狂人は自分が狂っていると理解しているのでしょうか。それとも世界が狂っていると思い込んでいるのでしょうか。
銀の月16日。気候は春めいているのに、私は床に伏している。熱はない。むしろ体は氷のよう。
クビにしたメイドの毒が今になって効いてきたのかと思って、お医者にかかったけど原因は分からずじまい。治療も不可能だった。いくら遅効性の毒でも2ヶ月後に効いてくる毒なんてあるのかしら?
それよりは単に寿命なのではないでしょうか。私はしょせんホムンクルス。造られた生命では安定は望めず、かりそめの命は風前の灯火。寿命ならば医者に治せるわけもない。
今日はアリエルさんのお屋敷で終戦工作の会がある日。伏せってなんかいられない。甲皇国の数少ないお友達にお呼ばれしているのだから。
それよりももっと心配なことがある。
どういうわけか、今回は夫婦同伴で来て欲しいとアリエルさんからお誘いいただいた。あのネクル子爵を衆目にさらしてよいものか。できれば連れて行きたくない。せめて常に持ち歩いている頭蓋骨を手放してくれれば、まだ見栄えがする。
少しは意思疎通も出来るようになったし説得してみよう。
「ネクル子爵、今日はおんもにお出かけするからガイコツは置いていきましょうね」
私が丁重に頭蓋骨をテーブルに置くと、ネクル子爵は床に仰向けになって手足をバタつかせる。
「イヤ! イヤ! ヤダ! ヤダ! いっしょに! いっしょに!」
「死んだ人とは住む世界が違うの! ガイコツさんとはちゃんとバイバイして、お墓に帰してあげなきゃ!」
「ヤーダ! ずっといっしょ!」
余計具合が悪くなりそう。もういいや。私はあきらめて頭蓋骨を引き渡した。どう取り繕っても狂人は狂人。
私はネクル子爵を伴って家を出た。
アリエル邸は帝都マンシュタインの近郊、港町クライストにある。マンシュタインからクライストまでは鉄道が敷設されていた。
駅まで歩き、汽車に乗る。
初めて汽車というものに乗ったが、聞いていたよりずっと早くてびっくりだった。私たちが精霊を信じるように、甲皇国人が科学を信じる気持ちが少し分かった気がする。便利なのだからアルフヘイムでもマネすればいいのに。
ともかく客席に座っているだけで目的地まで着く汽車というものは、具合の悪い今の私にはとてもありがたい。
窓に映る景色も気分の悪さを幾分か和らげてくれた。
石と鉄でできた城下町を出て、ちらほら疎林が目立つようになる。家と家の間隔が広がり、道幅も広い。私はこういう素朴な風景のほうが好き。帝都の圧迫感は息がつまる。
今は開放感もあって、気持ちが良い。
ネクル子爵も流れていく景色にご満悦のようで、窓にかぶりついて見ていた。とうとう自分で窓を開け放つ。潮風が客車の中に入ってきた。
そうか。ここはもう海に近い。
汽車の煙まで客車の中に入ってきた。
乗客たちは煙に巻かれて咳き込む。私は慌てて窓を閉めながら謝り続けた。
「すみませんすみません。うちの子がすみません」
汽車がクライスト駅のホームに着き、ネクル子爵を引っぱって私は逃げるように下車した。
外に出るともう海が見えている。遠くの水平線がきらきらと陽光を反射していた。
今日は晴れているので、ぼんやり島影まで見える。対岸の旧ヒノエ領弧状列島でしょうか。
駅は小高い丘の上にあって、港も取り巻くように林立する白壁の家々も一望することができた。
一番大きい家がセントローラ伯爵邸。二番目に大きい家が目的地のゴルドハウアー邸。ゴルドハウアー邸に比べると他の家はおもちゃみたい。かわいいものだ。
丘を下りながら、景色を楽しむ。海の青と家の白がとても鮮やかだ。甲皇国にもこういう景色があったのか。
ゴルドハウアー邸の前庭までたどり着き、深い海の色した花が迎えてくれた。この花は確かアバラという植物だ。骨大陸の固有種で、とても美しいけど茎に肋骨のようなトゲがある。
ゴルドハウアー邸は前庭を開放していて、庶民でさえ庭を見物することができた。なんてアリエルさんは優しいのだろう。
私たちは前庭の迷路のような生垣を通り抜けて門前にやって来た。
今回はちゃんと招かれているので、すんなりと客間に通される。
ところが客間の円卓の席に着いているのはアリエルさんだけだった。早く来すぎたかな?
「あの、こちらネクル子爵です」
「私の夫の」と言うのが嫌だったので、アリエルさんに雑な紹介をしてしまった。
「ごきげんようネクル子爵。子爵はこちらの席にお座りください」
「私の友達のアリエルさんよ。あなたもあいさつなさい」
私が言って聞かせても、ネクル子爵は黙っていた。しょうがないので、アリエルさんに勧められた扉の前の席に座らせる。まったくこの人は。私もネクル子爵の右隣をひとつ飛ばして、さらに右の席に座る。
私たちが席に着いたのを見て、アリエルさんが話を切り出した。
「我々終戦工作の会にとって朗報があります。甲皇国の甲乙丙御三家とアルフヘイムの両軍を率いる反乱軍掃討の総司令官がなかなか決まらないようです。反乱鎮圧の経験があるカデンツァ殿下あたりが名乗りを上げるかと思ったのですが、前回で懲りたのか今回は見送ったようです。それどころか総司令官に立候補する者は誰もいません。民衆を根絶やしにしても得られる名誉はなく、悪名ばかり轟くことになるからでしょう」
私は自分の隣の空席を不安げに見つめながら、アリエルさんに聞いてみた。
「メルタ様遅いですね。ククイさんやカールくんはいつ来るんですか?」
その時大きな音が鳴る。ネクル子爵の後の扉が開け放たれた音。客間に飛び込んできたのはメルタ様ではなく、鬼家の私兵集団だった。
私兵たちは統一感のない格好をしている。黒い軍服を着て拳銃を向ける者、時代錯誤な鎧を着込んで槍を構える者、遊牧民の民族衣装で斧を手にする者、着物を着て帯刀する者。
何かの余興かと思ったが違った。軍服の兵がネクル子爵の右腕を抱え込み、着物の兵が左腕を抱えて拘束している。
「これはどういうことですか!!」
私はアリエルさんに詰め寄るが、残りの兵たちに斧と槍を交差されて妨害されてしまった。
「今日、終戦工作の会なんてないわ。メルタもククイもカールも誰も来ない。今日の会は中止のむね、すでに皆には連絡済みよ。どうしても私はネクル子爵に聞きたいことがあったから、あなたたち夫婦だけ呼んだの」
何でこんなヒドいことをするのか分からない。
私が要領を得ないまま、アリエルさんは話を続けた。
「本題に入りましょう。私の婚約者、メゼツはどこにいるの?」
「メゼツ? 確かメルタ様の兄で、あなたの許婚の? 亜骨大聖戦で行方不明になったと聞きました。ネクル子爵が知っているわけないでしょう」
「あなた、この男の妻のくせに何も知らないのね。この男は皇帝が身分卑しき娼婦に産ませた子だった。だから家格を上げようと戦地に赴いたはいいけど、臆病風に吹かれた。兵舎のトイレに引きこもり、戦場に出るのを拒んだ。それでこの男を説得するために妻オフィーリアがアルフヘイム大陸まで渡って来たの。同じ鬼家の婚約者という縁でメゼツも同席して説得に当たったそうよ。その日は運命の日だった。エルフどもの焦土戦術で、禁断魔法が放たれた。オフィーリアが目の前で死ぬところを見て、この男は発狂してしまったの。そしてこの男はメゼツの部下だったウォルト・ガーターベルトに保護されて、自分ひとりおめおめと生き残った。何か知っているはずなのよ! メゼツと最後に会ったこの男が、この男が!!」
当の本人は抱えられた私兵の腕に体重を預け、足をぶらぶらさせている。
気の高ぶったアリエルはふざけた態度のネクル子爵から頭蓋骨を奪い取った。
「返して! 返して!」
とたんにネクル子爵は取り乱して泣き叫んだ。
私はアリエルさんの話を聞いて確信した。ネクルは気が触れてなんかいない。ショックで幼児退行を起こしているだけだ。初めて会ったあの日、私の服がびりびりに破かれていたのを見かねて助けてくれたもの。今度は私が助ける番だ。
「返してあげて。その頭蓋骨はネクルにとって大切なものなの。きっとオフィーリアさんの亡骸……」
私の声はどんどんかすれていって、最期には言葉が出なくなった。
「この狂人が愛する人の亡骸を見分けられるわけがない。おおかたどこの馬の骨かも分らない無縁仏をかってに拾ってきただけよ。甲皇国の科学技術なら簡単に鑑定することができる。見てなさい」
そう言うとアリエルさんは民族衣装の私兵に頭蓋骨を手渡し、歯医者に行って歯の治療跡からオフィーリア本人の遺骨か鑑定するように言い含めた。
ネクルの泣き声が聞こえる。その声はだんだん小さくなっていった。
助けてあげたいけど、体に力が入らない。
そういえば具合が悪いんだった。
遠くのほうで、必死なネクルの声が聞こえる。もう泣き言なんて言っていない。
「メゼツ、イキテル。メゼツ、イキテル」
また私を助けようとしてるんだ。メゼツさんの情報を伝えて、軟禁を解こうとしている。やはりネクルは狂人なんかじゃない。
ネクルの声がとうとう聞こえなくなって、目の前が真っ暗になった。
もしかして私このまま死んじゃうのかな?