Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
迅雷の章

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 我らが神よ、ご覧あれ。



 名誉と誇りの為に闘い、野良犬の餌となった誇り高き戦士たちの躯を。



 異教の預言者よ、叫びたまえ。空と大地が血に染まり、闘争の中で鳴り響く軋んだ車輪の音を。



 彷徨う詩人よ、語りたまえ。嵐が吹き荒れ、雷が轟き、百万の敵軍を震撼させた、我らの姿を。



 戦場に立ったとき、左手に盾を、右手には剣を持ち、私は天に向かって咆哮した。



 同時に、雷光は煌めき、敵軍の旗を一瞬のうちに燃やし尽くした。



 味方の勝鬨と共に、世界を統べた千年の帝国が崩れ去る音が聞こえた。



 血しぶきの中で命を散らした味方の躯を踏み越え、勝利の栄光を掴んだ同胞よ。



 汝らに、慈悲深きバアルの加護があらんことを。

     

 シグレは千寿の裏通りを歩いていた。



 目的地まではメインストリートを通れば早く着くが、フクロウ並の夜目がきくシグレにとって、人混みのある場所より薄暗い裏道を行く方が遥かに安全だった。



 今夜、シグレはある老夫人を殺した。病室の寝台の上に、人工呼吸器を付けた彼女はいた。



 三十年前まで、彼女は名のある殺し屋だった。毒を用いた殺しを得意とし、議員や証券会社の社員、主婦や学生、あるときは物乞いや浮浪者まで、富者や貧者を区別せず、請負った依頼であれば分け隔てなく相手を葬ってきた。



 殺し屋を引退したのち、郊外の一建屋に住んでいた彼女は半年前に肺がんを患い、千寿中央病院に入院していた。



 シグレに殺しの依頼をした者は、彼女と同じ年齢の男性だった。奇しくも、彼も肺がんを患っていて、医師に余命を宣告された彼は、シグレに妻の仇をとるよう依頼をした。



 殺した者を特定することも、居場所を探し出すことも、命を奪うことも、シグレにとって、これまでになく簡単な依頼だった。



 彼女の病室に入ると、まるで死んだように眠っている彼女がいた。顔には呼吸器を付けられ、モニターに映し出された心電図は弱弱しかった。



 シグレは呼吸器を掴むと、ゆっくりと取り外した。



 手足が僅かに痙攣するのと同時に、心電図の音の感覚が長くなっていく。



 そして、彼女の鼻から息がすぅっと出るのを見た。同時に、彼女の心拍は停止した。



 これが、自分たちの成れの果てだ。



 孤独に生き、孤独な死を遂げる。



 花を手向ける者はおらず、看取るのは自分を殺しに来た者だけ。



 愛や情熱とも無縁な生の末、地獄に堕ちる。



 だが、そんな生き方を自分は選び、そんな死に方を自分は望んだ。闘争の中でこそ、自分が自分であるように実感できたし、必要だった。愛や情に縛られ、自分を見失うよりはマシだ、とシグレは思った。



 裏道を過ぎると、とあるバーの角にたどり着いた。



 シグレが訪れたのは、「レ・マグネシア」というシガーバー。



 扉を開くと、ラム酒にも似た独特の芳香が鼻に入ってきた。



 葉巻を吸えるバーは珍しくはないが、ウォークインヒュミドールまで持っている場所は少ない。



 葉巻は適度な湿度や温度で管理する必要がある。シグレは葉巻を手に取ると、香りを一本一本確かめた。近づけてもあまり香りがないものや、驚くくらい強く香るものがある。



 シグレがシガーを選ぶときは、長さが百四十ミリメートルで、太めのものを選ぶ。葉巻が長ければ時間は長く、細いものはやや辛くなりやすい。



「何かお探しですか。」

 シグレが葉を吟味していると、黒ベストを着た嗄れ声の壮年の男が話しかけてきた。



「ヴィルフォールを探している。」

「かしこまりました。こちらにどうぞ。お好きなものを取っていらしてください。」



 シグレは目についた葉巻を取ると、男の後をついて歩きだした。



 裏の厨房の奥、薄暗い階段を下りたところの部屋に彼はいる。



 部屋に近づくにつれ、蜜にも似た甘い香りが鼻につき始めた。



「こちらに。」

 シグレが通されたのは、四方十坪ほどの広さの部屋だった。



 部屋の壁一面には赤い背景に巨大な竜の刺繍が施されている。室内に入ると、甘い香りの中に僅かな刺激臭があり、まるで部屋中に染み込んでいるようだった。そして、蛇柄のシートの掛かったソファーの上には、白いスーツを着た白髪の男が座っていた。



「シグレか。座るといい。そうだ、ラム酒でもどうだ。」

「遊びに来た訳じゃないぞ、ライゾウ。仕事の話だ。」



 シグレは月に一度ほど、レ・マグネシアを訪ねて、ライゾウに仕事の依頼や情報を求める。



 ライゾウの表向きはシガーバーのオーナーだが、裏の顔は闇仕事の仲介を引き受けるヤクザの元締めで、老け顔の見た目とは裏腹に、年齢は四十に達していない。



 若い頃は玄龍会というヤクザの用心棒を務め、多くの者より腕が立ったが、十年前、商売仇に殺された兄の稼業を継いだ。そして、のちに経営に天賦の才を見出し、今では千寿の闇仕事の全てを切り盛りするまでに組を成長させた。



 ライゾウは手元のシダー片をシグレに向けてテーブルに置いた。



「そう急ぐな、シグレ。それとも、死に損ないの婆さんを殺して気が立っているのか。」



 シグレは向かい側のソファーに座ると、葉巻の吸い口にパンチカッターを当てて穴をあけた。

「いい気分ではない。相手が名のある殺し屋と聞いていたが、あんな物は仕事ではない。」



「だが、報酬はいい。それに、殺したのがお前なら、婆さんも満足だろうよ。」

「死んだ者の事はどうでもいい。それに、報酬は全部お前にやる。その代わり、情報が欲しい。」



 シグレはシダー片に火をつけると葉巻の先端に点火した。普通のライターを使うと、葉巻本来の香りをオイルの匂いで邪魔してしまうことがあるからだった。



「ライゾウ。コーポスの居場所を教えろ。お前にとっても、奴は邪魔だろう。」

「確かに鬱陶しいが、奴は千寿のカス共を掃除している。そのお陰で、こちらとしても商売がし易くなっている面もある。それに、奴の居場所なら俺よりイザヤに聞いた方が早いだろう。」



「イザヤの予言は当たるが、外れる。予言を聞いた私が現場に向かっても、悉く奴とは行き違いになる。前に一度は出会えたが、仕損じた。」



 ライゾウは少し噴き出したように顔を綻ばせた。

「お前がこれほどの時間を掛けても仕留め損なっている。相当に悪運の強い奴のようだな。」



 シグレはむっとした表情で、再度シガー片に火をつけた。

 葉巻は吸っている途中、何度か火が消えるが、それは最適な温度と湿度で管理されている証拠でもある。だが、シグレは殺しに関して手間を惜しむことはないが、葉巻のこうしたところは好きになれなかった。



「そうカッカするな、シグレ。そういえば、いい葉が入った。試してみないか。」

「私はヤクをやらん。ほんの少し吸っただけで吐き気はするし、腹を下す。アレは殺しには向かないシロモノだ。」



「いや、あれは良い葉だ。だが残念ながら、それを卸していた龍門会の倉庫からくすねた命知らずのガキ共がいる。」



 シグレは顔を上げると、口から煙をふぅっと吹いた。



「キムの依頼か。」

「ああ。ご指名だぞ、シグレ。」



「いいだろう。だが、報酬はコーポスに関する情報だ。それ以外は認めない。」

「キムに伝えておこう。だが、期待はしないことだ。前のコーポスが、今のコーポスと同じ人物である保証はないしな。」



 ライゾウはにやっと笑うと、持っていた葉巻を皿に置いた。



 それでも、シグレはコーポスのどんな情報でも欲しかった。シグレはこのところ毎晩、コーポスの髑髏の仮面を剥ぎ取り、喉をかき斬る夢を見ては、イザヤに茶化されている。



 コーポスは父を陥れ、自分を地の底に堕とした。



 シグレは父が嫌いだった。母の死にも涙せず、自分にも無関心で、いつも仕事のことばかり考えている父だった。だが、コーポスによって父が逮捕され、自分は独りぼっちで生きざるを得なくなった。



 それからは教育も受けず、覚えたのは殺しの技だけ。青臭い正義感は、ときに人を不幸にする。



「ライゾウ。キムに伝えろ。報酬に見合わない情報だったなら、次は貴様の喉をかき斬る、とな。」

 シグレは葉巻を皿に擦り付けると、部屋をあとにした。

     

 久しぶりの帰郷だった。



 イーストン・コバックスは、この町に十年近く戻っていなかった。



 あえて戻らない理由を考えても、分からなかった。あの忌まわしい記憶が原因か、それとも、残してきたものを気にしていたことが認めたくなかったからなのか。この町における全ての記憶が、遠くに感じるときもあれば、つい最近のことのように感じる。



 年を取るたびに未来への希望を失っていった。だが、記憶は不思議と、忌まわしい記憶であっても、時折輝いて見えることがある。妻を失った記憶も、あの少女を捨てたことも、微睡の中で一緒くたになって、自分が自分でいられるような気がした。



 コバックスは路地を歩いていた。丁度この付近でその少女と出会った。



 風雨に晒されボサボサになった髪、暴行を受けて腫れた顔、肌には糞尿に塗れたボロを一枚纏っていた。少女の眼は今でも覚えている。無機質で突き刺さるような目線、それはコバックスに死を連想させた。



 命のやり取りを長年続けてきたが、爪も牙も持たない相手、それも一人の少女に死を感じ、思わず冷や汗をかかされた。



 少女を拾い、住まいに連れて帰り、シャワーで汗や身体についた糞尿を洗い落としてやった。子供用の服はなかった為、仕方がなく死んだ妻のシャツとジーパンを着せ、傷の手当をした。



 温めたスープとパンを与えると、彼女は行儀よく食べた。元は育ちがよいのかもしれない、とコバックスは思った。



 少女に名前を聞いたが、俯いたまま最初は何も答えなかった。もう一度聞くと、彼女はコバックスの眼を見て言った。



「私の名前は―」

     

 不意の殺気に思わず身がよぎった。



 距離は決して近くはない。だが、その相手は間違いなく自分の姿を捉えている。



 東の方角に、大気を裂く風の音が聞こえる。百メートル、五十メートル。



 その速く、鋭い風はコバックスに向かって真っすぐ一直線に向かってきた。



 コバックスはコートの右袖から短槍を伸ばすと、風の方向に駆け出した。



 風と交錯した一瞬、鈍い金属音と共に、右手の短槍が震えた。



 同じ流派の相手だ、と直感的に感じた。



 天晃流短槍術。

 千年の遥か昔より伝わる秘伝の暗殺術。これを使う者は自分の知るところ数人しかいない。



 そして、風の姿を直視したとき、コバックスは無意識に死を連想した。あのときと同じだった。痣だらけで、糞尿にまみれた姿の中で自分を見つめていた二つの眼。まぎれもなく、あの少女だった。



「シグレか。大きくなったな。」

「師よ。腕が鈍ったのではないか?」



 お互いに短槍を袖に収めたとき、思わずコバックスは口元を綻ばせた。



「父、とは呼んでくれんのだな。」

「子を捨てた親に、子が肉親の情を抱くわけがない。」



「冗談だ。俺もお前を、子と思ったことはない。」



 シグレはその場に座ると、煙草に火を灯した。



「師よ。なぜ、今になって帰ってきた。まさか、故郷が恋しくなったわけではないだろう。」



「仕事だ。小賢しいガキ共が、千寿に逃げ込んだ。あと、お前の様子を見に来た。」



「嘘をつけ。」



「シグレ。煙草は止めろ。運動の機能を低下させる。それに、敵に匂いで気付かれる。」



「五月蠅い。私の勝手だろう。」



 シグレは苛立った様子で靴を鳴らすと、少し咳き込んだ様子で煙を吐いた。



 糞尿に塗れていた頃とは比べ物にならないくらい美しくなった、とコバックスは思った。横顔を眺めていると、血は繋がっていないが、若いときの死んだ妻の面影を感じる。



 だが挨拶程度とはいえ、互いの剣を交えた際の其れは、一暗殺者の腕として申し分ないものだった。



 自分がシグレに見切りを付けて去ったあと、一体どのような年月を送ったのか。



 コバックスは聞いてみたい思いをぐっと堪えると、その場に腰を下ろし、シグレと過ごした日々を思い返した。

     

 家に来て三日間、シグレは言葉を失ったように喋らなかった上、自分のことを語ろうともしなかった。窓際の椅子に座り、千寿の街並みを眺めていた。コバックスには妻はいたが、子はいなかった。どう接したらよいのか、そもそもなぜシグレを連れて帰ってきたのかも、今になって考えてみると分からなかった。



 そんなある日、外にいるシグレに食事ができたことを告げに行ったとき、シグレは一本の木の棒を振っていた。シグレは、まっすぐコバックスを見つめてきた。



「強くなりたいのか? シグレ。」



 シグレは頷くと、コバックスの目の前で棒を再び振り始めた。静かで鋭い、そして速い振りだった。とても、低学年の子のものと思えない。



「いい振りだ。」

 コバックスは地面に転がっている棒を持つと、シグレと対角線上に立った。シグレは振りを止めると、その切っ先をコバックスの胸に向けて構えた。



 シグレは左手の薬指と小指は持手の先端に置き、切っ先をゆらゆらと揺らしていた。左足は右足から一足分後方に置き、踵を異常なほど上げている。



 まるで野生の獣だ、とコバックスは思った。構えはぶれている様に見えて、こちらの隙を伺い、急所を狙って突きを入れようとしている。



 肉を斬られ、骨を断たれようと、相手の命を奪うことのみを考えているのかもしれない。一瞬一瞬がまるで一刻の長さに思える感覚だった。



 一か月前、コーポスと呼ばれる髑髏の怪人と対峙した記憶が頭をよぎった。



 あのときは棒ではなく、短槍を使った。奇襲の一撃を躱されたのち、短槍の切っ先をコーポスの喉に向けた。相手の指先、腕や脚の筋肉の僅かな動きに併せて、喉元に必殺の一撃を繰り出す。それが天晃流短槍術の奥義。



 だが、コーポスは武器も持たず、半身に構えたまま、右手をゆらゆらと僅かに揺らしながら、少しずつ間合いを詰めてくる。コーポスの右手の揺れが、こちらの切っ先を無意識的にぶれさせていた。



 手に汗が滲み、瞼が重い。時間が経つごとに、一秒が長く感じてくる。



 コーポスが左足を引いたとき、コバックスは突きかかった。捉えた、そう思ったとき、コバックスの身体は宙を舞い、背中から地面に落ちた。上を見上げると、コーポスの左拳が喉元に突き付けられていた。



 そのとき、銃声が鳴った。



 二メートルほどの距離で、妻のリンが血しぶきを上げながら崩れ去るのが見えた。



 コーポスが慌てたように銃を撃った者を怒鳴りつけたとき、コバックスはコーポスの左拳を斬りつけ、リンを脇に抱え全速力で駆けた。



 後方で銃声が聞こえたが、走り続けた。



 隠れ家に逃げ込んだとき、コバックスは荒い息をしながら、リンのヘルメットを外した。



 妻のリンもまた、天晃流短槍術の使い手で、同業者だった。ワタリガラスを模した黒いヘルメットを被り、コバックスよりも機敏に動いて翻弄する術に長けた。



 胸には銃弾の貫通した跡が残っており、衣服には大量の血痕が浸み込んでいた。頬に手を当てたとき、リンは、冷たかった。



 リンの頬に手を当てたまま、半刻ほど経ったとき、コバックスの中に、様々な感情の波が一気に押し寄せたてきた。無様に敗れ、大切な妻を失い、おめおめと自分の命のみ持ち帰った己。



 虚空を見上げ、押し寄せる感情を必死に押し殺しながら、コバックスの手は震えていた。出来ることなら、今にも自分の喉をかき斬りたくなる。



 だが、戦いの中で死にたかった。生きるべくして生き、死ぬるべくして死にたかった。妻に殉じ死ぬことが、果たして自分の死に方に相応しいのだろうか。握りしめた手を緩め、窓の外の風景を見た。



 遠くの空で、朝日が昇る。コバックスは立ち上がると、外に出た。妻を相応しい場所に葬らなければならない。朝早く、コバックスは千寿を発った。そして、騒乱が収まる頃に千寿へ帰ったとき、シグレと出会った。





 コバックスは目の前で棒を構えているシグレをじっと見た。無機質な眼の奥には、燃え盛る灯が見えた。宿っているのは怒りか、復讐心か。コバックスはわざと剣先を下げると、右手の握りを緩めた。

 その瞬間、シグレの左足は動いた。バネのように地面から跳ね上がると、コバックスの右肩を目掛けて棒を振り下ろした。



 コバックスは振り下ろされる棒を掻い潜るように左前に踏み込み、身体を反転させた勢いでシグレの胴を打った。鈍い音と共に、シグレの身体が宙に舞い、地に叩き付けられた。



 殺してしまったかもしれない。コバックスは棒を捨て慌てて駆け寄ると、目の前にはシグレの顔、そして眼があった。



 はっと気づいたとき、シグレの棒はコバックスの喉を打ち抜いていた。尻餅を付いたとき、目の前には、切っ先を向け、勝ち誇ったように微笑むシグレの姿があった。



 負けた。そして、自分がなぜシグレを連れ帰ったのかを感覚的に理解した。



 コバックスは立ち上がると、シグレの肩に手を置いた。

「シグレ。お前が進もうとしているのは修羅の道だ。それでも、往くのか?」



 シグレはこくん、と頷いた。



「もう、生に潤いは求められんぞ。」

 シグレは、はにかむように微笑んだ。

     

 白色の煙が漂う中、コバックスは千寿の月を見上げていた。



「今日は仕事にむかん夜だ。明るすぎる。」



「私もそう思っていた。師よ、お陰で貴方を仕留め損なった。」

「言うようになった。」



 シグレもその場所に腰を下ろすと、コートの袖から折れた短槍を取り出し、コバックスに放った。

「貴方はまだ現役だ。私の突きをいなしつつ、短槍を圧し折った。」



「その技なら、お前にも教えた気がするがな。また、昔のように修行が必要か?」

「遠慮する。それに、またどこかへ突然消え去っても困るからな。」



 シグレは皮肉交じりに笑った。



 シグレが十三歳のとき、コバックスはシグレの元から去った。



 シグレから、父に対する情を向けられたからだった。厳しい世界生き抜くには、冷酷にならなければいけないことを話し、五年間、一暗殺者として育ててきた。



 父、と呼ばれたとき、嬉しさより失望の方が勝った。妻を失ってから、暗殺者に肉親の情は不要と、当時のコバックスは感じていた。



「俺がいなくなったあと、どうしていた。」



「さあな。むしろ、貴方に聞きたい。私がどこかで野たれ死んでいるとでも思っていたのか?」



「いや。俺はてっきり、また糞尿に塗れて泣いているのかと思っていた。」



 同じく皮肉まじりに笑ったコバックスは立ち上がると、睨みつけているシグレの視線に背を向けた。



「風がでてきたぞ、シグレ。あと半刻ほどで、月が隠れるかもしれん。」



「今度会ったときこそ、仕留めるからな。」



「それは楽しみだ。」

 コバックスは微笑むと、月明かりの下をまた歩き出した。

     

 明るい夜だった。月明りに照らされ、見通しがよい。



 ウツミは髑髏の仮面をかぶる前に、必ず座禅を組む。集中力を高める効果もあるし、何より目を慣らす為だった。ウツミの戦う相手の殆どは闇に生きる者達であり、それらと渡り合うには必要不可欠の準備だった。



 コーポスとして活動を始めた頃、虎徹という名の相棒がいた。虎を模したマスクを被った大男で、怪力の持ち主だった。性格は豪放磊落で、二人でヤクザの事務所に殴り込みに行った事もある。正反対の性格だったが、互いに不殺の信条を掲げ、千寿を良くしたいと願う同志にして、掛け替えのない相棒だった。



 だがあるとき、虎徹は死んだ。



 今夜の様に、月明りに照らされた夜だった。路地裏で児童ポルノの取引を行っていた十人前後の集団を襲い、多くの者を捕えたとき、一人の男が隠し持っていた拳銃を取り出す様子を、ウツミは見逃していた。



 男が銃口をウツミに向けたとき、間に入った虎徹が脳天を撃ち抜かれ、脳髄がはじけ飛び、その巨体が倒れる様子を、ウツミは信じられない気持ちのまま、茫然と見ているしかなかった。



 ほんの一瞬の油断で、大切な者が死ぬ。ウツミにはそれ以来、相棒はいない。



 自分を逃がす為に両親が死に、自分の身代わりに相棒が死んだ。



 アリスが誘拐されたとき、生きた心地がしなかった。もう二度と大切な者を失いたくない。



 ウツミは如何なるときも準備を怠らないことを決めていた。



 今夜の相手は違法薬物の売買を行う者たちだった。



 年齢は若い者で十六歳。三日前に十八人で龍門会の隠し倉庫を襲撃した。そして、盗んだ荷物ごと運河を利用して千寿を脱出する。



 慣れた手口だ、とウツミは思った。



 恐らく、他の都市でも同じ方法を使ったに違いない。



 千寿の南には橋田川という運河がある。そして湾に繋がる下流には、長さ四十九メートル、幅二十七メートルの鉄橋が架かっており、橋の下には荷下ろし為の空間や、町中のマンホールに繋がる地下水道の入り口がある。今回、彼らはそれを利用した。



 彼らを捕えるには、迷路のように入り組んだ地下水路で追跡するか、もしくは船に荷を下ろす瞬間を襲うかのどちらかを選択する必要があったが、ウツミは後者を選んだ。



 こういったケースの場合、一網打尽に捕えなければ鼬ごっこになりかねない。だが、その分スピードが要求される。ウツミは橋の影に隠れ、その時を待っていた。



 そのとき、水路の奥から足音が聞こえた。しかし、音は一人のものだった。それも何者かに追いかけられているように、徐々に速くなっている。



 荷を運ぶときそれとは明らかに異なるものだった。それに、まるで突風がふいたような風切り音まで聞こえてくる。地下水路で強い風がふくわけがない。



 地下水路内で、何かが起こっている。ウツミは橋の影から水路の出口まで駆けだした。



 すると、出口から出てくる息も絶え絶えの一人の少年が見えた。何者か追われている、とウツミは直感的に感じた。その少年の後ろには、猛烈な速さで迫る黒い一陣の風が見えた。



「やめろ! シグレ!」

 黒い風が少年を貫こうとしたとき、上空からもう一つの突風がふき、間に入ろうとしたウツミを弾き飛ばした。二つの風がぶつかり合ったとき、甲高い金属音と共に、マスク越しにも分かるほどの強い風圧を顔に感じた。



 ウツミが立ち上がって正面を見たとき、目の前にはカラスを模したフルフェイスのヘルメットを被り、指の先から短槍を伸ばしている者の姿があった。その後ろには、同じく指から短槍を伸ばし、黒いサングラスをかけた壮年の男がいた。



「シグレ、やはりお前か。協力者がいたのか。」

 シグレは半身に構えたウツミを一瞥すると、もう一人の男に向き合った。



「師よ。どういうつもりだ。」



「悪いなシグレ。俺も仕事なんだ。そのガキは依頼者の息子でな。俺はそいつを生きて連れ戻すよう言われてるんだ。」



 壮年の男は、腰の抜けた少年を一瞥すると、ウツミに目線を合わせた。

「久しぶりだな、コーポス。いや、代替わりしているんだったか。悪いが、シグレを倒すまで、そいつを守っていてくれ。」



「師よ。邪魔をするなら容赦はしない。コーポスとガキ諸共、貴方を殺す。」



 シグレと男は、互いに間合いを取るように距離をとりつつ、短槍を向き合わせた。



 異様な雰囲気だった。先程まで発していた両者の殺気は消え、まるで空間の一部を切り取ったかのように、静寂な二人の間が生じていた。この距離であれば一瞬の勝負となる。



 殺すか、殺されるか。この間合いは、生き残るための間合いではない。相手を殺す死合いの間だった。



 そのとき、ウツミの後方で微かな金属音が聞こえた。自衛官の頃、反射的に動くように上官から教えられた音だった。ウツミは振り向くと、少年の方へ走り出した。



「やめろ! 撃つな!」

 少年の手には三十八口径の拳銃が握られていた。怯えた表情のまま、少年は震えた手で安全装置を外した。駆け寄って手を伸ばそうとしたとき、ウツミは背中から猛烈な風圧を受けた。



 そして、発砲音が響いた。

     

 短槍は、シグレの喉元で止まった。

「クソガキが。」



 コバックスは拳銃を撃った少年を一瞥すると、目の前で右肩を抑えているシグレを見下ろした。

「いらぬ邪魔が入ったな。」



 一瞬の出来事だった。

 互いの短槍が交わる寸前、少年の放った弾丸がシグレの右肩を貫いた。



 シグレの短槍は大きく揺れ動き、柄から先を圧し折られた挙句、川岸まで弾き飛ばされていた。



「師よ、私を殺せ。」

「そうして油断させ、いつかのように俺の喉を突いてくるのだろう?」



 コバックスはふっと笑うと袖に短槍を収め、ウツミに向かって歩き始めた。



「コーポス。手間をとらせたな。」

「貴方は、シグレと関係が?」



「大ありだが、今は話している時間はない。俺はそいつを両親の元に連れていくよう依頼を受けている。引き渡してくれるな? コーポス。」

「必ず両親と会わせると誓うなら、いいだろう。」



 コバックスは微笑むと少年に歩みより、頬を拳で勢いよく打った。

「帰るぞ、クソッタレのガキ。またな、コーポス。」



 昏倒した少年を担ぎ上げ川岸を走り去っていくコバックスを、ウツミはたた茫然と見ている事しか出来ずにその場に立ち尽くしていた。



 壮絶な死合の間を目前にし、一歩も動けなかった。

 グローブを強く握りしめると、滲んだ手汗が冷たく感じる。 



 ウツミが身を返すと、仮面の横を短槍の切っ先が掠めた。



「コーポス、私とお前の戦いは終わっていない。」

「なぜ、私を殺そうとする。」



「お前の青臭い正義感と偽りの仮面で、苦しむ者達がいる。」

 右肩がだらんと垂れさがり、震えた左手で短槍を構えているシグレの息は荒かった。



「殺人に快楽を見出している残忍なお前の仮面とは違う。私は、千寿を良くしたいだけだ。」



「千寿の守護者にでもなったつもりか? お前、いやお前たちによって、十年前、千寿はおかしくなった。秩序がなくなり、混沌が生じた。お前たちによって、千寿は再び闇の世界になった。」



 シグレは左腕を突き出した。

 だが、ウツミはそれを躱すと返し拳で短槍ごと腕をへし折った。

「今のお前に、私は殺せない。」



 骨の砕ける音と共に、短槍の破片と血が川原へ飛び散った。



 シグレは短い苦悶の声を上げると、まるで子鹿のような足取りで地下水道の奥へと走り去った。



                                                    【迅雷の章 完】

       

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