Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 1st Opera
散華の章

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 闇と夜の間に生まれたその子は、櫂を持ち、襤褸を着て、波止場に立っている。



 彼は昼夜を問わず、獣皮と縫い合わせた小舟で、死者の霊を彼岸へと運んでいた。



 憎悪と悲嘆に荒れた暗き河を、妖しく光る眼が照らす。



 銀貨一枚の報酬を得る為に、彼は何度も暗黒の河を往復する。



 ところがある日、彼は突然取り乱し始めた。



 狂乱した混沌が吼え猛り、下界に渦巻く因果によって河が氾濫を起こすという。



 当初、神々は信じなかった。だが、オリュンポスの宮殿に黒き水が染み出したとき、神々は嘆息した。それは哀悼の為でも、同情の為でもない。天罰を与える為だ。



 七日と七夜、下界に放流された黒き水は、世界を洗い流した。

     

 王は市民の前に立っていた。



 熱狂する群衆は、その帰還を待ち、歓迎した。



 王はそれらに向かって再び語り掛けた。





「私は闇に生きる者達を憎みます。そして、これらを千寿より駆逐する事を誓います。私が光を求めるべく立ち上がったとき、同志は僅かでした。しかし、今日では、百万人の同志が、志を同じくして活動をしています。しかし、重要なことは、運動に参加している同志の数ではなく、同志たちが共有している運動の理念や価値観であります。千寿中の全種類の職業に従事する労働者や、身分を問わず千寿に生きる全ての者が集い、この百万人の強固な共同体は成り立っています。この百万人は、同志と共に団結し苦しみを共にする事だけが、自分たちの明るい未来への唯一の道であり、さもなくば絶望しかないという事を分かっています。この運動に参加している百万人は、他の職業の者と手を取り合い、千寿の市民として、千寿の輝かしい未来の為に活動をしています。この運動に参加している百万人もの市民たちは、闇の者達の誘惑に惑われてはいけません。彼らはこの共同体を破壊し、再び暗黒の時代へ誘おうとしているのです。重要なのは、彼らの甘い言葉に乗らず、階級を問わず手を結び、共に戦う事なのです。千寿市民としてこの運動に参加するのは労働者だけではありません。自分たちが今まで空想に囚われていたことに気付いたブルジョワジーや知識人も、これまでインテリなどと言われて持て囃されていた地位から逃れて、この共同体に参加しています。かつて、闇の者達は市民の命を脅かし、金銭を奪い取り、我々を嘲笑っていました。ですが今、彼らのその笑いは涙に変わっています。この数週間、光の共同体に集う人々の献身的な努力によって、それらを打ち負かしています。共同体に集う献身的な人々が、千寿の存続の為に立ち上がり、戦ってきました。異なる宗教、労働者や公僕、ブルジョワジーや給与所得者として争うのでなく、千寿に住む者として、共に存亡のために手を取り合い、団結したのです! この堅い団結の中で、行動を共にする他の同志への尊敬や労りの念も育まれ、お互いへの理解も深まっていきました。この様に育まれてきた精神により、我々全員が共に前進をしてきました。私は、光を求める人々の願いを実現する事が出来る機関の設立を目指します。私は議会の議席や、高官の職を狙っている訳ではありません。。全ての千寿市民が、同じ目的に向かい、運命を共にできる共同体をもう一度この都市に誕生させる事こそが、私の願いなのです!」





 一言一句、聞き入る様に聞いていた群衆は、一斉に歓声を上げた。



 ある人は涙を流しながら王の名を叫び、ある人は熱狂と歓喜の余りに気を失った。



 千寿に生きる多くの人々が、ワタリ・ゴンゾウという名を、自身の心に刻み込んだ瞬間だった。

     

 地図上のピンの数は毎日の様に減っていた。



 闇に住む者達は悉く血祭にあげられ、六文組の崩壊後は、ゴンゾウ傘下であったはずの組織まで潰されている。ゴンゾウは旗下の者達まで排除の対象とし、市民自身の手で粛清を遂げさせている。



 だが、これはチャンスでもあった。



 庇護を失ったゴンゾウ傘下の者達を糾合し、共に王を葬る。賭けにも等しいが、其れが最適の方法だった。ライゾウは口から甘い煙を吐くと、正面のソファーに寝転がるシグレに目を向けた。



「今度、お前の親父は市長選に立候補するらしいぞ。今からでも、よりを戻したらどうだ?」



「何度も言わせるな。彼奴は私の親父じゃない。」



 シグレは酷く不機嫌そうだったが、誰よりも落ち着いていた。



 ゴンゾウと呂角を殺す事以外、何も考えていないのかもしれない。だが、使える駒は大幅に減り、コーポスが行方知れずの中、シグレの沈着さは不思議と頼もしく映った。



「シグレ、俺は残った全ての闇の勢力を糾合し、ゴンゾウ殺害の計略を練っている。」



「どんな策だ?」



 シグレは飛び起きると、目を輝かせながら此方を見詰めてきた。



 本当に、殺し以外は何も考えていないのかもしれない。



「策はある。だが情報が足りない。下手に探れば人数を失う。」



 ここ数日、ライゾウは配下のアカメを遣ってゴンゾウの居場所を掴もうとしていた。だが、有益な情報を得られなかったばかりか、アカメまで市民に殺されかけていた。



「だからこそ、奴の力が必要だ。頼めるか? シグレ。」



「イザヤか? 彼奴の予言は当たった試しがないぞ。」



「正直、藁にも縋り付きたい状況なんだ。可能性が零じゃない限り、使える物は、全て使う。」



 シグレは溜息を付くと、扉の方向に目を向けた。



「そこにいるんだろう? イザヤ。お前の力が必要だそうだ。」



 そのとき、ライゾウの背後で、がちゃり、と扉が開く音がした。



 驚いて振り返ったライゾウの目の先には、全身に襤褸を纏ったイザヤの姿があった。



「ライゾウ様、お久しゅう御座います。」



「遂に俺の地下室にまで現れたか。お前は本当に神出鬼没だな。」



 イザヤとはかつて敵同士であったものの、シグレを通じて協力関係を築いていた。当初は謎解きの様な言葉を紡ぐ妖しげな宗教家という認識だったが、後に思い返してみると、はっと気付かされる事がある。占いの類を信じない自分であったが、イザヤに対してはどこか魔力めいたものがあると感じていた。



「早速だが、ゴンゾウの居場所が知りたい。襲撃に最も適した時期も、併せて教えて欲しい。」



「私は神の御言葉を紡ぐ者です。お役に立てるとは思えません。」



「安心しろ、報酬は幾らでも払ってやる。」



 ライゾウは立ち上がると、自身の腕時計を外してイザヤの前に放った。以前、シグレから聞いた依頼の方法だった。イザヤは、決して現金を受け取らない。



「分かりました。では――」







「やがて嵐が来る。月は東に流れ、星々が石崖に堕ちる。



 大地が大人しく発狂し、伸びし甍はさも蛇尾のよう。



 空は割れ、猩々達が唄う。



 夢は願う物であり叶える物。夢は見る物であり望む物。



 宿命に身と魂を委ねて歩む者には、誠実な虚偽が待っている、と。」







 それきり、イザヤは時が止まった様に押し黙ってしまった。



「イザヤ。俺には何を言っているのか解らん。何か謎解きのヒントをくれないか?」



 イザヤは口を開かなかった。考えれば考えるほど混乱してくる上に、本当にゴンゾウの居場所を言ったのかさえ怪しく思えてくる。暫く考えあぐねていたとき、それまでイザヤを眺めていたシグレが、急に口元を綻ばせた。



「機は明日午後十一時、場所は千寿南の波止場、ゴンゾウは黒いバンに乗っている、そうだろう? イザヤ。」



「仰る通りです。ですが、予言とは道を指し示す物。ご油断なさらない様に。」



「お前の予言は外れる。期待せずに行くとしよう。」



 ライゾウは力が抜けた様にソファーに腰を下ろした。そして、目の前の二人がどう意思を疎通したのかは、あまり考えない事にした。しかし、イザヤの予言が正しいとすれば、準備を急がなければならない。ゴンゾウ傘下の者達にも伝達をし、集められるだけの人数を揃える。万事上手くゆけば、およそ三十人程度の集団となるだろう。



「シグレ、俺は急ぎ人数を集めつつ策を練る。お前は其処で休んでいて構わない。」



「そうさせて貰う。陸は騒がしいからな。」



 ライゾウがアカメを呼ぼうと、扉の方向に顔を向けたとき、既にイザヤの姿は無かった。

     

 円形大劇場の上に威嚇するように空が掛かっている。しかし、今日は民衆の休日であるアヴェ・ネローネだった。鉄の門が開かれ、聖歌の歌唱と野獣の咆哮が大気に漂う。群集は激昂している。乱れずに、殉教者たちの歌が広がり、制し、そして騒ぎの中に消えてゆく。



 全オーケストラが大音響を轟かせ、ドラが打ち鳴らされる。サルタレロというイタリアの舞曲を元にした、三連符を含んだラッパの鋭いファンファーレが響き渡る。



 劇場内の悲惨なショーを見物して、観客は激昂する。



 途中、弦楽器の演奏する讃美歌が流れた。それは、悲劇の結末を目の当たりにしながら、お神を讃美してやまない信徒たちの祈りの歌である。



 祈りの歌と観客の激昂が交互に奏でられ、クライマックスには、如何なる迫害にも屈することのないキリスト教徒の強い信仰を確かめるかの様に、全オーケストラが音を奏でた。



 ゴンゾウは幕が引かれる前に、劇場を出た。天を見上げると、一片の星が流れた。



「思った以上に、早かったな。」



 儚げに呟いたとき、その腕をキョウコが掴んだ。



「まだ、貴方にはやる事があるんでしょう? 千年の都に君臨する絶対的な王として。」



「そうだ。死ぬも生きるも、己が道の上だ。如何なる者にも、俺の運命を変えはさせん。」



 じっと見つめてくるキョウコに、ゴンゾウは微笑んだ。其れは、長く傍らにいたキョウコにさえ、見た事のない表情だった。顔の険が取れ、一抹の寂しさを含んだ笑み。キョウコがはっとしたとき、その唇にぶつかるようにゴンゾウの唇が重なった。十秒にも満たない時間であったが、優しく、穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。



「キョウコ、千寿を去れ。」



 気軽に、はい、とは言えなかった。キョウコはゴンゾウのがっしりとした身体に手を回すと、その胸上に顔を埋めた。とめどなく流れ出てくる涙は、懐を濡らした。



 その時を、何度も覚悟した。ゴンゾウが戦いの場に赴くたび、数えきれない回数、覚悟した。そうであるはずなのに、眼より湧き出る雫が止まらない。



「如何なる者にも、離れがたい者がいる。」



「何時までも、お待ちしております。その時が来た時、必ず迎えに来て下さい。」



「お前はまだ血に濡れておらん。俺が迎えに来る事はない。」



「いいえ、私はポッペア。血と因果に塗れた宿命を持つ女。いずれ辺獄にて、ご一緒できますわ。」



 キョウコはゆっくりと腕を離した。赤い瞼を擦りながら、静かに笑った。



 ゴンゾウもまた、静かに笑みを返した。そして、夜空を見上げた。



「燕蒼《イェン・ツァン》。」



 何処からか、鳥が羽ばたく音が聞こえた。その瞬間、ゴンゾウの傍に一陣の影が降り立った。それは、二十歳にも満たない女性だった。顔の下半分を黒い頬当で隠し、茶色の長髪を後頭部で一つに纏め、眼は透ける様に碧い。



「お前の身命を賭して、キョウコを護り抜け。失敗は許さんぞ。」



 片膝を付いていた燕蒼は拱手をすると、立ち上がってキョウコの手を取った。



「キョウコ様、こちらに。」



 キョウコは何も言わず頷くと、燕蒼に伴われながら、路上の片隅に停めてあった小さな白い車に向かって歩み出した。



 振り向く事も、足を止める事もしない。



 きっと其れは、彼が望んでいる事ではないから。



 夜空を見上げると、まるで極彩色の絵屏風の様に、星々が輝き瞬いていた。







 夜空に浮かぶ星々を眺めながら、ある詩人が詠った。



「君の憐れみを請おう、私の愛する唯一の人よ。



 私の心が落ちてしまった暗い深淵の底。



 ここは鉛色の地平線が取り囲む陰鬱な世界。



 夜には恐怖と神への冒瀆とが泳ぎ回る。



 熱のない太陽が六ヶ月間浮かび、残りの六ヶ月間は夜が大地を覆う。



 それは極北の地よりも剥き出しの国。



 動物も、小川も、緑も、森もない。



 この氷の太陽の冷たい残酷さに、凌駕する恐怖など世界に存在しない。



 この広大な夜は太古の混沌に似ている。



 私は最も卑しい動物たちの運命を妬む。



 彼らは愚かな眠りに浸ることが出来るのだから。



 それほどまでに時の糸巻きはゆっくりと繰られていく。」

     

 いつの日か償えると信じて、誰もが罪を背負い、悪を犯し続ける。



 黒光りの千年の都は、そんな人々が必死に生き続ける地だった。



 だがその地には、決して魂の救済を求めない者達がいる。全身に血を浴び、殺した敵の腸に巻かれないと眠りに付けない者達がいる。



 彼らは過去を顧みず、ただ己の為に戦う。その目的は名誉や誇り、栄耀栄華への欲求、或いは崇高な志と様々であったが、今回の戦いは違った。



 逆らいようのない運命に逆らう。



 戦いから生還したとしても、待ち受けているのは破滅しかない。



 それでも彼らは、銃を手にとり、刀を構えた。



 無意味な戦いに命を賭ける事の愚かさを知りながら、彼らは身を潜め、その時を待った。



 やがて、王はやってくる。王自身が企みを知っていたとしても、その王はやってくる。



 それが孤高の王、ワタリ・ゴンゾウだった。



 一直線上に伸びる己が道の上に、他者が入り込む事を決して許さない。



 生きるべくして生き、死ぬるべくして死ぬ。



 道を違えず、後方を振り返らず、王はその道を往く。



 やがて、暗闇に身を潜めた者達の目の前に、王を乗せた車が停まった。



 王は扉を開けると、自らその矢面となる様に車から降りた。



 三十人前後の刺客に囲まれた周囲を、虎の様な瞳でぎょろりと見回すと、正面に向けて咆哮した。



「我こそが、ワタリ・ゴンゾウだ! 闇に生きる者共よ、此処で共に死ぬか、どちらかが滅びるか、天の理を賭けて殺し合おうではないか!」



 刺客達が吼えた。構えていた銃から鉛の弾が撃ち出された。



 だが、ゴンゾウの前には金剛不壊の城壁が立ち塞がった。



 其れは、大方天戟を構えた呂角だった。



 隻腕で九尺の大方天戟を神速の如く振り回し、飛び交う鉛弾を蝿の様に、一粒残らず叩き落としていく。



 呂角は囲みのある一点に飛び込むと、刺客に向けて大方天戟を一閃した。



 刃は唸りを上げて旋回し、刺客達の囲みを寸断し、薙ぎ払った。



 幾多の首が血の飛沫と共に宙に舞い、鞠の様に落ちていく。



 そのとき、囲みの外から白い衣服を纏い、一際長い刀を携えた異形の獣が、一陣の疾風の様に暴風の中へ突入した。



「やっと見つけた、ワタリ・ゴンゾウ。あと呂角。」



 それはウンノ・ソウジだった。



 左手を鯉口に添え、右手で柄を掴むと、暴風の一点へ虎眼丸を抜き放った。



 刃が生き物の様に伸び、暴風の一点に吸い込まれたとき、呂角の動きが止まった。



 ソウジの眼には、虎眼丸の刃が呂角の左腕を斬り落とした様に見えたが、柄を持つ手には、僅かな手応えしかなかった。



 この距離で、避けられた。



 ソウジは荒ぶる夜叉の様に飛び掛かると、虎眼丸を呂角の首に目掛けて突いた。



「ゴンゾウ様、お逃げください。」



 呂角はそれだけ呟くと、大方天戟を縦に振り下ろした。



 振り下ろされた刃はソウジの頭蓋から足元までを虎眼丸ごと両断し、一際大きな血の柱が立った。



「頼んだぞ、呂角。」



 乱れきった囲みの中を走り抜けようとするゴンゾウの前に、もう一人の刺客が躍り出た。



「我らの罠に飛び込んでおきながら、思い上がるな、ゴンゾウ。」



 右手に短刀を持ったアカメだった。短刀を真横一文字に振り抜き、後方に避けんとしたゴンゾウの胴を浅く斬った。



 ゴンゾウの胴から少量の血が飛び散ったとき、呂角の表情が変わった。



 その貌は悪鬼か、羅刹か、鬼人か。



 呂角は両断したソウジの亡骸を蹴倒すと、ゴンゾウの盾となる様に、その前へ立ち塞がった。そして、尚も返し刀で短刀を振るうアカメの胴に、大方天戟を突き通した。



 だが、アカメもまた怯まなかった。



 腹部に刺さった槍を手繰りよせ、その柄を両手で掴んだまま離さない。



「ライゾウ様! 今です!」



 アカメが血の塊を吐きながら叫んだとき、遠くから銃声が轟いた。



 灰色の煙と共に銃口より射出された弾丸が空気を裂き、呂角の真横を通り過ぎた。



 大方天戟を横に薙ぎ払い、アカメの胴を真っ二つにした呂角の後方で、肉が弾ける音がした。振り向くと、腹部を右手で押えたゴンゾウの姿があった。



「問題ない呂角。此処は任せたぞ。」



 息を切らしつつも、ゴンゾウの声にはいつもと変わらぬ覇気が宿っていた。



 右手で腹部を押えながら、ゴンゾウは囲みの外へと駆け出した。



 追いかけんとする刺客達を塞ぐ様に、呂角は血に塗れた大方天戟を天に向けて振り上げた。仁王立ちとなった鬼人を前に、刺客達の手が止まった。



 眼を怒らせ、二十人近くの刺客を見渡したとき、刺客達の中に見覚えのある男を見定めた。



 白いスーツに髪を短く束ねた中年の男。紛れもなく、シゲノ・ライゾウだった。



「貴様らの馬鹿げた夢は、此処で終わりだ!」



 ライゾウとその周辺の刺客が引き金を引くのと同時に、呂角は鬼人の笑みを浮かべ、ライゾウを目掛けて突進を始めた。



 飛び交う幾多の弾丸を叩き落とし、その元へ迫ったとき、ライゾウの放った弾丸が呂角の左頬を抉り取った。



「地獄に堕ちろ! 化け物め!」



 ライゾウが次の引き金を引くよりも早く、呂角の大方天戟が一閃した。



 夥しい血の飛沫が上がり、首を失ったライゾウの身体はその場に崩れ落ちた。

     

 夜空の星々が堕ちていく様子を見て、ある詩人が詠った。





「私たちは押し殺すことが出来るのか、あの年老いた、長い後悔を。



 生き、蠢き、這いずり、蛆虫が死者を食らう様に、青虫が樫の木を食らう様に。



 果たして私たちは押し殺すことが出来るのか、あの年老いた、長い後悔を。



 どの媚薬の中に、どの酒の中に、どの煎じ薬の中に、この古くからの敵を沈めようか。



 娼婦のように破壊的で貪欲で、蟻のように辛抱強いこの敵を。



 それはどの媚薬に、どの酒に、どの煎じ薬に。



 言うがよい、美しい魔女よ。知っているなら言うがよい、



 苦悩に満たされて、幾人もの負傷者に押し潰され、馬の蹄に傷つけられている死者にも似たこの精神に向かって。



 早く言うがよい、美しい魔女よ。知っているなら言うがよい。



 狼がすでに嗅ぎ付け、カラスが目を光らせている



 この死に際の者に向かって、この傷ついた兵士に向かって。



 彼らが十字架と墓とを持つ事を、諦めねばならぬかを。



 狼がすでに嗅ぎ付けた、この死に際の者を。



 泥まみれで暗黒の空を輝かすことが出来るのか。



 闇を切り裂くことが出来るのか。



 瀝青よりも濃く、朝も夜もなく。



 星もなく、陰鬱な輝きもない。



 その泥まみれで暗黒の空を輝かすことが出来るのか。



 宿屋の窓格子に輝いていた希望は、吹き消されて、永遠に死に絶えた。



 月もなく、光もなく、劣悪な道に苦しむ殉教者を、どこに泊めるというのか。



 悪魔は宿屋の窓格子にあった全てを消し去ってしまった。



 素敵な魔女よ、お前は地獄落ちの者を愛してくれるのか。



 言ってくれ。



 お前は許されない罪を知っているか。



 お前は知っているか。



 その毒矢で私たちの心を的にする後悔というものを。



 おお、素敵な魔女よ、お前は地獄落ちの者を愛してくれるのか。



 取り返しのつかぬものは、その呪われた歯でもって、私達の心という惨めな記念碑を貪る。



 そしてしばしば攻撃する。



 あたかも白蟻が建物の土台から襲う様に。



 取り返しのつかぬものは、その呪われた歯を以て貪る。



 時折、私は見た、凡庸な劇場の奥を。



 響きの良い楽団に照らされ、一人の妖精が地獄の空の中で、奇跡的な暁に火を灯すのを。



 時折、私は見た、凡庸な劇場の奥で。



 光と黄金と紗に他ならないとある存在が、巨大な魔王を打ちのめすのを。



 しかし私の心には、興奮が訪れることは決して無い。



 それは一つの劇場だ、そこで人は待ち続けている。



 常に、常に無駄に、羽根の生えた紗の存在を。」







 月明かりの下、ゴンゾウは天を眺めていた。



 血に塗れた腹部を押えながら、地に腰を下ろし、流れゆく星々を見ていた。



 水飛沫のみが聞こえる静寂の波止場で、王は天に吸い込まれる様な気分を感じていた。



 遠くから、長い尾を引いた箒星がぐんぐんと近付いてくる。



 そして、その箒星は己の真上を飛び越え、遥か彼方へと落ちていった。



 鉛によって肉を裂かれた痛みは徐々に消えつつも、丹田より血と気が漏れ始め、皮膚の表面から色が抜けていく。



 だが、暖かだった。



 水飛沫の音が遠くなっていく。



 ゴンゾウはふっと笑うと、懐から一丁の拳銃を取り出した。



 やがて正面を向くと、目の前には人の姿をしたワタリガラスが佇んでいた。







                     【散華の章  完】

       

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