Neetel Inside ニートノベル
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SIGURE The 1st Opera
騒乱の章

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 偽りの救世主が地に降り立った。



 肌は赤く、髪は黒く、左目が潰れて、右目のみが瞬いている。



 地上に現れたとき彼は言った。



 我こそはお前達の主だ、と。



 四十日間地上を支配するが、その一日は一年にも一ヶ月にも感じられた。



 人々に偽の繁栄を齎し、信じさせた。



 人々は感覚が麻痺し、知覚と洞察力を失った。



 人々は注意を逸らされ、重要な事柄が見えなくなった。



 人々は感覚が死に、自分の置かれた悲惨な状況を見る事が出来なくなった。



 人々は自覚が欠如し、その状況がいかに苦痛と問題に満ちているか感じる事が出来ない。



 それらの営みを変えられるのは、驚くべき奇跡の力を持つ人物のみだった。



 天を破り、地を割るには、詩と歌による奇跡が必要となった。



 真の救世主の到来は、破壊によって齎される事となる。

     

 この世には、弱さを曝け出しながら生きる人々がいる。



 聡明さを敢えて愚で包む事を生きる術とした者達である。



 奇怪極まり、したたかで悲愴な生き物だと思った。



 イザヤに説かれるまで、自分はそれらを見ようともしなかった。



 イザヤの言が的を射ていた事は後になって分かった。



 呂角が重症を負い、イザヤが自分の元から去り、騒乱に敗れて投獄されてから其れを一層強く感じた。



 冷たい独房の中で、ゴンゾウは一人となっていた。



 打ちっぱなしのコンクリートに包まれた、六畳ほどの広さの部屋で、ゴンゾウは足を組み、目を閉じていた。



 無期懲役を言い渡されてから既に三月となったが、会いに来る者は誰一人としていない。



 当然の事だ、とゴンゾウは思った。



 自分は誰も顧みなかった。真に愛を注いだ妻は死に、もう一人の女性は行方が知れない。



 力によって立った者が力を失ったとき、それは破滅だった。



 だが、アライを殺し、千年の都の王となった頃を懐かしんでいる訳ではない。



 これは自分の征く道の一つである、と頑なに信じていた。



 此処で終わるはずはない。



 天意には確固たる信念はなく、ただ意思のみが存在し、自分がこの世に生まれ落ちた。



 それを天命といい、宿命と言う。



 何者をも恐れず、己が性のままに生きる、それが、ゴンゾウにとっての信念だった。



 ゴンゾウは目を閉じたまま、何者かが檻の外にいる事を感じた。



「お久しぶりにございます。」



「イザヤか。我を嘲りに来たのか?」



「お暇を頂いてから、丁度一年となります。」



 イザヤがどの様にしてこの場所に立っているのかは知れない。だが、その気と声は紛れもなくイザヤの物だった。



「くだらん詩歌など聞きたくない。去ね。」



「私は貴方の魂に導かれて来たのです。貴方はどこに居てもワタリ・ゴンゾウでいらっしゃる。決して己を見失う事がない。」



「俺の考えを見透かしたつもりか?」



 イザヤは何も話さなかった。静寂の中で、長い沈黙が流れた。



「イザヤよ、サブロウに伝えろ。コーポスを殺せ、と。」



「そして、私がその手伝いをするのですね。」



「お前は既に俺の従者ではない。だが、お前もまた闇に生きる者だ。報酬は払う。」



「私が力をお貸しするのは、今回で最後とお考えください。」



 ゴンゾウが目を開いたとき、イザヤの姿は無かった。



 天井の見上げると、虚空の中に一筋の光が見えた気がした。



 まるで彗星のように尾が伸び、其れはやがて独房の角、影の間に潜む影に消えていった。



「運命は我自身が決める。全ての神々にすら、変えはさせん。」



 ゴンゾウは立ち上がると、闇の中で吼えた。



 その雄叫びは地獄の業火の如く燃え盛り、全てを灰塵に帰すほどだった。

     

 隻眼の獣は、激情の意思に身を焦がさんばかりだった。



 共に産まれ、共に育った半身を失ったチヅルの慟哭は凄まじいものだった。



 六文組の事務所に、鉄槍で口から肛門にかけて串刺しとなったシズカの遺体が運び込まれたとき、チヅルは糸の切れた人形の様に、その場にへたり込んだ。



 目を刳り貫かれ、爪が剥がされ、皮膚には火傷の跡がびっしりと付けられていた。



 チヅルは血を吐かんばかりの発作をしたのち、眼球を失った右目に爪を突き入れ、掻きむしり始めた。慌ててサブロウとジンパチが取り押さえたが、時既に遅く、床には夥しい血だまりが出来ていた。



 数日後、サブロウは病室のチヅルを見舞った。ベッド横の椅子に腰を下ろすと、右目に眼帯を巻いたチヅルの顔をまじまじと見つめた。



「暫くは休め、チヅル。今の状態では、十分に働けんだろう。」



「最近は眠れません。敵の首を取り、その腸を食わねば気が済みません。」



 一瞬、その左眼から発した豪炎に、思わずサブロウはたじろいだ。



 自分はチヅルを子供の頃から見てきた。だが、目の前の者は、自分の知るチヅルではない。



 既に、人ではでない。その姿はまるで、人を喰らう羅刹に思えた。



「今のお前は死兵だ。死に場所を求めている。そんなお前に、与える任務があると思うか?」



「あります。そして、サブロウ様はそれを躊躇なさっています。ですが、ご心配には及びません。今の私であれば、誰よりも其れを完遂出来ます。」



 その通りだった。騒乱の日はもう間近となっている。そして死兵が必要だった。



 千寿警察署襲撃。開戦の一時間前に警察署を占拠し、都市網を麻痺させる。



 しかし、署内には有事に備えて大量の火器が存在している。汚職警官が多いとはいえ、死に物狂いの抵抗を受ける事は確実だった。本来であればソウジが行う任であったが、彼はもういない。



「チヅル、正直に言おう。俺やジンパチは、今回の騒乱で命を捨てるつもりでいる。だが、お前はまだ若い。六文組を継ぐ者達が必要なんだ。」



「私はこの十年、贖罪の機会を待っておりました。私の咎で先代組長が死に、共に雪辱を誓ったシズカが死にました。今、私は耐え難い苦痛を味わっています。」



 チヅルは燃え盛る炎の宿る左目は、サブロウを貫いた。同時に、チヅルとシズカの幼い頃からの記憶が、まるで走馬灯の様にサブロウの脳内を駆け巡った。



「サブロウ様、お願い致します。どうか、私に死に場所をお与え下さい。チヅルは必ずお役目を果たします。」



 サブロウは一瞬、目の前のチヅルに、幼い頃のチヅルと顔が重なった様に見えた。



 チヅルとシズカは自分を親の様に慕い、自分もまた子として育ててきた。武芸を教え、礼儀を躾けた。そして、立派に役目を果たせるまで育った。だが、シズカは死に、チヅルは死に場所を欲しいという。



 なんと心憂いことか。サブロウは襟元を正した。



「チヅル、命を下す。イシンらと共に千寿警察署を襲撃しろ。決して命を顧みるな。勇敢に戦い、雄々しく死ね。」



 サブロウの頬から水滴が落ちたのを見て、チヅルは何も言わずに微笑んだ。

     

 静かな夜だった。もうまもなく、運命の日へと変わる。


 キョウコは窓ガラスから夜空を見上げた。


 他の群星や北の赤い星、西の白い星はいつの間にか消え、天高く


 光り輝く星が、まるで月の様に地上を照らしていた。


 ゴンゾウが星について話し始めてから、いつしかキョウコも夜空を見る様になった。ゴンゾウにとって星とは、万物を表す表であり、天意を映す鏡であるらしい。


「キョウコ。シャンベルタンを。」


「前夜祭、といったものかしら。」


 キョウコはワインセラーを開けると、一本のワインを取り出した。シャンベルタンとは豊かな芳香と気品を備えた男性的な力強い味わいを持ち、ゴンゾウにとって何か特別な思い入れのあるワインだった。


「明日は初めて大衆の面前に立つ。今夜は酔いたくなるものだ。」


「まあ、貴方も緊張する事があるのですね。」


 傍らのグラスに注ぎながら、キョウコはふふっと笑った。


 明日は再臨の日。イザヤによれば、ゴンゾウが千寿の闇を照らす巨星となる運命の日。


 思い返せば、今までにゴンゾウは民衆の前に姿を現す事がなかった。闇に生きる者の一人として、千寿の裏社会を支配していた時でさえ、表の世界に出る事を酷く嫌った。


「でも、よろしいんですの? テレビ会社にまで取引を申し込むなんて。」


「構わん。明日、千寿の民は俺を知るのだ。その為ならば、何でも利用する。」


 果たして、千寿の人々はゴンゾウを受け入れるのか。明日はゴンゾウにとって今までのどの抗争よりも激しく、熱い闘いになる、とキョウコは思った。


「キョウコ、今夜はアグリッピナを頼む。」


「まあ、以前はあんなにお嫌いでしたのに。」


 アグリッピナはヘンデルの作曲したオペラ・セリアだった。ネロの母、アグリッピナがローマ皇帝のクラウディウスを没落させ、息子を皇帝に即位させる話を扱った作品で、ヘンデル作品では最高傑作とされている。だが、当時の政治を当てつけた反英雄的な風刺喜劇で、ゴンゾウは毛嫌いしていた。


「今の我には、この曲が最も適している、と思っただけだ。頼めるか?」


「貴方がお望みであれば。」


 キョウコは室内の奥に設置された舞台に上った。


 この場所は唯一の観客であるゴンゾウの為に歌う舞台であり、他の如何なる者も入る事を許されない二人だけの場所だった。


 キョウコは歌い始めた。


 若く美しいポッペアに群がる男を利用して陰謀を巡らすアグリッピナと、企みに気づいて巻き返そうとするポッペア。オーディオから流れてくる弾ける節奏、陶酔のメロディ。


 ゴンゾウは目を薄く開けながら、キョウコの声に聞き入っていた。

     

 まだ、署内の明かりは暗かった。蛍光灯の一つは消え、もう一つも薄く光っているのみだった。設備の者に文句を言っても、やはり中々変えようとはしない。手元の書類の文字を読んでいると、以前より目が疲れてくる。



 ここ一週間ほど、殺しの事件はめっきり減っていた。数か月前に龍門会の会合が襲撃されて以降、闇の勢力が活発化し、一日に一人以上の死体を見る日々だった。



 嵐の前の静けさというべきか。近いうちに、必ず大きな騒乱が起こるに違いない。もしくは、自分達が気付くのが遅すぎているだけで、既に始まっているのかもしれない。ウツミは目を擦りながら書類の文字を追っていた。



「おい、どうしたウツミ。陰気な顔をもっと暗くしやがって。」



「貴方こそ、前より顔の黄疸が酷くなったんじゃないですか、シマさん。」



「馬鹿を言うな。俺の肝臓は鋼で出来ているんだぜ。触ってみるか?」



「遠慮しますよ。此方の手まで酒臭くなりそうですし。」



 シマは、ふはっと笑うと、鞄からスキットルを取り出した。



「飲むにはまだ早いんじゃないですか?」



「こんな時だから飲むんだよ。運転するときは頼んだぜ。」



 スキットルを口に当て、ごくごく、と音を立てて飲むシマを見ていると、此方まで酔いたい気分になってくる。だが、昔のシマはこうではなかったらしい。



 早くに両親を失ってから懸命に努力を重ね、千寿署の刑事となった。当初は正義感に熱い警察官だったらしいが、ある事件を機に希望を失ったという。シマの話によれば、子供が被害者の事件だったらしいが、多くは語らなかった。



 シマはまるで熟れた柿の様な香りの息を吐くと、やや伏目がちにウツミを見た。



「なあウツミ、俺は最近、何か嫌な予感がして仕様がない。」



「同感です、シマさん。私は貴方が倒れて入院しないか心配です。」



「これは冗談じゃねえ。刑事としての勘だが、近いうちにとんでもない事が起こる。まるでパンパンに空気の詰まった風船が弾けるような、そんな事が突然起こるんじゃないか、ってな。」



「ここ一週間が余りにも静か過ぎる、という点で私も違和感を覚えます。もしくは――」



 もう始まっているのかもしれない、とウツミは言いかけて止めた。龍門会襲撃、六文組の刺客、ライゾウと名乗る男の言葉、全ての線がある一点へ収束していく様な、嫌な予感を禁じ得なかった。



 そのとき、ウツミは頭が真っ白になる感覚に襲われた。何か恐ろしい者達が、遠くから此方の動きを伺う様な鋭い気を感じた。これに似た感覚を、ウツミはコーポスとして嫌という程に味わってきた。だが、それらの比ではない。まるで狼の群れに襲われる羊となった感覚に陥った。



「お前も感じたのか? ウツミ。」



 ウツミが正面を見ると、顔面が蒼白となったシマがいた。先程までの火照った顔が嘘の様に、蟀谷の方まで血の気が引いていた。



「存外、早く来ましたね。それも、突然に。」



「奴さんら、思い切った事をしやがる。」



 ウツミはシマと目配せすると、机下から拳銃を二丁取り出した。



「五十口径のブローバックか。設備の連中、こんな所ばっかりに金使いやがって。蛍光灯を変えろってんだ。」



「武器庫に行く時間はありませんし、これで我慢してください。」



 シマがまた悪態をつこうとした時、轟音と共に床が揺れた。暫くすると、下の階から発砲音と共に、断末魔に似た悲鳴が聞こえてきた。ウツミは机を廊下に向けて倒すと、その陰に身を潜めた。



「爆薬まで使っていやがるのか。奴さん、本気で此処を潰すつもりだな。」



「下の階はもう駄目ですね。この階で食い止めるしかなさそうです。」



 スライドを引いたウツミを見て、シマは意を決したようにスキットルの口を開けると、ごくごく、と音を立てて一気に飲み干した。



「こんな時でも飲むんですか?」



「馬鹿野郎、こんな時だから飲むんじゃねえか。」



 ウツミは苦笑いを浮かべると、机の隙間から廊下を見た。



 誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえる。下の階はやはり鎮圧されたらしい。



 シマの言う通りだった。その日は唐突にやってくる。漫画やドラマの様な伏線など張る暇などなく、突如日常に降りかかる。それが幸福であろうと不幸であろうと躱しようがない。



 階段を上がって来た男を、シマが撃ち倒した。男はもんどり打って階段を転げ落ちていった。



「見ろ、酔っていても当たるもんだ。さあ、来やがれ。」



 シマがにっと笑った時、階段の向こう側から微かな音が聞こえた。

     

 それは、ぽん、という音だった。自衛官だった頃に聞いた事のある、空気が抜けたような乾いた音。ウツミの身体は反射的に動いていた。



「シマさん! 下がってください!」



 破裂音と共に凄まじい衝撃が起こった。机の破片と共にウツミの身体は弾き飛ばされ、背中を床に強く打った。



 擲弾発射器。低圧チャンバー内で急激に膨張したガスにより榴弾が発射され、壁や障害物に隠れている敵を制圧する為に使用される面制圧兵器。



 此方に向かってくる数人の足音が聞こえる。ウツミは腹這い伏せると拳銃を構えた。



 敵は本気で千寿署を潰す気でいる。軍用の兵器まで使用し、此処を襲う目的は何なのか。だが、今はそれを考えている暇はない。



 まずは部屋に突入した一人の腹部を撃ち抜いた。すぐさま起き上がると、廊下に向けて駆け出した。ウツミが机の残骸を飛び越えたとき、正面の敵と目が合った。敵は黒装束に身を包み、チヅルやシズカと同じ眼をしていた。目的の為ならば死を厭わない、鋭く、哀しい眼。敵が振り下ろしてくる刃物を避け、懐に潜り込み、鳩尾を肘で打った。敵の身体がぴくん、と僅かに痙攣する感覚がした。



 ウツミは崩れ落ちる敵の喉を掴んだまま、壁に叩きつけた。



「誰の差し金だ。」



 敵が何かを飲み込もうとしたが、ウツミは其れを叩き落した。



「シアン化カリウム。同じ手は二度効かない。さあ、誰の差し金だ。」



 掴む力を強めると、それまで手を振りほどこうとしていた敵の動きが弱弱しくなってきた。



「諦めて、名前を言え。すぐに楽になるぞ。」



「お前は糞野郎だ。無様に死ね。」



 六文組。ウツミの脳内に、毒を飲んだ健脚の男の死に顔が浮かんだ。



 敵の身体は糸が切れた様にふっと力が抜け、ウツミにもたれ掛かる形で崩れ落ちた。



 六文組の一人一人がまるで生を顧みない。其処まで彼らを動かせる物は何なのか。ウツミは身を返すと先程までいた部屋に向かった。シマを探さねばならない。



 室内はまるで暴風が来た様だった。扉は跡形もなく吹き飛ばされ、壁には黒く焦げた跡や、へこみがあった。床には破片が散乱し、一歩歩くごとに気を使った。ウツミが最も手前の机の残骸を持ち上げると、其処にシマはいた。床には血だまりができ、顔を覗き込むと、その眼に光は無く、虚空を見上げていた。身体を抱き起そうとしたとき、シマの下半身が失われている事に気付いた。欠損した腸が垂れ下がり、夥しい量の血が床に落ちた。



 善良な男だった。汚職警官だらけの場所で、彼だけは自分の正義を信じていた。ウツミは、幼い頃に両親が殺された後、慰める様に話しかけてきた警官が若い頃のシマである事に気付いていた。彼の本性は紛れもなく善だった。だが、人間はどう取り繕うとも残忍な生き物である事を知ってから、希望を失っていた。それでも、彼は自分と共に戦い続けた。



 ウツミは指でシマの瞼をそっと閉じると、部屋の外へ駆けた。



 シマは警察官として死んだ。それを無駄にする訳にはいかない。



 一階に繋がる階段を下りて行くと、途中で二人の敵が目に入った。いずれも黒装束を纏い、小銃を構え、此方を見据えている。引き金を引かれる前に、ウツミは跳んだ。空中で身を捻らせながら一回転したウツミに向かって無数の弾丸が飛んだが、数発が背中を掠めるのみだった。



 ウツミは空中で体勢を取りながら二人に向かって発砲した。一発が一人の右肩を、一発がもう一人の左足を撃ち抜いた。階段の足場で前回りに受け身を取った時、二人は既に小銃を落としていた。間髪入れずに両方の拳で二人の腹部を打つと、そのまま下へ転がる様に落ちて行った。



 弾丸は残り七発。幾人とも知れない敵を相手取るには、少々物足りない弾数だった。



 階段を下りたとき、硝煙と血の混じった匂いと共に、一階ホールの惨状が目に映った。床を見渡せば、至る所に大きな血だまりが出来ており、その上には警官や黒装束の者達の身体が無数に倒れている。数十分前に起こった凄まじい激戦を物語る様に、壁や天井には穴が幾つも空けられ、血の跡が残っている。ウツミが正面を見ると、ホールの中央付近に血に濡れた二人の姿が見えた。そのうち、一人は紛れもなくチヅルだった。右目に眼帯を巻き、手には鎖鎌を携えている。もう一人は口元を布で隠し、顔が見えない。



「警官がまだ生き残っていたのか。悪いが、私達と共に死んで貰う。」



「六文組がなぜ警察署を襲う。何が目的だ。」



 チヅルは口元を綻ばせると、鋭い眼光をウツミに向けた。



「その声、お前はコーポスだろう。こんな所で会うとは奇遇だな。」



「今の私はコーポスではない。動けば撃つ。」



 チヅルは、にやっと笑うと、羽織っている上着を脱いだ。



「私は死を恐れない。撃ってみるといい。」



 そのとき、ウツミは目を見開いた。チヅルの全身には、細長い赤い棒が十数本も括り付けられ、棒から細く伸びる導火線らしき紐の先には、オイルライターを握った手があった。もし本物の爆薬の類であれば、ホール内を爆風が襲い、建物自体も危うい。



「此処に来た六文組の者達の身体には、私と同様に爆薬を括り付けている者もいる。私が火を付ければ、この建物自体が吹き飛ぶだろう。」



 ウツミは背筋が凍る感覚に襲われた。指一つ動かせず、頭は真っ白になり、身体が動かない。父母を失い、コテツが殺され、シグレに殺されかけ、シズカを救えなかったときと同じだった。己の恐怖心、強い不安に向き合うとき、身体を思う様に動かせなくなる。



 だが、必ず、生きて帰る。アリスの姿が頭に浮かんだ。



 そのとき、ウツミの身体は前方の出入り口に向けて走り出していた。



 本能的に身体が動く。



 死ぬ訳にはいかない。



 一歩を踏み出すごとに、周りがまるでスローモーションの様に映った。



 チヅルがオイルライターを点けた。



 もう一人の敵が此方に向けて銃を向け、引き金を引いた。



 構うものか。アリスと、共に生きたい。



 風を切る音。弾丸はウツミの耳を掠めた。



 相手がもう一度引き金を引こうとしているのを見たとき、ウツミは宙へ跳んでいた。



 人間はこれほど高く跳べるのか。



 二人を跳び越え、地面に降りたとき、正面の出入り口に向かって駆けた。



 もう目の前を防ぐ者はいない。一直線に、一目散に駆けた。



 出入り口まで二十歩、十歩。



 駆けろ、駆けよ、駆け抜けろ。



 そのとき、後方から凄まじい衝撃が背に加わった。



 弾き出されるように、出入り口の外まで吹き飛ばされた。

     

 千寿に生きる者全てが、呼吸を止めた。



 まるでヤハウェの裁きによる滅びが一夜に起きたかのようだった。



 淫ら行いに耽り、不自然な肉の欲の満足を追い求めた者達が、永遠の火の刑罰を受けた。



 狂乱の騒ぎの中で、ライゾウは目を覚ました。



 地が轟音と共に大きく揺れ、地下にまで陸の狂騒が聞こえる。



 慌てて外に出た時、目を疑う光景が其処にはあった。



 千寿中央に聳え立つ高層ビル群が紅蓮の炎に包まれ、黒煙と共に崩れ落ちていく。



 千寿の何処からでも見れるシンボルタワーは焼け落ち、大小の瓦礫が飛び散った。



 目の前に広がる焔は、かつて千年の栄華を誇った都の中心地を焼いている。



「ライゾウ様!」



 振り返ると、息を切らしたアカメが立っていた。



「アカメ、何が起こっている。これは夢か、幻か。」



「目を疑う光景ですが、現実です。強い風が東に向かって吹いていますが、万が一に備えて避難を。」



 アカメに背中を押され、ライゾウは漸く足を前に動かした。



 ただの火災ではない事は分かっている。紛れもなく、あの男が関わっている。だが、その目的も、動機も分からない。千寿で生まれ、千寿に育ち、千寿の王となった男が、自らの都に火を放った意味は何か。



 通りを抜けたとき、ライゾウの足がとまった。一瞬、恐ろしい予感が頭に去来した。



「俺の考えが甘かったのかもしれんな、アカメ。全ての闇を消し去る、そんな事が出来るはずがないと思っていた。だが、奴は――」



 ライゾウは振り向くと、地上の火に照らされた天に、黒雲が渦巻いていた。



 まもなくこの炎は消える。だが、千寿には豪奢な戦火が点けられた。



 焔の向こうから、唄が聞こえてくる。







 ああ、罪深い国、不義を負う民、悪をなす者の末、堕落せる子らよ。



 彼らは主を捨て、聖者をあなどり、これを疎んじ、遠ざかった。



 あなた方は、どうして重ね重ね背いて、なおも打たれようとするのか。



 その頭はことごとく病み、その心は全く弱り果てている。



 足の裏から頭まで、完全な所がなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。



 これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもって和らげるものもない。



 かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。



 昔は公平で満ち、正義がその内に宿っていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった。



 あなたの銀は塵となり、あなたの葡萄酒は水をまじえ、 あなたの司達は背いて、盗人の仲間となり、皆、賄賂を好み、贈り物を追い求め、孤児を正しく守らず、寡婦の訴えは彼らに届かない。

あなた方の国は荒れ廃れ、町々は火で焼かれ、田畑の物はあなた方の前で異国人に食われ、滅ぼされたソドムのように荒れる。



 あなた方ソドムの司達よ、主の言葉を聞け。



 あなた方ゴモラの民よ、我々の神の教に耳を傾けよ。



 あなた方の手は血まみれである。



 あなた方は身を洗って、清くなり、わたしの目の前から悪を行う事を止め、善を行う事を倣い、公平を求め、虐げる者を戒め、孤児を正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。

     

 今まさに千年の都が希望と光の冠を戴くときだった。崇高な眉目の上に、敬愛と賞賛を浴びながら、再び王冠は戴かれる事となった。自由を勝ち取る平等の精神は、王国を永く、平和に治める。自由を勝ち取り、真理を保ち、王国は真に平穏となる。希望と栄光の王国は自由の母に包まれ、民に安らぎを与え、広く、より広く光は広がっていく。王の名声もまた大海原と同じ位に広まり、その賞賛を気にかけない勇気、厳格で静かな勇気は、夢で満足するような偽りの喜びではなく、真の喜びを民に与えていく。



 壇上に立った、かつての千年の都の王は、立ち並ぶカメラの前で静かに話し始めた。







「まずは、一昨日の火災で被害に遭われた方たちに、哀悼の意を表します。忌まわしく、痛ましい事件でした。炎は千寿の三分の一を焼き、多くの人々の命を奪いました。親しい友人や、愛する者を失った悲しみは、消える事はありません。ですが、人間はそれを乗り越え、再び立ち上がる事が出来ます。希望を捨ててはいけません。胸に勇気を秘め、明日を生きる精神を保たねばなりません。私もまた、悲しみを堪え、今日まで生きてきました。私の父は高潔な人間でした。叩き伏せられ、傷を負ってもなお、諦めずに立ち上がる精神を持っていました。ですが、私が十歳の頃、父は死にました。貧乏な家庭に生まれ、職工として生きてきた父は、千寿を良くするべく市長選挙に立候補しましたが、闇に生きる者達に命を奪われました。

 そして、今回もまた、闇に生きる者達によって、千寿は破壊されました。一昨日に起きた火災は、それらの者達によって行われた事なのです。実行犯はイイダ・スイレンという殺し屋で、千寿を牛耳る土地買収マフィア、龍門会の雇った者です。防犯カメラには、その者が建物に不法に侵入していくが映されています。龍門会は、今回の火災に乗じて、千寿の土地を買収していく事が目的なのです。」

 王は静かに息を吐いた。

「私の名はワタリ・ゴンゾウ。かつては私も闇の勢力として悪事を働いてきました。そして、十年間投獄されました。私は罪を償っている期間に、高潔だった亡き父を思い出し、自分を深く恥じました。そして、父の言葉が私を変えたのです。市長選に立候補を決めた父が、私にかけた言葉です。

父は、誰かが行動を始めなければならない。誰かが其の礎にならなくてはいけない。たとえ捨て石となろうとも、私はそれを成し遂げたい、と。

 私は父の精神を受け継ごうと考えました。例え父と同じ末路を辿ろうとも、千寿を良くする努力を惜しみません。そして、私は闇に生きる者達を憎みます。彼らによって市民は命を脅かされ、貧しくなり、千寿に生きる十分の一は職を転々とし、粗末な暮らしをせざるを得なく、一部は危険な路上で住む事を余儀なくされています。行政は闇の勢力と手を結び、彼らを救おうともしない。よって、民衆の信頼は揺らぎ、全ての希望と自信を失っています。このような状況の中で、千寿は少しずつ崩壊への道を歩みつつあります。闇の勢力は千寿の全てを破壊しました。そして今、ようやく彼ら自身を破壊するときが来たのです。大事な事は、彼らに同調するのではなく、彼らと戦い、千寿を崩壊する危機から守る事なのです。従って、いま存在する闇の勢力を消滅させることが、我々の責務であるのです。彼らはこれまで、千寿の発展は自分達の功績であると説き、市民を洗脳させてきました。ですが、それは誤りです。彼らは市民から財産を搾取し、市民の生活の崩壊を招いています。千寿が崩壊の危機に瀕しているという状況の中にあって、行政もそれに対応ができていない今日において、立ち上がるべきは我々なのです。重要なのは、悪を打ち倒すべく、我々が共有している理念や価値観なのです。共に団結し、苦しみを共にすることだけが、千寿の明るい未来への唯一の道であり、さもなくば、絶望しかありません。我々の堅い団結によって、行動を共にする他の者への尊敬や労りの念も育まれ、お互いへの理解も深まっていきます。この様に育まれてきた精神により、我々全員が共に前進をするべきなのです。全ての市民が、同じ目的に向かい、運命を共にできる共同体をもう一度この千寿に誕生させる事こそが私の願いです。私はこの共同体を信じています。私はこの共同体のために戦います。そして必要であれば、私はこの共同体を守るため、魂をこの共同体に捧げる覚悟もあります。

 もし責務を全うすることができれば、その努力により、誇り高き自由な千寿を取り戻すことがいつの日か必ずできるはずです。そんな未来の実現のために、私と共に立ち上がり、悪しき者達に対して、毅然と戦おうではありませんか!」



 王は話し終えると、壇上から去っていった。







                      【騒乱の章 完】

       

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