、ここにある。ここにあるんだ。

 俺は胸に込み上げてくるものを感じた。
 少しは頑張った甲斐があったかなと思う。
 俺は起き上がろうとしたが、動かそうとするとすぐに体中に激痛が走り、気力を全て奪っていく。
 
 「まだ動いちゃダメだよ。ボロボロだったんだから」
 
 加藤が心配そうに言い、俺を再びベッドに寝かせる。
 震える唇を必死に動かし、俺は言った。

 「わざわざ、待っていたのか? こんな時間まで」
 「だって、起きた時に誰もいなかったら寂しいでしょ?」

 再び聖母のような優しい表情で、加藤が言った。
 あの鉄仮面が嘘のようにころころと表情が変わる様を見て、これが本当の加藤なんだと嬉しく思った。
 しかし、そんな心を悟られぬよう強がってみせる。 

 「そんなことはないさ。俺は一人の方が性に合っているんだ」
 「はいはい」

 さらっと流された。

 「それに、ひとこと言っておきたいこともあったし。なのに、意識不明になってるんだもん」
 「む、すまん……」

 なぜか申し訳なくなってくる。

 「あの後、先生を呼んできたは良いものの、あんたが気絶しちゃってたから、あたしどうしたら良いか分からなくて大変だったんだからね!?」

 そう言う加藤の表情からは相当の苦労がうかがえ、非常に申し訳ない気持ちになる。
 しかし、きっと鈴木あたりが上手く動いてくれていたんだろうと俺は思う。

 「でも、何とかなったんだろ?」
 「まーね。鈴木が色々と上手くやってくれたけど」

 予想通りだった。
 あいつなら全て上手くやってくれると思っていた。

 「だろうと思った。やはり鈴木はすごいな」

 今まではオロチの影に隠れていたが、オロチがいなければ確実に鈴木がクラスの中心になっていただろう。
 そしてオロチを退場させた今、それが現実のものとなる。
 
 これからが鈴木の真価が問われる時だろうが、あいつならクラスを良い方向に引っ張ってくれるはずだ。
 是非、そうしてもらいたい。
 しかし、加藤は納得出来ないような表情で俺を否定する。

 「……そうかな?」
 「そうだろ。皆をあんなに上手くまとめてオロチに立ち向かってた」

 そう言う俺に対し、加藤は真っ直ぐに俺の目を見据えて言う。

 「でも、そのきっかけを作ったのはあんたじゃん」

 加藤の顔は、至極真面目な表情になっていた。

 「確かに鈴木はすごかったかもしれないけど、それは、あんたがいたからじゃん。あんたの行動があって、言葉があって、必死さがあって、それで、あいつもようやく覚悟が決まった。あたしはそう思ってる」
 「そ、そうか?」

 そう言ってもらえて、俺は素直に嬉しかった。
 自分の成した事が無駄ではなかったと、そう思えた。

 「それにあんたがいなかったら、きっと、あたしは明日も明後日も今までと何も変わらずに嫌がらせを受けていたと思う。だから、だからね……」

 加藤は意を決したような表情になる。
 そして、少し気恥ずかしそうに言った。

 「助けてくれて、ありがとうって。あたしを救ってくれてありがとうって、一言、どうしても言いたくて」

 加藤の顔は明らかに赤くなっていた。
 
 対する俺は、感謝なんてものをされるとは思ってもいなかった為、頭が真っ白になり何も言えずにいた。
 
 「ぁ……、ぅ…」

 そんな言葉、予想していなかった。期待もしていなかった。
 自分の考えと現実にギャップがありすぎて、思考がまとまらなくなる。

 「な、なんだよ。やめろよ。俺はそんな事言われるような人間じゃないぞ」

 気恥ずかしさから、明らかに動揺した口調になってしまった。

 「なに赤くなってるの。案外かわいい所あるんだね」

 加藤がからかうように言ってくる。
 俺はそれから逃げるように、話題を逸らそうとする。

 「しかし皆に酷いことをかなり言ってしまった。皆、俺のことを恨んでいるだろうな」

 実際あんなに悪態をついてしまったし、皆どう思っているのだろうか。
 今度は俺が敵意を向けられてしまうのだろうか。
 もしそうなったとしても、仕方がない。
 オロチの呪縛から解放するための必要な犠牲だったんだ。
 俺一人が耐えれば済む話だ。オロチが支配していた時よりもずっとマシじゃないか。

 「ぷっ。あはは、なにそれ、ダサっ! てか、被害妄想すぎ!」

 加藤が悪戯に笑った。
 俺の心にかかりはじめた靄を吹き飛ばすかのように、笑った。
 何だか、拍子抜けした。

 「あんたに怒ってる人なんて、一人もいなかったよ。むしろ、みんな感謝したいって言ってたくらいだし」

 「…マジか」

 どうやら俺は本当に被害妄想していたらしい。
 急に自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 
 「うん。でも、あたしは許さないよ」

 加藤の表情が唐突に真剣になったかと思うと、俺の顔に向けて両手が伸びてきた。

 「おい……」

 その意味を理解した時には既に遅く、加藤の両手は俺の顔をしっかりと掴み、俺はそのまま彼女の胸へと抱き寄せられる。

 「あんたにはほんと、感謝してもしきれないくらい、ありがたく思ってる。きっと、あんたっていう人間はこれからも、どうしようもない程に困っている人がいたら、あたしの時みたいに助けちゃうんだろうね。それでまた、一人でなんとかしちゃうんでしょ」

 誰もやらないのであれば、誰も出来ないのであれば、やはりそうするしかない。
 例え一人でも、何とかするしかない。
 一人だからこそ、何か出来ることがあるかもしれない。
 今回の一件のように。
 
 全ては自分の為に。自分が、生き返る為に。
 そう感じると思っていた。
 しかし、そうではなかった。自分の心境も変化しているようだった。
 何か自発的なものが芽生え始めているのを感じた。

 「でも、あたしは怖いよ。一人で頑張りすぎて、いつかあんたの方が壊れちゃうんじゃないかって、心配だよ。今日みたいに、あんただけが傷つくのはもう見たくない。あんなやり方、もう絶対に許さない」

 加藤は抱きしめる腕に一層力を込め、言った。 

 「だから、だからさ。これからは、あたしを頼ってよ。いっぱいいっぱい頼ってよ。あたしに出来る事なんて大してないかもしれないけど、それでも頼って欲しい。少しは恩返しさせてよ」

 こんな体勢で、しかも、今にも泣き出しそうな声で言う彼女はずるいと思った。

 「……こんなことしながら言うのはちょっとずるくないか?」
 「だって、こうでもしないとあたしの言うことちゃんと聞いてくれないでしょ?」

 何もかも計算済みってことか。
 意外と侮れない女なのかもしれない。

 「分かった、分かったよ。そうさせてもらう」

 俺は観念し、そう言う他なかった。
 そして、加藤は自身の胸に抱き寄せていた俺の頭部をようやく解放し、満面の笑みで言った。

 「よしっ」

 そう言う彼女の顔は、今までで一番の笑顔だった。


       

表紙

オロナインC 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha