Neetel Inside ニートノベル
表紙

SIGURE The 2nd Opera
雨夜の章

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 荒れ狂う風雨の中で、自分に名前がない、と泣き叫ぶ幼子がいた。

 創造神と暁紅の女神の間に産み落とされた子で、憤怒相と多腕を持ち、その咆哮は、まるで吹き荒ぶ風の轟音の様だった。

 周囲を暗褐色の肌をした野獣達に囲まれ、幼子は、一層大きな泣き声を上げた。

 その声は天と地の間、果てしなく広がる山河に響き渡り、万物を破壊した。

 その声を、人々は畏れ、または敬った。

 そして、自らの破滅を避ける為に、その幼子に名を与えた。

 吼える者、と。

     


 深夜の嵐の中、屋敷中の灯は全て消えていた。

 蝋燭の火を頼りに、見回りの者が必死に屋敷内を往復しているが、電力の復旧には時間が掛かりそうだった。

 その暗闇の中、赤いカーペットが敷かれた長廊下を、足音を忍ばせながら歩く男がいた。

 男はこの屋敷の若き主だった。年齢は三十路の半ばを過ぎた頃で、上背がある。だが、バスローブ姿のまま、夜目を頼りに進んでいく彼は、高貴な身分に似合わず、どこか妖しげな雰囲気を醸し出していた。

 そして、ある部屋の前で立ち止まると、扉をゆっくりと開けた。

 室内は薄暗く、机の上にある一本の蝋燭が、微かに火を灯しているのみだった。

 男は息を潜めながら室内に入ると、部屋奥の寝台から聞こえてくる息遣いを頼りに、ゆっくりと歩み出した。

 一歩ずつ近づいていくごとに、聞こえてくる息遣いは甘美さを増し、彼の心を高ぶらせた。

 そして、寝台の側にたどり着くと、その端に腰を下ろした。

「なんと、美しい。」

 寝台に横たわっているのは、白いランジェリーを着た、長い黒髪の女性だった。年齢は二十歳を超えているものの、その透き通る白い肌は、あどけない少女を思わせる。

 彼女とは、その日の昼間に出会ったばかりだった。数日間、部屋を貸して欲しい、という頼みだった。彼女はきりっと整った目鼻立ちに、何者をも寄せ付けない気の強さを感じさせる瞳を持った女性で、会ってすぐに、屋敷の主である男の心を射抜いた。

 黒髪をそっと撫でると、彼女の身体がぴくりと動いた。

「本当は起きているのだろう?」

 男は彼女の首筋に手を当てた。

 白い肌の下に流れる血の温かさが、指を通して伝わってくる。

「私が来るのを待っていたのだろう? 厭らしい子だ。さあ、もっと私に、その姿を見せておくれ。」

 指先をそっと、首筋から鎖骨の窪みまで滑らせいくと、少しずつ彼女の吐息は熱を帯びたものになっていった。

「君は美しい。昼間に君と出会ったとき、私は目の前に、愛の神アフロディーテが現れたのかと思った。それは一瞬、神々が私を幻惑しているのかと錯覚する位に。しかし、君は違った。神を恐れず、運命に惑わされないその眼。その瞳が私を魅了したとき、これは運命だと感じた。神々が私と君を引き合わせたのだ。さあ、共に愛を享受しよう。」

 やがて指先が胸元近くに伸びたとき、男は突然、鳩尾に重い衝撃が加わる感覚を覚えた。

 まるで重い鉄棒を突き入れられた様な、内臓が激しく軋む感触。

 あまりに突然の痛みに、思わず膝をついた。

 次の瞬間、顎に猛烈な衝撃と、焼ける様な痛みが加わり、男の身体は宙に舞っていた。

 宙で一回転した男の身体は、部屋の壁に思い切りよく叩きつけられ、音を立ててその場に崩れ落ちた。

「いい加減、鬱陶しいぞ! この助平野郎!」

 痛む鳩尾と顎を押さえながら男が顔を上げると、目の前には蝋燭の火に照らされた彼女がいた。まるで塵を見る様な眼で見降ろされ、男は肌が泡立つ感覚と共に、一種の高揚感を覚えた。

「痛いぞ。だが偶には、こういった類も良いものだ」

「まったく。地元の名士と聞いて来てみたら、とんだ色魔だな。」

 男が身体を起こそうとしたとき、視界の端から、白髪交じりの初老の男がぬっと顔を出した。

「だから言っただろう? ケンジ。その娘に手を出したら痛い目にあうと。」

「聞いたさ、コバックス。だが、余りに美しい娘だったから。」

 コバックスと呼ばれた男は呆れた様に笑った。

 白いランジェリー姿の女性とコバックスは旧知の仲だった。

 今から十五年ほど前、本国東南の大都市である千寿で、コバックスは幼い彼女と出会った。

 女の名はシグレと言い、糞尿塗れの襤褸を被って彷徨っていたところを拾い、殺しの技術を叩きこんだ。やがて、コバックスはシグレの元から去ったが、二年前に千寿を訪れた際に、一流の殺し屋となっていた彼女と再会を果たした。

 その後、千寿全体を巻き込んだ抗争の末、シグレは行方不明となっていたが、今日の昼間に、雨を避ける為に来た彼女と再び出会った。

 シグレは露骨に嫌な顔をしていたが、コバックスにとって再会は嬉しい出来事だった。

「許してやれ、シグレ。この男は見ての通り好色でな。気に入った相手にはとことん執着する悪癖がある。」

「師よ、なぜこんな男に雇われている。」

「金払いが良いからな。それに、ニイミ家の飯は美味い。」

 コバックスはここ一年ほど、名家であるニイミ家に雇われていた。当主のニイミ・ケンジは紳士の面を付けたサディストで、よく妾に逃げられるばかりか、その強欲さが災いして他所から恨みを買われている事が多かった。

「しかし、シグレにまで手を出すとは恐れ入ったぞ。この娘が本気なら、今頃お前の首に穴が空いている。」

「分かっている。それを今、身を以て感じているところだ。」

 ケンジは真っ赤に腫れた顎を擦りながら起き上がった。

「どうだ、シグレ。此処にいる間、私の依頼を聞いて貰えないだろうか?」

「情交の依頼なら断る。それ以外であれば、報酬次第だな。」

「勿論、金は弾む。最近、この近辺のヤクザとトラブルになってね。問題を解決して欲しい。」

「悪くない依頼だ。情報を教えろ。」

 ケンジはこほん、と咳払いをすると、窓際の椅子に腰を下ろした。

「相手は両豪組といって、組員数は三十人前後。人身売買、地上げや密輸なんかを行っている、何でもありの日系ヤクザだ。ニシダという名の組長がいるのだが、その妾にうっかり手を出してしまってね。脅迫の電話や手紙が鬱陶しくて堪らない。」

「まさかと思うが、その妾まで拾ってこい、などと言わないだろうな?」

「察しがいいね。名前はアカリだ。無事に連れて帰れば、報酬は倍の額を支払う。」

 シグレは苦笑いを浮かべると、寝台へ仰向けに飛び乗った。

「依頼を受けよう。明日の夜から、枕を高くして眠らせてやる。」

「心強い言葉だ。頼りにしているよ。」

 ケンジは腰を上げると、コバックスと共に、足早に扉の外へ出ていった。

 部屋の中には、窓に打ち付ける雨音が木霊していた。

     

 幼い頃、稽古は痛みとの戦いだった。

 コバックスは、相手が子供であろうと全く容赦がなかった。
 棍棒で血反吐を吐くまで叩きのめし、地に臥せれば容赦なく背を打ち据えた。

 いつ終わるとも知れない稽古を繰り返し、痣の痛みを堪えながら食事と睡眠を取る。その毎日であったが、幼いシグレにとって、決して悪い生活ではなかった。

 物心が付く前に母のチグサが死に、父のゴンゾウは家庭を顧みなかった。

 シグレはコバックスに対して、父にも似た感情を抱いていた。糞尿塗れの身体を洗い、衣服を着せ、食事を与え、生きる術を教えた彼に、愛を伝えたかった。

 そして、コバックスが五十二歳の誕生日を迎えた日、十三歳のシグレは摘んだカスミソウで押し花を作り、夕食を終えた頃に手渡した。だが、コバックスは失望した表情を浮かべると、何も言わずに寝室に入って行った。

 悲しみに暮れたままシグレが眠りに付き、やがて目覚めた頃、コバックスは姿を消していた。途方に暮れたシグレに残されたのは、かつてコバックスの死んだ妻が身に着けていたワタリガラスを模したヘルメットだった。

 父と思った二人の男に捨てられ、独りとなったシグレは、ただ生き抜く為に、各地で殺しの術を学んだ。人を殺し、生を得る事に、初めから躊躇いは無かった。誰よりも早く殺しの術を覚えられた上に、其れ以外に自分が出来る事は無いと思っていた。

 やがて、千寿における抗争の末、シグレは街を出た。

 昔から、明るい場所は好きではなかった。自分の姿が露わとなる瞬間が尚又嫌だった。

 今も、シグレは屋敷内の中庭を、日を避ける様に歩いている。

 コバックスは少しも気にする事なく日の下を歩いているが、二人の距離は一定の距離が空いていた。

「偶には親子の散歩も良いな、シグレ。」

「何も話す事はない。」

「そう言うな。お前に貰った押し花は、今でも大切に持っているぞ。」

「なら、なぜ姿を消した。」

 コバックスは足を止めると、その場で振り返った。

「今なら、お前も分かるだろう? あの時、俺が去らねば、二人共駄目になっていた。」

「薄情な父親だ。」

 コバックスは、ふっと笑うと、袖から銀の短槍を伸ばした。

「久しぶりに稽古を付けてやるぞ? あの時の様に。」

「此方こそ、長い屋敷暮らしで腕が鈍っていないか、確かめてやる。」

 シグレもまた、袖から銀の短槍を伸ばした。

 二人の周りを風が囲んだ。そして、嵐に散った欅の葉が旋風を成した。

「大人になったな、シグレ。」

 次の瞬間、二つの風が交差し、辺りに金属の音が鳴り響いた。

     


 身体を重ねるたびに、アカリは、ニシダの目の蓋周りが黒く変色していくのが分かった。

 殺人の罪で二十年の刑期を終え、両豪組の組長として復帰してからというもの、収監前に比べて酷く臆病になったという。以前は気前の良い組長だったらしいが、現在は一文惜しみで疑しげに他人を見る。

 それでも、アカリはニシダの元を離れる気はなかった。妾として不自由ない暮らしを与えられていた上に、何より安全である為だった。

 以前、地元の名士としてニイミ・ケンジを知人に紹介された。初めは立派な紳士という印象だったが、あるとき執拗に言い寄られ、遂には半ば拘束される様な形で辱めを受けた。

 ケンジの攻めは苛烈だった。現在も肩に火傷痕が残り、雨の日には疼いた痛みを感じる。

 屋敷から裸同然の姿で逃げ帰ったアカリを見て、ニシダは烈火の如く怒り狂った。それは、今にでも飛び出していきそうな組長を組員達が力づくで静止するほどだった。

 それ以来、傍に置かれ、その寵愛を受けている。

 今夜も、アカリとニシダは一糸纏わない姿で身体を密着させ、唇を重ね合っていた。

 昨晩の嵐が過ぎ去り、部屋の窓から皓々と月明かりが差し込んでいる。

 静寂な空間の中で、互いの息遣いのみが聞こえ、肌表面の感覚は、より鋭敏さを増していた。

「俺を、独りにしないでくれ、アカリ。」

 今にも消えそうな、か細い声だった。そこに、アウトロー達を纏めている男の姿はない。

「何時までも、一緒です。」

 アカリの両腕が、ニシダの頭部を包み込んだ。

 哀れな男だと思った。人を裏切り、陥れ、ある時はカラスをサギと呼び、周囲を欺いて生き抜いてきた男が、今は疑心暗鬼に苛まれ、目の前の女に赤子の様にすり寄っている。

 それでも、気疎いとは感じなかった。ニシダの暗く深い猜疑心の中に、自分が光として存在している事の方が嬉しかった。誰かに望まれて生きる喜びを、初めて感じた為だった。

 ニシダはアカリの上に乗ると、乳飲み子の様に乳房へ吸い付いた。

 舌先が乳房を濡らす音が森閑の部屋に響いたとき、アカリは風の音を聞いた。

 閉ざされた部屋の中で、確かに風の音を聞いた。

 それは、まるで鳥が羽搏いたときに空気が薄く裂ける様な音だった。

 アカリが耳を澄ますと、それまで動いていたニシダの舌の動きが急に止まった。

「どうしました?」

 返事はなかった。そして、ニシダの身体から血温が少しずつ下がっていくのが、肌を通して伝わってきた。

「どうなされたのですか?」

 やはり返事はなかった。それどころか、目の前の身体は、沈み込む様に乳房の上に覆いかぶさり、何処からか流れ出た生暖かい液がアカリの肌を濡らした。

 何が起きているのか分からなかった。肌についた汁を掬うと、其れは黒く、滑らかだった。指の間から滴り落ち、酸化した鉄の様な匂いが鼻をついた。

「アカリだな?」

 女性の声が聞こえた。冷たさを含んだ、静寂の間に諧う声だった。

「両豪組を潰し、アカリという女を連れてこい、と依頼を受けた。大人しく来て貰うぞ?」

「私が声を上げれば、部屋の外の人達が貴女を殺すわよ?」

「この屋敷内で生きているのは、私とお前だけだ。」

 突然、正面に黒い影が現れ出で、アカリは目を見開いた。

 目線の先にいたのは、カラスの面を付けた黒いコートの人物だった。

 恰も、地獄の長が遣わしたグリマルキンの様に忍び寄ってきた彼女は、アカリの目の前に、右の掌をすっと差し出した。

「今なら、私はお前に自由を与えてやれる。絶望の中で生きる位なら、死ぬ自由を選んだ方が良い事もある。」

 アカリは目を瞑ると、躊躇う様子もなく自分の左手を、目の前の掌に載せた。

「良いだろう、アカリ。お前の望む通りにしてやる。」

 カラスの面を被った彼女は、黒いコートを翻し、アカリの視界を塞いだ。

     

 ニイミ邸内には、開けてはいけない一室がある。

 其処には禁断が満ち溢れ、屋敷の主であるケンジに許された者以外、入る事も、知る事も許されない。

 朝陽が昇る前、シグレはアカリを連れてきた。
アカリは白布一枚を羽織り、その目は、まるで遠くを見ている様だった。

 報せを聞きつけたケンジは大いに喜び、表情を失くしたアカリの手を取ると、真っすぐ其の部屋に入っていった。

 一度気に入ると、何処までも執着する事はケンジの悪癖だった。
以前は十二歳の義理の弟にまで情欲の対象とし、日々、その部屋で苛烈な責めを加えた。

 ある時、不憫に思ったコバックスが密かに救い出したとき、その姿を見て、思わず息を呑んだ。

 肩まで伸びたベージュの髪、マリアのような目顔の形。ビーナスのような瞳。可憐さを帯び、その佇まいは男をひきつける所があった。白肌の至る所に付いた汚れや痣は、より扇情的な美しさを増した。

 コバックスは屋敷内のクローゼットから、その少年のサイズに合った服装を見繕うと、食料と水を渡して、外へ連れ出そうとした。

 だが少年は首を横に振った。

 何処に潜んでいようと兄は草の根を分けて必ず探し出す、と少年は言った。

 知恵を絞った結果、コバックスは本国北端の地へ行く様に行く事を勧めた。其処には独立都市があり、決して市民を引き渡さないという。

 やがて、その美しい少年は北へ向かった。無事に辿り着けたかは分からないが、強き天命の元に生まれている事を祈るしかない。

 コバックスはソファーに座ると、煎れ立ての紅茶に口を付けた。そして、招かれたシグレが目の前のソファーに腰を下ろしたとき、室内でケンジの咳払いが鳴った。

「昨晩はご苦労だったな、シグレ。アカリが生きたまま手に入るとは思わなかったぞ。」

「彼女が選んだ事だ。それに請け負った以上、報酬分の働きはするつもりでいる。」

「それにしても素晴らしい仕事ぶりだ。お前に匹敵する殺し屋などいるまい。」

 コバックスは苦笑いを浮かべた。ケンジは他人に何かを頼むとき、必ず相手を褒めて機嫌をとる。然も、その程度が大きいほど依頼は過酷になる。

「その気なら、もう一つ依頼を請け負ってくれないか? 報酬は前回の二倍を払う。」

「私はもう発つぞ。ここに居る気はない。」

 シグレは仏頂面のまま、紅茶に口を付けた。ワタリガラスは決して一つの場所に留まる事はない。各地を巡り、季節の変わり目を人々に伝える。

「勿論、君が場所に縛られる事が嫌いなのは知っている。それ故に、この依頼を請け負って欲しい。」

「どんな依頼だ?」

 ケンジは襟元を正すと、机に両肘を立てて寄りかかり、両手を口元に寄せた。

「私の腹違いの弟、ニイミ・ユウを探して欲しい。年齢は十三歳。ベージュの髪色に、男とは思えない美貌を持っている。彼は北端の都市、幌舞にいるらしい。」

「場所が分かっているなら、自分で探しに行けばいい。」

「そうはいかない。幌舞は塀に囲まれた独立都市だ。更に、何があろうとも、市民を引き渡さない。」

「塀に囲まれた都市か。まるで監獄だ。」

「世界一安全な監獄と言っても良いだろう。かつては開拓民によって拓かれた平地で、自然豊かな土地だったらしい。だが、都市の発展と共に周辺の森林を伐採し続けた結果、人々は山から現れる獣達からの危機にさらされた。それらを防ぐべく都市の周囲に防壁などの広大なバリケードを建てたが、それが元で閉鎖された都市となった。」

「幌舞には政府があるのか?」

「現在は、地元の盟主であったツユキ家が支配している。都市内は高水準の秩序が保たれているという。逃亡者にとっては、まさに楽園といっても良い。」

 シグレは腕を組むと同時に俯いた。やがて考え込む様に動かなくなった。

「報酬次第だな、ケンジ。弟が死んでいれば、私は無駄足を踏む事になる。」

「その時は死んだ証拠を持ってきてくれ。例えば髪の毛とかが良い。ユウの髪は間違えようがないからね。生きて連れて帰れば、十倍の報酬を支払う。」

「なら、依頼を受けよう。期待せずに待つ事だ。」

「君ならそう言ってくれると信じていた。気長に待っているよ。」

 手を叩いて喜ぶケンジを横目に、シグレは席を立った。そして、黒いコートを棚引かせ、誰にも目を合わせる事なく部屋を出ていった。

     

 ある詩人が詠った。

 主はヤコブを哀れみ、イスラエルを再び選んで、これを己の地に置かれる。

 異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、諸々の民は彼らを連れてその地に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、先に自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちを虐げた者を治める。

 主が貴方の苦労と不安とを除き、また貴方が服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、 貴方はこの嘲りの歌を唱え、バビロンの王を罵って言う。


 あの、虐げる者は全く絶えてしまった。

 あの、驕る者は全く絶えてしまった。

 彼らは憤りを以て諸々の民を絶えず撃っては打ち、怒りを以て諸々の国を治めても、その虐げを留める者がなかった。

 全地はやすみを得、穏やかになり、悉く声をあげて歌う。

 レバノンの香柏でさえも、あなたのゆえに喜んで言う。

「貴方は既に倒れたので、最早、きこりが上ってきて、我々を攻める事はない。」

 下の陰府は貴方の為に動いて、貴方の来るのを迎え、地の諸々の

 指導者達の亡霊を、貴方の為に起し、国々の諸々の王を、その王座から立ちあがらせる。

 彼らは皆、貴方に告げて言う。

「貴方もまた我々の様に弱くなった。貴方も我々と同じ様になった。」

 貴方の栄華と貴方の琴の音は陰府に落ちてしまった。蛆は貴方の下に敷かれ、蚯蚓は貴方を覆っている。

 橋明の子、明けの明星よ、貴方は天から落ちてしまった。

 諸々の国を倒した者よ、貴方は切られて地に倒れてしまった。

 貴方は先に心の内に言った。

「私は天に昇り、私の王座を高く神の星の上に置き、北の果なる集会の山に座し、雲の頂に昇り、いと高き者の様になろう。」

 しかし、あなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

 貴方を見る者は悉く貴方を見て、貴方に目をとめて言う。

「この人は地を震わせ、国々を動かし、世界を荒野の様にし、その都市を壊し、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか。」

 諸々の国の王たちは皆、尊いさまで、自分の墓に眠る。

 しかし貴方は忌み嫌われる月足らぬ子の様に、墓の外に捨てられ、剣で刺し殺された者で覆われ、踏みつけられる死体の様に穴の石に下る。

 貴方は自分の国を滅ぼし、自分の民を殺した為に、彼らと共に葬られる事はない。どうか、悪を行う者の子孫は、永久に名を呼ばれる事のない様に。

 先祖の邪の故に、その子孫の為に屠り場を備えよ。

 これは彼らが起って地を取り、世界の表に町々を満たす事のない為である。


 そのとき、万軍の主は言われる。


 私は立って彼らを攻め、バビロンから其の名と、残れる者、その子と孫とを断ち滅ぼす、と主は言う。私はアッスリヤ人を我が地で打ち破り、我が山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いた軛は、イスラエル人から離れ、彼が負わせた重荷は、イスラエル人の肩から離れる。



 これは全地について定められた計画である。これは国々の上に伸ばされた手である。

 万軍の主が定められるとき、誰がそれを取り消すことができるのか。

 その手を伸ばされるとき、誰がそれを引きもどすことができるのか。

 アハズ王の死んだ年にこの託宣があった、


 ペリシテの全地よ。貴方を打った鞭が折られた事を喜んではならない。

 蛇の根から蝮が出、その実は飛びかける蛇となるからだ。
いと貧しい者は食を得、乏しい者は安らかに伏す。

 しかし、私は飢饉を以て貴方の子孫を殺し、貴方の残れる者を滅ぼす。

 門よ、泣きわめけ。

 町よ、叫べ。

 ペリシテの全地よ、恐れのあまり消えうせよ。

 北から煙が来るからだ。その隊列からは、一人も脱落する者はない。


 その国の使者たちになんと答えようか。


 主はシオンの基をおかれた、その民の苦しむ者は、この中に避け所を得る、と答えよ。

     

「行くな、と言うのか?」

 見渡す限り続く山々を見ながら、シグレが呟いた。

 ケンジに、次の日の朝に発てばよい、と諭されたが、シグレは断った。

 陽の下を通るのは避けたかったし、何より屋敷に留まり続ける事が嫌だった。

 月灯に照らされた木々の影が、風と共に揺れ動いたとき、シグレの周囲にぽつん、と一つの闇が現れ出でた。

 その闇は一か所に収束し、やがて一人の影となり、シグレの背後に立った。

「行けば、大難に遭うでしょう。」

「私が請け負った依頼だ。余計な事を言うな、イザヤ。」

「北端には白き凶星が幾々万と瞬いております。やがて銀狼が吼え狂い、哀れな道化が舞い踊り、朱に染められた大地は凍り付き、黒鉄の分割線を失った人々は、天を仰ぎ見る事でしょう。」

 畏まる様子もなく、まるで音を奏でるように詠った男は、シグレの従者だった。

 名をイザヤといい、不老の肉体を持ち、神出鬼没に現れては詩を詠う。

 かつて若き日のゴンゾウに関心を抱き、影から力を貸していたが決別し、彼の元から去り、やがて千寿に舞い戻ったシグレと主従の関係を結んでいた。

「それほど騒がしくなるのであれば、早々に用事を済ませて帰って来れば良い。」

「黒糸の因果は貴女を縛り、牙を剥きます。」

「お前がそこまで言うのは珍しいな。だが、運命は私自身が決める。全ての神々にすら、変えはさせない。」

「かつて、貴女のお父上も同じ事を言われました。」

 シグレは舌打ちを一度鳴らすと、満月の浮かぶ夜空を見上げた。

「イザヤ、私は何者だ?」

「貴女は命を刈り取りつつ、血しぶきの中を歩む修羅。世に蔓延る闇に血の代償を支払わせて、光を齎すのです。」

「そして、私もまた闇だ。ワタリ・ゴンゾウの様に、光となる事は出来ない。いずれ虚偽に覆われた世界で、私の実在は消え失せるだろう。最期の審判が訪れる、その日まで。」

 イザヤは何も喋らなかった。ただ、シグレの背をじっと見つめるのみだった。

「私は、如何なる因果にも、妄執にも惑わされない。その為に何を成すかは、私自身が決める。」

「貴女はお父上に似てこられました。」

 シグレの背後に立つ影は、逃げる様に霧散した。

 月明かりに照らされたワタリガラスは、北の彼方に輝く星に向かって羽搏いた。





                     【雨夜の章  完】

       

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