Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
漆壁の章

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 馬上で雄叫びを上げると、天が割れ、地が震えた。



 一頭の駿馬に跨り、武器を振るう己の姿に、敵は畏怖し、蟻のように逃げ惑った。



 純粋な武のみを追いかけ、ただ頂点を目指した。



 千里を駆け、覇道を征く。



 心にそう決めた時、遥か西の彼方の異国が目に浮かんだ。



 ひたすらに駆け行きたい、そう思っていた。



 だが、目の前に広がるのは水没した城壁に幾万の敵兵。



 馬は溺れ死に、兵は進もうとしない。



 嗚呼、我を描きし者よ。



 一人で万の兵を屠るその武を伝えたまえ。



 狂いし天意に抗う我が姿を残したまえ。

     

 三月三日、千寿は強い雷雨に襲われた。



 早朝から降り始め、昼過ぎには風がふき、深夜には雷が鳴った。ふき荒れる風雨の為か、闇の者たちの多くは姿を潜め、嵐が通り過ぎるのを待った。



 そうした中で、一羽のワタリガラスは闇を駆けていた。



 手傷を負い、その傷を癒す間もなく、ビルの間を翔び、駆けに駆けた。まるで翼を失い、地べたで藻掻いている蝶のようだった。



 その手負いのワタリガラスを仕留める為、一匹の隻腕の獣もまた闇を駆け抜けていた。その左手には、全長九尺、二尺一寸の槍身の両側に、三日月状の刃が付いた大方天戟を携えている。



 そして遂に、痛みを堪えつつ一刻以上駆け続けたワタリガラスの体力は限界に達しようとしていた。



 脚が絡まり、その場で突っ伏すように倒れた。よろよろと立ち上がるも、その背を刃が襲う。



 本能的に身を翻して躱そうとするも、背を抉るように切られ、血が飛び散った。



 肩で息をし、血と雨に濡れながら、ワタリガラスは短い槍を取ると、獣に向かって駆け出した。



 動かない腕を動かし、声にならない声をあげ、死中に活を求めるものであった。



 獣は左手の大方天戟を横一線に振った。片腕の力で振ったとは思えない速さだった。三日月状の刃はワタリガラスの横腹にめり込み、その勢いのまま右方向に吹き飛ばした。



 ワタリガラスは血しぶきを上げながらビルの間、深く広がる闇の底へと落ちていった。 



 獣は大方天戟を肩にかけると、ワタリガラスの落ちた闇を見下ろした。

「無様よ、シグレ。」



 獣は去った。空には、黒雲の間から月の明かりがぼんやりと映し出されていた。

     

 晴天の空の下、ツツジは入口のシャッターを上げた。



 昨晩はひどい雨だった。お陰で患者は来ないし、患者がいないと自分の心も落ち着かない。



 とにかく誰でもいいから患者が欲しい。治療がしたい。擦りむいた傷には思い切り消毒液をぶっかけ、針が体に刺さったらナイフで切開したい。ツツジは院内の椅子に座ると、ピンセットを指の先でくるくる回し始めた。



 女医として二年前に千寿に診療所を構えてから、患者が絶える事は殆どなかった。千寿では毎日の様に諍いが元で怪我人が出るし、不衛生な環境に住んでいる者の多くは何らかの病を抱えている。



 また、ツツジが金の払えない者も構わず治療する為か、診療所にはひっきりなしに患者がやって来る。患者がいないと落ち着かない性分のツツジにとっては、理想的な場所だった。



 薬の在庫を確かめようとツツジが立ち上がったとき、入り口の方が慌ただしくなった。



 ツツジが外を確かめると、数人の男たちが駆けこんできた。



「ツツジ先生! 急患だ! ヤマさんの腰が折れちまった。」

 血相を変えた男たちが三人がかりで運び込んできたのは、六十代のホームレスの男性だった。背中が九の字に曲がり、荒い息をしている。



 千寿には毎年、多くの者たちがチャンスを求めてやって来る。身分に関わらず、才覚次第でビッグマネーを得られる。それが千寿だった。だが、失敗すれば、大通りから一歩外れた路地、秩序のない完全なアンダーグラウンドの世界に住むことを余儀なくされる。



「先生。朝起きたらよ、外でヤマさんが、腰が折れたって言って苦しんでんだ。」



「奥から二番目のベッドに腹ばいで寝かせな。ヤマさん、何をして腰が折れたんだ?」



「朝散歩していたら、帽子を落としちまった。屈んだら、腰が折れちまった。」



「ぎっくり腰じゃないのかい?」

「いや、この痛みはぎっくり腰じゃねぇ。骨が折れてんだ。」



 ツツジが尾てい骨の上を、親指でぐっと押すと、短い悲鳴と共に身体が跳ね上がった。



 ツツジはにやっと笑うと、続けざまに背中から腰回りを押していった。



 「先生! 止めてくれ! ヤマさんが可哀想だ!」

 指で押されるたびに悲鳴をあげている姿を見ていられず、男が止めに入った。だが、ツツジはその手を振りほどいた。



「煩い! あたしが大丈夫だと言ったら大丈夫なんだ!」



 胸腰筋膜の左下部を押したとき、ツツジは不適な笑みを浮かべた。

「ここか。」

 ツツジがその場所に親指を垂直に立て、体重をかけて押し乗ったとき、激しい苦痛で歪んでいた男の顔が、まるで何事もなかったかの様に緩んだ。



「あれ、先生。今はなんともねえや。すっかり治っちまった。」



「ただの腰痛だよ。今は何も感じないだろうけど、まだ痛みは残っているはずさ。明日、また来な。」



「すげえ。ツツジ先生は名医だ。」

 男たちは感心したような様子で、何度も礼を言い、去っていった。



 ツツジは院内の椅子に座り、天井を見上げていた。

 つまらない。もっと心が躍るような患者に出会いたい。例えば重傷を負っている美少女が良い。絹のような長い黒髪に、細く白い手足。きりっと整った目鼻立ちに、何者をも寄せ付けない気の強さ。全身に負った傷の上から消毒液をぶっかけて、苦痛に歪んだその姿を慰めたい。ツツジは妄想に耽りながら、椅子をくるくると回転させた。



 注射器の在庫を確かめようとツツジが立ち上がったとき、入り口の方が慌ただしくなった。

ツツジが外を確かめると、先ほどの男たちが駆けこんできた。



「何だ? また腰痛か?」



「ツツジ先生! 急患だ!」



 ツツジは男たちが運び込んできた者を見てぎょっとした。血に染まった黒いコート、不自然に折れ曲がった腕、鳥の装飾の入ったヘルメット。明らかに、ホームレスの類ではなかった。



「先生、多分こいつはどこかの殺し屋に違いねえ。だけど、どうやら生きてるみたいなんだ。」



「生きているのか? 私は死人を診ないぞ。」



「間違いねえ。さっきまで息をしていたんだ。」



「ひとまず、コートを脱がせて、ヘルメットを取って、一番奥のベッドに仰向けに寝かせな。」



 千寿ではこういった類の患者が運ばれてくる事がある。

 だが、殺し屋同士の戦いで傷を負った者たちの多くは、治療の甲斐なくベッドの上で亡くなるか、退院して間もなく争いで命を落とすケースが多い。



 以前、敵対する二人の殺し屋を同時に治療するも、次の日に診療所の前で戦いを始め、互いに相討ちになって息絶えていたこともある。



 酷い怪我を治療するのは吝かではないが、殺し屋の治療は好きではなかった。



 男たちがヘルメットを外したとき、思わずツツジは息を飲んだ。

「せ、先生、どうしたんですかい?」



 ツツジの目は見開き、口角は吊り上がり、手はぷるぷると震えていた。

「大丈夫。この娘はあたしがずっと面倒を見るよ。」



 ツツジの只ならぬ雰囲気に、男たちは思わず後ずさった。

     

 事務所の空気は重かった。



 送った刺客は全て殺され、シマは接収され、部下は逃げ出し、敵方に寝返る有様だった。



 黄土色の高級チェアに背を持たれかけ、ナカムラは憎々しい表情のまま煙を吐いた。室内をシガー特有の香りが包んだ。



「いつから、こうなったんだろうな。」



 ナカムラは葉巻を咥えながら、虚ろな目で天井を見上げると、嘆息を漏らした。



 四十年前、二十歳の自分は玄龍会に入った。当時の会長だったアライ・ゲンジロウに取り立てられ、大きなシマを任された。だが、同僚のクーデターで会長は殺されて組は半壊。その後、千寿を二分した騒乱に辛うじて勝利したのち、規模を縮小しつつも名を龍門会に改め、自分はその隆盛に力を尽くしてきた。



 ところが、今の龍門会は、一年前まで傘持ちだった男が幅を利かせている。数か月前、その男に目をかけ、取り立てた会長が暗殺された。以前より、自分は会長の片腕として忠告していた。あの男を決して信用してはいけない、と。



「恩知らずの、キムのクソッタレめ。」



 ナカムラは机を強く蹴り上げた。思わず、傍らに起立している部下がたじろいだ。



 黒幕はキムに間違いない。キムは殺し屋を雇わないと公言しているが、送り込んだ女刺客は無惨に殺された。彼女は腕のいい殺し屋だった。だが、腐食し、バラバラに刻まれた状態のままダンボールに入れられ、事務所の中に投げ込まれた。



 遺体を調べると、脇腹と喉を何かで貫かれたような傷跡があり、殺し屋の仕業に間違いないという。



「もう、龍門会の主になったつもりか。」



 龍門会のシマの多くは、キムの息が掛かった者達に任されている。だが、自分は諦めていない。キムの台頭を快く思わない者もまだいるし、殺された先代会長の復讐を望む者達を焚きつければ、まだ、勝機はある。



 ナカムラは傍らの部下を呼んだ。



「おい、アオヤマ。シオタニに電話をかけろ。今が先代会長の無念を晴らす好機だ、と。」

 シオタニは実直な男だった。キムにシマは取り上げられたが、先代会長の仇を討つために、子飼いの腕のいい刺客を養っている。シオタニがキムに揺さ振りをかけている間に、反キムの者達を集い、一機にカタをつける。そして、キムを抹殺する。



「カシラ。シオタニさんに電話が繋がりません。」

「繋がらない訳がないだろう。番号を間違えたんじゃないのか?」



 しかし何度掛けても、シオタニは出なかった。



 キムに先手を打たれたのかもしれない、ナカムラがそう思ったとき、事務所の入り口から、金具を激しく打ち付けた様な、甲高い金属音が聞こえた。



 ナカムラは身に迫る危機を本能的に感じた。

「きっとキムの野郎だ! 道具貸せ! テーブルを倒して身を伏せろ!」



 ナカムラの部下たちは四人掛かりで長いテーブルを扉に向けて横に倒すと、みな一斉にその陰に隠れた。それは万一に備えて分厚いチタンで作られており、大概の火器であれば貫通を容易に防ぐことが出来る代物だった。



 四人の部下は皆、拳銃の安全装置を外し、ナカムラもまたショットガンを構えた。



 だが一向に、相手が部屋に入ってくる様子がない。アオヤマが訝しげにテーブルから顔を出すも、敵の姿はなかった。



「カシラ。気のせいじゃないんですか?」

「嵐の前の静けさってあるだろ。今が其れだ。油断するな。」

 ですが、とアオヤマが言いかけたとき、入り口の扉が吹き飛び、硝子と共にテーブルの端に直撃した。



「来やがった! 撃ちまくれ!」

 ナカムラ達がテーブル越しに銃を構えたとき、再び室内に金属音が鳴り響いた。



 その瞬間、目の前から猛烈な風圧を顔に浴び、思わずナカムラは尻餅をついた。そして、自分の目を疑った。扉にむけて盾としていたチタン製のテーブルが縦から両断され、目の前にいた四人の部下の首が宙を舞い、足元にアオヤマの首が鞠のように転がった。



 この手前、覚えがある。



 ナカムラは僅かな時間の間に記憶を呼び起こした。



 アライゲンジロウを殺し、玄龍会を壊滅させ、都市の全てを掌握し、千寿のキングとなった男がいた。その男の強権的な手段から、千寿に住む闇の勢力は二分され、大規模な騒乱となった。誰もが、その男の首を狙った。だが、たった一人の刺客によって、全員血祭りに上げられた。その者はのちに、男を庇って右半身に大火傷を負い、姿を消した。



 ナカムラは過去、玄龍会の残党として、一度この者を遠目に見たことがある。男が数人掛かりで持ってやっとの大方天戟を担ぎ、正面を向いたまま一振りで十人近くの敵の首を刎ねた。



「キムの手の者ではないな。」



 ナカムラは上を見上げると、目の前には白いスーツを着た長身の女性がいた。全ての髪を後ろに短く束ね、見方によっては男性にも見える。だが、ナカムラの目を引いたのは、その者が隻腕だった事に加え、手には九尺ほどの長さの大方天戟が握られていることだった。



「如何にも。」

 女は短く答えると、大方天戟を左手で軽々と持ち上げ、ナカムラを見下ろした。



「主の新たな戦の為、死んでもらう。」

「分かった。だが死ぬ前に、お前の名前を教えてくれ。どうしても、思い出せない。」



「我が名は、呂角リウ・ジャオ 。」



「呂角か。漸く思い出した。だが、死ぬのはお前だ。」

 足元のショットガンに手を伸ばそうとしたとき、ナカムラは落下していく感覚と共に、自分が床から天井を向いていることに気づいた。目の前には、血しぶきを吹き出し、倒れていく自分の身体があった。



 目の前が赤黒くなっていき、ナカムラの意識は途絶えた。

     

 十年間、待ち望んだ日だった。



 僅かなシマを命がけで守り続け、漸くこのときを迎えた。



 身体中から気炎が上がるのをぐっと堪え、サブロウは窓の外を眺めていた。



 事務所の窓から木漏れ日が差し込み、部下たちの顔を照らした。



 みな、万感の思いを抱き、今このときを迎えているに違いない。



「長かったのう、サブロウ。儂は生きている間にこの日を迎えられるとは思わんかった。お主の忠義心と尽力があっての賜物じゃ。」



「皆の働きが一つでも欠けていれば、この十年を乗り越えられなかった。貴方が生きている内で良かったよ、ジンパチ。」



 左隣りに座るジンパチが白髭を撫でながら灌漑深そうに微笑んだ。



 ジンパチはもう齢七十六になる。五年前にはもう後先がないと嘆いていたが、最近は再び足腰を鍛え、心に気を蓄え、全盛期の頃の剣技を取り戻しつつある。



「それで、ゴンゾウ殿はいつ頃お見えになるのじゃ?」

「もう間もなく到着なさる頃だ。道中はチヅルとシズカが護衛している。問題はない。」



「この十年、あの二人も苦しかったじゃろうな。特にチヅルは。」

 サブロウは静かに目を閉じた。



 玄龍会が壊滅して三年後、千寿の闇の勢力を二分とする抗争が起きた。サブロウが若頭を務めていた六文組は組長を失い、戦いに敗れた。そのとき、組長を護衛していたのはチヅルとシズカという双子の姉妹だった。



 十八歳になったばかりであったが、年齢に比して抜群の力量を持っており、護衛に抜擢された。だが、チヅルが眼前の敵に目を逸らしている隙に、組長は殺害された。今でも、あのときの泣き崩れたチヅルの顔が目に浮かぶ。



「チヅルも、シズカも、六文組の再建に力を尽くしてくれた。心身を鍛え、技を磨き、この日を迎えた。」



「そして、お主の尽力で、ゴンゾウ殿の早期出所が叶った。何もしておらぬのは、儂だけかのう。」

 ジンパチはからからと笑った。



 かつて、玄龍会を壊滅させ、混沌とした千寿に秩序を生み出そうとした男がいた。名は、ワタリ・ゴンゾウ。貧困層を救う志を掲げ、全ての闇の勢力を自らが管理し、それらが生み出す富を貧者へ公平に分け与えた。



 反対する者は善悪を問わず容赦なく殺し、千寿には一定の秩序が生まれた。だが、それは長くは続かなかった。



 ゴンゾウに反発する一部の闇の勢力が玄龍会の残党を抱え込み、ゴンゾウに対して敢然と蜂起した。千寿を二分した闇の勢力同士の抗争は、後にゴンゾウの渾名からデスポート騒乱と名付けられた。



 当初はゴンゾウ派が優勢だったものの、コーポスと呼ばれる髑髏の怪人などの自警団の活躍によって徐々に追い詰められていった。行政機関の上層部がゴンゾウを見限ったことによってゴンゾウは逮捕され、三か月という余りにも短い裁判の期間の末、無期懲役となった。



 そして三か月前、ゴンゾウは十年の刑期ののちに仮釈放を果たした。サブロウを始め、ゴンゾウ派の者たちが早期出所に向けて東奔西走した結果だった。



 仮釈放後、三か月の監視期間を終え、ゴンゾウは再び闇の世界に舞い戻った。



 十年の間、臥薪嘗胆の日々を耐えてきたサブロウたちにとっては、まさしく一日千秋の思いだった。



 事務所の外に車の止まる音を聞こえたとき、サブロウは目を開いた。



 サブロウは今年で四十三歳となる。このまま老け込んでいくかと思ったときもあった。だが、今は猛る心、滾る想い、身体中からあがる気炎を必死に抑え込み、事務所の扉が開くのを待った。



「齢七十六にして、最期の一華を咲かせられようとは思わなんだわい。」

 サブロウは隣から気を発したジンパチを見た。



 この老人もまた、内なる炎が燃え盛っている。この日を迎えることを一番待ち望んでいたのはジンパチなのかもしれない、とサブロウは思った。



 竹馬の友であった先代の組長に仕え、若い頃は剣術の達人として六文組の屋台骨を支えてきた。組長が殺されたのちは、若い衆の指導に力を尽くし、ジンパチを手本としている若い者は多い。



「逸る闘志、胸に秘めし心火は同じだ。ジンパチ。」

「わしらの想いに宿りし徒花、たとえ散る運命であろうとも、共に咲き乱れようではないか。」



 サブロウが頷くと同時に、外から扉を叩く音がした。

     

「失礼致します。ゴンゾウ様をお連れしました。」

 シズカの声だった。



「お通ししろ。」

 サブロウが短く返事を返すと、扉が開いた。



 シズカとチグサに導かれ、室内に入って来たのは身長が二メートルはあろうかと思うほどの大男。虎のような眼差しに、周りを圧倒するかのような威圧感を放っている。まぎれもなくゴンゾウだった。



「サブロウ。此度の尽力、まことに感謝する。」

 ゴンゾウが頭を下げようとするの見て、サブロウが慌てて駆け寄った。



「頭を下げるのは私の方です。貴方が居られない間、私たちは何も出来ませんでした。」

「お前の恩は生涯忘れん。」



 サブロウは頷くと、ゴンゾウを最も奥の椅子に着くよう促した。



 そこはかつて先代組長の席だった。サブロウは組長代理となっても、そこに着こうともしなかった。今、その席にゴンゾウが座った。



「サブロウ。兵は如何ほどある。」

「我らだけで二十四人。他の組を合わせれば百人ほどになるでしょう。」



「少ないな。だが、いずれの者も一人が十人に相当するだろう。」

「仰る通りです。そして、この戦に際して、六文組からは助っ人を用意させて頂きました。」



 サブロウが左手を上げると、左奥の部屋から二人の男が入って来た。

 一人は白い着物を身に纏い、顔に白い化粧をし、三尺ほどの日本刀を腰に差した男。もう一人は顔の下を赤いバンダナで隠し、迷彩服を着た男だった。



「この着物の男の名はウンノ・ソウジ。二十二歳と若いですが、居合の腕は確かです。ソウジ、ご挨拶を。」



 ソウジは頬が裂けんばかりに口角を上げると、白化粧の中に浮かぶ血走った目をゴンゾウに向けた。



「あたしの名はウンノ・ソウジ。あんたに着いた方が面白そうだったから此処に来た。弱ければ弱いほど、当たったときは大きいからね。」



 サブロウが窘めようとするのをゴンゾウは右手で制した。

「ソウジか、面白い奴だ。そのいで立ちは、世に名を広める為のものか?」



「いいえ、ゴンゾウさん。この服装の方が相手を斬ったとき、綺麗に映えるからね。」

 今にも怒り出しそうに顔を赤くしたサブロウを制しながら、ゴンゾウは口元を綻ばせた。



「ゴンゾウ様、ソウジは若年ゆえ、ご容赦ください。」

 サブロウはコホン、と咳払いをすると、もう一人の男を指した。



「この男の名はカケイ・イシン。無口で愛想は悪いですが、早打ち、狙撃には抜群の技量をもつ銃の名手です。イシン、ご挨拶を。」

 イシンは一歩前に進むと小声で何かを呟いた様子だった。



「イシン。悪いがこのジンパチは齢七十六ゆえに耳が遠くてのう。老いぼれに聞こえるように言ってくれぬかのう。」

 ジンパチはイシンの口元に耳を寄せると、その後からからと笑った。



「ゴンゾウ殿。イシンは、声が小さいゆえにご容赦ください、と申しておりますぞ。」



 ゴンゾウは微笑んだ表情のまま、真っ赤な顔で俯いているサブロウの肩に手を置いた。

「よい。心強い者たちだ。」



 ジンパチは二人に席へ着くよう促すと、周辺を見回す素振りをした。



「そういえば、今日はお傍に呂角がおりませんのう、ゴンゾウ殿。かの娘は何処に?」

「呂角は仕事だ。ナカムラを始め、我に立てついた者たちは生首となっているだろう。」



 室内でおお、という声が漏れた。



 戦はもう始まっている。サブロウ達の表情が一層に引き締まった。



 ゴンゾウは腕組みをし、一人一人の表情を確認するように見回した。

「よいか六文組の衆よ。状況を鑑みつつ、まずは龍門会を攻める。だが、今滅ぼす必要はない。我らの存在を植え付け、十年前の恐怖を思い出させてやればよい。」



 そして最後に、ゴンゾウはサブロウに顔を向けた。

「サブロウ。今日よりお前は六文組の長だ。皆を率い、雄々しく戦え。」



 サブロウは、身体中から上がる気炎を抑えられなくなってきた。



 夢にまで見た光景が、今目の前にある。戦に敗れ抱いた慙愧の念。屈辱に塗れた十年間。全ての記憶が走馬灯の様にサブロウの脳内を駆け巡った。



 お頭。天より我らの戦をご照覧あれ。



 深々と頭を下げたサブロウの肩は震えていた。

     

 十年ぶりにゴンゾウと出会ったとき、ワタリ・キョウコは微かな違和感を覚えた。



 刑務官に見送られ、門から出てきたゴンゾウはいささか太った様に思えたが、遠目に見たときはまぎれもなくその人だった。



 だが、間近で見たとき、その他者を威圧する気は最後に会ったときとは比べ物にならないほど強くなっていた。全てを拒絶するような圧倒的な威圧感。キョウコと目を合わせても尚、その気が鎮まることはなかった。



 今晩遅くに六文組の事務所から帰って来たゴンゾウは椅子に座り、静かに目を閉じている。この時間のみ彼の気が休まる瞬間であり、十年前と同じだった。



「キョウコ。シャンベルタンを。」

「仮釈放の夜以来ですね。今日は何かよろしい事があったんですの?」



「今夜、空を見上げたとき、他の群星から遠く離れた場所に星が瞬いた。その星は北の赤き凶星や、西の白い星よりも更に天近くに輝いた。イザヤの言う通りだった。」

「それはきっと貴方の星。吉兆の徴ですわ。」



 キョウコはワインセラーを開けると、一本のワインを取り出した。



 シャンベルタン。ナポレオンも愛したとされる王の酒。



 豊かな芳香と気品。ビロードのような口当たり。男性的な力強い味わい。



 ゴンゾウはワインを好むが、シャンベルタンに対しては何か特別な想い入れがあるようにキョウコは思えた。



 ゴンゾウに抱かれたときに感じる彼の孤独感や子供にも似た純粋な一面。外に滲み出る剥き出しのゴンゾウに、シャンベルタンがまるで装束を着せるように包み込み、ゴンゾウをゴンゾウ足らしめている、キョウコはそんな気がしていた。



「イザヤはまだ怒っているのですの?」

「イザヤは新しい主人を見つけたようだ。もう戻っては来ぬ。」



「またお会いしたいですわ。彼の星占いは当たるんですもの。」



 グラスにワインを注ぎながら、キョウコはゴンゾウの横顔を見た。



 ゴンゾウは六十五歳となった。だが、少しも衰えた様子はなく、十年前の容貌とほぼ変わらない。



 反対に自分は四十二歳となっていた。ゴンゾウを待ち、日々を過ごす内に肌に張りが無くなり、皺は増えていった。ゴンゾウを失望させ、捨てられてしまうのではないか、と不安になることもあった。だが、彼はそんな自分を受け入れてくれた。



「キョウコ。今宵はポッペアの戴冠を頼めるか?」

「いいですわ。昔のように歌えるか分かりませんけれど。」



 ポッペアの戴冠はゴンゾウと出会うきっかけとなった歌劇だった。



 天上界で、運命の神フォルトゥナと美徳の神ヴィルトゥが貶しあう。そのとき、愛の神アモーレが現れて愛が最高の力を持っていると訴えると、運命の神も美徳の神もその主張を認める。そうしてある日、帝政ローマの時代に皇帝のネロは浮気相手のポッペアと結婚しようと考える。そこで邪魔の存在だった哲学者のセネカを自殺させ、妻オッターヴィアを国外に追放する。ポッペアもそれに加担し、最後は皇后の座を奪い取る。



 キョウコがオペラ歌手としてステージの上に立っていたとき、ゴンゾウはその姿に魅了された。ゴンゾウが言い寄った当初、キョウコはマフィアのドンであるゴンゾウを恐れつつ接していた。だが、身体を合わせていく内に、キョウコもまた彼の二面性に惹かれていった。



 ゴンゾウはポッペアの戴冠をいたく気に入っていた。



 勧善懲悪とかけ離れたこの物語を、作曲者のモンテヴェルディは、その本質を音楽によってリアルに、官能性豊かに描いた。現代に生きる人々の享楽も、求める美徳も、一瞬にして吹き飛ばしてしまう不条理な愛のドラマに、ゴンゾウは夢中になった。



 一年の交際の末結ばれたのち、キョウコはネロとゴンゾウを重ねて舞台に立った。



 ネロは暴君とされているが、当時富と権力を持っていた元老院議員たちから財産を取り上げ、それを市民に分け与えた。ネロを悪とする話は、元老院の記録が主なものであった。



 そしてゴンゾウもまた、ポッペアをキョウコに重ねて、その姿に魅入られていった。



「お前は今でも魅力的だ、キョウコ。我一人の為に、歌ってくれ。」



「ええ、喜んで。」



 二人の間には音曲が奏でられ、ポッペアの歌声が響いた。





                                                    【漆壁の章 完】

       

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