Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
乱骸の章

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墓石の上で、踵で拍子を取りながら、真夜中に骸骨が舞踏の調べを奏でた。



冬の風は吹きすさび、夜は深い。



菩提樹から漏れる呻き声。



青白い骸骨が闇から舞い出で、屍衣を纏いて跳ね回る。



魂が現世に彷徨い続け、悪霊化するのを防ぐ為に、人を冥府へと導いていく。



大鎌を振り回しながら、クルクルと死の舞踏を舞う



その鎌を振り上げて、魂を獲っていく。



鎌から逃れるためには、他者の魂を捧げなければならない



ふと風向きが変わったとき、突然踊りは止んだ。



暁を告げる鶏が鳴いたのだ。

     

 民衆は至高の力による運命を信じた。それが良きものでも 悪しきものでも、歩みを導こうとする存在を信じた。たとえ、其れが誤った道に迷わせるものであっても、この人間の存在による力を信じた。



 自由と愛を勝ち取る為にそれぞれが武器を取り、兵士となった。誰もが命の中で、運命を形成する音を聞いた。美しく、理想的で、神々しい、まるで詩のような音が語り掛けてきた。



 熱烈な声で語りかけた一人の見知らぬ男は、その言葉で民衆の魂は震えさせた。



 涙と血に塗れた千年の都で、民衆は光の旗を掲げた。闇に生きる者達に襲い掛かり、皆で鋭い爪を突き立てた。初めの数人が武器を振り下ろすと、大勢が熱狂し始めた。闇の者達の断末魔は、光の旗には届かなかった。名誉すら残さず嬲られ、殺されていく。



 そんな喧噪の中で、全身に傷を負い、白日の下に晒され、藻掻く男がいた。傘持ち時代から何度も苦汁を舐め続けながら、今では千寿で最も大きなマフィアを牛耳る存在となった男だった。



「龍門会を潰せ! キム・ジュオンを血祭にあげろ!」



 背後から怒号を上げて追い縋る群衆から逃れようと、キムは走った。



 なぜ、こうなった。



 部下は全員殺された。彼らは手練れの精鋭達だった。だが、まるで大勢のハイエナが一匹の獲物に食らいつく様に、鉈を持った群衆に囲まれ、成す術なく斬り刻まれた。



 ゴンゾウがテレビ演説をしてまもなく、龍門会やその傘下にある組の拠点に、狂った様に叫ぶ人々が押しかけてきた。弁明をしようにも、群衆の怒りは収まらなかった。治安を守る警察も、既に存在しない。消える事のない巨大な怒りの炎が、瞬く間に千寿の闇を飲み込んでいった。



 逃げ惑うキムの脳内には、走馬灯の様に過去の自分が映っていた。



 二十三歳で玄龍会に入り、中堅組員の傘持ちから始まった。一日に三度は足蹴にされ、頬が腫れるまで叩かれた。身体ばかり大きく役に立たない上に、顔が緩んでいるように見える為だった。大した役目も与えられず、自分より年下の者達が出世していく様子を見ているしかなかった。立身出世を夢見て二十年間、傘持ちを務めてきた。



 そんなとき、遂に大きな転機が訪れた。



 当時、龍門会会長だった男が、千寿近郊の土地使用権売買を自分に任せたのだ。



 当初は僅かな範囲だったが、必死に仕事を務めた。傘持ち時代から作ってきたコネクションを最大限に活かし、想定していた額の倍以上の利益を上げた。それまでの功績を認められ、主要な取引を任される頃には、龍門会における自分の立場は揺るぎないものとなっていた。



 会長を殺し、ナカムラを蹴落としたのちは、次期会長として権勢を振るうつもりでいた。

それにも拘わらず、今の自分は暴徒と化した群衆に追われる立場にある。



 なぜ、こうなった。



 キムが角を曲がろうとしたとき、突然、襟首を掴まれてその場に引き倒された。



 目の前には、眼に怒りの炎を灯し、勝ち誇った様に此方を見詰める人々がいた。



 誰か助けてくれ!



 助けを呼ぼうとするも、舌が震え、息を吐けず、ぱくぱくと口を動かす事しかできない。



 シグレはいないか! 金は言い値を払う。助けてくれ!



 声の出せない自分をあざ笑う様に、人々は鉄パイプや棍棒を振り上げた。



「助けてくれ!」



 ようやく声が出た。



 その瞬間、人々は武器を振り下ろした。



 瞬く間に視界が赤く染まり、キムの時間は止まった。

     

 お互いに素顔を晒さないという条件で、彼女と向かい合った。マスク越しにも香る甘い匂いに包まれた部屋の中で、机を挟んだ対角線上に彼女はいた。



 顔に歪な鳥のマスクを被り、黒いロングコートのポケットに手を入れた彼女は、今にも得物の短槍を抜かんばかりに、静かな殺気を放っている。



 この距離で短槍を突き出されれば、間違いなく命はない。肌が泡立つほどの緊張感の中で、彼女と対峙していた。



「ライゾウ、早く仕事の話をしろ。私が殺意を抑えている間にな。」



「今は貴重な味方だぞ、シグレ。なあ、コーポス。」



 ライゾウは此方をちらっと見つつ、口元を綻ばせた。



 数時間前、自分はリビングでニュースを見ていた。暴徒と化した民衆を静止する方法を考えながら、アリスと朝食をとっている最中だった。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。警戒しながら扉を開けると、目の前にはライゾウが立っていた。そして、今すぐコーポスとして、レ・マグネシアに来る様に言われた。



 拒否権はなかった。万が一断れば、アリスの身に危険が及ぶかもしれない。



 心配そうに此方を見つめるアリスの姿を背に、ライゾウの車に乗り込んだ。やがて店に着くと怪しげな地下室に通された。



 部屋に入ったとき、目に映ったのはソファーに腰掛けるシグレの姿だった。



 ライゾウは、思わず身構えた自分の肩をぽんと叩くと、シグレの対角線上に座る様に促した。



 改めて向かい合ったとき、生きている心地がしなかった。



 長いテーブルを挟んで、今にも殺しの間が起きようとしていた。



「お前達の味方になったつもりはない。私はただ、市民と秩序を守りたいだけだ。」



「それは俺も同じだ。千寿には光と闇が存在し、絶妙な均衡を保ちながら秩序があった。だが、あの火災を機に、全てが変わった。」



 ライゾウは咥えていた葉巻を灰皿の上に置くと、すうっと甘い香りの煙を吐いた。



「龍門会という大木が倒れ、残る闇の勢力もまた駆逐されようとしている。このままでは、闇に生きてきた俺達もお終いだ。だからこそ、手を組む必要がある。それに、お前は六文組に借りがあるんじゃないのか? コーポス。」



「借りはある。しかし、六文組もまた闇の勢力ではないのか?」



「奴らはゴンゾウの庇護にある。それに、今回の暴動を扇動したのは六文組だという噂もある。」



 六文組が敵であるとすれば厄介だった。彼らは任務の為であれば、自らの命を惜しまない。



 ライゾウはこほん、と咳を鳴らすと、テーブルの上に大きな地図を広げた。



 それは、千寿の複雑に入り組んだ路地や地下の水路が描かれた地図だった。ライゾウはその地図の上に、一つずつ駒やピンを乗せていく。



「青いピンが残った闇の勢力だ。随分と少なくなったろう?」



 暴動が起きる以前を思い返すと、その数は明らかに少なくなっていた。



 この一週間で、千寿を支配していた幾つもの組織が市民によって駆逐された。



 彼らは護るべき存在だった。だが、今は千寿に巣食う闇を晴らそうと武器を取った戦士となっていた。



「まずはゴンゾウの手足たる六文組を潰す。場所はアカメが掴んだ。シグレ、コーポス、頼めるか?」



「私は嫌だ。」



 シグレはマスクを取ると、灰皿の上にあった葉巻を口に咥えた。



 シグレの素顔を見たとき、思わず息を飲んだ。絹のような長い黒髪に、きりっと整った目鼻立ちに、何者をも寄せ付けない気の強さを感じさせる瞳。年齢はアリスとさほど変わらない様に思えた。



「そう我儘を言うな、シグレ。お前も、ゴンゾウや呂角に借りがあるのだろう?」



「奴らにはあるが、六文組にはない。それに、私はこいつと仕事をするなんて嫌だ。」



 ライゾウはやれやれといった表情を浮かべると、コーポスに目配せをした。



 その目は、頼めるか? と言った様に思えた。



「分かった。そこの我儘な小娘の為に、私が一人で行く。それで良いな? ライゾウ。」



「それでこそ、千寿のコーポスだ。頼んだぞ、二代目。」



 ライゾウは満足気に頷くと、此方に向かって片手を差し出してきた。



 二代目。そう言われたとき、一瞬父の姿がぼんやりと頭に過った。



 自分は、自分であれば良い。アリスに諭されてから、父の姿が段々と遠くに感じていた。コーポスは、もう父の影ではない。二代目として、ウツミ・タクヤのコーポスとして自立し、生きる。



 ライゾウと手を握り合ったのち、顔を真っ赤にしたシグレに背を向けて部屋を出た。

     

 可哀想な人達は、もういない。



 千寿全てが、まるで祭りの様に活気づき、人を一人斬ったとて、渇きは癒えない。



「もう他の町に行こうかな。」



 ソウジは曇天の下、ビルの屋上で大の字になって空を見上げていた。



 風に混じって吹いてくる血の香りに浸るのは悪くなかった。だが、匂いで腹は満たせない。



「お腹が空いたね、虎眼丸」



 古の鬼が使っていたとされる妖刀から、鞘越しにも分かるほどの強い霊気が滲み出してきた。



 千寿で産まれ、千寿で生きてきたソウジにとって、闇と血と哀しみに包まれたこの都市は大いに魅力的な場所だった。



 だが、それも既に終わろうとしている。



 光に包まれた秩序の中で、自分は生きられない。



「最後に一人か、二人、斬って何処かに行こうかな。」



 千寿で最も斬り甲斐のある人物は誰か。



 ソウジは懐から、かつてサブロウに渡された紙の束を取り出した。



 それは、六文組が抹殺すべき人物の名前を載せたリストだった。



 改めて読んでみると、やたらと小者が多く目につく。



 大者は呂角が悉く始末してしまっていた。



 今も生きていて、かつ斬り甲斐のありそうな敵と言えば、ライゾウ、コーポス、シグレ。



「違う。つまらない。」



 ソウジはリストを投げ捨てると、天を仰いだ。



 空腹と喉の渇きは限界にきている。御猪口一杯の血を何杯飲もうとも、腹は満たされない。



 大杯に目一杯に注いだ血でなければ、自分も虎眼丸も渇きを癒す事は出来ない。



「斬り甲斐のありそうな人は――」



 居た。ソウジは目を見開いた。



 どうして、今まで気が付かなかったのか。



 千寿を紅蓮の業火に包み、狂乱の祭りを仕立て上げた張本人。



「ワタリ・ゴンゾウ。」



 こうして名前を口に出してみると、なんと甘美な響きがするのだろう。



 何者をも恐れない絶対的な王を嬲り、辱め、殺す。



 あの厳かで精悍な顔を血に染め、血泡を舐めとり、舌を絡める。



 生きたまま皮を剥ぎ、局部を切り取り、苦痛と惨めな思いをさせながら長い時間をかけて死に至らせる。そして、流した大量の血で全身を化粧する。



 想像するほどに肌が泡立ち、気分が高揚し、股座がいきり立つ。



「ワタリ・ゴンゾウ。」



 ソウジは、もう一度名前を呼んだ。



 この都市はその名前に染まった。千寿は、既に彼の物。



 千寿を去るに、これほど斬り甲斐のある相手がいようか。



 ソウジは立ち上がると、虎眼丸を取った。



 まずは彼を探さねばならない。



 彼は血塗れの王。黄金の玉座にいようが、長年の血の匂いはそう簡単に消えはしない。



 血の匂いを嗅ぎながら、風向きに従って歩き出した。

     

 シズカが拷問で死に、ソウジは行方が知れない。チヅルとイシンは役目を全うして死んだ。そのほか、六文組の再起を誓った大勢の組員が死んだ。



 そして、自分とジンパチが残った。



 死人が出る度にゴンゾウ傘下の組から人数が補充され、数自体は変わっていないものの、士気の低さが目につく。しかし何より、六文組の未来を担うはずだった若い者達が命を散らし、先の短い自分達が生きている事が、身を裂かれる様に甚い。



 新組長となってから戦略設計や人事決定、物資管理などに忙殺されていた。だが、休んではいられなかった。机に座っている間、今までに命を散らした者達の顔が頭に浮かんだ。日に日にそれらが多くなり、自分を突き動かす。



 止まるな。彼らの分まで戦え。



 自分に言い聞かせる度に、沸々と闘志が沸き上がってくる。



 ジンパチには窶れたと言われたが、内なる炎の勢いは強く滾っている。



「サブロウよ、茶を煎れてきたぞ。あと、羊羹も。」



 サブロウが顔を上げると、白い髭を伸ばしたジンパチが顔を綻ばせていた。



「すまない。あと一枚を書き終えたら食べる。」



「お主の一枚は百枚だからのう。」



 ジンパチは椅子に腰を下ろすと、湯気の立っている煎れ立ての緑茶に口を付けた。



「そちらはどうだ? ジンパチ。連中は物になりそうか?」



「いや、奴らは身体ばかり大きくて使い物にならんわい。すっかり勝ち馬に乗ったつもりで浮かれておる。」



「浮かれている、か。死んでいった者達が見たら怒るだろうな。」



 自分もまた怒っている。



 新しく入って来た者達だけではない。自分に対しても、大切な者達の犠牲の上に成り立つ現在の六文組に対しても、やり場のない忸怩さを感じている。



「なあジンパチ、本当にこれで良かったのだろうか。死んだ先代や、チヅルやシズカの様に命を投げ出した組員達は、本当に今の六文組を望んでいたのか?」



「わしにも分からん。だが、死んだ者が冥府より戻る事はない。奴らが投げ出した命を、無駄にする事だけはしてはならん。」



「分かっている。それでも、俺は時折聞こえるのだ。雌伏して時の至るを待ち、遂に命を燃やし尽くした彼らの声が、意志が。」



「わしらは失くし過ぎたのだ。今は休め、サブロウ。」



 ジンパチは眉を顰めると、諭す様な目線を向けてきた。



 危うい、と思っているのかもしれない。



 確かに多くを失くした。新組長として自分を顧みず働いたつもりだった。だが、後ろを振り返れば、付いてきた者達は死に、自分は生き残り、今の六文組がある。



「そうだな、少し休む。また一から始めよう。」



「うむ、六文組はまだ残っておる。お主の戦いの先は、まだまだ長い。」



 ジンパチは満足げに頷いた。

     

 深夜、何も言わずに家を出た。



 夕食の焦げたチキンステーキを食べながら、レ・マグネシアであった事をそのままに伝えたとき、アリスは珍しく狼狽した。これまでになく危険である事を直感的に感じたのか、初めて自分を引き留めた。



 それでも行く、と告げた自分に向かって、アリスは静かに語りかけた。



「私はパパと出会う前、実家を飛び出してから、色々な男性と関係を持ちながら、家を転々としたわ。そんなあるとき、ニイミという名前の男と関係を持ったの。彼はお金持ちの紳士で、魅力的な男性だった。けれど、彼はサディストだった。公には見せない裏の顔を、彼は持っていた。心も、身体も傷つけられて、私は彼の家から逃げた。それから、私は男性の裏の顔が怖くなって、セックスにも自暴自棄になって、何もかも拒絶しながら駄目になっていった。そんなとき、パパと出会ったの。パパとの家族ごっこは楽しかった。けれど、あるとき私がパパに対する気持ちに気付いたとき、ニイミとの記憶を思い出して、パパを拒絶して、また家を出た。母達に捕らえられて、レイプされかけたとき、目の前にコーポスが現れた。パパの裏の顔は、私を心の牢獄から解き放ってくれた。そのとき、私は感じたの。私は導かれて此処に来たんだなって。」



 アリスはテーブルの上にある赤い髑髏の面を取って、自分に差し出した。



「ウツミ・タクヤの、魂に。だから、必ず生きて帰って来て。」



 アリスの目から流れる一筋の雫を指で掬うと、自分は彼女を抱き寄せた。



「アリス、聞かせてくれないか? 君の本当の名を。」



「私の名前は、アイハラ・サキ。かつて、私はこの名前が嫌いだった。けれど、今は貴方に呼んで欲しいの。今なら、きっと自分を受け容れられる気がするから。」



「何度も呼ぶさ。サキ、サキ、私は君を愛し続ける。」



 神に誓った。彼女を、永久に幸せにする。



 どのような運命が待っていようとも、その愛を離さない。死に至るまで、サキを護る。



 ウツミ・タクヤのコーポスとして、生きる道を指し示してくれた彼女と、共に生きる。



 その晩、自分は寝静まったサキの頬に口付けをし、家を出た。



 深夜でありながら、千寿中央の方角からは叫び声が聞こえる。



 アカメから渡された地図によれば、六文組が潜伏している場所は千寿の南端、かつて陸道組があった場所だった。今では組をたたんで、自動車修理工場を経営している。以前は其処にゴンゾウや呂角も潜伏していたらしい。工場内の図面を見ると、曲がりくねった小さな通路や、行き止まりも多く、まるで迷路の様だった。



 だが、図面には建物への侵入経路が記載されていた。アカメが事前に建物を囲むコンクリートブロックの一箇所を破壊し、未だその修繕は終わっていないという。其処から侵入し、警備の少なそうな裏の勝手口から建物内に入る。そこから先は道を指し示すものは書かれていない。あとは任せる、という大雑把な指示なのだろう。



 だが、不思議と不安を感じなかった。アイハラ・サキの存在が、自分を強くしたのかもしれない。



 遠くから聞こえてくる喧噪を背に、南へ向けて駆けた。

     

 研ぎ澄まされた静寂を斬る刃は、日に日に鋭さを増していった。



 月は隠れ、暗闇の部屋でジンパチは刀を振った。



 かつては六文組にその人ありと恐れられたジンパチだったが、第一次騒乱の数年前に前線を退き、次代の組員を育成する立場にあった。当初は説教が古臭いと若い組員に煙たがられる事もあったが、粘り強く接するうちに、徐々にその精神や剣技、数々の武勇伝は若者の羨望の的となっていった。



 だが、肉体の衰えは隠せなかった。身体は硬くなり、頭で思い描く通りに動く事が難しくなった。座している間にも身体中から気が漏れ始め、刀を取る機会も減っていった。死に近づいていく心境に至ったとき、第一次騒乱が起こった。竹馬の友であった先代組長が落命し、雌伏の十年を過ごしている間、ジンパチは再び刀をとった。



 久々に振る刃の音は鈍く、全盛期の其れと比べると、まるで見る影もなかった。それでも、ジンパチは刀を振った。傍らで訓練に励む若い組員達を見て、再びジンパチの心火が灯された。先代組長を失い、意気を消沈させている暇などなかった。年齢は七十を過ぎ、髪や髭は白くなり、刀の振りは全盛期の半分以下の速さとなった。全身の関節も錆び付いている。一線級の殺し屋と斬り合えば勝ち目はない。そうであっても、ジンパチは刀を振り続けた。



 そして齢七十六のとき、遂にその時が来た。ゴンゾウ出所と共に、六文組は動き始めた。その戦場にジンパチの姿は無かったが、精神的支柱として後方に鎮座する生ける伝説は、六文組員を大いに鼓舞した。



 次代を背負うべき若い組員達は、想いと血潮を燃やし尽くして散っていった。ジンパチは其れらを全て見た。彼らが何を思い、どう生きたのか。ジンパチの刃音には、今でも散った者達の想いが息づいている。



 やがて、暗闇の中でジンパチは刀を鞘に納めた。丁度雲が晴れ、月の光が部屋へ差し込んだ。明日、また新たに補充される組員達がやって来る。それらを視て、急ぎ六文組の戦力に変えなくてはならない。サブロウが机上の仕事に忙殺されている分、自分が身命を賭して行わなければならないものだった。



 月の明かりが部屋の中央を照らしたとき、ジンパチの背後に一陣の影が降り立った。



 影は振り向きざまに刀を抜こうとしたジンパチの腕を叩くと、鳩尾を強く打った。だが、ジンパチは倒れなかった。影に向けて拳を振り下ろし、その左肩を掠めた。



 影は怯む事なく距離を取った。そして、その姿を月の光が照らした。



「コーポスか。生きている内に相まみえようとは思わなんだわい。」



「衣服の下には鎖帷子か。名のある相手とお見受けした。ご老人、名は?」



「舐めるでないぞ、コーポス。わしは六文組のカキヅカ・ジンパチ。かつて一夜で百人を斬った夜桜のハチとはわしの事じゃ。」



 ジンパチは鎖帷子ごと上着を脱ぎ捨て、刀を抜き放った。七十六とは思えない鋼の肉体が露わとなり、その肌には、大小合わせて百近くの傷が刻まれている。ジンパチは剣先をコーポスに向け、左から一歩ずつ進み出した。半身のまま重心を前に送り、足で蹴る事無く左の膝を緩めるだけで体は前に進んだ。美しく、隙のない半身だった。その動きは間合いを詰むごと速くなっていく。



 宗巖無心流。一の太刀を疑わず、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける先手必勝の剣法。体と刀が一体となり、コーポスの正中線を捉えた。



 猿叫。神速の太刀がコーポスの頭蓋を目掛けて振り下ろされた。



 暗い室内で甲高い金属音が響き、赤い火花が飛び散った。



 振り下ろされた刃はコーポスの右拳と交錯し、その手に付けていたカスタムスチール高強度製の右手甲を弾け飛ばした。だが、斬った感触はなかった。剣先が床の上で止まったとき、ジンパチは腹部を突き破られた感覚に襲われた。丹田が軋み、呼吸を忘れる衝撃だった。薄れゆく意識の中で、ジンパチは刀を握る力を強めた。



 もう一太刀。腕を上げようとしたとき、その身体は前のめりに倒れた。

     

 何者かが入り込んだ。ソファーで仮眠を取っていたサブロウは飛び起きる様に目を覚ました。第一線で戦っていた頃、自分は僅かな気の流れや殺気に敏感だった。数えきれない暗闘の中で生き残るには、動物的な感覚が必要不可欠だった。暗い執務室を見回し、誰もいない事を確認すると、受話器を取った。管理室に連絡をしなければならない。



 だが、幾ら待っても応答はなかった。管理室が制圧されているとすれば、大変な危機だった。もう既に、敵は奥深くまで侵入している可能性がある。



 敵は一人か、二人か、それ以上か。なぜ、気付かなかった。



 机上での作業が長かった為に、勘が鈍っていたのかもしれない。



 サブロウは机横にある棚の扉を開けると、一振りの古びた鎖鎌を取り出した。



 陰影流鎖鎌術。影に身を馴染ませ、手足の如く分銅を振るう術。



 若い頃は相応の腕前だったが、第一次騒乱から長らく鎌を握る事もなかった。



 鎌と重い分銅を繋ぐ鎖に指をかけると、かつて幼いチヅルに指南した頃の記憶が頭をよぎった。自分が使う物より遥かに軽い鎖鎌だったが、チヅルは僅か数年で習得した。新しい技を覚えるごとに嬉しそうな笑みを向けてくるチヅルを見て、自分もまた喜びに満ちた。だが、チヅルは死んだ。心身を羅刹と化して、使命に殉じた。



 此処で、六文組を終わらせる訳にはいかない。皆の想いで成り立った今の六文組を潰してはいけない。



 サブロウは待った。敵はすぐ側まで来ているに違いない。右手で鎖を握り、瞬きもせずにその時を待った。



 そして、部屋の扉が音もなく開いたとき、サブロウは分銅を放った。螺旋状に回転しながら一直線に放られた分銅は、扉奥の闇に吸い込まれた。



 捉えた。暗闇の中で何かに当たった振動が鎖を通じて伝わってきたとき、サブロウは腕を返した。鎖が標的の身体に巻き付く手応えを感じ、鎖を持つ手を強く引いた。



 目の前に、獲物が飛び出してくれば、その首筋に鎌を突き立てる。



 サブロウが鎌を真一文字に構えた時、扉の向こうの暗闇から影が飛び出でた。



 それは人間ではなかった。



 白い身体に、角を生やした赤い髑髏。冥界を守護する深紅の骸。



「コーポス!」



 鎌を一閃したとき、その姿は眼前から消えていた。



 一瞬、幻覚を見たかの様な感覚に襲われた。そして、鎖を掴んでいた右手から痺れに似た熱い痛みを感じた。手から鎖が落ち、肘から指先まで動かない。



 腕を叩き折られた。



 気付いたときはもう遅かった。目の前には、自分の左肩に向けて拳を振り下ろす深紅の骸の姿があった。振り下ろされる鉄の拳は、まるでスローモーションの様にサブロウの水晶体に映った。



 瞬きをした刹那、左肩から焼ける様な激しい痛みを感じた。



 鎌が手から滑り落ち、我に返ったときは腰が引けた格好で尻餅を付いていた。



 情けない。錆びていたのは鎖鎌の腕だけではなかったか。



 サブロウは天井を仰ぎ見た。



「ミヨシ・サブロウだな?」



 視界に自分を見下ろすコーポスの姿が映った。だが、自分が知っているコーポスとは、どこか違う印象を感じた。



「久しぶりだな、コーポス。いや、初めましてだったな、二代目。」



「六文組はもう終わりだ。観念しろ。」



「そうか。皆、やられてしまったか。」



 サブロウは天井を見上げたまま、動こうとしなかった。



 それは六文組が終わる事への無念さか、責任と罪の意識から解放される喜びか、サブロウ自身にも分からなかった。サブロウはもう一人、部屋に入ってくる気配を感じた。視線を正面に向けると、苦しそうに息をし、部屋の中央で蹲るジンパチの姿があった。



「サブロウよ、互いに腕が錆びたのう。これでは、死んでいった者達に顔向けが出来んわい。」



「相手がコーポスだ。互いによくやった、そう思う事にしよう。」



 コーポスもまた動かなかった。



 使命に殉じた誇り高き者達への敬意を示す様に、沈黙を守った。



「天に還ろう、ジンパチ。お頭が、チヅルが、シズカが、皆が待っている。」



「そうじゃのう。極楽には往けんだろうが、その時は閻魔大王と一戦じゃわい。」



 ジンパチがにこっと笑う表情を見たとき、サブロウもまた笑った。顔から険がとれ、その眼は穏やかだった。そして、懐からスイッチの付いた短い鉄の棒を取り出すと、安全装置を口で外した。



「さらばだ、コーポス。また会おう。」



 静寂に包まれた間で、サブロウが棒のスイッチを押した。



 遠くから大きな爆発音が聞こえ、その音は徐々に近く、また多くなってきた。建物全体が激しく揺れ、地響きが轟いた。瞬く間に部屋の手前の廊下にまで紅蓮の炎が噴き出し、やがて部屋全体を包み込んだ。





                     【乱骸の章  完】

       

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