Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
荒風の章

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 ご覧、嵐がやってくる。



 息子の首を刎ねた彼は、妻の嘆きを受けて荒み果てた地上に降り立つ。



 第三の目が瞬くとき、天空を黒雲が包む。



 僕の蛇が蜷局を巻くとき、豪雨が降り注ぎ土を穿つ。



 三日月が光り輝くとき、風化した大地に新芽が息吹く。



 彼は自らの内に全てを見て、全ての内に自らを見る。



 大いなる天上の韻律を刻みながら、魔を踏みつけるその舞は止まらない。



 弓を番え、邪を破り、正しきを顕す。



 人々の永久の迷いを、運命の矢が貫く。

     

 気性は激しくも、公平で寛大な男だった。惻隠の心を持ち、偽りを最も嫌う。



 イザヤを従者としてから、導かれるように彼と出会った。



 彼の名はアライ・ゲンジロウ。玄龍会の会長であり、裏社会の王であった。



 半年前、二十歳になったばかりのゴンゾウは玄龍会の本部でアライと出会った。



 イザヤの予言に振り回されつつもその言に従い、薬物の売買を成功させていたゴンゾウだったが、

手違いで玄龍会のシマで取引を行った為、捕われる形でアライの前に立たされた。



 だが、ゴンゾウは不思議と落ち着いていた。玄龍会の幹部達が睨み付けている空間で、目の前のアライと視線が交錯したとき、互いに通じるものを感じた。孤独でありながら、魂の救済など微塵も求めない。他者に理解を求めず、確固たる信念で己が道を往く。



 ゴンゾウが微笑むと、アライもまた笑みを浮かべる。



 やがて、アライが左手を上げると、ゴンゾウは左側の末席に座った。そして今、本部におけるゴンゾウの席はアライのすぐ横にある。



 千寿中央の大きなシマを任されたゴンゾウは、与えられた事務所の裏でイザヤと会っていた。



「イザヤよ。天意とは妙なものだな。俺は四年前、食事にすら難儀していたというのにな。」



「お戯れを。本当は、天に確たる意思など無いとご自分は思っていらっしゃるというのに。」



 ゴンゾウはふっと笑うと、手に持っていた煙草の先を地面に押し付けた。



「アライは面白い奴だぞ。公平かつ寛大。怒らせると残虐だが狡猾さはない。非道な行いもするが逡巡はない。」



「確かに魅力的な男でしょう。ですが、貴方の星は更に上を往きます。」



「思いあがるな、イザヤ。俺は貴様の指し示す道をただ歩くだけの人間ではないぞ。」



「勿論です。私はあくまでも道をお伝えするだけ。道を決めるのは貴方で御座います。」



 イザヤに恐縮している様子はなかった。むしろ、遠慮や謙遜とは程遠い。物怖じせず妙な詩を吟じ、時には酒を飲みながら歓喜の唄を謡う。だが、ゴンゾウはこの男を嫌いではなかった。



「俺はやがてアライを殺すだろう。千寿を手にし、混沌とした闇を照らす星となろう。」



「私には見えます。貴方の闘争が民を動かし、万来の喝采を持って迎え入れるでしょう。」



 ゴンゾウは満足げに頷くと、懐から酒瓶を取り出し、イザヤに向けて放った。



「俺の道を祝う詩を吟じよ。」



「承りました。」

     

「荒野と、乾いた地は楽しみ、砂漠は喜びて花が咲く。



 盛んに花が咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。



 これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。



 彼らは主の栄光を見て、我々の神の麗しさを見る。



 貴殿らは弱った手を強くし、よろめく膝を健やかにせよ。



 心慄く者に言え。



 強くあれ。恐れてはならない。



 見よ、貴方がたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。



 神は来て、貴方がたを救われる、と。



 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。



 その時、足の不自由な人は、鹿の様に飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れるからである。



 焼けた砂は池となり、乾いた地は水の源となり、山犬の住処は、葦の茂りあう所となる。



 そこに大路があり、その道は聖なる道と唱えられる。



 汚れた者はこれを通り過ぎることはできない。愚かなる者はそこに迷い入ることはない。



 そこには獅子はおらず、飢えた獣も、その道に上ることはなく、その所でこれらに会うことはない。



 ただ、贖われた者のみ、そこを歩む。



 主に贖われた者は帰ってきて、その頭に、永久の喜びを戴き、歌いつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

     

 復讐は何も生まない、ただ崩していくだけ。怒りは何も作らない、ただ無くしていくだけ。だが、今のチヅルの心は青い炎の様に静かに燃えていた。



 十年前、双子の妹のシズカと共に先代会長の警護に付いていた。両親を早くに亡くし、母の従兄であったサブロウに拾われ、会長には孫のように可愛がられた。報恩の為に腕を磨き、二十歳手前のとき満を持して警護の任務を与えられた。



 だが、任務には失敗し、目の前で会長は命を落とした。敵の囮に気を取られた隙を狙われ、短刀を持った刺客が会長を刺した。気付いたときには既に遅く、刺客は逃げ去り、仰向けに倒れてゆく会長の姿があった。



 衰退した六文組を再建すべく、チヅルはシズカと共にサブロウの目となり、足となり、刃となった。そして十年経った今、遂に反撃の狼煙を上げる時がきた。



 標的は龍門会。千寿で最も大きな裏の勢力に重い一撃を与える。



 今夜、龍門会は大きな会合を開く。会を牛耳るキム・ジュオンを始め、その配下の者達も大勢出席する。間違いなく、ゴンゾウへの対応を決める会合だった。



 チヅルは闇に紛れて走った。出席者および護衛の人数や場所を、インカムを通してサブロウに伝えていく。



 正面の門には四人の守衛。玄関に入ろうとするまでには五十人近くの警護が控えている。旅館の裏門や塀の側には赤外線カメラが備えられ、絶えず巡回している者達もいる。



 旅館の中にはそれ以上の人数がいるかもしれないが、それらを全て把握することは不可能だった。



「ご苦労だった、チヅル。持ち場に着き次第、合図を待て。」



 インカムを通して聞こえてくるサブロウの声は、思いのほか落ち着いていた。ゴンゾウを見届け人として六文組の新組長となってから、その熱く激しやすかった気性を抑え込んでいるようにチヅルには思えた。



「承知しました。」



 チヅルはサブロウから指示を受けていた通り、裏門近くの茂みの中に身を潜めた。



 決行は二十二時時四十六分。あと数分でその刻となる。



 今回の襲撃に際して、サブロウはチヅルに合図と共に火蓋を切る役目を任せていた。



 自責の念にかられた十年だった。それはこれからも、決して消えることはない。



 たとえ今回の襲撃で散ろうとも構わない。だが、六文組の一人として雄々しく戦いたい。

チヅルは武者震いに似た震えを感じた。鼓動が高まり、握りしめた手に汗が滲んでくる。



 そのとき、サブロウよりチヅルのインカムに通信があった。

「決行の時間だ。チヅル。いいか、決して死に急ぐな。」



 サブロウもまた、気が昂っているに違いない。そして自分もまた滾っている。



「はい。チヅル、参ります。」



 チヅルは鎖鎌を握ると、茂みから勢いよく飛び出した。



 裏門に起立していた二人の守衛が気づく前に、まるで獲物を狙う獅子の様に大きく跳ね、左手から一直線に伸ばした分銅で一人の頭部を打ち砕いた。



 チヅルはその勢いのまま鎖を返すと、茫然とした表情を浮かべている、もう一人の蟀谷へ分銅を叩きつけた。



 ぐしゃっと潰れる音と共に男の眼球や脳が弾け飛び、血と共に地面に散乱した。



 幼いころよりサブロウより教えられた技だった。

 陰影流鎖鎌術。影に身を馴染ませ、手足の如く分銅を振るう。



 チヅルは裏門より入ると、ウエストバッグから取り出した発煙筒と爆竹を着火させた。



「六文組の怨と怒を知れ!」



 裏庭を風の如く駆けた。



 発火した発煙筒や爆竹を放ると辺りが轟音と深い煙に撒かれ、近くを巡回していた者達が騒ぎを聞きつけて続々と寄ってくる。チヅルが煙の中で耳を澄ますと、遠くから多くの足音が聞こえてくる。



 恐らく建物の中で控えていた者達で、三十人は下らない。



 そのとき、インカムを通してサブロウの声が聞こえた。



「良くやったチヅル。だが、裏門に人数が殺到して来ている。多勢に無勢だ、脱出しろ。」



 本来であれば煙幕の中、裏庭で暴れまわって敵を引き付ける役割であったが、思いのほか建物内の人数が多かった。



 煙の向こうから銃声がし、一発が左肩を掠めた。



「承知しました。」

 チヅルは煙幕の中から塀の上に跳躍すると、表門の方向に向かって駆けだした。



「サブロウ様。表門の方は如何致しますか。」



「呂角とソウジが突入した。問題はない。今は脱出を考えろ。」



「はい。チヅル、これより帰還します。」



 塀の外に飛び降りようとしたとき、表門の方角から銃声や悲鳴にも似た叫び声が轟いた。



 チヅルが遠目で見たとき、表門から玄関の間の道には想像を絶する光景があった。



 片手で大方天戟を振るう呂角の姿は遠くから見ても容易に分かった。



 いとも簡単に銃弾を躱し、大方天戟の一閃で幾人もの首が宙に飛ぶ。呂角を遠巻きに包囲している護衛達は迂闊に手が出せず、呂角との距離が徐々に遠くなっていく。



 獲物を品定めする猛獣の様に、呂角は周辺を見渡した。その眼に見定められた者の命はない。そして、呂角は包囲の一点に向けて走り出した。



 慌てて引き金を引こうとする護衛達の首は瞬時に刎ねられ、鞠の様に落ちていく。



 まるで、血の暴風雨だった。



 チヅルは阿鼻叫喚の地獄絵図に背を向けると、塀の外に飛び降り、闇に紛れて駆けた。



 奴が敵でなくて良かった、そう思うしかなかった。

     

 昨日と比べて、身体は軽かった。



 一日が経つごとに動ける部分が増えてきている。



 昨日は短槍を取ったが、撃たれた右肩に痛みはなかった。



 三週間前、秘伝の座薬から逃れようとベッドから這い出たときは、一歩も動けずにツツジに捕まって酷い目にあった。思い出したくないほどの荒療治だったが、死にかけの自分を一月も掛からず此処まで回復させたのだから、本当は名医なのかもしれない。



「夕食だよ、シグレちゃん。」



 白いカーテンの向こう側からツツジの声が聞こえた。



「今日は、座薬は無いんだろうな。」



「無いよ。だけど夕食のあと、秘伝の注射を打たせて貰うけどね。」



 シグレはベッドに潜り込むと、亀の様に丸くなった。



「あの注射は嫌だ。脳がくらくらして身体が熱くなる。」



「治りは早くなるよ。それに、見舞いに来てくれた友達の為に早く良くならなくちゃね。」



 二週間前、ライゾウの弟子のアカメが診療所に来て、早く治って仕事をしろ、とライゾウからの伝言を残して去って行った。アカメとは同年代の者として、言葉を交わすことも少なくなかった。今のところ、友人と言えるのは彼女のみと言っていい。



「シグレ。我儘を言わずツツジ先生の言う通りにしろ。仕事を持ってきたぞ。」



 突然、カーテンの向こう側からアカメの声が聞こえた。



「ツツジ! アカメが来ている事を何故言わない!」

 強い剣幕でカーテンを開けたシグレを見て、ツツジとアカメは思わず微笑んだ。



「いや、アンタが余りにも我儘だから、アカメちゃんに来て貰ったんだよ。」



「休暇はここまでだぞ、シグレ。お前が居ない間に色々な事が起こった。主に呂角絡みだが。」



 呂角。アカメの口からその名前が出たとき、シグレの表情が張り詰めたものとなった。



 自分を追い込み、殺しかけた相手。



 かつて、コバックスから名前と当時の武勇を聞かされたことがある。



 白いスーツを着た男装の麗人で、大方天戟を振るえば天下無双の武人。銃弾を躱し、一閃で複数人の首を刎ねる。さきの騒乱では数えきれないほどの殺し屋を血祭にあげた。だが、爆発物から主人を守って右半身に大火傷を負い、姿を消した。



「呂角か。奴には借りがある。今はどこにいる?」



「三日前に龍門会の会合に表れて、七十人近くの組員を地獄と病院に送った。他にも六文組の刺客が暴れまわり、死傷者は数えきれない。現在、ライゾウ様とキムが今後について対策を練っている。」  



「キムは生きているのか?」



「生きている。他の幹部には死んだ者もいるというのに、まるで生かされたようだ。」



 妙だ。龍門会は会長を殺されてから、実権を握っているのは最高幹部のキムだった。龍門会を壊滅させる絶好の機であったというのに、敢えてキムを殺さなかったのは何故だ。



 シグレが考えを巡らせていると、アカメはベッドの上に地図を広げた。



 地図は千寿の町をコピーしたもので、赤い印と青い印が所々に付けられている。



「赤は六文組に連なる組で、青は龍門会やライゾウ様の傘下だ。今はまだ両手で数える程度だが、ゴンゾウが仮釈放されてからというもの、六文組に同調する連中が増えてきた。」



「今からでも、私は奴や呂角を殺す。居場所を教えろ。」



「私はその為に来た。これはライゾウ様やキム、そのほか主だった組のトップからの依頼だ。責任は重大だが、報酬は計り知れない。」



「当然引き受ける。奴らに借りを返す絶好の機だ。」



 アカメは地図の南端、赤い印のある部分に指を指した。



「陸道組。かつてはゴンゾウの派閥として、十年前の騒乱を戦った連中だ。今は組をたたんで、自動車修理工場を経営している。そこに、ゴンゾウと呂角は潜伏している。」



「間違いないか?」



「確かな情報だ。この情報を得るために、多くの間者が死んだ。失敗は許されないぞ。」



 シグレは頷いた。ゴンゾウと呂角を纏めて葬る千載一遇の好機だった。



「ライゾウ様の命で、私も出来うる限りお前のサポートをする。決行時刻は今夜の二十三時十五分。それまでに工場内の構造を、よく頭に入れておけ。」



 アカメは工場の図面を地図の上に置くと、用は済んだとばかりに扉から出て行った。



「相変わらず、疾い奴だ。」



 シグレは工場の図面を見たとき、思った以上に複雑な構造をしていると思った。



 曲がりくねった小さな通路。所々、用途の分からない行き止まりがある。



 まるで簡単な城だ。有事の時を見計らって建造したのかもしれない。



 ゴンゾウと呂角が一緒にいる可能性は高い。恐らく、工場内の大きな一室を使用している。



「また怪我をしたら、アタシのところに来な。」



 図面を見つめているシグレに、ツツジが不意に話しかけてきた。



「座薬を辞めてくれるなら、いいだろう。」



「死んだらお終いだからね、シグレちゃん。必ず生きて帰ってくるんだよ。」



 シグレが見上げると、ツツジははいつもの妖しげな雰囲気からは想像できないほど、不安げな表情を浮かべていた。



「大丈夫だ、ツツジ。私はもうヘマはしない。全てを終わらせて、此処に生きて帰ってくる。」



 生きて帰る。今まで他人にそう言った事が有っただろうか。孤独に生き、孤独に死ぬ。生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬ。母を失い、父に無下にされ、コバックスに去られてからというものの、それが自分の生きる道だと思っていた。自分は変わったのか、シグレは自分の感情に対して不思議な違和感を覚えた。



「わかった。アタシはシグレちゃんを待つよ。」



 ツツジはシグレの髪に手を伸ばすと、その長い黒髪をそっと撫でた。



「シグレちゃんの仕事モードの顔、アタシは好きだな。」



「それが私の本当の顔だ。」



 シグレは苦笑しつつ俯いた。

     

 天は千年の都を地に与えた。



 穢れを覆い隠してとり澄ましているこの大都市は、人々の怨嗟によって歪な輝きを増し続けている。



 ゴンゾウは窓際に立ち、ネオンに照らされ林立する高層ビル群を眺めていた。



 ビル群を挟んで東西に閑静な住宅街が立ち並び、北に行くに従って暗黒に包まれたスラム街が見える。千寿の南端より見つめる千寿の姿は、いつもと変わった表情を見せていた。



「呂角。お前は千寿をどう見る。」



 側に直立不動で起立している呂角もまた、同じく千寿の夜景を眺めていた。



 仮釈放を果たした日、キョウコを伴って現れた呂角の姿は痛々しいものだった。右腕を失い、顔の右側には未だ消えぬ火傷の跡が残っている。



 十年前、ゴンゾウが配下の組員の労をねぎらう為にある事務所の前に車を止めたときだった。物陰より鞄を抱えた男が飛び出し、一直線にゴンゾウ目掛けて走り出した。呂角は得物の大方天戟を所持しておらず、ゴンゾウもまた拳銃すら持っていなかった。目の前で男が爆薬の線を抜いた瞬間、呂角は身を呈してゴンゾウの盾となった。小規模の爆発ではあったが、尻餅を着いたゴンゾウの前には、右半身を火に焼かれて言葉も発さずに悶えている呂角の姿があった。



 右上半身を大きく損傷し、明日をも知れぬ命となって病棟に運ばれた呂角を見たとき、ゴンゾウもまた右腕を失った感覚を覚えた。イザヤは己の元から去り、呂角は死に体となった。己を支えてきた両輪を相次いで失い、激しい喪失感を抱いた。



 ゴンゾウが出所してからというものの、呂角は以前と変わらない働きをした。



 現在は金剛不壊の守護神として、大方天戟を肩身離さず所持している。



「私のような者は、物事を表す才を有しておりません。」



 雄弁に百言を述べるイザヤと、無言で百人を屠る呂角。ゴンゾウの両輪たる者のうちイザヤが去って以後、ゴンゾウは呂角に何かを問うことが多くなっていた。



 だが大抵の場合、呂角は一言二言を発するに留まる。



 会ったばかりの頃と変わらなかった。



 言葉を失い、奴隷同然に人買いに連れてこられていた頃と変わってはいない。



「天下無双の武神にとっては、千年の都もまた大した問題ではない、か。」



「私の居場所は主のお側。其れが変わらぬ限り何も求めず、何も望みません。」



「お前は愛らしく、また純粋な戦士だな。」



「お戯れを。」



 呂角は表情を変えず、その眼は千寿を見つめていた。



 外は強い風が吹き始めた。いずれ雲が流れ、月が瞬く明るい夜となる。



 そのとき、呂角の大方天戟がぴくりと動いた。



「何者かが、こちらを捉えています。」



「いつもの間者か。」



「いえ、この気、覚えがあります。外にワタリガラスが一羽。」



「発する気が強ければ、相手に居場所を悟られる。恐れを知らぬ強者か、もしくは哀れな未熟者か。」



「恐らく、両方かと存じます。発する気の強さは血筋でしょう。」



「会うのは十年ぶりだ。とくと見定めようではないか。」



 ゴンゾウはどっかりと窓際の椅子に腰を下ろした。

     

 風が吹き始めていた。



 頭上の雲は流れ、その狭間から月がぼんやりと夜を照らした。



 シグレはワタリガラスの意匠が施されたフルフェイスのヘルメットを被り、工場近くの物陰にアカメと共に立っていた。



 遠くから工場を眺めていると、アカメに渡された図面よりもやや大きく見える。



 周辺はコンクリートブロックを高く重ねた塀に囲まれ、その上には有刺鉄線が複数本引いている。



 外から見るのみでは内部の構造は一切知れない。まるで防御に特化した城と言ってもいい。



「シグレ。流石のお前でも侵入は難しいか? 場合によっては私が騒ぎを起こそう。」



「不可能ではない。門衛を殺し、正面より一気に突破する。お前は退路を確保して欲しい。」



「相変わらず無茶をする。必ず仕留めろよ。」



 シグレは無言で頷くと、物陰から飛び出した。



 ツツジの治療のお陰か、身体が妙に軽かった。



 必ず生きて帰る。なぜツツジにそう言ったのか、今になっても分からなかった。



 妖しげな荒療治にはうんざりするが、ツツジには命を救われた恩を感じている。だが、もっと他の、今まで味わったことのない感情を抱いた気がした。



 それが何なのか、生きて帰って再びツツジと出会えば分かるのかもしれない。



 シグレは飛翔した。まるで闇夜に同化し、獲物を襲う夜烏のように右手から短槍を伸ばすと、門衛の背後に降り立ち、喉を掻き斬った。



 斬られた傷口から血しぶきが勢いよく吹き出し、すぐに辺り一面に血だまりが出来た。



 シグレは門を軽々と飛び越え、敷地内に降り立つと、本来の入り口に向かわず、建物の壁に沿って走り出した。



 アカメに渡された工場の図面を小一時間ほど見つめていると、工場内に数十ある部屋の中からゴンゾウの居場所が少しずつ掴めてきた。そして現場に到着したとき、その考えが正しいことを確信した。



 ゴンゾウは千寿を最も見渡せる部屋にいることに間違いない。



 たとえ他より目立つ部屋であろうと、ゴンゾウはそうした場所を選ぶ。



 これは殺し屋としての勘だった。大きなリスクを目の前にしたとき、助けとなるのは武器ではなく、己のインスピレーションを働かせること。かつてコバックスに教わったことだった。



 千寿を最も見渡せる部屋は工場の北側の二階、室内から数えて左から三番目の部屋。



 シグレは地面を蹴ると、垂直の壁を足早に駆けあがった。



 間違いなく此処にいる。



 壁を駆けあがる一歩ごとに、それは更なる確信を帯びてきた。



 壁の向こうから伝わるゴンゾウの発する気。十年前と同じだった。



 チグサを失いながら、少しも悲しみの表情を浮かべなかったあの時と同じ。



 二階の高さまで駆け上がったシグレがその窓を破ったとき、目の前には大方天戟を振りかぶる呂角の姿があった。



 神速の勢いで振り下ろされた大方天戟の一撃を、シグレは身を翻して避けた。



「借りを返すぞ、呂角。」



 シグレの突き出した短槍の一撃は、呂角の右脇腹を浅く斬り裂いたのみだった。



 呂角はすぐに二、三歩と退くと、繰り出された喉に対する二撃目を紙一重で避け、大方天戟を構えなおした。



 シグレが正面を向きなおすと、呂角の背後に月明かりに照らされたゴンゾウが見えた。



「良き手前だな、我が娘よ。」



「貴様に娘呼ばわりされる筋合いはない。」



「いいや。我はお前が来ることを知っていた。そして、お前は我が此処に居ることを知っていた。何者にも離れがたい物がある。」



 目の前には実の父、ワタリ・ゴンゾウが佇んでいた。



 その表情はまるで花を慈しむ者のように穏やかだった。



 母のチグサが抗争に巻き込まれ射殺されながらも、顔色一つ変えなかった父。



 別の女性と恋に落ち、自分を無き者として扱い、声すら掛けなかった父。



 幼かった頃の記憶が、走馬灯のようにシグレの脳内を駆け巡った。



「貴様に父に対する様な情念が湧くと思うか? 貴様には此処で死んで貰う。」



「呂角、ゆけい。」



 呂角は大きく踏み込むと九尺の大方天戟を真一文字に振った。



「その手は見切ったぞ、呂角。」



 シグレはそれを大きく飛び越えると、背後のゴンゾウ目掛けて短槍を突き出した。



 全身を使い、勢いを付けた会心の一撃だった。短槍がゴンゾウの喉元に吸い込まれるように伸びていく。



 だが、その槍身はゴンゾウの右肩に突き刺さった。



 目測を見誤った訳ではない。



 槍の先端が届くまでは確実にその喉元を捉えていた。



「天晃流短槍術か。だが、その技を知るのはお前だけではないぞ。」



 ゴンゾウは刺さった槍身をぐっと掴むと、力任せにシグレの頭部を殴りつけた。



 短槍は折れ、勢いよくごろごろと床に転げたシグレを見下ろしながら、ゴンゾウは右肩の折れた槍身を引き抜いた。



「コバックスは我の旧友だ。その技はとうの昔より知っている。それに、奴にコーポスを殺すよう依頼したのも我だ。」



 床に転がったシグレが立ち上がろうとしたとき、大方天戟の三日月刃が喉元に突き付けられていた。



「シグレよ、再び親子の縁を結ばぬか? 殺すには惜しい。」



「殺せ。貴様に情を掛けられる位なら死を選ぶ。」



 シグレはマスク越しに目の前の二人を睨みつけた。



 何か手があるはずだ。シグレは静かな間の中、打開する方策に考えを巡らせた。



 必ず生きて帰る、自分はツツジにそう約束した。それを諦める訳にはいかない。



 シグレが瞬時に二本目の短槍を取り出そうとしたとき、右横から強烈な風圧を感じた。



「何者だ。」



 呂角が声を上げた瞬間、その身体は金属音と共に後方に吹き飛ばされた。



 シグレが見上げると、三日月刃の片方は折られ、天井に勢いよく突き刺さっていた。



「やはり、この技をもう一度教えておくべきだったな。」



 シグレが声の方向を向くと、其処には袖から短槍を突き出したコバックスがいた。



「師よ、どうして。」



「ライゾウに今回の依頼を聞いたのさ。しかし、一人娘が気がかりになってな。」



 コバックスは冗談っぽく微笑んだ。



「コバックスよ。此度は敵となるか。」



「お前との契約はとうの昔に終わっているのだ、ゴンゾウ。それに、十年ぶりに再会した娘をぶん殴る奴は気に食わん。」



 シグレの目の前には、かつて父と呼んだ二人の男が向かい合っていた。



 だが、どちらもかつて自分を捨てた。



 そして今頃になって、自分を娘と呼ぶ。



 シグレは大きく混乱し、動揺していた。



 母が死に、二人の父に捨てられ、孤独に生きざるを得なかった。



 各地を巡り、殺しの術を学び、非情に生きてきた。



 ツツジと出会って、自分の中で何かが変わった。



 そして今、二人の父から身内の情を受けている。



 何もかもが分からない。だが、今すぐツツジに会いたい。



「シグレ、悪いが今回の依頼は中止だ。下では護衛が殺到して来ている。俺もこんな所で死にたくないからな。」



 シグレは立てなかった。頭の中が真っ白になり、考えが追い付かない。



 腕と足が震え、マスクの中では雫が落ちていた。



「一つ貸しだ。」



 コバックスはシグレを肩に背負うと、窓の外へと飛び出した。



 シグレは揺れ動く肩の上から、窓際に立つゴンゾウを見た。



 やがて目は雫に曇り、その姿は徐々に遠のいていった。







                                                    【荒風の章 完】

       

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