Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
双月の章

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 月光を浴びながら、彼は左手に鍵を、右手に笏を持ち、深い谷の門を守護する。



 過去と未来。



 理と情。



 愛と憎悪。



 そして、始まりは訪れ、終わりがやってくる。



 永劫回帰の中、廻り続ける歯車はやがて錆びて朽ちる。



 現在も未来も過去と一緒くたになって、混沌としたマトリクスに堕ちる。



 ゆえに、前向きの貌と、後ろ向きの貌を持ちながら、彼は正面を見ようとしない。



 反転するのではないかという不穏さを漂わせながら、彼は変わらず境界に居続ける。



 まもなく月が隠れ、始まりが訪れる。



 彼の貌には狂気が息づき、そのときを待つ。

     

 生きる事の最大の障害は、期待を持つという事である。それは明日に依存して、今日を失う事になるからだ。また、過去を忘れ、現在を疎かにし、未来を恐れる者の生涯は短く、悩み事が多い。



 ゴンゾウにとって、現在とはただ凡庸に生きる時間ではなかった。



 己の身命の限りを尽くす場であり、己の意志を信じるまま遮二無二進む事だった。



 アライゲンジロウに取り立てられてからというものの、ゴンゾウは常にその右腕として働いた。時折、僻む者や羨む者から讒言を受ける事もあったが、アライはゴンゾウを重用し続けた。



 ゴンゾウはアライに対し悪い感情を抱いていなかった。それどころか、ある種の親近感を抱く事もあった。かつての自分であれば、一生その片腕として生きることを望んだかもしれない。だが、それは己の意志とは反するものとなっていた。



 千寿の王。イザヤにそう告げられたとき、ゴンゾウの魂は大地が鳴動するような感覚に襲われた。黒光りの千年の都を、真に生まれ変わらせる。父の果たせなかった夢を越え、その果てに崇高な王となる。



 その為に、アライは踏み越えるべき相手だった。



 言葉を失い、奴隷同然に人買いに連れてこられていた呂角を買い取ったとき、その時間は動き出した。天はゴンゾウに武運を与えた。



 そして、イザヤの予言に導かれるように、ゴンゾウはアライを抹殺した。

巷に流行する信仰宗教に対する方策を検討するという名目で、ゴンゾウは呂角を伴って玄龍会の本部に出向いた。



 騙し討ちのような手段であったが、最も犠牲の少ない方法だった。



 ゴンゾウは会長室に通されると、一番奥の椅子に座るアライと目が合った。



 いつもと変わらぬ威圧感を放ちながら、光る眼を向けてくるアライに、ゴンゾウは蟀谷の辺りに一滴の汗を垂らした。



「ゴンゾウ。お前らしくない手段に出たな。」



 一瞬にして見抜かれた。ゴンゾウは頭の後ろがざわざわと冷えてくる感覚に襲われた。



「狡猾であることを嘲るなら俺を罵るといい。天が俺を選んだだけの事だ。」



 アライは左腕を真横に上げると、十人ほどのアライの側近たちが一斉に銃を抜いた。



 その瞬間、呂角の大方天戟が一閃した。



 側近達の首は血しぶきと共に床に転がった。床や壁には血が飛び散り、一瞬にして凄惨な場となった。



 ゴンゾウはアライを見下ろしながら、その額に拳銃を突き付けていた。



 アライは微笑んでいた。まるでゴンゾウが自分の跡を継ぐ事を望んでいたかのように、その顔は満足げに見えた。



「アライゲンジロウ。お前の一睡の夢は此処に終わる。これより始まる我が闘争を、地獄より見ているがいい。」



「俺を殺すのだ。雄々しく生きろ、ゴンゾウ。」



 ゴンゾウは引き金を引いた。



 銃声と共に脳が弾け飛び、まるで糸が切れた人形のようにアライは倒れた。



 王の死。ゴンゾウは一瞬の感傷を覚えたが、それもすぐに冷めた。



 アライゲンジロウは千寿の王に相応しい男だった。



 だが今は自分が踏み越えた男に過ぎない。



「呂角、これよりは修羅の道となろう。俺と共に歩めるか?」



「御意。」



 呂角は血まみれの床に膝を付くと、拱手をしつつ深々と頭を垂れた。

     

 チヅルとシズカは千寿北東の暗黒に包まれたスラム街にいた。



 千寿の北には極貧層が居住する過密化した地区がある。



 日中ですら強盗や発砲事件が起こり、違法薬物も当たり前の様に取引されている。



 夜になれば薄暗い灯がぽつぽつと点在するのみで、千寿中心のビル街の路地とは比べ物にならない、暗黒のアンダーグラウンドだった。

 今夜、チヅルとシズカはサブロウよりある男を仕留める命を帯びていた。



 十年前、自分達の前に幾度となく立ち塞がった千寿の髑髏の怪人、コーポス。



 サブロウの話によれば騒乱の終息後、まもなくコーポスは殺害されており、今活動しているのは代替わりしている者であるという。



 だが、チヅルにとってはどうでも良い事だった。



 今回再びゴンゾウが動けば、またもやコーポスは敵として現れるのは間違いなかった。



 ゴンゾウや六文組にとって障害であれば、それを取り除く事が自分達の役目だった。



 龍門会の会合を襲ってからというもの、敵の間者を一晩で十人以上殺したこともある。



 第二次騒乱は既に始まっている。



 静かな暗闘が水面下で行われている此の状況が、やがて迎える大規模な騒乱への重要な布石となっていく事は、サブロウより前々から伝えられた事だった。



 数日前、元陸道組の経営していた自動車修理工場が襲撃され、潜伏していたゴンゾウは無事だったものの、呂角が手傷を負った。



 これは六文組の失態でもあり、自分の失態でもあった。



 だが、サブロウは六文組の新組長となった後、戦略設計や人事決定、物資管理などを一手に引き受け、その多忙さゆえジンパチからは、たびたび休みをとるよう諌められている。



 そんなサブロウの姿を見ているチヅルにとって、今回の失態に関して言い訳など言えるはずがなかった。



「姉様、お顔が強張っていますよ。」



 重苦しい表情をしているチヅルを励ますように、双子の妹のシズカがひょっこり顔を覗き込んできた。双子の姉妹ではあるが、顔も体型も性格も正反対だった。



 シズカは童顔で艶やかな上に闊達。反対に自分は有り顔で細身の上に狭量。



 まるで、同じ身体を持ちつつも前と後に顔を持ち、正反対を向くヤヌス神の様だった。



 十年前の騒乱の際に先代組長が亡くなってから、共に雪辱を晴らす事を誓い、鍛錬を続けてきた。



 今年で二十九歳となるが、人として、女としての幸福を望んだことは一度もない。



 六文組の為に雄々しく戦い、壮絶に死ぬ。



 同じ想いを抱きつつ、昨晩も二人で闇を駆け、敵の間者を幾人も殺めた。



 間者を見つけ出しては、その頭蓋を砕き、喉を斬る。



 日に日に多くなってゆく間者を全て始末する事は至難の業だが、必ず遂行せねばならない任務だった。



 だが、今夜の相手は此れまでの相手とは一味違う。



「すまないな、シズカ。決して気負っている訳ではない。」



「それなら良いんですけれど。最近の姉様、何かに対して酷く憂いている様に思えて。」



「心配ない。お前こそ、私の心配なんてしている暇はないぞ。今夜の相手は、あのコーポスだからな。」



 代替わりしているといえど、コーポスを名乗る者である以上、油断は出来ない相手だった。



 現に、此れまでの千寿の犯罪取締人の中では最も多くの犯罪者を刑務所へ送っている。



「姉様は一人で抱え込み過ぎます。私達は血を分けた双子の姉妹なのですから、苦労も分けさせてください。」



「ああ。私はいい妹を持ったよ、シズカ。」



 今までシズカの闊達さに救われた事は多い。



 シズカがいなければ、自分の失態が原因で先代会長が殺された事も、十年間にも及ぶ雌伏の時を耐え忍ぶ事も出来なかったかもしれない。



 血だけではない。まるで前世から続くような絆があるのかもしれない、とチヅルは思った。



 チヅルはネオンに照らされ、林立する高層ビル群を見た。



 もうまもなく、六文組の手の者達がコーポスを北へ誘い込み、この暗黒の世界にやってくる。この十年間の全てを試すのに、これ以上の相手はいない。



「シズカ、油断はするなよ。」



「姉様こそ、落ち着いてね。」



 もう春であるというのに、南西から流れてくる風は冷たく感じた。

     

 最初はただの窃盗犯だと思った。



 表の通りから一歩入った路地で、身なりの良い中年女性からバッグを奪った男二人を見たとき、ウツミは間髪入れずに一人を打ち倒した。



 千寿では珍しい事ではなかった。日々、たとえ日中であろうとも陰惨な事件は起こる。



 髑髏の犯罪取締人コーポスとなって以来、多くの犯罪者を相手に戦ってきた。



 そして、今回の彼らも何処にでもいる犯罪者達の一人に過ぎないと思った。



 だが、目の前を走る男の足は速かった。



 父から受け継いだコーポスの装備は軽く、動きやすい様に出来ていた。薄い防刃チョッキと、カスタムスチール高強度の手甲のみで、身体を束縛する者はない。そして自分もまた、自衛官時代は健脚として上官から評価された事もある。



 その自分が追い付けない。



 一歩も距離が詰まらないまま、右へ、左へと縦横無尽に駆ける男に翻弄されていた。



 ただの窃盗犯ではない。ウツミは本能的にそれを感じると、更に足を速めた。



 何処かへ誘き出されているのかもしれない事は、目の前の男を追う最中に感じた。



 だが、退くことも、諦めることも出来なかった。



 これ程の男を囮に使い、何者かが自分を誘い出して始末する事が目的であるならば、其れは父の死の謎を解く鍵となるかもしれない、とウツミは思った。



 千寿中央のビル群を抜け、どんどん北へ向かって行く。北に広がるのは千寿で最も危険な地区であり、たとえ髑髏の仮面を被った男が路上で死んでいようとも誰も気にとめないだろう。自分を誘き出して始末するのであれば、これ以上の場所はない。やがて、薄暗い灯が見えてきたとき、徐々に男との距離が縮まってきた。



 男は狭い路地に入ったとき、足が縺れ始めると同時に上半身が揺れ動き、徐々にスピードが落ちてきた。



 ウツミはその機を見逃さなかった。



 前方に跳躍すると、右手で男の襟首を掴み、その場に引きずり倒した。そして、左手で荒い息をしている男の襟を掴むと、右拳を振り上げた。



「誰の差し金だ!」



「お前は終わりだ、コーポス。此処で、無様に死ね。」



 ウツミが拳を振り下ろそうとした瞬間、男はにやっと笑うと、口からアーモンドに似た香りの息を吹きかけた。シアン化カリウム。ウツミはとっさに判断した。それはシアン化水素特有の特徴的な臭気だった。肺に入れば、臓器を壊死させる



 ウツミが飛びのいたとき、男は口から血の混じった泡を吹きだして意識を失った。



 首筋に手を当てると、男は既に事切れていた。逃げ切れないと判断して毒を飲んだのかもしれない、と思うと同時に、ウツミは嫌な予感がしていた。



 ただの犯罪組織の仕業ではない。これ程の男が命を捨ててまで自分を誘き出したのが何よりの証左

だった。まず思い当たるのは龍門会であったが、龍門会は数週間前に何者かの襲撃に遭い、幹部や組員を大勢殺されている。そんな時期に自分に構っている時間はない。



 信仰宗教絡みか、もしくは新たな犯罪組織か。



 ウツミが考えあぐねていたとき、何処から何者かの気配を感じた。



 恐らく、二人。こちらを見つめ、僅かな殺気を放っている。



 シグレやコバックスの物とは全く違う。



 まるで発する気を無理に覆い隠し、こちらを伺いながら間合いを取っている。



 ウツミは目を瞑ると感覚を研ぎ澄ました。一人は屋根の上。もう一人は、前方の闇の奥。

一人が仕掛け、もう一人が仕留める算段なのかもしれない。だが、相手の得物が分からない以上、少しの油断が死を招く。ウツミは半身に構えた。



 そのとき、前方より風を切る音が聞こえた。



 何かが自分に向けて放たれた。明らかに弾丸ではない。ウツミは瞬時に拳を握りしめると、手甲を下向きにし、肘のバネと手首の返しで素早く其れを打った。



 拳が当たった瞬間、指先から肘にかけて想像以上の衝撃が加わった。まるで分厚い鉄板を殴った時の様に、グローブ越しでも痺れるような痛みを感じた。



 ウツミが二、三歩と退いたとき、目の前にもう一つの影が下りてきた。



 予想の通りだった。ウツミは相手が得物を突き出すより前に懐へ踏み込むと、釣り手で、相手の右肩を掴み、背負い上げたまま引手で後方に投げ飛ばした。



 相手は短い悲鳴と共に地面に叩きつけられた。女の声だった。



 ウツミが振り向くと、それまで上空の雲に隠れていた月が出で、襲ってきた二人の姿が露わとなった。ボディースーツを来た二人組の女だった。一人は小ぶりの鎖鎌を持ち、もう一人の手には短刀が握られていた。



「流石だな、コーポス。私の放った分銅を拳で打ち砕き、シズカを投げ飛ばすとはな。」



 その声は、まるでシグレを連想させる様な冷徹さを孕んだものだった。



 二人共、人を殺し慣れている、いや慣れすぎると言ってもよい程の雰囲気を持っている、とウツミは思った。



「貴様は何者だ。なぜ、私を襲う。」



「私は六文組のチヅル。我らが主の為に、お前には死んでもらう。」



「六文組だと? お前達の主とは何者だ。」



 六文組。千寿の小さい組という印象だった。このところ動きが活発し、組員の中には腕利きの者もいるという話を聞いた事がある。



「話す必要はない!」



 チヅルは左手の鎌を真横に構えると、ウツミに向かって駆け出した。



「囲むぞ! シズカ!」



 チヅルの左から鎖が放たれ、ウツミの右腕に絡まった。



 利き腕を拘束され、引き抜こうにも巻き付いた鎖はビクともしない。背後から短刀を構えて駆けてくるシズカの足音が聞こえる。



 死ぬ訳にはいかない。一瞬頭の中にアリスの表情が見えたとき、ウツミは自ら身体を鎖に絡みに行くようにチヅルの懐目掛けて飛び込んだ。

     

「血迷ったか! コーポス!」



 ウツミの左肩に鎌が深く突き立てられ、血が飛び散った。後ろには短刀を振りかぶるシズカの気配を感じる。



「私は、死ぬ訳にはいかない。」



 ウツミは鎌を突き立てられた左肩に渾身の力を籠めてチヅルの右腕を掴むと、右足前裁きでチヅルを後方へ突き飛ばした。同士討ちを狙いつつ、後方の短刀を躱す為の行動だった。



 普段の自分であれば、こういった手段は取らなかった。だが、アリスの表情が走馬灯の様に頭を過ったとき、自然と身体が動いていた。



 そのとき、右腕に絡まった鎖が硬直し、不自然な振動を感じた。ウツミが振り向くと、チヅルの右目には短刀が一本突き立っていた。その目からは夥しいほどの血がした垂れ落ち、その身体はまるで痙攣した様に震えた。



 ウツミが左肩に刺さった鎌を引き抜くと、チヅルは甲高い絶叫を上げ、握りしめていた鎖鎌を放り投げ、右目を両手で抑えながら地面をのたうち回った。



「姉様! 姉様! ああ、私は何という事を!」



「落ち着け。今、手当をする。」



 ウツミは動揺しているシズカを一喝すると、レザージャケットの裏ポケットから厚手のガーゼと白布を取り出した。そしてチヅルの目から眼球ごと短刀を引き抜くと、目をガーゼで覆い、その上から布を縛り付けた。



「少し痛いぞ、耐えろ。」



 ウツミが布を結んだとき、チヅルは短い呻き声を上げた。



「コーポス、どうして姉様を。私達は貴方を殺そうとしたのに。」



「私は殺しをやらない。」



 暫くすると、チヅルは力が抜けたように仰向けになった。その左目は虚ろだった。だが、荒い息をしながらも口元は少し微笑んだように緩んだ。



「代替わりしても、変わらないんだな、お前は。」



「なぜ六文組は私を襲う。其れを教えてくれれば、私はこれ以上お前達に危害を加えない。」



「それは言えない。だが、お前が最悪の奴ではない事は分かった。」



 何かを誤解しているのかもしれない、とウツミは思った。



 チヅルとシズカと名乗った二人は恐るべき使い手なのは間違いない。先の男といい、これ程の者達が、自分を本気で殺しにきたのは何か重大な理由がある事は明白だったし、目の前の彼女は父の事を知っているようだった。



「であれば頼む、せめて先代のコーポスについて、知っている事を教えてくれ。」



 チヅルは僅かに頷き、シズカの方を向いて目配せをした。

だが、シズカがその口を開こうとしたとき、遠くから此方に向かって猛スピードで走ってくる車が見えた。



「姉様! 伏せて!」



 シズカがウツミとチヅルの前に仁王立ちになったとき、車の中から銃声が響いた。



 シズカの身体は一瞬硬直した様に震えると、腕を押さえながらその場にへたり込んだ。



「シズカ!」



 起き上がろうとするチヅルを抑えながら、ウツミもまた身体を伏せた。



 六文組ではない。龍門会か。



 ウツミが目を上げたとき、その車は目の前で急停止し、中から複数人の男が降りてきた。



 白いスーツに髪を短く束ねた中年の男と、サングラスを掛けた男達だった。



 意味あり気な笑みを浮かべた白スーツの男はコーポスを一瞥すると、シズカを部下らしき者達に担ぎ上げさせた。



「久しぶりだな、コーポス。いや、代替わりしているんだったな。俺の名はシゲノ・ライゾウ。お前とはじっくり話したいが、今日は時間が無い。」



「待て。その女性をどうするつもりだ?」



「この女には色々と聞きたい事があってな。少しの間、借りるぞ。」



 部下の男達は抵抗するシズカを無理やり車に押し込んでいるようだった。



 ウツミが駆け寄ろうと立ち上がったとき、ライゾウは懐から取り出した銃を向けた。



「お前を殺したくないんだ、コーポス。じっとしていろ。」



「断る。お前達はその女性を殺すつもりだろう。其れは断じて許さない。」



 ライゾウは笑みを浮かべると、ウツミではなくチヅルに銃口を向けた。



「お前が動けば、其処で頑張って起き上がろうとしている女を撃つ。其れでも良いのか?」



 ウツミはライゾウが冗談や脅しを言っているようには思えなかった。



 自分が動けば、目の前の男は間違いなくチヅルを撃つ。そして自分が動かなければ、シズカは殺される。



「コーポス! 私には構うな! シズカを助けてくれ!」



 チヅルが後方で悲痛な声を上げている。



 どうすればいい。途方に暮れた様に、ウツミは立ち尽くした。



「前のコーポスであれば、俺が銃を取り出す前に此の場を鎮圧しただろうな。」



 ライゾウはふっと笑うと、車に向かって歩き出した。その後ろには銃を構えた部下達が此方を伺っている。



 身体が動かない。まるで、父母を失い、コテツが殺され、シグレに殺されかけたときと同じだった。指一つ動かせず、頭は真っ白になっていた。



 そうしているうちに、車は走り出した。



 辺りにはチヅルの悲鳴にも似た叫び声が響いていた。

 

     

 コバックスと名乗る西洋人に担ぎ込まれたシグレの姿は痛々しいものだった。



 ワタリガラスを模したヘルメットを取ると、泣き腫らし、茫然とした表情をしたシグレの顔があった。衣服を脱がせて診察をするも、軽い打撲以外に外傷はなかった。



 コバックスは何時の間にか姿を消してしまっていたし、アカメに聞くもただ首を傾げるのみだった。



 担ぎ込まれてから四日、ツツジは途方に暮れていた。



 シグレは食事や水すら取らず、今夜も点滴を打ちながらベッドに横になっているのみだった。



 話しかけても一切反応せず、ただ、天井の虚空を見上げている。



 医者は身体を治せても、壊れた心を紡ぎ直すことは出来ない。



 二年前に診療所を開いて、暫く経ったある日、同じような症状の患者を診たことがある。



 三十手前の痩せた女性で、路上強盗に遭い、目の前で夫を殺されて心神喪失のまま運ばれてきた。腕の切り傷を治療するも、退院して一週間後に飛び降り自殺を図った。



 医者になってから、これほど虚しいことはない。



 何の為に医者は存在しているのか、何の為に自分は医者となったのか、ツツジ自身も暫くの間、気持ちが塞ぎ込んで仕事が手に付かなくなった。心を損傷したとき、それを治療できるのは当の本人でなければ難しい。他人が治せるとすれば、それは魔法であり、それを使える人間はこの世に存在しない。



 ツツジが点滴液の在庫を確かめようと立ち上がったとき、診療所の扉が開く音がした。



 入口の方向を向いたとき、ツツジはぎょっとした表情を浮かべた。



 扉の向こうから現れたのは、全身に襤褸布を纏い、異様な雰囲気を放つ者だった。



「し、死神じゃないだろうね。」



「イザヤと申します。迷える私の主人に、道を指し示すべく参りました。」



「シグレちゃんの知り合いかい? でも悪いけど、今は面会謝絶だよ。」



 ツツジは道を塞ぐ様にイザヤの前に立った。



 イザヤの言う主というのはシグレの事なのかもしれない、とツツジは直感的に感じた。しかし、そのいで立ちは余りにも妖しげではあるし、口調は穏やかだが、まるで畏まる様子がなさそうな言い方に思えた。



「左様ですか。では不躾ながら、此処より主に申します。」



 イザヤはゴホン、と喉を鳴らした。



「我が主に申し伝えます。貴女を造った主は、今こう言って慰めておられます。」







「恐れるな。私は貴女の命を買い戻したのだ。



 私は貴女の名を呼んだ。貴女は私のものだ。



 たとえ水の中をくぐり、大きな困難にぶつかっても、私は共にいる。



 悩みの川を渡るときも、溺れはしない。



 迫害の火の手が上がり、そこを通り抜けていくときも心配はない。



 炎は貴女を焼き殺さないから、恐れることはない。



 私は主、貴女の神、貴方の救い主。



 やがて、貴女を生かす為に他の者が犠牲になるだろう。



 貴女の命を買い戻すため、他の者の命と交換するだろう。



 私にとって、貴女は高価で尊いからだ。



 私は貴女を愛している



 恐れるな。私がついている。



 私は貴女を、私の栄光のために造った。



 貴女は私の僕だ。



 私を信じ、私だけが神であることを知るために、貴女は選ばれたのだ。



 私の他に神はいない。今までも、またこれからも。



 私が主であって、ほかに救い主はいない。



 わたしは力を示す。ただ一言で、貴女を救う。



 永遠から永遠まで、私は神である。



 私が何かをしようと身を起こすとき、その前に立ちはだかる者はだれもいない。



 見よ。私は世の終わりまで、いつも貴女と共にいる。」

     

 まるで音を奏でるように穏やかな口調で謡うイザヤに、ツツジは目を奪われていた。



 イザヤが何者であるのかは分からない。だが、この男は現世で生きる者とは離れた場所に存在しているような錯覚を感じさせられた。



 そのとき、背後からカーテンを開く音が聞こえた。



「イザヤか。折角来たところ悪いが、私はもう駄目だ。」



 ツツジが振り向くと、寝台の上に胡坐をかいたシグレがいた。それまで半死半生で臥せっていたとは思えないほど、口調はハッキリしている様に思えた。



「貴女にはまだ御役目があります。此処で立ち止まってはなりません。心身共に傷つき、生きるに耐え難い状況であろうとも、貴女を造った主は私を通して語られます。どんなどん底の状況でも、貴女は高価で尊いと無償の愛で呼びかけてくださるのです。」



「私はあのまま、糞尿に塗れたまま死んでも良かったのかもしれない、と思い始めている。」



「それはなりません。貴女はこの滑稽な、冷酷な物語を一刻も早く終わらせなくてはならないのです。其れはやがて、別の物語の始まりとなるでしょう。」



 シグレは思い詰めた顔のまま俯いた。



「イザヤよ、その物語とやらを終わらせるのは私でなくてはならないのか? 千寿にはコーポス、ライゾウやキム、ゴンゾウやその一派がいる。彼らがやがて、此の馬鹿げた騒乱を終わらせるのではないのか?」



「終わらせるでしょう。ですが、其れは千寿を覆う闇を更に深めていくだけであり、真の平穏とは程遠いものです。ワタリ・ゴンゾウ、彼は生きるも死ぬも己が道の上であり、とても万人を導いて行く事は出来ません。」



 イザヤの言っている事はツツジには理解出来なかった。だが、イザヤの言葉がシグレの心を少しずつ解きほぐし、重い呪縛から解放しようとしている様に思えた。



「なら、私はどうすればいい。」



「貴女が歩むのは、命を刈り取りつつ血しぶきの中を進む修羅の道。千寿に蔓延る闇に血の代償を支払わせて、千寿に新たな光を齎すのです。」



「其れが、私の道だというのか。」



 シグレは顔を上げた。その眼には、先程まで失われていた灯がともり、射るような眼差しをイザヤに向けていた。



「イザヤ、お前は最悪の奴だ。だが、理解した。私は、私の道を歩けばいい。それで良いのだろう?」



「仰る通りです。貴女がこれから為す事、得るべきはその中身でよいのです。貴女は、貴女であればよいのです。」



 シグレは寝台から降りると、コートを羽織った。



「ツツジ、面倒を掛けたな。私は退院だ。」



 シグレに話しかけられて、ツツジは我に返った。



 行かせたくない。きっとまた、ボロボロになって帰ってくるに違いない。



 それでも、ツツジは頷くしかなかった。それがシグレの道なのであって、誰も其れを拒む事は出来ない。



「シグレちゃん、退院おめでとう。だけど、アタシはいつでも待っているよ。アタシはアンタが好きだから、それに、愛しているから。いつでも、帰って来ていいからね。」



「ありがとう、ツツジ。座薬は勘弁して欲しいが、私は必ず戻ってくる。此処が、お前が大切な存在になったからな。」



 シグレはワタリガラスの装飾が施されたヘルメットを被ると、外の世界に向かって駆け出した。



 今宵ワタリガラスは、千年の都に舞い戻り、その羽根を再び羽ばたかせた。





                     【双月の章  完】

       

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