Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
水面の章

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 父を愛していた。

 父は衆の中でひと際とび抜けて勇敢で、聡明な王だった。

 幼き日より、私は誰よりも父を敬愛し、誰よりも父の恩寵に預かった。私の美貌と才を父は愛していた。

 そんなあるとき、私は父の背に掴まりながら馬に跨り、エフライムの森へ向かった。そこには様々な種類の樹木の群落があった。

 父は樫木の前に馬を止めて言った。

 息子よ、この木を見よ、森を見よ、風の音を聞け、鳥の声を聞け、水の味を知よ、人を理解する為に必要なことは全てそこにある、と。

 当時の私には理解できなかった。ただ、敬愛する父の言葉通りそれを実践し続けた。それでも、私には理解出来なかった。いつしか私は実兄を殺し、父を追い、王を望んだ。

 だが、今は父との再戦に敗れ、一匹の驢馬に跨り、この森を往く。

 そこには丈の高い木があり、藪と岩場の混合した見通しのきかない場所だった。いますぐ父に会いたい。父の手から逃れているにも関わらず、何故かその思いが頭を駆け巡る。

 私は父のようになりたかったし、父のように生きたかった。

 そうだ。父は今でも、私が愛した父だ。殺されてもいい。今すぐ会いたい。だがもう引き返せない。今、私の目の前には、樫木の絡まりあった枝が向かってきていた。

     

 署内の明かりは暗かった。蛍光灯の一つは消えかかっているが、設備の人間に文句を言っても中々変えようとはしない。目の前の書類の文字を読んでいると、目が余計に疲れてくる。

だが、一度読んだ書類は忘れることはない。特に子供が絡んでいたり、凄惨な事件である程そうだった。

 一年前。自衛官を辞めて千寿警察署の刑事課へ配属になった。千寿は自分の故郷であるし、町を良くしたい一心で決めたことだった。それは両親、親友、恋人、この町で生き、この町で死んだ者たちに誓ったことだった。

 午前七時三〇分。現場に行ったとき、思いのほか静かだった。早朝の、しかも通りに面した場所にも関わらず、皆何事もない風を装っていた。

 現場に来た報道関係者は、今のところ新聞社と放送局を合わせて二社のみ。どちらもリベラル派の報道機関だ。

 今朝、女性が通り魔にあった。被害者はミハラセツコ。六十三歳。千寿町北区の古いマンションに一人暮らし。五年前に夫を亡くし、息子夫婦は海外に生活拠点を移している。現場は住んでいるマンションから百メートルも離れていない道路の真ん中。ゴミを捨てに出かけた近所の男性が発見し警察に通報。

 被害者の衣服は冬物のランニングウェア。外傷は首と胸に刺し傷。いや、キリの様なものでくり貫かれたと言うべきか、傷は一直線上に伸びている。凶器は不明。もみ合った形跡も無かった。

 ただの強盗の仕業ではない、とウツミは思っていた。それは、刑事としての勘だった。

「おいウツミ。死因が分かったぞ。」

 目の前のデスクから話しかけてきたのは、グレーのスーツを着て、顎髭を蓄えた初老の男だった。

「死因は出血性ショック死。心臓を勢いよく貫かれて、背中まで裂けていたらしい。」

「何者かがジョギング中の彼女を刺した、ということですか。それも、手慣れた人間が。」

「生きて動いている人間の胸に、あんな綺麗に穴を空けられると思うか?気を失わせてから穴を空けたんだよ。」


「それは何の為に?」

「そりゃメッセージだろうよ。聞いたところによると、ガイシャはマンションからの立ち退きを巡ってトラブルになっていたらしい。例の署名運動なんかにも精力的だったそうだ。俺が思うに、龍門会絡みだな。」

「聞いたことがあります。龍門会はあの一帯の開発に一枚噛んでいると。」

「決まりだ。ガイシャは見せしめに殺されたんだ。どうせ、すぐに誰かが自首してくる。」

「だからと言って、投げやりに仕事をするのもどうかと思いますよ。シマさん。」

「はい、わかりました。刑事さん。」

 シマはため息を吐くと、デスクの上の書類を丸めてゴミ籠の中に放った。



 刑事課に配属になった当初、ウツミは相棒のこの男があまり好きではなかった。



 皮肉屋でやる気が感じられないし、近くで話すと、いつも酒の匂いがする。だがこの男は、裏社会と広い繋がりを持っているし、賄賂を受け取ることであろうと、犯罪者を痛めつけることであろうと、危険な犯罪者を捕まえるためならば、ルールを曲げることはまったく厭わないところがある。



 明らかに自分とは違うタイプの人間ではあるが、ウマが合う事の方が遥かに多かった。



「ですがシマさん。龍門会は先代の会長が死んでから、まだ半月しか経っていません。」

「じゃあキムの野郎だ。あいつは先代の後釜を狙っていたしな。ここで自分の影響力を強める気かもしれん。」



 龍門会は千寿を仕切る最も大きなヤクザの一つだった。主に地主や借主を脅して不動産を買収することに長けている。いわば地上げ屋だった。行政機関の上層部との繋がりが特に強い。



 半月ほど前に先代が殺されてからというもの、目立った動きはしていない。犯人は商売仇の外資系マフィアの一人とされるが、定かではない。



「会長に就任するには先代の敵討ちが条件でしょう。一人暮らしの女性を殺している暇はないはずです。」

「おいウツミ、何が言いたい。まさかお前、例の髑髏の怪人が犯人だと思っているのか?」

「いえ、奴は殺しはやらないでしょう。」



「どうしてわかる。あんな恰好をして犯罪者を痛めつけて自警団を気取ってる奴がマトモのはずがない。俺は、あまりお近づきになりたくないね。」

「そうですね。確かにマトモじゃない。」



 シマの言う通りかもしれない。だが、警察が犯罪者を野放しにしている今、誰が犯罪者を取り締まるのか。世間では最善のものも、それをまず実践する者がいなければ、何もならない。ウツミは書類を鞄に入れると席を立った。



「キムのところに行ってきます。何かを聞き出せるかもしれない。」

「あんまり無茶するなよ。今は向こうもピリピリしているだろうしな。」



 犯人は分かっている。あの夜、シグレと名乗って自分を殺しに来た彼女に間違いない。彼女は殺人に快楽を感じている。それに、心臓を正確に貫いて即死させる技量を持った者は彼女以外に知らない。必ず居場所を見つけて止めるしかない、とウツミは思っていた。



「あとなウツミ。交友関係に気を付けた方がいいぞ。特に若い娘にはな。」

 ウツミは苦笑すると、首を縦に振った。

     

「また私の夢を覗いていたのか?」

 夢見が悪いときはいつもそうだった。シグレが話の最中に寝てしまうと、イザヤは夢の中にまで出てくる。時には旅人、時には侍従、時には町の商人、時には夢の語り部の役になることもある。



「貴方が珍しく前の世の事を見ておられたので。普段忌み嫌っている物事ほど、夢には出やすいものです。この度は、驢馬を引いた従者として拝見しておりました。貴方の肉親に対する愛憎。特にお父上様に対して━━」



「イザヤ。貴様は心臓を貫かれたら死ぬのか?」

「どうかお止めください。きっと、言葉を奏でながら、のたうち回るでしょう。」

「興味深いな。どんな詩だ?」



 イザヤはすぅっと息を吸うと謡いだした。







「押し殺すことができようか、古くて長い悔恨



生きて蠢き身をくねらせ、私たちを餌食にする



まるで死人を喰らう蛆虫か、樫を食う毛虫のような



情容赦もない悔恨を押し殺すことができようか



どんな媚薬、どんな葡萄酒、どんな煎じ薬の中に



昔ながらの敵を溺れさせようか



貪り食うことまるで浮かれ女のよう



辛抱強さは蟻そっくりのこの敵を



どんな媚薬、どんな葡萄酒、どんな煎じ薬の中に━━」







「分かった。もういい。お前だけは殺さないことにする」

「それを聞いて安心致しました。」



 イザヤは言葉で人を殺す。



 正と奇の間を無限に変化させて思い通りに人を操ることが出来た。



 それ故にシグレは時折、イザヤを恐ろしいと感じることがある。彼の言葉の前では、自分の槍など、まるで螳螂の斧に見えてしまう。おかしな予言に振り回されながら、自分はイザヤの手の平の上で、意のままに操られているのではないか。



 だがイザヤはシグレに対して正直であったし、どこまでも従順だった。



 そうしていると、イザヤがまた言葉を紡ぎ出した。



「小枝たちが混乱と騒乱の中にいることを、聖なる処女が聞きつつ、 喧騒を鎮めるために導かれるでしょう。 その導きによって、剃髪たちで一杯にするでしょう。」



「そして、当たらない予言か。だが、いつもの詩想とは違うものだな。」



「ですが、それでも貴方は信じてくださる。」



 信じる。果たして今の自分に信じるという感情はあるのか。



 シグレは背を向けた。

「行ってくる。イザヤ。」



 シグレはフルフェイスのマスクを被った。マスクにはカラスの意匠が施されている。

神話に登場する戦いの女神は、戦場にワタリガラスの姿となって現れ、戦場に殺戮と死をもたらすものとして描かれている。このマスクは以前、ある人より譲り受けたものだった。



 シグレは、背の向こうに声を低くして言った。

「次、父の事を口にしたら、貴様の心臓をもらう。」

 イザヤの返事はなかった。



 シグレは跳んだ。垂直な路地の壁の間を、右へ、左へ、僅かな足場を踏み台にして素早く駆けあがっていく。慣れた技だった。殺しに使う手段は誰よりも早く覚えることが出来た。   



 やがて建物の屋上に立ったシグレは、目を凝らし、耳を澄ました。その姿はまるで、上空より獲物を狙う猛禽類のようだった。



 殺さねばならない者達が今夜もいる。今回、シグレに殺しの依頼をした者は、もうこの世にはいない。請け負った翌日に殺された。



 だが、依頼者の復讐心が、自分の魂の中に居座っている。復讐によって人の魂をかき乱し、それに狂気の踊りをさせる。シグレは跳躍すると、ビルの間を疾風の様に駆けだした。

     

 事務所内の雰囲気は、思いのほか落ち着いているように感じた。



 キムの事務所は、千寿の繁華街からやや逸れた場所に位置しており、一見すると不動産屋のオフィスとそう変わらない。



 ウツミが案内された応接間は十四畳ほどの広さだった。中央に長めのテーブル。その両脇に一人用の黒いソファが四つ。棚には外国製の壺などの骨董品が並べられている。



 ウツミは目の前のキムと握手を交わすと、促されて席に着いた。



 キムは人当たりの良い男だった。角刈りに太い眉、がっしりとした肩幅の容貌とは反対に、柔和な笑みを浮かべ、透き通った声で話す。



 ウツミが千寿署へ配属されたとき、キムは下っ端で、傘持ち担当だった。だが、この一年の間に、持ち前の巧みな交渉術と強い悪運で、次期会長を狙うまでにのし上がった。



 ただ、それゆえに敵は少なくない。構成員の間では、キムが先代会長を殺害した黒幕とする声も上がった。ウツミも内心、そう勘繰っていたが、目の前のキムの表情は、傘持ち時代の当時とそう変わらないように見えた。



「まずは、捜査の協力に感謝します。キムさん。」



「分かっていますよ。今朝の通り魔とウチの関係を聞きに来たのでしょう。」



「そうです。あなた方と被害者とは立ち退きを巡るトラブルが有ったと聞いていましたので、何か情報を得られれば、と。」



「ご協力しましょう。ですが、私は貴方との間で貸し借りをしたくない。」



「勿論です。有益な情報の見返りとして、此方は勾留している二人の釈放を考えます。」



 恐喝の容疑で逮捕したキムの部下だった。共に、被害者のマンションにも出入りしている。



 普段の自分であれば、こういった手段は使わないだろう、とウツミは自嘲気味に思った。だが、犯人はシグレに間違いはない。彼女はアリスの母を殺し、自分も殺そうとした。次は何をするのか分からない怖さがある。



 キムは柔和な笑みを浮かべたまま、ふふっと頷いた。



「よろしい、ではお答えしましょう。今回の通り魔の犯人は、何者かが雇った殺し屋に間違いはありません。雇い主は未だ掴めませんが、恐らく同じ龍門会の者でしょう。私が会長となることに反対する誰か、です。」



「分かりません。では、なぜ敵対する貴方を助けるような真似を?」



「私は危機的状況にあります。私が殺し屋を利用する男だとなれば、先代の会長殺しの疑惑が強まり、立場が危うくなるでしょう。」



「貴方の仕業と見せかける為に、何者かが殺し屋を雇ったと?」

 出来の悪い話だ。そう思うと同時に、キムに対して失望に近い感情を抱いた。



「少し苦しくないですか、キムさん。率直に言えば、貴方は先代の会長殺し、今回のミハラセツコの殺害に関与していてもおかしくない立場にある。」



「私に殺しの動機があることは否めません。しかし、今回の事件で、私以上に得をした人間は多い。そちらを調査しては如何です。」



 口から出てきたのは、まるで子供の言い訳だった。

 これ以上話していても、時間の無駄になるだけに感じた。

「貴重な情報に感謝します。署に持ち帰って、その後の対応を検討します。」



 キムは突然、席を立とうとするウツミの腕を掴んだ。万力のような力で掴まれたウツミは、思わずキムを凝視した。いつもの笑みを浮かべつつも、目には威圧的な色を宿している。

「ウツミさん。貴方と私は友人だ。これからの為にもお互い協力することが大事。そうでしょう?」



「勿論です。そのときは、また。」

 キムは口元を綻ばせて手を離し、足早に部屋から出るウツミを見送った。



 そうすると、側近の男を一人呼び寄せると耳元で囁いた。

「シグレに連絡をしろ。金を上乗せする。生け捕りでなくともよい。今夜中に始末を、と。」



 男は一礼すると、部屋を出ていった。

     

 キムと会って、徒労感だけが残った。何の情報も得られなかったに等しい。



 彼は保身に走るだけの男だ。恐らく、仮に彼が龍門会のトップになったとしても、決して長続きはしないだろう、とウツミは思った。



 家までの道には雪が薄く積もっている。今日の午後三時頃から降雪の予報がされていたことを思い出した。傘を持たずに署を出たばかりに、雪の中を帰ることになった。



 今晩は休暇だ。久しぶりにアリスと夜を過ごせる。家の影が見えてくると、歩くスピード速くなる。彼女を抱いていると、逃げ出したくなる苦しみから解き放たれる感覚になる。一人で眠るのは苦痛だった。眠りに落ちるたびに、微睡の中で失った者たちの顔が浮かんでくる。だが、夜に犯罪取締人をする上では都合が良いのかもしれない。そう思っているうちに、ウツミは玄関の前にいた。



 「ただいま、アリス。」

 扉を開けると、カレーの香りがぷん、と鼻に届いた。空腹のときにはたまらない香りだ。

クリスマスの夜以来、アリスはウツミの家にいる。



 シグレや、怪しげな集団からの危険を避ける為だった。



 アリスが家を出て行ったときから彼女を見つけるまでの間の記憶は、今でもぼんやりとしている。



 冷静さを失った為に場所を突き止めるまで時間が掛かり、危うく彼女を大きく傷つける結果になりかけた。もう二度と、あんな思いはしたくない。ウツミは、危険が去るまで彼女を家に住まわせる事を決めた。



 ウツミが玄関で靴の汚れを落としていると、背後からアリスの足音が聞こえた。



「パパ、おかえり。」



「食事を作ってくれたんだね。ありがとう。焦がさなかったかい?」

「カレーを焦がす訳ないでしょ。それに、昨日のアレは少しミスしただけよ。」



 昨晩、アリスはチキンステーキを作ろうとして失敗していた。



 インターネットで作り方を調べている間に肉を焦がした。ウツミが帰宅したとき、必死にフライパンを擦って汚れを落とそうとする彼女の姿があった。



「ほんの冗談。今、着替えてくるからね。」



 ウツミはくすっと笑うと、寝室の中に入った。

 今が幸せだ。脱いだコートをクローゼットのハンガーに掛けながら、ウツミはそう感じた。



 朝起きたときから夜寝るときまで、自分が家にいる間はずっとアリスが傍にいる。彼女を外の危険から守るはずが、今では彼女無しではいられない自分がいる。



 だが、出来得るなら、ずっとこのままがいい。ウツミは自嘲気味に笑った。



 ウツミがワイシャツを脱いだとき、背中に何か触れた感覚があった。振り向くと、ウツミの背中を指先でなぞるアリスがいた。

「これ、新しい傷でしょ。」

「ごめんよ。隠す気はなかった。」

「隠してもすぐ分かるわよ。パパの躰を一年以上見ているもの。」



 一昨日の深夜、路地奥で女性を強姦していた男に、背後から刃物で付けられた傷だった。襲われた女性を介抱していた為に不覚をとった。幸い防刃コートのお陰で、背中の左側から左下までの浅い傷で済んでいた。



「私はパパに助けられたし、今も守ってもらえて感謝してる。けど、これだけ傷跡が増えても、千寿は変わっていない。」



「確かに、変わっていないかもしれない。でもね、アリス。私は、私が負った傷の数より多くの人々を助けることが出来た。それは、誰かがやらなくちゃいけない。」

「どうして、それがパパである必要があるの?」



 ウツミは唇を閉じ、アリスを見つめた。それは、今までアリスに向けたことのない、鋭い目つきだった。



 お互いに十秒ほど見つめ合った。



 ウツミは背を向けると、寝台の端に座った。



「アリス。座りなさい。退屈かもしれないが、昔話をしよう。」

 アリスは静かに頷くと、ウツミの隣に座った。

     

 十年前、私たち一家は千寿の北区に住んでいた。昔から北区は住宅街だったけど、当時は古い木造の家や、空き地なんかが多くあって、区画の整理が盛んに行われていた。



 だが町の発展に伴い、治安は少しずつ悪くなっていた。地上げ屋の横行、危険な宗教団体、自警団気取りの愚連隊。そして、犯罪取締人の「コーポス」と呼ばれる髑髏の怪人の噂。



 両親は私が生まれた年に二階建ての家を購入してから、ずっと住み続けていた。



 父は千寿北区の交番に務める巡査だった。連続強盗事件の犯人を現行犯逮捕して表彰を受けたこともある、実直な警察官だった。



 家庭では、優しさと厳しさの両方を持ったよき父親だった。私が卑劣な行動を取ったときは容赦なく鉄拳を喰らわせたが、人の為に行ったことは、どんなに小さい事でも褒めてくれた。私は父が嬉しそうに笑う瞬間が好きだったし、褒めてもらうことが嬉しかった。



 母はとにかく寛大で慈悲深かった。私に何か後ろめたい事があると、母はそっと私に寄り添い、話をじっと聞いてくれた。涙で濡れる私の頬をそっと撫でると

「大丈夫、貴方は私たちの子。とっても、優しい子よ。」と囁いた。



 幸せだった。父母の愛に包まれ、金銭にも不自由のない環境で育てられた。



 それを、私は忘れることはない。



 当たり前だと思っていた幸福がどれほど尊いものだったのか。それを踏みにじられたことの痛みも、それによって私が誓った決意も。

 私は決して忘れはしない。十二歳のクリスマスの夜のことを。





 その日は朝から雪が降り積もり、私は暖房のきいた二階の自室で、冬休みの課題を片付けていた。



 年を迎える前に終わらせれば、正月は何の憂いもなく父母とゆっくり過ごせる。下の階から母が焼いている鶏肉の香りがしてきた。もうまもなく夕食の時間だった。



 父の買ってきたクリスマスケーキを囲みながら、母の作ったごちそうを食べる。最高の時間になるはずだった。



 そのときだ。下の階からドン、と大きな音が聞こえ、家全体が震えたように感じた。

 後から聞こえてきたのは父の怒号、母の甲高い叫び声、皿の割れる音、何かが激しくぶつかり合う音。私は頭が真っ白になった。何が起こっているのかを考える前に、息を吸うのことすらままならなくなり、体は硬直して動かない。



 死。一瞬、頭にふっとよぎった恐怖。



 階段を駆け上がる音。何者かが自室に向かって来る。そして部屋の扉が開いた。



 母だった。



 青ざめた顔、乱れた髪、そして、いつも着けている白いエプロンには、真っ赤な絵の具をぶちまけたような大きな染みがあった。



「パパが撃たれた! 逃げなさい!」

「どこに逃げるの! ここは二階だよ!」



 再び、何者かが階段を駆け上がって来る音が聞こえた。一人、二人ではない。



 母は急いで部屋の掃き出し窓を開け、私の襟首を掴むと、勢いよく外に放り投げた。



 細身の母とは思えない力だった。投げられた私の体はベランダの手すりの上を通過し、雪に覆われた地面に向かって落下して行った。そして、後頭部に何かが当たる衝撃と共に、私の意識は途絶えた。



 

 目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。意識を回復した私に、ドクターや警察官がいくつか質問をしていたようだが、何を聞かれ、何を答えたのか覚えていない。



 覚えているのは、悪い夢を見た後の心の重い感覚。



 父と母に早く会いたい。悪夢であったことを確かめたい。



 だが、両親と再び会うことは無かった。遺体の損壊が激しく、欠損した部位が多かったらしい。呆然としていた私に、ある若い刑事が言った。



「私も君と同じくらいの年に、両親を冷酷な奴らに奪われた。強く生きるんだ。犯人は必ず逮捕する。」



 後日、犯人とされる四人の男のうち、三人が射殺された。だが、一人は現在でも行方を眩ませたままだった。



 両親を殺した連中は、ただのチンピラの集まりだったらしい。それぞれに接点はなく、両親を殺した動機も分からなかった。私が刑事になったあとも署内の資料を洗いざらい調べたが、犯人の名前と顔以外は分からず仕舞いだった。



 両親が亡くなって間もなく、私は遺品整理の為に現場に入ることを許された。



 一応の清掃は済んではあったが、住んでいた頃のそれとは別の、鼻にツンと刺すような消毒液の匂いが立ち込め、壊れた家具は撤去されたのか、ガランとした空間が広がっていた。



 目に入った両親の遺品を全て持って帰るつもりだったが、周りを見回すと、不思議とその気持ちは失せた。過去の思い出も、ガランとした室内も、全てが夢の中での出来事の様に感じていた。



 これは、と思うものを見つけては床に並べてはみるものの、両親との思い出に釣り合う遺品が見つからない。



 そして、最後に父のクローゼットを開けた。



 扉を開けると、わずかに父の香りが残っていた。この空間だけは荒らされなかったのか、父の背広がそのままの形でハンガーに掛かっていた。



 私は泣いた。涙が零れ落ちながら、一つずつハンガーを外し、背広に顔を押し付けた。



 父の香り。幸福が当たり前だった頃の香り。ようやく見合うものが見つけられたかもしれない。私はクローゼットから父の服を次々と出していった。



 その時だった。服を出し終えた私が、クローゼットの隅の奥を覗き込んだとき、「それ」はあった。



 古びた大きめの黒い箱だった。紙で作られており、何かのギフトボックスに見えた。



 一瞬、私は嫌な予感を感じた。開けてはいけない何かを見てしまう気がして、手が止まってしまった。開封していない衣服かもしれない。そう自分に言い聞かせ私は箱を開けた。



 箱の中は衣服だった。未開封ではない。白いレザージャケット、灰色のレザーパンツ。そして、それに、一番底には赤い髑髏のマスクが・・・。









「ちょっと待って。」



 アリスはウツミの言葉を遮った。困惑の表情を浮かべながら、言葉を選ぶように少しずつ口を開いた

「どうしてパパがコーポスを続けているのか、少しずつ分かってきた気がする。けど、傷を作りながら、こんな事を続けているなんておかしいと思う。」



「町を良くする為さ。アリス。」

「犯人達は、パパのパパがコーポスである事を知っていた。きっと誰かに雇われて、消しに来た。」

「それは考え過ぎだと思うよ。」



「違う。パパは嘘を付いている。町を良くするって言っているけど、本当は復習の為。パパのパパを殺した黒幕を探す為に、こんなに傷だらけになって戦ってる。自分がコーポスになれば、敵はまた襲ってくるから。」



 ウツミはすぅっと息を吐くと、微笑みを浮かべながらアリスを見つめた。



 悲しそうな目。アリスはそう感じた。

「アリス。私は、あのシグレと名乗った殺し屋が怪しいと思っている。奴を追えば、黒幕にたどり着くかもしれない。」



「けれど、あの夜、パパも私も殺されかけた。」

「そう。あの日、私は奴と向かい合ったとき動けなかった。君を守るつもりでいたのに、動けなかった。君が庇わなかったら、私は死んでいただろう。」



 アリスが俯いたとき、ウツミの手は震えているのが見えた。

「父のように死ぬのが怖かったのだろうね。町を良くする、大切な者達を守る、両親の復讐を遂げる、かつて、そう決心したはずに。」



 ウツミの肩は震え、手の甲には雫がこぼれ落ちていた。



 ウツミは、湧いてくる感情の波を抑えることが出来なかった。復讐鬼となった自分を隠すために、千寿の守護者の仮面を付けたのではないか。千寿を守り続ける父の決意の仮面を、自分は己を誤魔化す為に身に付けていたのではないか。死を目前にしたとき、守ると誓った者が傍にいたのに、自分は臆病だった。 



 ウツミが俯いたとき、アリスは、濡れたウツミの頬をそっと撫でると、耳元でそっと囁いた。

「パパは、私を守ってくれた。大丈夫。パパは優しい人だもの。昔から、ずっとずっと、優しい人だもの。」



 ウツミが顔を上げると、目の前には穏やかな笑みを浮かべたアリスの顔があった。自分にとって、初めて見る彼女の表情だった。



 ウツミはアリスと初めて出会ったとき、他者を寄せ付けない彼女の氷のような美貌に強く惹かれた。母との確執から、孤独に生きざるを得なかったアリス。

 生きてきた過程は大きく違う。けれど、生の果てに求めたものは自分と同じだったのかもしれない、とウツミは思った。



 ウツミはアリスの肩を抱き寄せると、彼女の唇に強く自分の唇を押し付けた。浅く、深く、角度を変えながら舌を絡ませつつ、アリスの豊かな乳房を衣服の上から愛撫する。



「パパ、まだ早いよ。せめて食事の後じゃ駄目なの?」

「ごめんよ、アリス。もう私は、私を抑えられない。」

 ウツミは寝台にアリスの身体を押し付けると、再び唇を重ね合わせた。

     

 信用出来ない男だと思った。感情的で傲慢。部下には当たり散らすくせに、立場が上の人間には媚び諂う。彼が自分に依頼を持ちかけたときは、猫なで声まで出していた。



 虚言を用いて人を騙し、用済みと判断すれば簡単に人を殺す。義理や温情とも無縁の露悪の性には嫌悪感を感じた。



 しかし、今回の依頼は願ってもないものだった。父の仇を取るべく、五年待った。筋骨を鍛え、内に気を練り、技を磨いてきた。殺しを生業とする一族に生まれ、周りの者からは一族きっての秀才と持て囃され、亡き父からは殺しの為の技術を徹底的に叩き込まれた。



 かつて、自分には双子の姉がいた。姉は自分に比べて病弱で気が小さかった。いつも自分の後ろにくっついていた。時折鬱陶しく感じて、泣かせてしまう事もあったが、彼女は自分の傍から離れる事はなかった。



 そして十二歳の夏。私は姉を殺した。一族における成人の儀で、まず最も仲の良い者と二人一組になるよう命じられ、直後、殺し合うことを強要される。



 病弱な姉は修練用に使うナイフすらまともに扱えず、その手は震えていた。そんな姉を、自分は容赦なく首を刎ねた。



 首は二メートルほど飛び、地に落ちた。悲しいとも思わなかった。自分によく似た姿の影を切って、むしろ達成感のみが残った。



 だが、そんな自分でも、父の死には心を動かさざるを得なかった。父は殺しの術を何でも教えてくれた。自分にとって、それは生きる術だった。



 無口で近寄りがたい父だった。読み書きができず、土を耕すことや飯を作ることもままならない父だった。そんな父が自分に殺しの術を教えたのは、父なりの精一杯の愛情だったのかもしれない。



 父が殺された日から数日、飲食もままならなかった。そんなあるとき、部屋の虚空を見つめていると、一匹の蝿がうなるのを聞いた。



 部屋の中の静寂は、嵐の高まりの間の大気の静寂のようだった。父が死んだことで、幼かった自分もまた死んだ。親の庇を抜け、酷薄の日の下で修羅の道を歩む。人は誰しも、一人で生き一人で死ぬもの。それは、姉の首を刎ねた成人の儀のときですら感じ得ないものだった。



 父は村の外れに埋葬された。墓石どころか、名を示すものは一つもない。遺灰を埋め、土を盛る。戦いに敗れた者は年齢や身分の上下関係なく葬られるのが掟だった。姉と父。二つ並んだ土を横に五年間、修練を続けた。



 父を殺したのは、自分の姉弟子だった。



 ひと月前に村に来て、彼女は父に弟子入りを願った。そのときの彼女の眼差しはよく覚えている。無機質で突き刺さるような目線。それは自分に死を連想させた。



 彼女が危険なのは分かっていた。だが、父は弟子入りを承諾し、彼女に殺しの技術を伝授した。彼女は強かった。年は自分より二、三ほど上ではあったが、並の者が習得に十年かかる術を、僅かひと月で身に付けた。そして修練を終えた頃、彼女は父を殺し、行方を眩ませた。



 彼女の名は「シグレ」。そして今、自分はシグレの姿を見止めている。ビルの屋上に、彼女はいる。彼女ほどの殺し屋ならば、既に自分の気配には気づいているだろう。



 いや、もしくは自分を待っているのか。あと二十歩、あと十五歩。闇の中で黒の忍装束を纏い、ビルの間の跳びながら、必殺の間合いに近づいていく。そして、十歩目に差し掛かったとき、袖の内側から短槍を伸ばすと、大きく跳躍した

     

 首筋に向けての一撃目。そして胸に必殺の二撃目。



 執鬼流短槍術の十八番だった。シグレは身を翻し一撃目を躱すと、間髪入れず繰り出された短槍を蹴り折った。



「お前が来るのを待っていた、ミナモ。父の仇を取りに来たのか。それとも飼い主の依頼か。」

「分かり切ったこと聞くな、シグレ。」



 ミナモは右袖から二本目の短槍を伸ばすと、シグレに狙いを定めるように向けた。



 ミナモが着ている執鬼流の黒い忍装束の裏側には、急所を守る鎖帷子が網のように重ね合わされている。並の刃物では致命傷を負わせることが出来ないのは、シグレもよく理解していた。



「覚悟しろ、シグレ。」



 ミナモは豹の様に跳躍すると、短槍をシグレの胸に目掛けて繰り出した。胸への一撃目が避けられることは分かっている。ミナモは瞬時に左袖から短刀を取り出すと、シグレの首筋目掛けて振り下ろした。



 父から教えられた技だった。最初の二撃を仕損じたのち、相手と向かい合った際に使う、幼い頃より父から教わった執鬼流短槍術秘伝の奥義。



 振り下ろした短刀がシグレの首筋に吸い込まれていくとき、ミナモの左腕が止まった。左脇腹に激痛が走り、思わず短刀が滑り落ちた。



 シグレの右袖から伸びた伸縮式の短槍は、ミナモの左脇の下を刺し貫いていた。

「相手を殺すときは、声を発さずに殺せ。父からそう教わったんじゃないのか。」



 シグレが槍を引き抜くと、傷口から夥しく鮮血が噴出し、ミナモは血の塊を吐いてその場で崩れ落ちた。槍は肺を貫通し、傷は背中にまで達していた。



「私も、お前の父からその技を教えられていた。そして今と同じ様に、お前の父を殺した。」



 ミナモは答えなかった。開いた口から血の混じった泡を吹き出し、目は虚空を向いていた。



 自分は何の為に生きたのか。五年の間、シグレを殺し、仇を討つ為に、全てを拒絶し、心を殺し、心身を鍛え、技を磨き、満を持して機会を得たのではないのか。自分の見積もりは甘かったのか。それとも、相手が桁違いだったのか。



「言い残すことはあるか、ミナモ。」



 姉に会ったら、謝らねばならないだろうか。父に会ったら、叱られるだろうか。自分を産んですぐに死んだ母には、会えるだろうか。微睡の中で、皆が、笑う声がする。



「最低限の情けは掛けてやる。」

シグレが短槍を振り下ろしたとき、ミナモの意識は途絶えた。

     

「見事な手前でした。シグレさん。」



 扉の向こうから現れたのはキムだった。両脇に体格のいい部下を従え、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。



 シグレはこの男が嫌いではなかった。まるで面を張り付けたような薄気味悪い顔や、時折部下に見せる荒っぽい仕草に対して嫌になることもあるが、契約は必ず守る男だったし、交渉次第では気前のいいところもある。殺しの稼業においては、信頼できるビジネスパートナーを見つけることが一番難しい。



「時間が掛かってしまった。それに、生け捕りには出来なかった。」



「いえ、始末しただけで十分です。それに、雇い主の検討は付いています。かの者の遺体は刻んで、そちらに送ってやるとしましょう。それと、貴女への見返りですが、現金以外がお望みでしたね。」



「そうだ。悪いがお前の部下を二名ほど、こちらに引き渡して欲しい。一人目はキタムラ・リョウ、二人目はパク・ソジュン。」



 両脇の部下が一瞬身構えようとしたが、キムはそれを制した。



「宜しいでしょう。私は貸し借りを作らない主義です。ですが今は二人とも勾留中です。いずれ、お引渡ししましょう。」

「奇遇だな。私も貸し借りを作らない主義でな。例え死人の依頼であっても承諾した以上、必ず果たすつもりだ。」



 シグレはキムに背を向けると、屋上のフェンスに向かって歩きだした。



「差支えなければ、依頼人の名をお聞かせ願えますか。」



「ミハラセツコだ。」

 キムが瞬きをするのと同時に、漆黒のワタリガラスは、闇の世界へと飛翔した。





                              【水面の章 完】

       

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Neetsha