幻覚、見えるようになりました
第六話
あの日以来、星野光はときどき家に来なくなった。
星野光がいない日常に段々と慣れてしまっている自分がいて、それが何だかとても悲しかった。
執筆の方は順調良く進んでいた。星野光はたまにしか家に来ないのだが、登場人物の目線で物語に助言してくれるので、自然なストーリー展開を考える上でとても参考になった。
改良を重ねたプロットを元に、物語はどんどん完成に近づいていく。しかしその一方で、物語を完成させたくないと思っている自分がいるのに気付いた。
「先生、なんか最近おかしくないですか? なんていうかその『引き延ばし』っていうやつをやっているような……」
「そ、そんなことないよ。ははっ。気のせいだよ。書き進めていたら筆が乗っちゃってさぁ、書きたいことがいっぱい出てきたんだ」
星野光が俺を睨む。
「……ほんとにそうですか? 先生、知ってます? 全ての物語には、適切な長さというものがあるんです。短い方がよければ長い方が良い時もあるんです。短い方が良い物語をうすーく長く引き伸ばしたところで、面白くないものが出来上がるだけなんですよ。先生、それくらいはわかりますよね?」
「ま、まぁ……うん……」
「じゃあココの描写を思い切って削ってみてください。せっかく書いた長文の描写を削るというのは辛いかもしれせんが、そうした方がいいと思います。では頼みましたよ、先生」
本音を言おう。
物語を完成させると、星野光はきっと俺の前からいなくなってしまうだろう。
それが嫌だったのだ。
どうしても、どうしても嫌だったのだ。
だから俺は物語を引き延ばし続けた。小話に過ぎない一編も、緻密なプロットを練り上げた上に場面転換の回数を異様なまでに増やした。情景や登場人物の心理も長ったらしい文章で執拗に描写し、時折物語の本編から脱線するようなエピソードも盛り込んだ。
その結果、物語の総量は指数関数的に増大し、収集がつかなくなった。
しかしそれも全て計画通りだった。収集がつかなくなればなるほど、俺は思い悩むことになる。そうすれば星野光の助けを仰ぐことになる。スランプに陥る回数も増える。
そうなれば星野光は俺の前からいなくなることはないだろう。星野光は俺を助けてくれる存在なのである。決してどんな状況に陥ったとしても星野光は俺を見捨てることはないだろう。そういう算段だった。
しかしその目論見もそう長くは続かなかった。意図的に引き伸ばしている物語を書いている間、星野光は俺の家に来てくれなかったのである。
なので引き延ばすのをやめて、贅肉の部分をばっさりと削ぎ落とし、物語をちゃんと進行させていくようにした。
すると星野光はその日を境に再び家に来てくれるようになった。
「変な引き延ばし、やめてくれたんですねー。よかったよかったー」
星野光は笑みを浮かべながらマグカップに注がれたコーヒーを啜る。静かな部屋にカタカタとキーボードを叩く音が鳴り響く。
熱心に執筆を続ける俺の姿を見て、星野光はご満悦の様子だった。
それからどれくらい時間が経っただろう。ある時、星野光はまるで独り言のようにぽつりぽつりと話始めた。
「ねぇ先生、私は先生の前からいなくなったりなんかしませんよ。この物語を書き終えたら、先生は私がいなくなっちゃうかもしれないと考えているのかもしれませんが、そんなことは起こりませんよ。私が保証します。だから先生は目の前の物語を紡ぐことに夢中になっていてください。安心してください」
星野光の突然の独白。
でもその内容が嘘であることくらい、俺だってわかる。
「親しい人と会えなくなっちゃうのって、辛いですよね」
星野光は話し続ける。
「でも安心してください、私は絶対に先生の前からいなくなったりしませんから」
薄っぺらい台詞だった。
星野光は話し続ける。
「私、先生と出会えてとっても幸せでした」
もういい、心にもない台詞は聞き飽きた。星野光、君の本音はそうじゃないのだろう?
なぜ君の考えていることがわかるのかって?
だって君は――星野光は――。
目をつぶり、耳を澄ます。
「先生、大丈夫です。また会えますから」
そう呟いている俺がいた。
部屋には、俺以外の誰もいない。
星野光は、俺の部屋からひっそりと姿を消していた。