十二話 怒れるもの
アルベルトが徴兵されて数年が経った。
変わらず家を飛び出したりしているが、士官学校へ入る為の試験勉強は怠っていない。
父も時間の経過で漸く落ち着くようになってきたが、将来の事はまだ言えないでいる。もうすぐ誕生日を迎えるので、その日に伝えるつもりだ。
ミゲルの部屋でベルリーナーを片手に貪りながら参考文献を広げていると、部屋の主はぽかんとした表情でじっとこちらを見ていた。
「本、めくりづらくない?」
「テーブルに置いた状態だと、そうでも無いよ」
恐らくこの光景をタチアナが見れば、あまりの行儀の悪さに血の気が引ける事だろう。
ミゲルからしても見た事の無い行動であるらしく、物珍しげにまじまじとこちらを見ていた。
皇位を継ぎたくないならミゲルもこんな風に素行を悪くすれば良いと助言してみたが、乳母に怒られるような事はしたくないと困った顔で断られた。
彼は今度は参考文献の方に目を向けた。詳細は分からないだろうが、これが軍事に携わるものであるという事ぐらいは理解出来るようだった。
そして軍人になるのかと訊いてきたので、士官だと訂正しておいた。どちらにせよ戦争に参入する事に変わりないので、ミゲルは先程よりも表情に困惑の色を見せた。
「フォルカー伯父様、怒らない?」
「まだ話はしてないけど、あの人は怒らないよ。怒るという事を知らない。喜怒哀楽の怒が抜け落ちてしまっているからね」
そんな心配事を笑って返すと、ミゲルは一層沈んだ表情を見せた。
自分が戦争に出るのが余程寂しいのだろうか、死なない努力をすると言おうとした矢先に、ミゲルは目を潤ませて口を開いた。
「カール従兄様は、怒らないの?」
直感だが、確信した。この子は自分の所為で母が死んだ事に、とうとう気付いてしまったのだ。
一体いつからなのだろうか。何の拍子で気付いてしまったのだろうか。
それを問う前に、今にも泣きそうになっているミゲルを慰めなければならなかった。
改めて自分の抱いているものを確認して、この子が泣いてしまわないように偽りの無い言葉を返した。
「怒っているさ。でもその矛先はお前じゃない。お前が望んだ事じゃ無い事くらいは分かるし、分かった上でお前に怒るという事はお前自身を否定する事になってしまう。別にミゲルに居なくなって欲しい訳じゃないし、寧ろそうなれば困るぐらいだ。だから、お前には怒らないよ」
それを聞いて安堵したらしく、ミゲルの表情が少しだけ和らいだ。
そんな顔を見ると、この子がどの段階で気付いたかなど、どうでもよくなってしまった。
すっかり皇孫失格の太鼓判を周囲に押されたこちらとは違い、ミゲルは相変わらずだった。
誰にでも優しく、それ故に周りからから皇帝としての器があると期待されてしまい、皇位継承に乗り気でなくともその気弱さからはっきりとそれを言えないでいた。
ふと、ミゲルが何か思い出したように話しかけてきた。現在戦争中の敵国には、二柱の守り神が居るのだそうだ。
その二柱は夫婦であるらしく、妻神の方は恐ろしい祟り神としての顔もあるそうだ。彼女に無礼を働けば、己の血筋がそこで途絶えてしまうのだと言う。
「このお話が迷信だったとしても、これ以上戦えば国民さん達は皆飢えて死んでしまうかも知れない。食料や資源が欲しいなら、略奪じゃなくて交渉をすべきだと思うんだ」
「その話が事実であったとしても、いくらお前の言葉でも皇帝陛下は聞かないだろうな。国民の命よりも、皇帝としての威厳を優先するだろう。それに何十年も戦ってきて、そんな話は今更だ。そう簡単に頭を下げられないよ」
ミゲルは肩を落とした。事実とは言え子供相手に反論の余地も残さないようにしてしまったのは、我ながら少し大人気無かったように思う。
詫びに食べかけのベルリーナーを差し出そうと思ったが、流石に軽率が過ぎると思い止まった。
「次の週末に、序列第1位の皇太子様が戦争から一旦お戻りになるらしい。一人の時は注意しろよ」
茶菓子を完食したところで、本を閉じてミゲルに一つ忠告を残した。
ミゲルは表情を強張らせて頷いた。やはり平然と誰かを殺せる者は、人であれ亜人であれ恐ろしいらしい。
外に見張りが居ないのを確認して、ベランダから飛び降りた。
上からあの子の叫ぶような声が聞こえたが、気にしないフリをして草陰に隠れながら屋敷を後にした。
今日は料理長に何を作らせようかと考えながら帰路に就いていた頃に、ふと今日は同じ皇族の客人が来る事を思い出した。
もう日も暮れる。客人は待ってなどいないだろう。所詮はミゲルに寄り付いている女と同じ、皇位継承しか目に入っていないような女である事は知っている。
加えてまた一つ、皇帝に相応しくない男というレッテルがつく事だろう。その方がこちらとしても好都合である――。
――ぞわり、と途端に悪寒が背筋を走った。
母の葬儀の時にあの男に触れられた時と同じ、否それ以上の悪寒だった。
程無く大通りの方で悲鳴と銃声が聞こえた。振り返ると、遠方で人々が逃げ惑っている。何事か確認に向かおうとして、踏み止まった。
あの状況からして、只事ではない事は確実だった。そんな中へ駆けつければ、自分自身の命も脅かされる可能性は極めて高い。
真逆の方向へ足を向けて、直走った。何が起こったかは気になるが、第六感の警鐘を無視する訳にもいかなかった。
しかし、その足はすぐに止まった。前方に人影が立っていたのだ。ふらふらと千鳥足で、青白い窶れた顔で息も絶え絶えにこちらに助けを求めて両手を伸ばしてきた。
そして次の瞬間、その男の顔から幾つもの腫瘍が風船のように膨らみ、それが次々に破裂していった。
目の前で起こった事が理解出来なかった。倒れ伏した男の目玉が足元まで転がって来て漸く、この男から離れなければならないと悟った。
倒れた男は事切れる直前に誰かへの謝罪を述べていたような気がしたが、とても気にしている余裕は無かった。
今見たものは一体何だ。何らかの流行病だろうか。だとすれば間近に居た自分も、先程の男と同様の死を迎えるのだろうか。それだけは避けなければならない。絶対に、絶対に!
だが別の通りへ出た所で見えたのは、正に地獄と言える光景だった。
逃げ惑う人々が叫びながら置き去りにしているのは、道路上に転がる何体かの人間の屍だった。
先程の男の様に顔が破裂しているものもあれば、血の泡を吹いて痙攣しながら白目を向いているものもあり、まるで眠りに就いているのかのような穏やかな顔の死体もあった。
何が起こっていると言うのだ。この惨状はこの場所にだけ起こっているのか。もし街中に、否国中このような事が起こっているのだとしたら、父達は無事なのだろうか。
居ても立ってもいられず、早々に帰路に就こうとしたところで先程の銃声が耳を震わせた。
「寄るな化け物!殺してやる!」
明らかに正気ではない銃の持ち主は、亜人の居ない逃亡者達に向かってそう叫び散弾銃を乱射していた。
その男が立っているのは、丁度帰路の途中の道だった。しかも最悪な事に、男はこちらに気付いて銃口を向けている。
逃げなければ。回り道をしてでも、せめて父の安否だけは確認しなければ。後退って背後の壁につけようとしたその足は、何者かに力強く掴まれた。
男の散弾銃にやられたらしい足元の女性は、血を吹きながら必死にこちらに助けを求めていた。だがこの状況から見て救助を欲しているというよりは、道連れが欲しがっているようにしか思えなかった。
「くたばれ、化け物!」
射程距離まで近づいた男は、震えた指を散弾銃の引き金に掛ける。
此処で死ぬ訳にはいかないというのに、この距離を散弾銃で撃たれては咄嗟にしゃがんでも被弾してしまうだろう。
打つ手が浮かばず、壁に背をつけて目を瞑った。だが、いくら待てど発砲音が聞こえない。
恐る恐る目を開けて状況を確認すると、視界の端に見える紫色の何かに囲まれていた。
バロンブルーメだった。この地域では咲かない花が、有り得ない事に壁から茎を伸ばし、自分の身体を包み込むように群生を成して咲いていたのだ。
銃を持った男は、まるで自分を護るかのように咲いているバロンブルーメを見て、先程以上に震えだした。
そして男は引き金を引いた。だがその銃口はこちらではなく、持ち主である自身の口の中に向けていた。
自決した男は息を引き取る直前に、先程顔が破裂した男のように誰かへの謝罪を述べていた。
周りに咲いていたバロンブルーメは、まるで役目を終えたかのように次々と萎れて枯れていった。
その時、この花の正体が分かった気がした。男が自害する直前に、声が聞こえたのだ。
そしてその声は、この花を捨ててしまったあの時に聞こえた泣き声と同じだった。低く重々しい声で、その時と比べればかなり怒っていたようだったが、間違いないと思った。
どうして、今まで気付かなかったのだろう。枯れたバロンブルーメを一輪引き抜いて、意味も無く花弁に額を押し付けた。