Neetel Inside 文芸新都
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どこにもいかない
【20年12月号】甑島編(2021/01/31)

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 時刻は22時を回っていて、へとへとで辿り着いた道の駅「たのうら」を今日の宿泊地と決めていた。物産館の横に、屋外トイレと情報センターが併設されてあり、情報センターは24時間開かれている。
 不思議なところだな、と思った。テーブルが並ぶ室内の奥には畳が敷かれてあり、「無断連泊禁止」の注意書きが貼られている。一泊なら無問題なのだろうか? 許可を貰えば連泊をしてもいいという噂もネットに載ってあり、いわゆる知る人ぞ知るというような場所であって、自分もその恩恵に授かることにした。
 今回の目的地は鹿児島県の西に浮かぶ甑島だった。明日の下り11時20分串木野発里行きのフェリーに間に合うように、どこで寝ればとりあえずは間に合うだろう、とか、いつもの行きあたりばったりではなく、雑ながら一応計画を組み立てていかなくてはならなかった。

 12月29日
 一晩中灯り続ける蛍光灯の明かりに何度も寝返りを打ちながら朝5時に目を覚ました。気温は0度近くで、未だ日は昇らず、あたりは真っ暗中だ。近くに熊本では有名なおべんとうのヒライがあったが、阿久根に「阿久根商店」という九州で唯一のうどんの自動販売機があるらしいので、そこまでお腹を空かすことになった。
 水俣を通り過ぎ、鹿児島県出水市に入る。
 『ようこそ 出水市へ ツル渡来地まで あと16キロ』
 そんな案内板に誘われるがままに国道3号から脇道へ入って、干拓された農道を走っていく。遠目に白い鳥が数羽戯れているのが見えていたが近づくにつれてそれがツルであるのが分かると、そんなに簡単に見つけられるものなのかと内心驚いた。バイクのエンジン音が近づいても飛んでいく気配はなく、人慣れてしているようだ。さらに真っ直ぐ進んでいくと、地面に鳥インフルエンザ対策のために撒かれている石灰を踏んだ。上空で黒い塊が右往左往に、なんのためなのか、荒ぶって飛んでいる。カラスかと思って目を凝らしたら、それもツルのようだった。朝早い時間だというのに、他県ナンバーの車が道路の脇に停められ、カメラを持った人たちが熱心にツルの様子を撮影していた。

 阿久根駅前で気づいてしまった。
 「阿久根商店」は阿久根市ではなく、遥か南にある南さつま市にあるということを。おべんとうのヒライは水俣でとうに別れを告げていた。戻ればそれだけの距離を往復することになるし、結局、川内のすき家で卵かけご飯――250円を喫することに。
 そして、すぐ側のガソリンスタンドで給油。島にもきっとガソリンスタンドはあるのだろうけど、以前行った種子島のように、セルフスタンドが其処此処にあるようには到底思えなかった。
  10時過ぎ、串木野港にようやく辿り着いた。受付の前に、体温を測る機械に立たされ、平熱だと確認がとれると窓口に通された。低気圧が迫っていて、明日の便で帰ることができないかもしれないと告げられる。
 もしかしたらこの島で越年ということもあるかもしれない。だけど、ここで帰るという手も無かったので、令和の時代に現金払いのみの対応に、ニコニコ現金払い。
 年度末ということもあって、徒歩での乗船を待つ列がずらりと並んでいた。
 船に乗り込んでデッキに回る。高く伸びるマストの中腹に正月らしく榊が奉られていた。
 やがて出港を知らせる汽笛が鳴り、岸壁から切り離されていく。
 しばらくの間、右手に本土を見ながら走り続け、左手に小さな島が現れたあと、外洋に出た。小島には本土で扱いきれなくなったヤクシマザルが棄てられ暮らしているらしい。
 冬の海風に当てられて寒くなったので、船室に降りる。カーペット地の大部屋と、椅子が並ぶ二等船室が区画されていて、電源のある大広間の方に腰を下ろした。
 串木野港から甑島の里港まではほんの1時間で着く距離。船の中でなにもしない時間が流れるとお腹の減り具合が気になって、何か口にしたいと思う。ありあわせの食べ物は乗船する前に島で食べるために買ったチキンラーメンの袋麺と菓子パンだけで、船内にある昔ながらのカップヌードル自販機には何故かカップスターが売られていて、それがなぜか買う気を損なわせて、島に到着するまで寝て我慢するしかないようだった。
 (続く)

     

(2021/02/14)
 
 今にも空から雪のがちらつきそうな雲天の中、フェリーターミナルの外で島風に吹かれている。真夏に来たならきっと青空が映えた南国情緒のあるキレイな風景が広がっているのだと思うと、このくすんだ場所が勿体なく感じる。せかせかと船からの荷降ろしが終わり、地元の人間のバンや原付が足早に去った後、里港に取り残されたバイクと一人は、島の南側へとゆっくりと足を向けた。里武家屋敷跡、シーサーがあればきっと沖縄だと勘違いしてしまいそうな石が積まれた塀が存在感を表している。年の瀬ということもあって人の姿はまったく見られなかった。
 そこから二つの砂州を見に島の高台の方へと上がった。一つは里の集落を見下ろす、トンボロ展望所。くねくねとしばらくの間、山道を登っていくと開けた場所があって、そこから先程までいた武家屋敷や集落を見下ろすことができる。函館山から見た函館の街をミニチュアにしたような、両脇に海を抱え、両端に反った砂州が印象的だ。ここには、そこに収まった世界と生活があるんだな、と思った。
 もうひとつが、長目の浜展望所だ。島津光久が眺めがいいためそういった名前をつけたらしい。こちらも砂嘴ではあるが、小さな天橋立といった感じで、二キロの距離にわたって小さな丸石の道が、貝池となまこ池にの横を弓なりに貫いている。山口県の長門市にも遠くない距離にこれらの二つの景色を見れる場所があるが、一つの島で見られたのは初めてだった。
 暗くなって、周りになにがあるかさえも分からなくなる前に島の南端まで行きたかった。次第に空に太陽が射し、青空が戻ってきていた。瀬上に出る。伊能忠敬も訪れたことのある地らしい。中甑へと続く道中、横手に広がる湖は、のちに内湾だと知って、こんな奥まったところにまで来ているのかと驚いた。島にゴルフ場はないのにゴルフ練習場の施設が見え、今度は海を左手にして、中甑島へと続く道を走った。 
 上甑島と中甑島を繋ぐ甑大明神橋。橋の情報を伝える電光掲示板には風速11メートルを指している。野球ならフライボールが風に流されるぐらいの中を叫びながら通り抜けた。途中、橋や、島嶼の由来になった甑型の大岩が鎮座ましましていた。
 一つトンネルを抜け、しばらくするとまたトンネルが現れる。明らかに最近出来たばかりという小綺麗なトンネルだ。左へ向かう道はきっと中甑集落へと向かう道で、直線路の地面には青くラインが引かれている。
 アクセルを吹かせてトンネルの中へと進入していく。LEDの灯火が交互に取り付けられ、緊急用の退避所と電話ボックスが中間に現れると、のどかな島にいたはずの頭の中がごちゃごちゃとしてきた。思った以上に長大トンネルだった。二キロはあっただろうか。矢継ぎ早に新しいトンネルが現れ、それはすぐに出口が見え、短いことが分かった。それと共に青い空と青い海が見える。トンネルを出るとすぐに甑大橋に直結していた。
 海の上、それも遥か高いところを走らされているのが分かった。強い風が横から吹き付けていて、ともすれば、海に落とされてしまいそうな感じ。車が来る気配はしないものの、対向車線に流されないようにしっかりと車体をコントロールしなければならない。一筋の細い道は、左巻きに、少しずつ傾斜を登っていき、最高度に達した。この下を大型船がくぐっていくのだろう。目の前に口を開いたトンネルと、その上に崩落防止のための法面が作られ、更にその上にこちらを見下ろすように白い灯台が建てられていた。 
 夏になると一面に咲くカノコユリに包まれたその灯台は、既に役目を終えて余生を過ごしているようだった。
 (続く)

     

(2021/03/08)

 甑島最南端の釣掛埼灯台から帰る道中、「手打」という奇妙な名前の集落まで下って、そこで下甑に二軒しかないうちの一軒のガソリンスタンドで給油をした。年の瀬でもお店が開いていたので有り難かった。そこで、ほっと胸を撫で下ろしていい気になったのがまずかっただろう、手打で見つけた青い看板に書かれた「ナポレオン岩」――この先10キロという案内に誘われるがまま、30分の間、山道のワインディングをひたすらに走らされ、ようやくナポレオン岩の見える前の平展望台に着いた頃には怪しい雲行きから夕立が降り始めていた。
 展望台からナポレオン岩は、横にある崖に遮られ、かろうじてその姿を見ることができた。海にそびえる垂直の断崖。ナポレオンの横顔にその形が似ていると言われているが、果たしてどうなのだろう。自分には分からない。眼下には、山裾から海辺に広がる瀬々野浦の集落が見えた。陸路でアプローチするには手打にしろ長浜にしろ曲がりくねった山道を数十分かけなければならない、そんな場所にも人の暮らしがあることがあるんだなと思った。
 甑大橋を再度渡り直し、中甑島から、上甑島へと戻ってきた。上甑島にあるのに上甑町中甑という、中甑島と紛らわしい地名の場所に、Aコープとポップ・ワンという本土と遜色のない規模のスーパーが二軒あって、ポップ・ワンのほうで350円から50円引きになっていた甑島でとれたカンパチの刺身を買った。寄り道したせいで、里港へと向かう道中で強い雨に打たれてしまった。濡れそぼった体で、港の近くの東屋に逃げ込んだ。もうどこにも逃げ込める場所が無くなってしまったように、そこにテントを立てて、じっと朝を待つしか無かった。スーパーで買った刺身を食べて、お湯を沸かしてココアを飲んだ。寝袋にくるまってスマートフォンで明日の天気を見るに、明日は雨で、気温は現在の16度からマイナス1度まで下がるとのことで、よもや道路が凍結なんてことになったら、もうどこにも行くことができなくなるな、という不安ばかりが募った。
(続く)

     

 (2021/04/04)

 12月30日。
 海鳥の群れ達が風に流されるまま、海の上を踊るように上下していた。海は大きなうねりを上げて、とても航海日和という天気ではなかった。本日のフェリーニューこしき及び、高速船甑号は欠航します――。島の防災無線で流れた喉太なアナウンスは、フェリーターミナルで来ない船を待っている自分にとって、島で唯一ビジターとしての自分が居てもいい場所を奪っていった。きょう一日なにをしよう……。暇潰しに甑大明神橋まで足を伸ばしてみると、橋の手前にある道路情報には風速15メートルを記録していた。野球なら一部を除いて試合が一旦中止になるような風だ。島の下の方に行く用事もないが、絶海の孤島に取り残された気分だ。まさしく今がそうなのだけれど。
 上甑島でひとつやってみたいことがあって、それは、延長四キロに渡る砂州である長目の浜を完歩することだった。長さでいえば天橋立と同じぐらいであるものの、人が歩くことを想定されていないので遊歩道は整備されておらず、丸石の転がった浜を歩くことになるのだろう。それはそれで冒険心がくすぐられるので、無問題だ。問題なのは時期が冬だということと、天気が大荒れだということだった。
 桑之浦集落に続く綺麗な舗装路を登っていく。当然のことながら、田之尻展望台には車は一台として無かった。台風のような風が最近出来たばかりの公衆トイレに当たり、ものすごい風切り音を立てていた。バイクのサイドスタンドを立てただけだと簡単に押し倒れそうだったので、センタースタンドで車輪を上げた。それでもややすると、風で倒されるのではないかという風なので、公衆トイレの影に駐輪した。
 流石に自殺志願者だろう? 酔狂すぎる自分を客観的に見つめ、我に返り、それでもこの島に来ることはもうないかもしれないし……、そんな逡巡を二、三回繰り返し、とりあえず行けるところまでと、浜辺に続く階段を下り始めた。田之尻展望台から長目の浜展望台まで歩き、そこから舗装路を復路とする正味三時間程度の行程を計画していた。
 背の高い熊笹のような植生のおかげか、浜辺までの階段は風に煽られることはなかった。これならどうにかなるかもしれない。発泡スチロールで出来た漁具や色々なものが打ち上げられた浜辺に出た瞬間、霧雨が顔にまとわりついた。左手を見ると、轟音を立てて岩にぶつかる荒波が砕けて、白い飛沫を上げているのが見えた。つまり、その飛沫がミストとなって、体に付着していた。これから歩いていく右手を見ると、東シナ海の荒波が遠く遥か彼方まで石の浜に打ち付けられているのを見て、すぐに足を反対側に向けた。

 上甑島と中甑島を繋ぐ甑大明神橋。それが出来たことを記念して建てられた三階建てでAの字型の展望所の二階を今日の野営の場所にすることにした。天井と床だけで出来た家に住みたいんだよ、という歌があって、たしかにそういう感じの場所だった。一階にトイレがあり、展望台は海の方に面しているので、人に気づかれることはまずなさそうだ。内湾になっていて風の心配もなさそうだった。
 夜になって、テントを霰が叩く音が聞こえた。
 シュラフの中にあるスマホをまさぐって現在の気温を確かめる。気温0度……。
 真冬の鹿児島はどことなく雪とは無縁のようなイメージがあったが、今度の寒気は鹿児島の平地でも雪を積もらせるのだという。
 年明けはこの島で迎えるのだろうか。
 なぜか、どうしてだか、年の始まりは本土で迎えたかった。本土のどこでも良かった。
 それだけ心が弱っていたのかもしれない。ぎゅっと首元のドローコードを引いて冷気を遮断した。

 12月31日。
 世界が水浸しになったようなと云えばそれは誇張がすぎる表現だが、個人の視点に拠ればそれでまあまあ当たっている感じの朝だった。
 テントからおもむろに這い出て外の様子を恐る恐る眺める。雪が雪の形を維持できなくなり、水分となってアスファルトに染み込んでいた。
 夜半降った雪は積もらなかったようだ。流石、鹿児島だ。
 テントマットを敷くのを忘れていたせいでテントの底面はびしょ濡れになり、テントの中の物がずぶ濡れになっていた。
 拭いたり、乾かしたり、諦めたりしながら、日清のどん兵衛のそばを年越し蕎麦にして、甑大明神大橋を見ながら食べた。
 今日の風速はだいたい12メートルぐらいで、13メートルを超えると車が風によって横流しにされたようなアニメーションが電光掲示板に浮かぶ、どうでもいいことが分かった。
 この風速ならひょっとすると?という淡い希望が芽生え、町内放送の流れるその時を待った。

 『本日の「フェリーニューこしき」 第1便 7時45分長浜港発は海上時化の為、欠航致します。
 第2便は、 長浜港発14時35分より運航を予定致しております。』
 
 年が変わる前に帰れるのか。そうと決まればすぐに撤収の準備を始めた。
 第2便は里港には寄らず、そのまま串木野港に直行するルートで、長浜港はここから25キロ南下したところにあった。
 急がなくても間に合う時間だったが、心に余裕を持たせたかった。
 二度目の甑大橋。中央線にかかり気味にポジショニングして、原付なのにニーグリップを意識して風に煽られまいとしてなんとか通過した。
 長浜港。
 里港に比べると、内装に手を加えることなくずっと使い続けてきた感じだが、ただの待合所というわけでもなく、観光案内所や土産物屋があり、機能している風に見えた。
 乗船一時間前に受付が開き、ただひとり、受付をした。
 年の瀬ということもあってかその後も数人がやってくるのみで、入港待ちの車も数台といったところだった。
 乗船時間となりバイクの特権でもある、がらんどうとしたドッグの中にいの一番に入り、作業員の案内に誘われて停車させた。
 客室へと繋がる、昔作りの家よりも急な階段を登る。
 自販機エリアにティーディスペンサーがあり、紙コップにお茶を注いでいると、壁に「謹賀新年」と書かれた牛のポスターが貼られてあった。
 気が早いのか、それとも、今こうしてこのポスターを見られたことを喜ぶべきなのか、一息ついてお茶を飲んだ。
 汽笛が鳴り、デッキに出ると、見送る人もなく船は徐々に岸辺を離れていった。
 

       

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Neetsha